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タイトル考えるの面倒くさい
2018/12/04 20:58 | Comments(4) | 仕事と人生の関係
今日の一言「質より量、量より質、どちらでもない」
(異論反論多そうな記事になった)

徒然に書きたいときのタイトル

 特に脈絡なく、徒然思うがままに書きたいと思うときに、タイトルというのはいささか考えるのが面倒なものである。
 そういったとき、「未設定」とか、「徒然」とか、「NOTITLE」でもいいけれども、せっかくだったら何か考えたいという思いが芽生える。
 そういうとき、何かこう、連載とか、「月間更新」とか、ルールがあったら楽な気がする。

 もしくは、後からタイトルを書くという方法。自分は、こっちをよく使ったりする。

 まぁ、別にそれで事足りるから、特にルールとか必要ないだろう。しかし、わりとマジに誰かに読んでもらいたい、聞いてもらいたいとするならば、タイトルは重要だ。

コミュニケーション力

 コミュニケーションが大事、とか言われるが、そういう言葉が嫌いだ。
 ……最近、自分はやっぱり「変」なんだろうと思わされることがあって、そもそも、「〇〇が嫌いだ」という主張が多いのは、拘りが多いということであって、拘りが多いというのは、「変」ということでもある。

 しかし、まぁその、「嫌い」という言葉は、二分法的にわかりやすく表現しているのであって、そんな身の底から受け付けない、生理的に無理、とかそういったレベルではない。ないのだけれども、言葉として使う際には、どうしても「きつく」感じ取られてしまうから注意が必要だ。

 まぁでも、とりあえず、コミュニケーションって言葉が嫌いだ。横文字だから嫌いというわけでもない。昔の自分の記事を読んでいると、やたらと「コミットする」という表現があったりする。今考えると恥ずかしいけれども、当時もそれを分かったうえで、なんとなく「コミット」という言葉が自分の中でしっくりきていたので使っていたのだ。
 コミットという言葉の、自分の中での用法は、「情熱をもって対象に自分自身を注力する」といった意味であった。やはり今となってもなんとなく、日本語にするとしっくりこない。そういったときに、横文字表現を使うというのは悪いことではない。ないけれども、他者に読ませるといった意味においては注意が必要だろう。「エビデンス」や「ハードコピー」といった言葉も、仕事においてよくつかわれるけれども、別の会社の話を聞くと全然違う意味で使われていたりして、面白いなと思ったこともあったりする。

 上の段落は脱線である。コミュニケーションという言葉についてがこの小見出しの主題だ。
 こういうときに、「閑話休題」という言葉を使う。これも、最初に聞いたときは、逆の意味でとらえていたことがあったような気がする。言葉って難しいなぁ……閑話休題。

 コミュニケーションというのは、情報伝達のことであって、それ以上の怪しい意味合いはない。
 何故わざわざコミュニケーションという言葉を使うのか。横文字にすると、さも「スーパースキル」のように感じられてしまうではないか(僕だけかもしれない)。

 そもそも、コミュニケーションが大事、なんてのは、先日の「生涯学習」についてコメントいただいた件ではないが、「当たり前」である。
 というよりも、コミュニケーションをしないことなんて、ない。

 こうしたブログですら、コミュニケーション・ツールである。

 大したポイントでもないのに、あえて横文字にして、さも大事だと言わんばかりの主張が、嫌いなのである。

礼儀作法や心理学のことではない

 マナー。
 常識。
 こういった言葉も嫌いなのであるが、コミュニケーションという言葉が嫌いな理由は、それとも関連する。

 前にも書いたけれども、さまざまな解釈があることについて、自分の考えることが絶対的だと思っているような人が嫌いである。
 ――ここですぐさま書いておきたいのは、「その上で結論する」ということは大事なことだ。

 関係ないかもしれないが、裁判の判決に従うのは、それが社会的なルールだからだ。そこで、「でも自分はそう思わない」といったところで、関係ないのである。決めることは大事だ。

 しかし、飲み会はコミュニケーションに必要だ、とか、若いうちは無休で働けとか、そういった言説の様々が絶対的に正しいと信じるのはいかなるものか、と思う。ちなみに、自分は上の意見に、部分的に賛成であり、反対である。――というように、標語、スローガン的なのは、わかりにくいものや、複雑な部分や、あいまいな部分をとりあえず切り捨てて、方向性を示すためだけのものである。
 それで、標語的なのは、シンプルで分かりやすいのがよい、と言われたりする。「ユーザーのニーズに応える」とか「お客様の笑顔をつくる」とか――しかし、実際の業務に役立つことはほとんどない。
 スローガンをシンプルにしていけば、「当たり前」のことにしかならない。その当たり前のことを忘れてしまうから、実際に実行するのは難しいから、スローガンがあるってだけである。



