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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
言葉と感情と行動の統一性がない
今日の一言「自分を行動させるものは何か」「欲望を取り戻すには」

伝統の喪失

 根拠なく書いていく。この記事は、意味への信仰を、多くの人が失っているという仮定に立つ。
 実存的空虚感といったものが、蔓延していることを前提とする。そのため、そもそも、生きることについて問いを立てたことがない人にとっては無価値であろう。

 初めに、その実存的空虚感(意味の喪失感)が何故起こっているのか。これは、とある本によれば、先進国であれ途上国であれ、資本主義国家であれ共産主義国家であれ、「ビザなし」で広まっているとされている。本当にそうなのか? もしそうだとしたら面白いと思うけれども、その点には触れない。

 僕は、理由として、宗教やイデオロギーなど、伝統的な権威(価値)が相対的になったからだと思う。
 言い換えれば、「自由」を手にしたからだ。――という方向で書きたかったけれども、共産主義国家や途上国でも関係なく広まっているとしたら、果たしてそれらの環境が「自由」なのかは、感覚的に謎なので、疑問が強まる。ただし、相対的に豊かさや情報が広まることによって、その環境下での自由が大きくなっているとすれば、案外間違いではないと思う。

 では、なぜ伝統の喪失(=自由)が、意味の喪失感を生じさせるのか。
 意志の根拠をもてなくなるからだ。雑に書けば、自分で判断し、決断し、行動することが重いからだ。

欲望の復興

 話しをさっさと進めたい。
 ――さて自由になったとしよう。自由になって、自由がゆえに(自己)責任という重さはあるが、それゆえに謳歌できることも多いだろう。人生を楽しむことができる余地も増えるはずだ。

 そのためには、自分の感性に従ったほうが良い。いろんな人がいて、いろんな考え方がある。いろんな生き方ができる。それが自由なのだ。

 そこで重要になるのは、自分の気持ち、感情、欲望だ。

 欲望に従って生きること。――ただ、その欲望とは、目先の快楽のみをさすのではなく、崇高な、理想的な、相互協力的な欲望も含まれる。人に感謝されて嬉しかったり、人の役に立って満足感を覚えたり、難しいことをやり遂げた時の達成感。それらを求めるのも、欲望だ。

 そう。
 伝統が失われた場合、次に重要なのは欲望なのだ。

欲望の喪失

 ところが。
 その欲望も徐々に消えていく場合がある。そして、それこそが、実存的空虚感といった状態である。

 欲望の対義は、絶望だ。
 絶望とは、法界悋気……ルサンチマン(怨恨)や、すっぱいぶどうのような合理化などとは異なる。「ああしたいけど、僕には力がないから無理なんだ……」というのは、絶望ではない。失望だ(絶望と失望を使い分けてみたが、言葉の微妙な表現に特に意味はない)。
 本当は求めたいモノ・コトがあるにも関わらず、それへの到達が不可能だと「あきらめ」てしまった状態と、そもそも、求めたいモノ・コトがあるのかどうかもわからない状態では、大きく異なるのである。


 では、何故欲望が消えるなんてことはあるのだろうか。

 人は、パンのみに生きるにあらず、だからである。

 40代ぐらいで、無職で、孤独で、たまにバイトをしたりして、日々を牛丼などのファストフードで食いつないでいる人もいる。――と書けば、なんか「大変そうだなぁ」と思うわけだけれども、果たして、どうして、そういった感じを思うのだろうか。

 ご飯食べて眠れるだけ十分ではないか。がんばってお金をためたら、女性と性欲を満たすこともできるかもしれない。

 もちろん、そうしたことで満足して人生を送っている人もいる。
 一方で、お金もあるのに、「むなしい」なんて言っている人は、ただの贅沢ではないか。おごりではないか。なまけものではないか。

他者との比較は誤り

 しかし、他者と、他環境と比較することは、何の解決にもならないと、この点については何度も書いてきた。
 下をみればいくらでも下はあるものだし、上をみればいくらでも上がある。当たり前だ。本当の下の人は、下にいけばいくほど少なくなるし、逆もしかりだ。統計というよりも、算数的というか。
 さらに、上も下も、それを決める評価軸など存在しないのである。
 あるとすれば、それこそ「欲望」なのである。

 お金を欲する人は、お金の多寡が評価軸だし、モテたい人はイケメン(顔や性格)度が評価軸だし、支配欲がある人は権力が評価軸だ。それらの評価軸は様々で、曲がっていたり、交錯したり、重なっていたり、一様ではない。

 だから、他者と比較することに意味はないのだ。


 そして、今、さらに、「欲望」が出現した。
 そう。評価を求めること……「よい人生」なるものを求めるためには、やはり「欲望」が必要なのだ。

正しい欲望とは存在するか

 ここから、欲望に絞って書いていく。

 先日も書いたが、素直に、僕が今求めるものを書くのであれば、「なにもないこと」を欲している。

 矛盾ではないか。
 欲望とは、何か欲する、内なる声……欲しいものだとか、欲しいことだとか。

 それなのに、「なにもないこと(もの)を欲する」というのは、言葉として、文章としてなりたっていないのではないか。


 しかし、考え方や目線を変えれば、例えば、小欲や瞑想や坐禅によってアタラクシア(心の平静状態)や涅槃を求める生き方だってあるわけだし、「なにもない」を欲するというのもそこまで矛盾ではないかもしれない。

 ただ、ここで、僕は思ってしまうに、それは、「無」や「死」とは異なるものなのだろうか、ということである。

 死は避けられない……一方で人は、いや生物は、自己保存欲求など(生きたい・知りたい・仲間になりたい)をインプットされているため、死をできるだけ回避しようとするのである。フランスの哲学者(バタイユさん)なんかは、芸術なんかも、死からの逃避によって美しく仕上がるのだとか言っていた気がする。そうした表現はびびっとくる(感動する)ものである。フランクルさんの言うところの体験価値だ。


