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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
未来の自分に対して意味のある日記にするには
今日の一言「矮小な自分を恐れる必要はない」「面白くなさよりも分かりづらくなることを危惧しなさい」

5、6年前の日記を読んで

 まだ、この小見出しを付けない頃のブログ記事を読んでいて、分かりづらいなと感じた。
 この小見出しは、必ずしも内容と一致しているかというとそうではない。けれども、重要なのは、「こういうことを書こうと思った」という方針が見えることである。実際書いている内容が異なろうが、小見出しを書いた時点では、「そう思った」のである。

 ただ、分かりづらいなとは思うけれども、何となく、「こういうことを書きたいだろうな」ということは、自分自身の書いたことなので分かる。

 それで、分かりづらい理由をさらに考えてみたときに、その時の「感情」が見えないことが一番の原因に思った。

 例えば、
大津のいじめは社会に大変な影響を与えた。しかしそれは、文科省のいじめ統計をみれば、その場限りの、賞味5分の感傷に過ぎない。
人間の脳は、一貫性と安定性を求める。しかし人間は、個人であり、差異は発生せざるをえない。もちろん、ジェンダーのように、社会的に構築されただけで、生物的差異に起因しない場合はある。
そうした衝突を調整するのがルールである。
そうしたルールに反した場合にいじめは起こる。
ここでいうルールとは、空気も含められる。いじめを許す空気が支配的であれば、むしろ、いじめ反対と叫ぶことがルール破りである。
言うまでもなく、いじめを防ぐには、ルールに対する自覚と責任と、ルールに対する許容である。
肩にふけが落ちていたことがいじめの原因であったとしても、具体的には、それをみた個人のルールに反していただけであり、その発起人の許容度が低いことが真の原因である。――幸福追求オブセッションと関係性を成り立たせるもの
 というのは、2012年7月ごろの記事だけれども、まぁよく分からない(かっこわらい)。
 自分で書いたものについてもそうなのだから、ましてや他者が読んだときに一体何を理解可能なのだろうか、と思う。
 ただ、この記事は、カテゴリが「イライラ対処」であるし、単に、いじめによる自殺といった事件のニュースを見て、腹立たしく感じたことの表現なのだ。

 僕はいじめ反対である。ところが、このいじめというのは、社会や集団の構造上発生する可能性がゼロにはできないものだとも思っている。ここに、僕の「理想」なるものと、現実と折り合いをつけなければいけないという葛藤が生じ、イライラが生じるのである。

 上の僕の記事におけるポイントは、最初の「その場限りの、賞味5分の感傷に過ぎない」という部分だ。多くの人は、いじめによる自殺といったニュースを見れば、「ひどい」といった同情的な感情が生じる。「いじめはよくないことだ」と口々に言う。だが、その感情を、いかに自分の行動や生活に反映することができるのか。実際に実践しているのか、その点が疑問である。それを、「賞味5分の感傷」と表現している。――ちなみに、これは別に僕の表現ではなく、EDENという漫画の一シーンからの抜粋。

正直な気持ちを書いておく方が面白い

 で、まぁ、何を言いたいか先に書いてしまえば、「もう12月だなぁ」……いやではなくて、先日11月の最後に書いた記事について。あれは、本当に苦痛の中で書いていた。今は、まぁ普通の状況。でも、11月29日の記事は、書くこと自体が嫌だった。

 でも、その11月29日の記事を読んでみて、面白いかどうかは別として、「分かりづらさ」はなかった。その点はよかったと思う。まぁ、「単にイライラして無気力なんだね」というだけのテーマなので、分かりづらさも分かりやすさもへったくれもないが。

 しかし、2012年の記事の方も、まぁいってしまえば、「いじめのニュースにイライラした」というだけなのだ。
 ただ、そのことが、何となく明確に書いていないので分かりづらいのである。

未来に有効な日記にするには

其の一

 自分を大きく見せようとか、そういった感覚など、全部捨て去ってしまったほうが良い。
 そういう意味で、「匿名」のブログってよいと思う。実名でお金稼ぐ目的でやってるブログと、こういうブログとは別の方が良い。こういうブログが不要な人もいるだろう。でも僕は必要だ。

