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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
年末である
今日の一言「毎年来年の目標を考えるわけだが」「月単位で目標があるのもよさそう」

近況メモ

・サイト更新
・CSSの勉強
・SQLの勉強
・VBAの勉強

 みんなパソコン関係だな。

 ニンジャスレイヤーについて、ある方がブログで触れられていたので、名前ぐらいは知っていたのだけれども、アニメーションもあることを知ってみてみた。ある方のブログで、「ギャグなのか? シリアスなのか?」と思っていたが、大真面目だった。
「どーも。ニンジャスレイヤーです」「どーも。ニンジャスレイヤー・サン。〇〇です」
 が面白すぎた。
 挨拶、大事だ。大変失礼だ。

 さて年末である。
 師走というと12月からであるが、気持ちは年末である。
 先般、サイト更新(作品整理)を11月中に行うと宣言し、実行できた。おそらく、宣言をしなければ、「いつでもできる=いつまでもできない」状態になって、実施できなかったのではなかろうと思う。

 あと、年内に一つ連載を完結させるという目標も宣言している。これの進捗は落ちてきている。やらねばならぬ。

モチベーション

 振り返ってみる。
 2018年のブログ記事は50記事ぐらいである。2017年は150記事を超えている。
 文字数の違いはあるかもしれないが、間違いなく2017年の方が文字を書いたことだろう。

 じゃあ、2018年の方が活動的でなかったのかというと、そういうわけではなかろう。むしろ、書いている時間が他の何か作業に使われていたのであれば、活動的であったといえるかもしれないわけだ。

 ちなみに、この記事の着地点はない。
 なんとなく、年末に関しての所見をだらだらと書いて終わることだろう、そんな気がする。
 そんなことに使用する時間は必要なのか。必要である。



 コーヒーを飲みながら書くという時間は自分にとって貴重である。
 コーヒーには、「お茶」だったり、「ビール」だったりするかもしれないが、とにかく、飲み物と書くという時間は必要なのだ。

 先日、少々トラブルに巻き込まれて困ったが、そういう時のほうが、「イライラ感」によって落ち着ているのではなかろうかとふと思った。
 逆説的だが、「怒っている」とか、感情が一定方向であると、他の混在した感覚にならないため、安定した状態ともいえる。

 ……久しぶりに書くと、何を書いていいのかよく分からなくなる。

 何個かは、書いておきたいこともあったのだ。しかし、時間経過によって、感情が抜け落ちる。
 すぐに「どうでもいいこと」の仲間入りだ。
 そうならないように、書く、ということは、定期的、……いやもっと、日常的に行いたいのだ。

目標

 さて。
 何も参照しないで書くことができなくなってきた。これは、インプット不足である。
 仕方がないので、2017年12月最後の記事を読んでみる。

 なるほど、2017年は「整理」の年だった。
 そして、2018年、つまり今年は、「生きる意味」「創作」の2軸の追求が目標であったのだ。知っていたか? 忘れていた。正直。……自分に呆れる。

 いやまぁ、明確に目標にしていたんだ、ということは忘れていたけれども、思考ベースでは忘れていなかった。でなければ、サイト更新やそれに関連する勉強などもするまい。

 ……やや脱線するが、「勉強」という言葉があまり適切でない気がする。しかし、知識や経験を増やす作業は、僕は「勉強」と呼称する以外に知らない。仕事=お金を稼ぐ行為と直結しないすべては「趣味」なのか? 違うと思う。
 趣味は、二種類ある。いや、人間の行動は二種類しかない。生産か、消費か、だ。仕事は生産かというとそうでもない場面は実際に働いたことがある人はよくわかるだろう。ただ、仕事がどうこうだけでなく、趣味といった面でも、生産か、消費か、どちらかだ。
 さらに、別ベクトルで、インプットとアウトプットに分けられる。そして、インプットを、僕は勉強と呼んでいる。

 趣味の世界におけるアウトプットの場が広がったのが、現代社会の良いところだと思う。
 それによるセキュリティやイジメといった問題もあるのだろうけれども、この辺りは、現代社会に拍手して良いと思う。

 テレビやニュースなどで、政治や経済やら外交やら、いつも批判的な内容ばかりである。たまに良いニュース的なのは、動物ほんわかとか、紅葉がきれいですとかそんなものである。いや動物かわいいし、紅葉もきれいだけども、そうではなくて、もっとこんな良いことがありましたってニュースがあってもよいではないか。大本営発表みたいで嘘くさい? まぁそうかもしれない。要はバランスである。

