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ただ書くのみが存在証明
2017/12/09 15:45 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「分かりやすさとは」「黄昏時の一杯のコーヒー」

三つの価値と肯定的世界観

 人生には三つの価値がある。
 創造価値。
 体験価値。
 そして実存価値だ。

 三つ目の価値については、僕はまだ理解できていない。しかし、二つ目まではとても単純だ。
 三つの価値は、より根源に近づいている。すなわち、創造価値よりも体験価値が容易く(経験しやすく)、体験価値よりも実存価値の方が、人間にとって普遍的であるということだ。

 仕事で失敗し、恋愛で失敗し、コミュニケーションで失敗し落ち込み、絶望しているそこの貴方であっても、創造価値がダメでも、体験価値がダメでも、普遍的な実存価値は手に入れることができるのである。

 だから――人生は、人は、ただ、そこに命が与えられ、生きることそのこと・それ自体が素晴らしく、価値があるものなのである。


 ――といっておけば、大抵失敗しない。

 そこに行き着くプロセスが理解できていなくても、何か大いなる真・善・美があるということを掲げていれば、それは「誤り」にはならないのである(※)。

 ニーチェの……ニヒリズムといった思想においても、「結論」なるものは、「新しい価値の創造」である。
 永劫回帰、永遠回帰で、終わりなきメリーゴーランドのように、ただ同じことの繰り返しが人生の「答え」であったとしても、「だからこそ」独力で、自由の中に自分の判断を基にして、力を手に入れて、価値をつくりあげていくような生き方――超人になれ、と、そう言うのである。
 決して、ニヒリズムは、厭世思想なのではない。むしろ、ショーペンハウアーが先だって、世界の表層は苦しみなのだと、厭世感をうたったりしていた。

 とりあえず、今、学校教育で教えるような思想は、絶対的に、結論的には「善」だったり、生きることの肯定を前提とされているのだ。

 仏教しかり。人生の本質は苦しみだとして、すべてにおいて執着を離れろと――それは、「悟り」という仏教の目的に対してすら執着してはならないと言いつつも、それは決して、ラピュタのバルス的な滅びの呪文などではない。苦しみの中でも、積極的な人生肯定、自由な生き方をするための方法を説いているのである。

 自殺して、人類は滅ぶべきだ、とかいう思想は、どこにも、絶対に、出回っていない。なぜか? 危険だし、役に立たないからだ。



※なんかすげーものが普遍的にあって、それの顕在化(表層化)が世界である――といった思想を、汎神論という。ヘーゲル哲学においては、テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼといった流れで、すべては「世界精神」として真理や善に昇華していく、とされる。


疲れたとか面倒くさいということ

 面倒だとか、疲れたとか言う人がいる。
 僕は、そういった言葉に価値を感じられない。

 というのは、疲れたとか、面倒だということ「ない」ということではなくて、むしろ、その感覚は「すべて」において広まっているからだ。

 仕事が面倒だから、アーリーリタイアをするために投資をして、3000万円以上稼いでいるサラリーマンの人もいるし、実際に、早期退職を実行して、悠々自適な生活をしている人もいる。

 ただ、あまり羨ましいと思えないのは何故か。

 そもそも、「悠々自適」な生活自体が、思い描けないからである。その、悠々自適な生活もまた、「面倒」で「疲れた」ものであるだろうと思ってしまうのである。


 疲れたとか、面倒だ、という人がいるが、じゃあ、疲れたり、面倒じゃないことって何かあるだろうか?

 お金が欲しいという人もいる。じゃあ、お金があって、何をしたいのか? 美味しいご飯? 女? 家? 車? 称賛? 名誉?


 まわりまわって、結局全部「面倒」で「疲れる」ものだと僕は思っている。その多寡(多い少ない)はあるだろうが、結局のところ、生きることそれ自体は、面倒で疲れるものなのだ。


 面倒とか、疲れたとかいう人は、さっさと自死したほうが、よほど幸せだと思うのである。


 ――でも。
 人生は疲れたり面倒なものだけれども、一方で、素晴らしいもの(芸術やコミュニケーション)もあったりするから、だましだまし、それなりに生きていくことが正しい、とされているのである。

 たいてい、どんな思想も、自己啓発も、生き方に関しての考え方はこの骨格・ロジックになっている。これ以外のものをみたことがない。
 いや、あることはある。それこそ、先にあげた、「大いなる真善美がある」とするものだ。その大いなるものは、神であったり、教祖様であったり、宇宙であったり自然であったり科学であったりお金であったり。

 まとめると、
・大いなる真善美があるとするもの
・人生の本質は苦しみであるが、良いこと・素晴らしいこともあるから、それだけで価値があるとするもの
 この二つである。