 ――あああ、本当にくだらないことを書いている。どうでもいい。ほんっとうにどうでもいい。しかし僕はなぜ、こんなくだらなくて面白くなくてどうでもいいことを書いているのか。

 そうだ、インプットが足りていないからだ。


 いやしかしまて、何故僕は、上のようなことを面白くなくてくだらないと思うのか。
 当たり前だからである。
 スローガン的には、「WIN-WIN」があるべき姿だ。世界平和がすべてだ。それ以外に何があろうか。

 しかし、さすがに「世界平和」をスローガンにする企業はない。あまりにも実態とかけ離れているからだ。だから、自分らの業務に関連して、できる限り普遍的なものをスローガンにする。スローガンって書いているが、社訓とか経営理念とかそのへんのやつだ。

 しかし、世界平和の次の内容は、必ずしも利害対立を生み出す。何故ならば企業は利益追求のための組織だからだ。CSR(企業における社会貢献の責任)も重要だとされるけれども、利益(もうけ)ないCSRは形骸的である。

 とある業界で、ある会社が躍進すれば、ある会社は零落する。シェア(需要)は有限だからだ。勝つか負けるか。命のやり取りはないとはいえ、そんな世界なのだ。

共産主義というか社会システム

 そんな殺伐としたのは嫌だ!
 となると、共産主義・社会主義はどうか、となる。
 失敗した!
(中国は共産主義なのか? その場合、成功した、といえるのか? などという政治学的な話は勘弁していただきたい。よくわからないし、あまり興味をもてない。とにかく、当初興ったマルクス主義的な共産主義とは実態はかけはなれているだろうことは間違いなかろう)

 どうやら、人間は怠ける生き物のようだ。
 競争という概念がないと、まともな発展はできないのだ。
(生活保護はなんなのか、という政治学的な話は勘弁――以下略。しかし、だ。生活保護制度も、生活保護を受けていない人たちが、それ以上(以上、という言葉をつかえば、「イコール」も含むということだが、まぁそれでよかろう)の生活ができている、という基盤に立っているからのことだと思う。それが明確に崩れたら、制度として成り立たないだろう。「生活保護を受けるのは権利だ! 恥ずかしいことじゃないんだ!」そういった主張、その通りだと思う。しかし、現実問題、生活保護が貴族のノブリス・オブリージュで成り立っているのではなくて、税金財源なんだから、みんなが生活保護を受けるようになったら制度として成り立たないだろう)


 要するに、バランスで成り立つようになってしまったのだ。
 イデオロギーとかいう言葉は流行らなくなったのだ。
 漸近的になんとかだましだましやってくしかないのだ。
「うるせー! そんなんやってられっか! 俺は苦しいんだ! バーカバーカ!」
 というのが増えると、急進的な保護主義とか、異民族排他とかが発生する。
 歴史は繰り返す。
 繰り返させちゃいけないのだけれども、高名な学者様たちも、いまだ全世界共通普遍システムの構築には至れていない。
 修正資本主義でしかない。

 このままじゃあ、政治制度こそA.I.に任せちゃおうぜという意見が多数派になるかもしれない。アニメーション作品『サイコパス』の世界は近いのかもしれない。

政治的な話がきらい

 ここでいう政治的というのは、国レベルではなくて、会社レベルでもそうだし、家族レベルでもそうだ。
 要するに、利害調整的な仕事がウンザリである。
 30数年生きてきて最近思うのは、やはり僕は、何か作る又は創ることが好きなのである。

 ここの部署はこうだからあーして、あっちの部署にはこう根回しして……とか、ほんっとうに面倒くさい。どうでもいい。
 いやすぐさま書いておかなければいけないのは、要望とか、何か作るにあたって必要な要件を収集するということは大切だし、むしろ積極的にやりたいぐらいである。僕が「きらい」といっているのは、ある案件について、どっちの部署がやるだとか、それは俺の仕事じゃないだとか、関係ないだとか、そういうことが面倒くさいということである。

 そして、そういうのを「マネジメント」というのなら、管理職に魅力なんてない。昨今の若者は出世願望がないとかいわれるが、そういう問題じゃないと思っている。
 給料が高ければ、それだけでいいって人も中にはいるだろうけれども、仕事の中身自体が魅力的でないならば、やりたいと思う人が多数派になるはずはないのだ。
(同時に、「自発的であれ!」「仕事は自分でとるものだ」「自分で考えろ」ということも言われたりする。ばかばかしい。「自発的」すなわち内発的動機を重要視するならば、余計に魅力的な仕事内容でなければ不可能だろう)