「当たり前度」が高まることは悪くはない。それが民度であったり、常識だったりマナーだったり、社会レベルを向上させる。
 ただ、当たり前は、当たり前であって当たり前ではない。トートロジーだが、要するに、当たり前を当たり前にするためにも努力やコストは必要だということだ。
 全然よくわかっていないが、電車が毎日安全に動いているのも、様々な安全のための「努力」(それは人が汗かいているわけではないかもしれない)がなされているのであろう。

 当たり前を当たり前だと思ってはいけない。その当たり前が成り立っている条件をよく考えなければいけない。
 しかし、全部が全部を考えることなど、到底できないほど複雑化しているのが現代社会である。そうしたときに、できるだけ幅広い知識見識を広めていくという努力はあってしかるべきだが、果たして、そうした方向性だけで十分なのか、ということは、僕はずっと疑問である。この疑問は、こうした表現をしたことはなかったろうが、例えば、「生涯学習」という言葉に嫌悪を覚えるのと同じ構造だと思う。
 同時に、繰り返しになるが、学ぶこと、勉強、成長といった概念自体は重要だと思うし、嫌いでもない。

来年の目標

 脱線したけれども、いつもの書いている感覚を思い出してきた。ここまで30分ぐらいか。

 では本題的な奴だが、来年の目標も、同じでいいと思う。
「創作」「生きる意味」

 ――これはある意味、画期的だ。僕史上初かもしれない。
 毎年の目標というと、いつも違うものを考えていた、無意識に。

 しかし、今(まぁその、12月末までにまた変わるかもしれないが。……ぐらいの感覚で目標というのは構わない)は、同じでよいだろうと素直に思った。


 よく考えると、いつも違う目標を掲げてしまうのは、「こうじゃない」「本当の僕はこれじゃない」的な感覚があるからではなかろうか。もしくは、「もっと高みを目指さないといけない」とかいった、高圧的というか、焦燥感的な奴のせいではなかろうか。


 根の張ったものであれば、目標は別に変える必要はないのだ。
 ――が、しかし。落ち着いて考えれば、「変えなくていい」=「達成できていない」ということかもしれない。

 なるほど確かに。

 しかし、孔子さん曰く、「生きる意味が分かったら夕方死んでもいいぐらいだわww」(朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり)ということらしいので、そんなこんなすぐに達成できるものではなかろう。

生きる意味を考えるとは

 もう少し、具体化する必要があるだろう。
 
 要するに、「選択」の問題なのだ。

 それは、時間が有限であるという事実から発する問題である。しかし、この問題は、実に巧妙な罠が仕掛けられている。
 選択するということは、未来を選ぶということである。まだ起こっていない先に対して、自分の意志を決定するのだ。同時に、その決定が「責任」という概念でもある。責任を取りなさいと言われるが、その意味するところは、自分の意志である。

 犯罪を犯したときに、懲役刑に服するのが責任なのではない。事象の原因が自分に関係することを認めるというのが責任なのである。刑罰は、単なる社会契約の一つに過ぎない。罪を償うことはできない。社会契約上の責任は果たされても、何かを行ったことが事実であれば、それに対する責任は消えることはない。

 消えることのない概念は、社会を形成、運営するのに不都合なので、法律という取り決めによって、事象に対しての結果(従うべきこと)が明文化されているのである。


 多くの人は、犯罪に手を染めることはないだろう。
 しかし、犯罪と無縁であっても、責任は常に発生している。それは幼子であってもそうだ。保護者や、少年法というものがあっても、赤ん坊がベランダを乗り越えて地面に落下し死亡したのは、赤ん坊の責任なのだ――というと、非難轟轟になるから言わないけれども、赤ん坊が「悪い」ということを言うのではない。悪くはない、不可抗力だ。だが、死亡という結果に対しての責任は赤ん坊自身にある。いやまて、他殺はどうか。道を歩いていたら暴漢に襲われ刺されて死んだ、これは、自分の責任なのだろうか。自然災害はどうか。地震で建物が崩れて圧死した、自分の責任なのか。

 いったん、全部自分の責任だと考えた方がよい。
 こういうと、大災害を天罰だとかいって糾弾された何某かが思い出されるが、それとは別の話である。社会的な責任という概念と、本来的な責任という概念は、分けて考えるべきだ。


 生きる意味を考えるというのは、責任を考えることでもある。
 身に降りかかるすべての事象を、自分の選び取ったものだとして考え、感じることである。

 それができなければ、一生、運命論的な不確実性や、リスク(発生するかもしれない危険)に囚われ続けることになる。

責任と失敗

 これは、ミスをゼロにするということではない。
 失敗はする。間違いを犯す。後悔もする。
 だって人間だもの。

 プログラムはミスをしない。機械は故障するかもしれない。想定外の動作をするかもしれない。しかしそれは、プログラムに従った結果なのだ。
 そもそも、プログラムで世界事象を再現させることなどできない。――できないが、できるようになればシンギュラリティである。