 僕が知っている思想は、大きく、この二つしかない。

 いろいろ、難しく書いたり、素晴らしい表現で描かれたりしているけれども、どっちかしかないのだ。

二大価値観

 簡単に書けば、
・大いなる真善美がある(ヘーゲル的・スピリチュアル的)
・人生楽ありゃ苦もあるさ(ニーチェ的・仏教的)
 ということだ。

 でまぁ、一般論的なことばかり書いていると面白くないから、僕はどう思うかを書けば、二つ目の方が感覚的に近い。

 ただ、楽あって苦もある世界が、「それだけで素晴らしいものである」という発想の理解ができていない。

 世界というものが、果たして、存在することが本当に正しいのかどうか。


 ただ、この疑問の立て方は間違っている。
 そもそも、世界に、そのものに「意志」は存在しない。なぜなら、存在するとしてしまえば、一点目の価値観(世界の歴史は大いなる真理に近づいているのだ。それは一面を切り取ってしまえば無価値で無意味にみえるかもしれないが、それはジンテーゼをつくりだすためのテーゼであり、アンチテーゼであるのだ)に近い発想になるからだ。

 カオス的、混沌の世界。それが世界の真の顔だ。

 ただ生きている。それだけで価値だ――いや、価値だの意味だの言ってること自体がナンセンスだ。ただ、あるがまま、それだけなのだ、と。


 それがゆえに、「生きる意味」なるものを考えることの無意味性の証明は、以上となる。
 意味など存在しないのだから、考えること自体に意味はないのだ。

 ただ、目の前の生活に全力投球したまえ。以上、であるのだ。

生きる意味を考えることに意味はないとすることもまた意味がない

 まどろっこしい小見出しになったが、要は、だからといって、頭の中に生じる不快感だとか、疲れただとか、面倒だとかいった感覚を、なかったことにはできない、ということである。

 生きる意味を考えることに意味はないのかもしれない。

 しかし、意味を問うのが、それもまた人間の本質とも言える。

 どんな偉い人が言ったって、どんな歴史上の偉人がいったって、どんな親しい人がいったって、疲れたり面倒だと思ったものはそのとおり、疲れたり面倒なものなんだし、頭の中に生じた空虚感ってのは、それは決して、誰かに満たしてもらえるものなんかじゃないってことだ。


 統一的な真理も、価値も、意味も、存在などしない。

 しかし、だからといって、すべてに意味がないといえるわけでもない。

 人は、時間に制約された存在である。
 人は、身体に制約された存在である。
 人は、欲望に制約された存在である。

 その、制約の中にこそ、意味があるのだ。

 そこから演繹(敷衍)してみれば、死後の世界を考えることが、意味のあることか、ないことか、自ずと答えはでてくる。


 答えは――。



 表面的には、「ない」。
 何故ならば、人は、時間に制約された存在だからである。時間とは、言い換えれば寿命といってもよい。もちろん、寿命というものは、自分自身で絶対に分かるものではない――ゆいつ。唯一理解できる可能性があるとしたら、それは自死という方法によってだ。だが、その、自らの正常な判断において、自死を選び取ることが、本当にできるのか、というのは非常に難しい問題であり、それ自体も答えなど、表層上しか求められないであろう。わかりづらい表現になったので補足すれば、自死を選択し、実行したときの自分の状態が、正常であったかどうかは誰にも分らない――それは、自分自身にとっても分からないからだ。そして、自死を実行できたのならば、それは寿命であろうし、実行できなかったのなら寿命ではなかったに過ぎないからだ。


 しかし、その無いという結論は、「生きる意味を考えることに意味はない」とするのと、同じ次元においてだ。
 死後の世界という超越を創造することによって、制約された時空における生命活動に相互に影響させることができるのであれば、それはまた、真実であり、決して、意味のないものではない。


欲望を問うということ

 時間も、身体も、動かしようがない。
 唯一、身体は、鍛えることはできる。しかしそれは、劇的な変身を伴うものではない。
「飲むだけで、着るだけで劇的ダイエット!」的なものに憧れる人がたえないのは、それだけ、身体という規定(制約)が動かしがたいものであるからだ。

 僕は、コミュニケーション(恋愛やビジネスやスクールカーストでも、その他云々すべて)では見た目が9割だと思っている。
 不良が、猫をかわいがってあげることでトキメキきゅんきゅんさせるというのも、それは、反転した見た目の応用利用に過ぎない。もやしっ子的ながり勉タイプが、重いものをひゅっともってあげたり男らしいところを見せることでトキキュンさせるのも、また然り。