 死への希求……ああ、これも、誰かが言っていた(書いていた)気がする。これは誰だったかなぁ。忘れたなぁ。どうこうした場合に、人は死を求めるようになる……とかそんな文脈だったような気もするけれども。

焚書坑儒

 昔、儒学という学問が中国であって、それらが現政府を批判する思想だとして弾圧されたことがあった。
 教科書に書いてあることって、ある程度客観性があるし、人類社会にとって「役に立つこと」である。
 有害図書っていう存在もあるようだ。


 ということはだ。逆に考えれば、今あるものは、今まで残ってきたもの(考え)は、「よいもの」だけであるということだ。(キノの旅の「本の国」ってのがそれ系の話である)


 どうにも、とりあえず、「死んじゃいけない」とか、そういった考えが前提にある。

 なんかそういう、最初から存在する圧力、バイアスってものを、いったん全部取り払いたい。

 結論として、結果として、もしくは妥協案かもしれないが、最終的に「死ぬのはよくない」ということになったとしても、最初からその前提ありきで考えたら、感じたら、欲望を思ったら、――とりあえず僕は、僕の中では、やっぱりどこかで支障、故障が発生する気がする。


 完全自殺マニュアルじゃあないから、別に死ぬことを肯定するわけでも、勧めるわけでもないが、やっぱり落ち着いて考えたいと思う。

切り捨てるもの選択するもの

 しかし、なにもないものが欲しいというのは、とても難しいことである。

 こう、つかみどころのない、雲や霞を食べたいとか言ってるようなものである。



 忙しいなら、時間をつくればいいじゃない?

 というアドバイスが浮かぶと思う。なるほど、それは一つ方法としてよさそうだ。
 が、例えば、今日もわりかし早く帰ってきたけれども、イライラというか、気分の落ち着かなさは何らここ最近と変わらなかった。

 なにもないものが欲しい、とは、もっといってしまえば、別に「時間」が欲しいわけでもないのである。

 どっちかというとトランス状態、瞑想状態が近いのかもしれない。


 じゃあ寝たら?

 というアドバイスも浮かびそうだ。
 しかし、睡眠もまた解決させない。むしろ、睡眠はさらなる憂鬱感を高めたりもする。



 そうやって、突き詰めて考えていくと、自然に浮かんでくるのが、「じゃあ死ねよめんどくせぇ奴だな」という言葉である。

 ……ひどい、哀しくなる(かっこわらい)。

 そこで、新たに、救済、福音となるような言葉、問いというのが、「生きる意味を徹底して考えるがよい」ということである。

 だから、それに関する本(たとえば、物理学の本や生物学や宇宙に関しての本なんかもそのうちの一つだし、医学や精神医学や心理学(ビジネス本や啓発本も含めてもよいし)、哲学だってそうだし、歴史だってそうだ)を読むのは、自己の呵責を生じさせないし、ましてや、こうした記事を書くことも、何ら責められるものではない。


 だから、僕は書かねばならぬのである。これはもはや、使命感というか、――いやそんな大層なものではなく、「それしかできない」というか、呪縛のようなものかもしれない。


(かっこ書きである。で、タイトルと内容が一致していないという事案が発生。「言葉」と「行動」と「感情」が一致していないと。これもまぁ、「言行一致」がかっこよい、とされるけれども、まぁ、矛盾に満ちた表現である。じゃあ、ビジネスマナーとか、建前とか、コミュニケーションにおける形式的な様式というのは、なんなのか。いやまぁ、それを、「感情」や思考から切り離して、もはや自然に行うことができるようになるのが「大人」なのかもしれないが(キノの旅の「大人の国」がそれ系の話である)。ので、別に、言葉や感情と、行動が一致してなかろうが、感情と言葉が別であろうが、そんなの、大した問題じゃあないのである。じゃあ何が問題なのかといえば、「人を騙している」ということである。――というのは表現ミスだ。騙してもよいのだ。問題は、その「意図」である。騙すという言葉を使うと、ネガティブな印象を皆思うだろう。しかし、きれいなウソってのもあるだろう。それと同じだ。消極的な嘘というのもある。率直に気持ち悪い奴だと思っても、それを表現しないで黙っているという場合がそれだ。伝えてはいないから、嘘ではないが、しかし、心の中では見下したり、けなしたりしているのである。でもそういうことを、率直にいつでも相手に伝えることが必ずしもよいことではないだろう。「好き」という感情。「好き」「愛している」という言葉――そしてその言葉を表現する行動。そこに、感情がなくても言葉と行動ができるのが、「サイコパス」と呼ばれたりする。しかしそもそも、感情なんてものが、本当に誰にも共通に備わっているのだろうか(=哲学的ゾンビ・クオリア)。そして、自分自身で感じている――と思っているのが、本当に「感情」なるものなのだろうか。感情なんて、そもそも、「好き」「嫌い」といった単純なものにわけられるのか。確かに脳の「側坐核」が情報のレッテル貼りをしているが、顕在化した意識において、それを行動にまで影響させる過程において、果たしてそんな単純な「好き」「嫌い」の原理で動いているのだろうか。では、「疲れた」という感覚は、感情なのか。イライラは、「好き」「嫌い」のどちらなのか。イライラが好きというのは形容矛盾なので、たぶん「嫌い」カテゴリなのだろうが、しかし、イライラって嫌いってことなの? 何に対して? 対象は? よくわからないけれどもイライラするってこと、ない? あるよね。それは何に対してイライラしているのか。それは好き嫌い関係するのか。そして突然だけれども、目が明かなくなってきたので強制終了)



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