 同時に書いておきたいのは、管理職だからこそ、「つくる」ということも可能だろう。それは、より「間接的」になるかもしれない。実際に自分が手を動かしてつくることは少なくなってしまうかもしれない。けれども、その分より大きな、自分がつくりたいと思ったものを、つくることも可能になるかもしれないのだ。そういう魅力をもっと語ってほしいものである。
 大変だー大変だー忙しいー疲れたー、とかいいつつ、出世しろ、管理職を目指せ、なんてのは、ばかばかしいこと限りない。――限りないと思うだろう、思うのだけれども、皆さんもそういう人を見かけることは少なくないのではなかろうか。

楽しいとか面白いとか

 うーむ、なんだか、当初書こうと思っていた内容から随分はずれてしまった気がする。
 しかし、これはいつものことである。
 書いているうちに方向性が変わるってことはよくあることだ。

 しかし、どうしたもんか。
 人は様々である。
 年上もいれば、年下もいる。上司もいれば同僚・部下もいる。男もいれば女もいる。受託もあれば委託もある。そんな中で、「楽しい」を仕事に介在させるというのは夢幻のことなのか。

 しかし、大事なことは二つあると思っていて、
・貢献心
・成長心
 である。

 所属する組織に対して、自分が役に立てることを探すということ。
 自分ができることを増やしていくということ。

 これは、どんな組織にいても普遍的に大切なことだと思う。
 当たり前のことである。
 会社に害をなそうとして毎日仕事している人はいまい。いたら埋伏の毒というかスパイというか。
 どんどん劣化していきたいと思うことだってなかろう。いつも男は筋トレに励み、いつも女は美容に励んでいるではないか(くだらない例え話である)。


 会社に限った話でもない。
 家族という組織(集団)であっても、同様に貢献と成長は必要だろう。家にはサラリーを入れてるから家事は全くしなくてよいのだ、という夫や妻がいる家庭は、よほどの事情がなければ上手くいかないだろう。また、ゴミの分別や曜日がいつになっても覚えられないという成長がない夫や妻がいるというのも、片方への苛々が醸成される原因になるだろう。

 そんとき、何を大事にするか、というのが「価値観」である。
 で、この価値観は色々あってしかるべき、という風潮になっている。多様性である。――という話しになると、先日の「多様性について」の記事を参照すればよいだろうか。

 価値観は色々あってよいんだけれども、それがぶつかったときどうしようか、というのが「ルール」である。
 しかし、会社における価値観ってのは、とある部署の主張だけ通せばいいってもんじゃないと思うんだが、まぁこれも脱線か。
 家族という集団は、分離するという手段もとれる。会社もまぁ、辞めるという手段や異動するという手段もあるだろう。
 しかし根本的に、対立という芽は至る所にある。

 それというのもそもそも、「世界平和」と「WIN-WIN」を成り立たせる普遍ルールが、実のところ世界には存在していないからだ。


(かっこ書きである。「普遍ルール」と書いたけれども、ルールで人を縛れるのか、というのもある。暴力装置は必要なのか。文明があっても、シビリアンコントロールでも、「いざ」ってときに強制的に黙らせられる力がないと、人はルールに価値を持てないのではないか、と僕は思う。この部分も、いろんな価値観があるものだと思う。世界平和のために兵器も軍隊も排除すべきだ、という主張もみかけることがあるだろう。核兵器廃絶という理念は僕は賛成するが、現実的に可能なのか疑問だ。ロストテクノロジーって、人為的に可能なのだろうか。ロケット技術と原子力発電所の技術があれば、ICBM(大陸間弾道ミサイル)に核爆弾のっけられるってのを何かで見た気がする。いやそんな、世界征服を企む悪の組織が勃興するというのもあまり思えないのだけれども、「人の対立」という概念がなくならない限り、強制力・強制装置は必須だというのが僕の考えである。でも、繰り返すが、僕は世界平和が大事だと思うし、目指すべきだと思う。いじめだって、ブラック企業だってなくなればいいと思う。しかし、僕は指導だと思って言ったことも、「遠藤さんって時折厳しいこと(ひどいこと)言いますよね」とか言われたこともあったりするし、まぁ難しい問題である。しかしこういうのは、真摯に反省すべきである。「自分はどうか」という視点がない人が多いせいで、パワハラとか飲酒運転とか減らないのである。もしかしたら、明日は迎えられないかもしれない。それどころか、数時間後には死ぬかもしれない。常にそう思っていたら病気だけれども、そういう気持ちで生きる(生活する)ことも時に必要である。――といいつつ、今日は疲れたからビール飲んでゲームして遊ぶ(おい))