其の二

 率直に、できるだけ素直に書いたほうが良い。でも、昔は、SNSに書いていたときもあったし、ネット社会怖いとか思っていたりもした。そういう意味では、今もそのネット社会に対するこわさというのはずっと持っておいたほうが良い。そういう意味で、匿名性は担保したほうが良い。そのために、若干事実と異なることを書くのも仕方がないと思う(例えば、実際にあったイベントに関してどうしても書きたいのなら、それの日付をぼかしたり。一緒に行った人の人数をぼかしたり)。
 でもそれらはできるだけ最小限の方が良い。ぼかしすぎると、未来の自分に対しても何がなんだか分からなくなってしまう。それじゃあ意味がない。

其の三

 ゼロ秒思考で書くのが良い。
 いや、考えることは必要だ。でも、考えるのであれば、ぜひ、そのプロセス(過程)も書いておくべきだ。むしろ、結論よりも過程の方が重要になることもある。

 というか、前にも書いた気がするが、「結論なんてそんなに重要じゃない」のである。
 その結論を、いかに自分のものとするか。自分の考えにするか。様々な条件や環境下においても、普遍性をもたせられるか。そっちの方――つまり、実践性が重要である。陽明学すげえ――とかノイズを書くと分けわからなくなる可能性もあるが、これもまたゼロ秒思考である。

 そういったノイズを書くのも悪くない。ゼロ秒思考の良い面でもある。
 ただ、ノイズばっかりになると確かに骨子(メイン軸)が分からなくなるので、そこらはテクニックでカバーする。例えば、「ダッシュ(――)」といった記号で分離するとか、改行して段落わけるとか。小見出しつけるのも有効だ。

まとめ

 そのいち、そのに……とか書いたけれども、全部まとめると、「率直に書く」という言葉で集約されてしまう。その一の「自分を大きく見せないようにしよう」というのと、「率直に書く」というその二の内容の違いなんて、今考えるとよくわからない。
 ゼロ秒思考とか言葉の定義づけをしても、それもいわばその一とその二に還元される内容である。

 言いたいことはシンプルだ。
 シンプルに書いたほうが良い、ということだ。ただ、それは、ノイズを否定するというわけではないという、ことだ。むしろ、ノイズが、そのシンプルな内容の本質だったりする。

 シンプルに書いたことは、ただの「シニフィアン」=「意味を表現しているもの」であり、ノイズこそが、「シニフィエ」=「意味されるもの」ではないか、ということだ。(ソシュールの言語学)
 そういう意味で、先日読んだ本で、哲学者カントとニーチェの事物に関する捉え方の違いというのが面白かった。

認識について

 いきなり話が変わるけれども、この小見出しを挿入する目的は、先日の11月29日記事において、「書くことのみが僕に許されたことである」ということへの補足として、「本を読むのも罪悪感を生じさせない場合がある」ということを書いておきたいということである。

 ――ええと、カントとニーチェである。

 ニーチェといえば、「神は死んだ」という表現が有名である。
 カントは、とっても几帳面(道徳的)な人だったというのが有名である。

 さて、認識の話である。
 カントは、絶対正しい認識がある=真理があるという立場である。同じリンゴであっても、人間と動物、微生物のそれぞれの立場において、リンゴという認識が異なる。
 人間は、赤くて丸い食べ物で甘酸っぱいという認識をもつかもしれない。
 動物は、丸い物体という認識をもつかもしれない(色が判別しづらい動物だったとして)。
 アメーバは、そもそも、丸いという認識すらもてないかもしれない。

 それぞれの身体的限界性によって、認識は異なるということの例である。

 ここまでは、カントもニーチェも同じである。

 カントは、さらに、「神の認識」があると考えていた。つまり、リンゴという物体の分子素粒子レベルでの認識から、リンゴの来歴、未来の価値まで含めた完全な認識である。

 ニーチェは、「そんな神の認識なんてないッス。どこまでいっても、それぞれの個体(人間や動物やその他)の身体と欲望によって、認識なんて異なるッス」といった。


 ニーチェの哲学が斬新であったのは、神という概念をとっぱらったというのもそうだが、「真理」とか「完全」といった概念を壊したことである。
 まぁ、ここまでのことは、多くの人が知っていると思うが、ニーチェはさらに、「その上で」新たな価値体系を築こうとした――とされているが、そこらへんの内容がどうにも僕はよく理解できないので、もう少し勉強しようと思っている。