 もちろん、長く付き合うことによって、その最初の見た目というアドバンテージだったりウィークポイントだったりは変化していくものであるけれども、コミュニケーションの土台には、やはり見た目が大きく関係するのである。ちなみに、この見た目には、話し方や声といったもの、匂いといった目に見えない部分もそうだし、化粧や服飾ファッションといったテクニック部分も含めて考えたほうが良い。


 そういう意味で、マジェスティックプリンスという作品の、ドーベルマンという部隊のリーダーが、「ヒーローに重要なこと? それは……顔がいいことだ」といったのはとても潔くて好感がもてた。

 
 で、なんだっけ? 欲望についてか。
 長く書いていると――ここまでで15分、30分ぐらい? だと、何だかよくわからなくなってくる。トランス状態だ。

 まぁ、この没頭感的なのに入り込みたいから、僕はこうやって書いているのかもしれない。


 逆に、そう、欲望の話と関連するけれども、ここまで没頭できることは、他に、今、僕にはない。

 プログラミングしているときとかは、もう時間がワープしているような感じだけれども。
 ネットサーフィンとか、ウォーキングデッドとか見ているときもそんな感じだけれども、その、「形に残る」的な意味においては、この記事を書くこと以上に、「楽しい」ことはない。

 ああ……。今小見出しを見てみて、「欲望を問う」ということで、これは何を書いておきたかったかというと、つまり、欲望というのは、目先の快楽を追求するものであるのだけれども、ただし、「常にそれは本当に僕が欲しているものなのか?」という問いを深く、長く、強くかけられる人ほど、「真実的な」「普遍的な」「長期的な」「恒久的な」欲望に到達できる可能性がある、ということである。

 目の前のやつがむかついたからといって、ケンカをふっかければ、勝つかもしれないが、負けるかもしれないし、社会的信用を失墜するかもしれないし、刺されて命を落とすかもしれない。

 そこで、生じた欲望――いやそれは欲動と表現を変えたほうがよいのかもしれないが、本当に、自分として為すべきことなのかを問うことが重要だと思う。

意味を問うことの再浮上する重要性

 だから、故に、問いをやめるわけにはいかないのだ。

 皮肉である。

 無気力を生じさせるのが、意味を問うことであるにもかかわらず、結局、意味を問うことでしか自分自身を保持することができないのだ。



(かっこ書きである。トランス状態――恍惚状態が終わり、途端にまた、無気力に陥る。仕事が忙しいとか、土日も予定があるとか、たいした問題ではないのだ。なんかの作品でみたけれど、「もっと、あの人の人生にちゃんと関われたらよかったな」みたいなセリフがあって、面白いというか、感傷的な感覚になった。なるほど、俺は、他者からの干渉も求めていなかったし、「自分がされて嫌なことはしない」というポリシーの元、あまり他者への干渉もしたことがなかったなと思った。まぁこの時点で、「干渉」という言葉を持ち出す時点で頭が狂ってるのかもしれない。相互依存――やや、ちがうちがう、相互関係とか、扶助とか、助け合いとか、そんなんでいいじゃないか。しかしそれは、「人に迷惑をかけてはならない」というポリシーと、またもや相反するものである。つまり、世界は複雑なのだ。唯一子供に正しいこととして教えることができるとしたら、世界は複雑で、どこまでも調整と折衷の中で、相対的な幸福を求めていくしかないのである、ということである。だって、世界が美しいものだったり、人間が素晴らしいものだったら、もう何千年も何万年も経っているのだから、世界平和が成し遂げられ、凄惨な殺人事件とか喧嘩とかなくなっててもいいじゃないか、と思うだろう。いや今もなお、素晴らしい神の国に近づく過程なのだ……といった言説を信じることは、決して馬鹿らしいことではないと思うけれども、ヘーゲル的な思想を無批判に、手放しで喜び賛同できるほど、僕ら人間はもう単純ではないということだ。――この記事の結論は、とても薄いものになった。ただ、30年という自分の人生の総まとめではあるだろう。これ以上書いても、新しいことは生じないと思う。薄っぺらい気もするが、でも、僕の記憶力ではこれが限界だったのだ。まぁ、ただ、価値はあると思う。何故ならば、こういった記事について、僕は今まで、あまり多く読む機会を得なかったからだ。こういった記事をもっと書いてくれる人が多く増えてくれることを期待してやまない。では、こういった記事とは何か? その感覚を普遍的に伝えられる手段を、僕はまだ持ち合わせていない。ただ、わかる人にはきっと、流し読みだけでも伝わると思う。願わくは、未来の自分にとっては、せめて伝わって欲しいと思う。さらに、それをもとに、新たなことを書いてくれることを願ってやまない)


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