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コメント

 現代世界でコミュニケーションとらずに生きて行く、ってかなり困難ですからね。それこそ、山にこもって全てを自給自足で生活でもしないと。

 私は教育方針が「ゆとり」になる境目の世代だったので、それまでの詰め込み型と自主性を重んじる学習方針の両方を中途半端に受けてきたような印象があります。
 で、上の世代に特に強く感じるのが「仕事=生きがい」という思考パターン。
 小さい頃は、働くこと、仕事、というものに対して漠然と「好きなことを職にして、周りに良い影響を与え、楽しく過ごしながらお金を貰えるもの」というイメージを持っていました。子供が宇宙飛行士とかケーキ屋になりたい、とか考えるような頃のイメージですけれど。
 当然、年を経るにつれてそんなイメージはどんどん壊されていって、社会人となった今では「生きていくための資金を得るため仕方なくやること」程度になっているわけですが。
 もちろん、中には「やりたいこと」を仕事に出来ている人もいます。が、「やりたいこと(好きなこと)を仕事にした結果、やりたいこと(好きなこと)ではなくなってしまった」という声も耳にすることがあり、それが全部ではないでしょうけれどそういうこともあると納得できるようにはなっています。

 私はぶっちゃけた話、怠惰に生きて行きたい(やりたいことだけやっていたい)という人間なので、出世欲は無い方ですね。
 最低限、自分がやりたいことをするのに必要なお金と時間が得られるなら、極力肉体的にも精神的にもストレスの少ない環境に身を置きたい。
 割とダメ人間なのです。

 だから好きなこと、やりたいことしましょう。創作でも、ゲームでも(笑)
posted by 白銀URLat 2018/12/05 17:34 [ コメントを修正する ]
白銀さんこんにちは。
コメントもちろんすぐに読ませて頂いておりましたが、返信が遅くなってしまいました。
白銀さんのおかげ、というと、人のせいにしているようですが、本当によい意味で力を抜いて12月が過ごせました(苦笑い)。
今思い出すと思い出せないのですが、仕事とかで納得いかないというか、落ち着かない感じで、創作するといった気持ちになれずにおりました。

楽をしたい、というのは、駄目人間というわけではないと思います。効率化しよう、というのは、ある意味、楽をするということでもあると思うので、悪いことでもないと思います。
ストレスも、精神的にも肉体的にも、少ない方がいいですよね!

ストレスは、適度にはあった方が、パフォーマンスによいということですが、やはり、外圧としてのストレスは自己コントロールがきかないので、活用するのは難しいと思いますね。

自分の精神的、肉体的な状態を把握して、適度なストレスを活用できたらいいなと思います。

そうすると、怠惰ってなんでしょうね。
「何もしない」というのが、怠惰なんでしょうか。
お金に結びつかない行動が怠惰なんでしょうか。でも、ボランティア活動をする人を怠惰とは誰もいわない。
そうすると、「誰かのため」になる行動が怠惰ではなくて、「自分のため」しかならない行動が怠惰なのでしょうか。
でも、学業に精を出している人を怠惰と言う人はいない。
そうすると言葉としては、「勉強でも仕事でもボランティアでもない」行動が怠惰、ということに思われます、が、それって何なのか。
「遊び」「趣味」は怠惰なのか。ちょっと違う気がする。
「睡眠」はどうか。
なるほど確かに、一日中寝てたり、または食ってばかりだと怠惰って感じ。しかし、適切な時間であれば、怠惰とは言わない。

抽象的に言うならば、「本来的な行動ではない行動を必要以上にしている状態」を怠惰と呼ぶ気がしますね。
つまり、怠惰とは、ある特定の行動を指すのではなく、本来的ではないことを、むやみやたらに大量の時間を使っていること(浪費)のことではないか、なんて思いました。
と、いうことは、怠惰というのは、人それぞれの時間単位(感覚)によって異なるので、一概に「あいつは怠惰だ!」と糾弾するのは間違っているのではないか、と。

つまり、怠惰かどうかは、他ならぬ、自分自身しか分からないのではないか。
……なんて、どうでもいいことを考えている時間や書いている時間は、僕は怠惰には思わなくて、何も「書く」ことができていないことが、僕にとっての怠惰なのかもしれない……イコール、12月は(仕事はやや忙しく落ち着かなかったとしても)怠惰だったなぁと、やはり反省しようと思ったのでした……。
posted by 遠藤at 2018/12/30 14:50 [ コメントを修正する ]
 確かにストレスがないと解放感みたいなものも抱けない気もしますね。
 幸せを感じるためには不幸も感じたことがなければならない、みたいなプラスマイナスがセットになった事象というか。
 創作をしていても、やはり抑圧や溜めからの解放ってカタルシスになりますし。