 いや、その、永劫回帰――あんまり意味のない人生の中で、何かの真理に頼らず、独力として、ただ生きることに意味をもたせて……すなわち「超人」として生きることが重要だ――といった表現は何となく分かっている。
 問題は、その「超人」たるものが、そもそもどうやってなれるんだ――いや、なれるというか、そういう「感覚」、つまり、「意味がないけれども生きた方がいい」、という結論的感覚にどうやったらなれるのか、というのがさっぱりわからない。

 その点は、精神科医のフランクルさんも、三つの価値を説く中でおっしゃっておられて、――すなわち、体験価値、創造価値、実存価値というものの、3つ目の、「ただ生きていること自体が重要なのだ」ということなのだけれども、それがよく分からない。
 いや、分からないのではなくて、言いたいことは分かるのだけれども、なんだか「そう思えない」のである。


 そういえば、――これはノイズだが――ある友人と話をしていて、「いやお前それは分かっていないだろ」と言われたこともあった。その「分かる」という意味を、言葉としての意味として分かったかどうか、という点であれば、僕は分かっているのだ。ただ、「その言ってることが自分の感覚として浸透したか」という意味であれば、僕は分かっていないのである。
 そう、これは、他の人と話していてもそういう話題になることがある。なんだか、不満に思うことが多い。「分かる」という言葉が、実は多元的・多次元であることをちゃんと分かっていて、その人たちはいっているのか、という点と、その「分かる」ということを、相手にどこまで求めようとしているのか、自分自身で理解しているのか、という点が疑問だ。

 これを話し出すと、コミュニケーションとは何か、という話しをしたくなる。
 コミュニケーションとは、情報伝達のことである。で、その情報伝達とは、何のために行われるのか。究極には、相手に自分の思う行動(これは思考も含まれる)を行ってもわるためである。

 そういう意味で、僕は、人の話を「聞かない」し、人の話を「分からない」のである。そういう意味で、周りの人が言うなら、僕は、心より浸透した考えをもって、「ああそうだね、僕は人の話を聞かないし分かっていないよ」と答えられる。ただ、その人の言わんとしていることは「分かっている」。「そういう考えもあるんだね」という意味において。「そういう考えもあるんだね――でも僕はそう思わないよ」という意味ではないが、その、「完全なる認識」にならなければ、「わかったことにならない」というのは、僕はそれは違うと思う。

 そういうことを書き出すと、段々さらに過激になっていくけれども、人は究極的には分かり合えないと思っている。――この表現もまた微妙であり、あまり使いたくないのだけれども、まぁこれは、「人間嫌い」と僕がたまに使うのと同じレベルの、他愛のない表現だ。

 長くなったな。この話とりあえず終わり。

本を読んだ方が良い

 ええと、その、なんもやる気しない、と先日の記事で書いた。
 でも、なんかたまたま手に取った本を読んでみたら、いろいろ思うところは発生した。
 その行為は、僕が、仕事や遊びや睡眠や食事をすることによって、なんだかすり減った感じがすることを、生じさせなかった。
 だから、書くことと、本を読むことは、できるだけやったほうが良い。


 ということを書くために、上の小見出し「認識について」を書いたわけだが、――つまり、5・6年前の過去の記事は、その「認識について」小見出し部分しかないようなものが多いのである。

 そうすると、この、「実存的な意味において」の表現が全く分からないので、結果的に「わかりづらい」ということになるのだ。


 以上、この記事は、面白くないかもしれないが、とても分かりやすい記事になったはずだ。
 こういう記事を、是非、これからも目指して書いたほうが良い、というまとめを書いて終わりとする。

