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到着駅は未だ見えず
2019/02/02 20:04 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「良かった」

前書き

 週間更新が、習慣更新になってきた。おやじギャグ。しかし、おやじギャグとは何なのか。おやじギャグとは、安直で下世話で、つまらないものを指す言葉遊びのようだ。すると、週刊が習慣だ、ってのも相当なおやじギャグな気がする。

 しかしまぁその、「アルミ缶の上にあるみかん」とかって、そんな現実があるんかぃってものは確かにつまらない(TPOに合っていない)と思うけれども、場に即した言葉遊びであれば、ある程度の面白さはあると思う。
 え、じゃあ、「お手洗い行ってきます」「おうおう、トイレにいっといれ」はどうか?
 つまらない。しかし、「週間が習慣になった」は、別にそんなに悪くない気もする。そもそも、ギャグとして思っていない。笑わせようという意図はない。そうか何か? 動機がなければ、悪いことしてもいいってアレなんか? いやそういうわけじゃ……とか、どうでもいいことをつい書いてしまう。前書きである。

少し役に立ちそうなコーナー

「嶺渡し」(ねわたし)と読む。高い峰から吹き降ろす風。「村の北に聳える山からの嶺渡しが、厳しい冬の訪れを感じさせる」とかって使うんだと思う。

「瑞風」(みずかぜ)と読む。みずみずしい風。喜ばしい風。同名の特急列車がある模様。「ずいふう」と読むと、能楽で天性の理想的な風体を示すという。

 ――なんか、あれだ、その文脈ぶっちぎって、情報だけ詰め込むってのが違和感がある。
 しかし、それも仕方がないか。そもそも、自分の記事は、しょっちゅう話題が変わって統一感ないし。

今週を振り返って

 今日の一言も、随分形骸的だな。「良かった」っておいそりゃなんだ。何が良かったんだ。いやそれが分かれば苦労しない。
 しかし、仕事のストレスは割かし少なめだった気がする。
 来週は……うーむ。
 再来週は……うーむ、うーむ……。
 再来週は特にイベント(仕事・私事)が多くてやっかいだなぁ。

 まぁしかし、「良かった」理由を挙げれば、少し「インプット」に生活を割り振りできそうな気がしたことである。
 ちなみに、軽々に「インプット」「アウトプット」という用語を独自に使っているけれども、例えば、小説を書くというのは、どちらに当たるのだろうか。当たると、僕は思っているのか。その場合は、インプットアウトプットという言葉ではなく、「生産」という言葉がピンとくる。ゲームするのは「消費」という認識である。――すぐさま書いておかねばならぬのは、「消費」も悪いことではない。

 中庸だ。
 インプットもアウトプットも両面が大事だし、生産も消費も双方が大事だ。
 ただ、バランスが崩れるとよくない。


 例えば、「仕事」は、通常、「生産」であるはずなのだが、しかし、「無生産的」であると思ってしまうことが多くある。わからずやを説得することなど。しかし、物事の進め方において、「納得感」をもってやってもらうことは大事だし、「調整ごと」というのも仕事の大事なことの一つだ。
 しかし、「調整」自体は、生産的には僕は思えない。調整の先にある行為が生産なのだ。
 だから、大きな意味において、広い範囲においては、調整を含めてその仕事は「生産」なのだろうけれども、しかし、しかし、しかし。

 昨今の若いもんは生意気だ、という言説もあるのだろうけれども、「成長感」がない行為は苦痛である。
 いや、書類の紙をめくる単純作業だって、成長間は十分に感じられるはずだ。そのめくるスピードの向上は、自分の能力として獲得できることだ。紙をめくることの意味はここでは度外視だ。

 故にその「成長感」というのは、己で見定めるというか、定義していかねばならない。

ストーリー作りが大事だ

 だから、これからの世の中で、大事になるスキルって何だと言われたら、ストーリーを作る技術だと言える。(言えないかもしれない、もっと大事なもんがある、マーケティングやプログラミングだ、という人もいるだろう、そういう雑多なことはすべて除外した上で、差し当たり言い切らせていただく)

 先の、「納得感」というのも、ストーリーを共感させるということが必要となる。

 適当なことを書くが、「恋愛」だって同じだ。

「俺と付き合うと、こんな生活が待ってるよ」

 ということを感じさせることが重要だ。
 いや、それを「口」でいうと、「うぜえナルシス男」となってしまう。それは、なんとなくそんな雰囲気をつくりださなければいけない。


 というわけで、「ストーリー作り」といっても、二次元媒体の場合と、三次元媒体(己の身体)とで、分けて考える必要があるだろう。

 ここで、浅慮であれば、「ああ、どうせ三次元媒体の方が大事で、会得するのも難しいんでしょ」となるだろうが、そういうつまらないことを僕は今までも、これからも書きたくはない。

 今回の記事の中でも書いてきただろう、インプットもアウトプットも大事だ、中庸だ、バランスだと。――ああ、それ自体つまらない考えなのだけれども、しかし、納得感は強いので仕方がない。