 怠惰についても、思いつきました。
「自己管理を放棄した行動」
 これでどうでしょう?
 生活のための仕事を放り出したり、体のことを考えず食べまくったり、とか、やることがあるのに放り出して寝ていたり、とか。
 そうなるとやっぱり私は怠惰に生きたいですねぇ……体形の維持はしたいですが好き放題飲み食いした上で面倒なので運動はしたくない、運動する時間を趣味に回したい、なんて思っていますから。

 ストレスを避けたい、楽をしたい、という思いから効率化とかに結び付けばいいんですが、効率化する方法を考えて実行に移すのも面倒だからしたくない、となればこれはやはり怠惰なのでは……?(無駄に拘ってみる)

 というわけでよいお年を……でいいんでしょうかね?
posted by 白銀URLat 2018/12/31 10:07 [ コメントを修正する ]
>自己管理を放棄した行動

 なるほどなるほど。確かに言いえている気がします。
 怠惰、意外にテーマとして結構面白いですね。「怠惰」という言葉なのに(笑)。

>ストレスを避けたい、楽をしたい、という思いから効率化とかに結び付けばいいんですが、効率化する方法を考えて実行に移すのも面倒だからしたくない

 このことから考えると、「自己管理を放棄した<行動>」という、行動が、「状態」という言葉のほうが適切なのか。
 いや、しかし、「何もしない状態」というのが、そもそもどういうことなのか、というのを念頭に、前回の私はコメント書いていた気がします。

「何もしていない」ということは、実際には存在していなくて、「何か」は必ず起こっていると思うわけです。眠っていたり、ぼーっとしていたり、というのも含めて、「行動」と表現して構わないのではないか、と。

 そうしたとき、「怠惰」というのは、やはり相対的な使用しかできないと思いまして、怠惰という言葉を使うとき、そこには、「怠惰じゃない状態」が意識されている気がします。

 なんかやらなきゃいけないこと、というのがあるから、それをやっていない時に「怠惰」と思うのであって、「今日は徹底的にゲームするぞ!」という強い意識があれば、別に怠惰ではないのではないかと思います。

 つまり、怠惰は、自分の中の理想、絶対的な父性、といいますか、第三者の審級といいますか、道徳律といいますか、何かがないと、発生しないものだと思います。


 小説頑張って書いていても、「そんな遊んでばっかいないで、仕事がんばって給料あげなさいよ」と妻から小言を言われるとか――そんな場面を想定してみたとき、その本人としては「怠惰」なんて思っちゃいない。けれども、妻としては、旦那さんは家庭のことを考えて、お金をたくさんいれてくれるのが「本来的なこと」だと思っているので、「怠惰だ」と思う、とか。


 なので、何が言いたいかは、そんな特にないのですが、「楽をしたい、ストレスを避けたい」――「けれども何もしたくない」というのは、一見、怠惰にも思いますが、「楽をしたい」ことが目的にあったときに、「何もしない」ことでそれが満たされているとしたら、別に構わないというか、「怠惰上等!」ぐらいな感じなのかなぁと思ったりしました、という(分かりづらくてすみませんが、何となくそんな感じで――)。

 とかっていってると、「じゃあニートでもいいのかよ」という思考が僕なんかは浮かびまして、うーん、それはちょっと極端かなとも思いつつ――しかし。
 そのニートが成り立っていて、それで自分も「全然問題ない、人生さいっこー!」と思ってるならいいんじゃないかとは思うかもしれません。ただどこかしら、現実的に、このまま支援者(親)がいなくなったらやべぇとか、どこかしら社会的な圧力を感じていたりするならば、それはやはり適切な状態ではないのだと思われます。
 ただ、これに対して、いよいよ追い込まれたら、無差別テロ起こして自分も死ぬ、と考える人が増えると秩序的にまずいだろうな、というのが社会的な問題意識だろうと思います(おおっぴらにみんな言わない。きっと、「君のことを思って心配してるんだ」的な言い方をするだろう)。

 となると落としどころとして、
「怠惰は、人間である以上全面的に肯定されるべき状態ではありながら、「持続可能性」を完全に無視したあり方は許されないだろう」
 的な感じかなぁ……。
(……と、いつもながらコメント返信のようでいて独り言みたいになってすみません)
posted by 遠藤at 2019/01/06 22:01 [ コメントを修正する ]

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