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幸福追求オブセッションと関係性を成り立たせるもの
2012/07/17 21:13 | Comments(0) | イライラ対処
2012年7月26日

幸福追求というオブセッションからの解脱

修行と修業の違いは、プラクティスとトレーニングである。


無無明亦無無明尽

思考も同じく、実践であるべきである。行動にとらわれず、行為として、動機を整える必要がある。

実践の中で、個人という我執が生じるが、そこから自由になる。


オブセッションとは強迫観念。

以下(7月17日)


大津のいじめは社会に大変な影響を与えた。しかしそれは、文科省のいじめ統計をみれば、その場限りの、賞味5分の感傷に過ぎない。

人間の脳は、一貫性と安定性を求める。しかし人間は、個人であり、差異は発生せざるをえない。もちろん、ジェンダーのように、社会的に構築されただけで、生物的差異に起因しない場合はある。


そうした衝突を調整するのがルールである。
そうしたルールに反した場合にいじめは起こる。


ここでいうルールとは、空気も含められる。いじめを許す空気が支配的であれば、むしろ、いじめ反対と叫ぶことがルール破りである。


言うまでもなく、いじめを防ぐには、ルールに対する自覚と責任と、ルールに対する許容である。

肩にふけが落ちていたことがいじめの原因であったとしても、具体的には、それをみた個人のルールに反していただけであり、その発起人の許容度が低いことが真の原因である。


子どもは、全能感をもっている。
そんなことはない、お前はこの程度の人間なのだ、とするのが教育である。ゆえに、加害者を責めるのと同時に、親が責められるべきである。同時に、教師が責められるべきである。同時に学校が、教育委員会が、行政が、国が。ボトムアップにのぼっていく。そうしたとき、跳ね返るのは国民である。

社会をつくるのは国民である。加害者を責めるのは当然であるが、それは、法律というルールに基づくためであり、決して、個人の溜飲をさげるためではない。


そこをわきまえない批判は、いじめ加害者と同じ心性をもち、それを抑えられない未熟者である。


いじめ加害者を死刑にしろと軽率に「思う」ことは、ちょっと勉強ができることでいじめを始めることと、同じ心性に起因している。

「思う」ことを否定するのではない。私も、許せないと思う、しかし、その程度の感情で思考停止しては、数年たってまた凄惨ないじめ事件が起こるだけだ。
そのときまた、いじめ加害者を責め立て、自分の個人的な正義感を満たし、気持ちよくなるだけなのだ。


とはいえ、心配せずとも、これが人間である。
ゆえに当然身の処し方は別であるし、意見も別である。


唯一私が真剣に考えるとしたら、宮台氏のように、子どもに世界を肯定的にとらえさせるか、それとも、人の弱さをとらえさせるか、である。

歴史は、人間の愚かさを教えてくれる優れた学問だが、実際は、数学や英語ができて、「○○くん、勉強教えてハート」っとなった方が人生得である。


恐らく、しかし、これからは、より「政治的な能力」が重要になるだろう。
年配の方に分かりやすくいえば、「人間力」だが、実際、その人間力があるようにアピールできることが重要になるだろう。
同時に、アイデンティティとなる専門性……。


とにかく、いじめ反対だ。

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