二次元と三次元のストーリー

 二次元は、基本的に、絵と文字で創り出される。技術の進歩で、写真や動画も含まれるようになった。虚構、という呼称もされる。

 三次元は、基本的に、己の心身で創り出される。変えがたきルックスや、声の抑揚・高低、身振りしぐさ筋肉など。


 どれもが大事だ。

 いくら緻密な正論であっても、大きな声で威圧されてしまうこともあるかもしれない、許されない、間違っていることは間違っていると主張せねばなるまい。そのとき、病弱で見るからに怯懦であれば、間違いなく舐められる。

 心も、体も、思考も、感情も、すべてバランスよく鍛えていかなければいけない。


 何故か? 戦うためだ。

 え、何と?? というか、何の話だよこの記事。

続けることである

 大体において、先日の記事で、「俺の記事、たまに面白いぜ」とか書いて、恥ずかしくなかったのか、いや、きっと恥ずかしくなるだろうと思いながら書いた。逆に言えば、そのときは全く恥ずかしくなかった。今すげー恥ずかしい赤面紅潮だ。

 仕方がない。

 道半ばである。まだ到着駅がみえない。いやそもそも、線路通ってない。あぜ道だ。オフロードだ。

 だから、こういうときは、勉強するしかないのである。
 俺は、高校生、ないしは、中学生ぐらいから、「何で生きてんだろう……(肯定的な意味でこういった問いを持つ人は少なくないが、一方俺は否定的な意味だった)」と思っていた。そんときの対処方法は、とりあえず勉強する(進学する)程度のものだった。いやまぁそれで東大などに入れたらそれはそれでかっこいいと思うが、――実際、東大生の人が「やりたいことがわかんなかったのでとりあえず東大はいりました」的なことを言っているのを聞いて「くそぉぉ」と思ったりしたが(笑)、しかし、方法としては流石と思う。

 要は「可能性」ということだと思う。
 差別的な言葉遣いと知りつつも分かりやすく書けば、底辺大学よりも東大の方が選べる人生の幅は広いのではなかろうか。いやこれは、底辺大学よりも高卒のほうが実は良い暮らしなんだぜ、とか、そういう学歴どうこうの意味で書いていない――のだけれども、早とちりな「ザマス」系の人たちはきっと差別的にとらえることだろう。そういうバカげた自体になる可能性が思い浮かぶので、「ザマス」(表現規制派)は許容できないのである(※)。


※しかし、確かにこれは難しい問題であって、誰かを傷つける目的は俺は一切ないのだけれども、その「一切ない」ことが証明できないばかりか、実際に傷ついた結果に陥った人がいた場合どう責任がとれるのか、ということを言われ始めると、「はいろんぱー」的になりそうである。そうは思ってもなお、やはり表現規制の動きは反対なのだ、これは単なる意固地なのか。かっこいい言葉を使えば、信念なのか。いやいやそれとも、「俺もいじめられたり、嫌な思いたくさんしてきたし」という被害者意識――というか、報復精神なのか。


 ――と、長くなってきたな案の定。今日はここまでだ。(続けることを目的にした場合、全力を出し尽くさない方がいい場合がある。120%出して力尽きるより、70%ぐらいの力で、数か月、数年と続けられた方が、トータル成果は高い)


(かっこ書きである。面白い記事を書きたい。というか、昨年、11月ぐらいからめっきり更新が少なくなっていた気がする。で、その間も、「書こうと思えばできるけれど、やる気が起きないな」みたいに思っていた気がする。「うちの子は、やればできる子なんです!」みたいな。それって逆に、「今できていない」という証明ともいえる。ゴウタマ・シッダールタ氏も言っている。「今ナウが大事なんだぜ」と。――まぁしかし、やはり、長年続けてきた甲斐があってか、週間更新程度であれば、このぐらいの文量ならそれほど苦労なく書けることは分かった。誰かの役に立つのかとか、そもそも自分のためになるのかとか、そういうことは今は見ざる聞かざる言わざるだ。だが、それでもやはり、どっちかというと、役に立ったほうがいいし、面白いほうがいい。どうしたら面白くなるんだろう。いや、ベストセラー作品を生み出すとかいうことではなくて、この苦労レベルにおいて、よりよくするにはどうしたらよいのか、という、妥協的思考である。ただ、しかし、そうはいっても、一ついえることは、「ゼロよきゃ、絶対書いてた方がいい」というのは、僕は納得レベルで思う。皆さん(何処を向いている)、10年前の自分が、どんな状況で、どんなことを考えていたかって、覚えていますか? 「え、10年前か、ああ、あのときはな……」と自分語りが始められる人はいいけれども、僕の凡人記憶装置では、正直全然分からない。分からない中で、読み返したりすると、――ああ、この過去の思考に触れた時の感覚は、ちょっと表現が難しい。要するに「へー」っという感覚なんだけれども、俺はこれが結構大事なものだと思うのである。何故かというのは上手く表現できないが、きっとおそらく、人間が、時間的存在だからじゃあないかと思う)

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