 人間はミスをする。
 それは、動作的なものもそうだが、思考エラーも起こす。
 人間は、飽きる性質もある。
 プログラムは繰り返しが得意だ。決まったことを何億何兆回と繰り返すことができる。人間はできない。

 人間はミスをする。ミスをしたとき、その原因をどこに帰するのか。全責任が自分にあると思う必要はない。しかし、自分が介在する余地は、本当にゼロだったのか。


 失敗したとき、すべて環境等、自分以外のものに責任をとらせようとしたら、人生はつまらないものになる。自分の意思が介在する余地がなくなる。


 抽象論ばかりになってしまったが、一つ思い出した。
 ある人を怒らせてしまって、メールでお詫びのメッセージを入れた。もちろん電話でも謝った後に、だ。しかし、一旦電話で謝って少し怒りを収めてくれていたにもかかわらず、自分が送ったお詫びメッセージによって、さらに怒りを増幅させてしまったのだ。

 これは、僕のミスだったろう。結果からしたら間違いなく失敗だ。
 また、僕は、メールを送るという行為と、送らないということ、両方を選択することができた。メールを送るという選択をした。相手を怒らせた。
 だが。送らないという選択が仮に正しかったとして、僕はそれを知ることはできなかった。
 時間は過去から未来へと進む。不可逆だ。


 長くなったので中断。


(かっこ書きである。……と、この記事に書いたことも、30代おじさんの戯言に過ぎない、かもしれない。来年には一笑に付しているかもしれない。だからこそ、選択なのである。書くのも自由。書かないのも自由。だが俺は選択した。それで十分なのだ。筋トレや音読を続けたところで、誰かに褒められるものでもない。成果が数字にあらわれるものでもない。だが行う。それでいいのだ。――そして、ずっと内心みとめたくなかったことで、これからもそうかもしれないが、やっぱり、過去に比べたら今がよほど楽である。10代ぐらいのときから、今ぐらいの心持でいられたら、もしかしたらそんなに性格がひんまがらなかったかもしれない。だが、それもまた然り。自己の責任の下でなされてきたことに過ぎない。――そして、何故ラクなのかといえば、やはり、「自由」の幅が広がったからだと思う)








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 ドーモ、エンドウサン。シロガネデス。

 ニンジャスレイヤーは、作風が「海外の人がイメージする現実とは全く異なる日本感」を思いっきりストレートに書いているだけであって、書き手は至極真面目だと思ってます。その実際の日本とのギャップや、おかしな日本語、それをストレートに翻訳したワードがどこかギャグっぽく見えたり、強烈な印象を与えてくるのが魅力になっている作品だと思います。
 私も結構好きです。独特の語感とか中々にクセになるんですよね。

 人が怒りという感情を抱く時、そこには大きく2つほどパターンがあると思っています。
 1つは、怒りによって連鎖的に様々な感情がオーバーフローして思考がぐちゃぐちゃになってしまうタイプ。
 もう1つは、感情の方向性が怒りに集中して絞られることでむしろ冷静になっていくタイプ。
 私もどちらかというと後者ですね。

 「生涯学習」という言葉については私も中学高校時代に結構耳にしましたね。
 学習、という言葉の意味を文字通り、「自分が今まで知らなかった知識を得ること」とするなら、生涯学習なんてのは言われる以前に当たり前のことな気がしていました。
 いつになっても、自分には見えていなかったものや知らなかったことなんてのはいくらでもあるもので、生きていく上で能動的であれ受動的であれそれらを知っていくことになるなら生涯が学習の繰り返しであるなんて当たり前のことですから。
 当時からして私にとっては大して新鮮な言葉でもなく、むしろ「言われないと分からない人もいるのか」と思ってしまったぐらいでした。

 責任の所在。
 因果関係や、意識しているか否かといった要素とは無関係に、「その時そこにいてそういう行動を取り、そういう結果になった」という事実のみを見るなら、確かに「その人の責任」と言える部分はあると思います。
 ただ、不運だったり嫌な目に遭った時、人は得てして自分だけのせいだとは思いたくないもので、他に原因や因果関係をこじつけることで精神的なダメージを軽減しようとするのだと思います。
 自分だけのせいであれば、生じたストレスを逃がす場所がありません(自分の中で循環させるのも良くない)から、ストレスを逃がす矛先を外部に求め、誰かのせいにしたり、罰してもらった、というところで「終わったこと」にしてストレスをシャットアウトし、それ以上内側に溜め込んだり循環したりしないようにしているのだと思っています。
古事記にも書いてあるッ!
 アイエエエエエ! ニンジャ、ニンジャナンデ!
 ドーモ、シロガネ・サン。エンドウ・デス。