(かっこ書きである。かっこ書きなのだけれど、本文の方に書ききれたので、特に書くことがない。そう、このかっこ書きは、補足とかいう生ぬるいものではなくて、むしろ「本題」なのであったりする。まぁ位置づけは特に定まっていないけれど、かっこ書きの方が、「率直さ」は高いと思う。ある意味、適当なことを書いているだけでもある。しかしその、「適当なこと」というのが、本当にでたらめ、創造上の産物、なのであれば別だが、まがいなりにも、僕の頭の中には浮かんだものであるのであれば、「有効な日記を書くために:その三」あたりで書いた、プロセス重視という面で大事だとも思う。あえて、かっこ書きで補足するとすれば、今回は、あえて、「じゃあそもそも、なんでブログに書くんだ」という、いつも問いが発生することをスルー(無視)したことである。そもそも、「自分のため」に書くのであれば、率直に書くのであれば、そのために時折匿名性を維持するための工夫も必要なのであれば、パスワードロック付きのローカル日記にでも書いていたほうがよいのではないか? という疑問についてだ。この疑問は常に生じるのだけれども、まぁ、これは何度も記事にもして「自分自身を納得させ」ているので、あえて触れなかった。――ああ、でも、もうひとつ補足しておいた方がいい。その、本を読んで思うところがあったのは、とても良いところだけれども、そもそも、「イライラ対処」的な状況の時に、そんなことできないだろう、という現実問題である。無気力のときの怖さってのを、知っている人は知っていると思うけれども、あれはホント怖いものである。ああ、怖い。ルーチンさえ脅かされる。そういや、筋トレルーチンは400日超えたのか。それはまぁすごい気がするな。腕振り運動とスクワットは、できたりできなかったりしているけれども、最近は継続できている。創作ルーチンは駄目だなぁ……いや、でも、あれってそもそも、21時前に帰れたら又は特別な事情(イベント等)がない場合やる、っていう免除規定だったんだから、あながち、ダメな期間ってそんなない気もするんだけど……ちゃんとカウントできていないから、どのみちだめだな。そういや、連載も止まっちゃってるじゃないか。うーむ……。しかしその、連載がとまってるとか、ルーチンが崩壊したとか、そんなことそもそも気にできなくなるのが無気力期間であるのだから、そういう意味で、若干、今は回復傾向であるということか。そう、だから、ルーチンというのも、レベル1と、レベル2があるのである。意識して実行できているのがレベル1。意識せずに完全な習慣化された場合はレベル2である。この、レベル1からレベル2へのハードルは結構高い。結構高いので、そのプロセスを、もう少し細かく観察してみてもよいかもしれない。――あと一つ、かっこ書きも結局長くなってしまったけれど、一つ書いておけば、ウォーキングデッドを見ているのも時間が奪われている原因だな。あれ、面白いっちゃ面白いんだけど、なんというか、「得るものがない」感が半端ない(かっこわらい)。というか、なんか、こう、ダラダラ感がある。続きが気になって見ちゃうんだけど、まぁ、その――なんか、見終わっても感慨がないんだよな。それぞれのエピソードに意味はあるし、面白いし、感動もするんだけど、なんか、全体として「無意味感」が強い。――そういう意味で、僕の今の感覚をとっても良く表現している作品な気がして、よいっちゃあよいんだけど、なんか、はっきり書けば「すり減ってる」感が強まるというか、「やる気がなくなる」んだよな。うーん、その、リアリティ・グロテスク・無情・無常感では、ゲームオブスローンズの方が高いのだけど、ゲームオブスローンズは、なんか上手く表現できないけど、楽しい。なんだろう、なんか違うんだよなぁ。こう、人間ドラマ的な表現でいえば似ている気がするんだけど。まぁ、ウォーキングデッド、ダリル氏がかっこよいんだよなー。なんか最初のはみだし感というか、不良感があっていけすかない奴だと思っていた印象が、物語が進むにつれてどんどん変わってきたのがよかった。そういう意味だと、あんましブレてないのって、主人公のリック氏だけな気がする。他の面々は、まぁ、いい意味でも、悪い意味でも成長している。大人でも環境が変わると、いろいろ変わるんだね~という意味で面白い。そして、その成長むなしく突然物語から退場していく……のだけど、まぁ長くなったな。とりあえず、エピソード3まで全部見終わったところで、しばらく見ないようにしようという誓いを込めて、以上)








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