 なるほど、狙ってやってるのではなく、大真面目に書いているからこその面白さなんですね。確かに魅力的でした。
 ウシミツ・アワーとか、随所の言い回しが好きでした(笑)。

>怒り

 オーバーフロータイプと、冷静沈着タイプ、うーん、自分はどっちだろうかと思いました。
 何か嫌なことや理不尽なことをされたとき、その原因に対して感情がどんどん高ぶっていって、それ以外何も考えられなくなるような状態になっている気がします。そういう意味ですと、怒りが集中しているのですが、「冷静」なのかというとやや疑問です……。冷静にイライラしている状態になっているかもしれません(笑)。

>生涯学習
>いつになっても、自分には見えていなかったものや知らなかったことなんてのはいくらでもあるもので、生きていく上で能動的であれ受動的であれそれらを知っていくことになるなら生涯が学習の繰り返しであるなんて当たり前のことですから。

 これは本当に、白銀さんが幼少期から慧眼だったのだと思います。「大人」と言われる人たちの中でも、こんな風に考えられている人は少ないんじゃないかなぁ……。
 でもおっしゃる通り、いくつになっても学ぶ姿勢は重要だと思います。
(しかし残念なことにこれは逆に「いわれてもわからないひとはわからない」問題とも思います)

>因果関係や、意識しているか否かといった要素とは無関係に、「その時そこにいてそういう行動を取り、そういう結果になった」という事実のみを見るなら、確かに「その人の責任」と言える部分はある

 コメントいただいた通り、そういった意味で書いていました。
 ただ、おっしゃる通り、これは、つらい。「仕方がなかった」とどこか、逃げ道をつくらないとやってられないケースというのもあると思います。
 しかしこれは、……おそらく個人的に意固地になっているだけかもしれませんが、逆に、「自分のせいにしたい」といった変な感情も自分はある気がします。
 精神的マゾ……なわけではなくて、「なんかこうしていたら上手くいっていたかもしれない」という可能性すら想像できないことって、諦めることしかできなくて、自分が何ももうできることがない、というのは、それはそれでつらい、ような気がするのです。
 まぁこれというのは、科学で自然も何でも支配できるという、現代人特有の万能感の病なのかもしれません。自然的なもの、自分ではどうしようもないもの、神とか、第三者の審級といった超越性をもてないというのは、自由に対しての代償なんだろうなぁとも思うわけですが……。
  • 遠藤 さん |
  • 2018/11/29 (21:09) |
  • Edit |
  • 返信
サツバツ!
>怒り
 カーッとなってしまうか、ふつふつとしているか、の違いかもしれません。

>「いわれても」
 まさにこれが個というものを得た人間の良いところであり悪いところであると思っています。
 同じように考えることができる人間って、突き詰めていくと思考の同化というか、同一化というところに行き着くと思うのですが、そうすると個というものが無くなってしまうと思うんですよね。
 個である意味がなくなるというか、皆が皆同じ思考ができて、同じ理解ができて、同じ行動に至れる、となるとそれってただの機械的なコピーに過ぎないのでは、と。
 何かしら話題となるものに対して、どう思うかが人それぞれ違うように、当たり前だと思う人もいれば、どれだけ解説されようとも理解できない人もいる、というのが個を得た存在の特性であるとも言えます。
 だから「言っても無駄」とまで言うつもりはないわけですが。

>「自分のせいにしたい」
 ああ、これはちょっと分かります。
 自分が上手くやれていたら、という思いは良く付き纏いますし、今思い返しても「あの時こうしていたら……」なんてのはごろごろ出てきますね。
 ただ、「過去を反省して次に活かす」という方向になればいいんですけど、「いつまでも過去に囚われ続ける」になってしまうのは良いことではないなと思っていて、そういう意味でも「終わったこと」にして一度切り替えてしまうというのは効果のあることだと思います。
 良く創作物の中でも言われますが「足は止めるな。どこを向いていてもいいから歩き続けろ」的な考え方とでも言いますか。
 結局のところ、その時その瞬間は干渉することができても、一度過ぎて終わってしまった事象には今の人間はどうやっても干渉できませんから、「考えるだけ無駄」というのもあながち間違いではないと思っていたりもするんですよね……。
 とはいえ、同じ過ちを繰り返すようなのはちょっとどうかとは思うので、忘れてしまえ、っていうのも極論かなとは思うわけですが。
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