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生きる意味を徹底して考える(4)
2017/12/10 23:22 | Comments(0) | 生きる意味
今日の一言「来年の目標なり考えねば」

昨日の記事を読んで

 こう、社交の場に出ていこうとする中で、自分のブログを読んだりすると赤面する。
 恥ずかしい。
 誤りだ。馬鹿だ、愚かだ。

 いろんな感情が浮かぶ。

 でも、帰りの道すがら、同じ記事を読むと、感覚が異なってくる。
 よく分かる。よく言ってくれた。面白い。



 不思議な感覚だったので、メモしておこうと思った。
「社交の場」というのは、なんだろう、いろいろ、想像してみるといい。学校でも会社でも、友人でも、恋人でも、家族でも、なんでもいい。考えてみるといい。――それだ。

 そういった、社交の場で、このブログのようなことを言ったりすれば、すぐさま、「病んでいる」として、心配されるだろう。

 まぁ、年がら年中こんなこと書いているのは病気かもしれないが、まぁまぁそれはおいておいて。


 一つ思ったのは、このブログは、もてないだろうなぁ、ということだ。

 もてる、というのは何か?
 イケメンであることが絶対条件だけれども、人間は総合なので、顔や体形が悪かっただけで人生詰み、にはならないから安心しておけばよい。
 それ以外にも、お金なり、「ひたむきに頑張る姿なり」、いろいろある。

 いろいろある中で、「うだうだした思考」なんてものは、絶対にもてない。


 人生幸せにしてくれるパートナーしか不要だ。

 何せ、人生に意味など無いのだ。だから、限られた時間の中、黄昏の時間を美しく儚く燃え上がり尽きること……ただそれだけが求められるのだ。
 そういった人生において、「考えること」なんてのは、一切不要だ。


 タソガレ――なんて言葉を使う時点で、きっと赤面しなければならないのだ、社交の場においては。

酒はよいものだ

 とはいえ、友人たちと過ごした時間は、とても有意義だった。話そのもの自体も、2、3点ほど、納得というか、新しい考え方や知識を得ることができて、よかった。

 そして、一人で飲んでいるよりも、酒は複数人の方がすすむ。だんだんと、何も考えられなくなっていく感覚……それを過ぎるとすぐに眠くなってしまうのだけれども、酔っぱらった感覚は悪くはない。

 人は誰もが、何かに酔っぱらってないとやってらんねえんだ、というのは、調査兵団対抗組織の隊長アッカーマン氏の言であるが、その酔っぱらう元となるのがお酒である。

 この記事は、お酒がはいった状態で書いている。

3分で分かる生きる意味

 唐突に話が変わる。偶然、以前読んだことのあるサイトにたどり着いた。

 生きる意味フローチャート


Q1:宇宙のはじまりビッグバンは偶然生じたものだと思いますか?
A(endo):はい。偶然だと思います。
⇒宇宙のはじまりが偶然なら、宇宙・地球・人間、すべてもまた偶然の存在です。生きる意味などありません。以上。


 明解である。
 で、本当は、「いいえ、偶然ではありません」というと、他のフローチャート分岐に流れていくのだけれども、僕は、「はい、偶然だと思います」という答えなので、結論はすでに出ているのである。

 生きる意味などない。

 以上。この記事はおろか、このブログ終わり――である。



 しかし、僕は、まだ言葉を終わらせられていない。何故だろう。

 生きる意味はない……これについて、僕は納得していないのだ。

 何故か?

 それは、「実存」としての答えと、「世界的な意味」における答えでは、異なると思っているからだ。

 ヘーゲル哲学が、世界史として世界は意志をもってジンテーゼに昇華されていくものだと美しく声高々に叫ぼうとも、キルケゴール氏は、「いや、世界なんて知るか。俺がどう生きるかが大事なんだ、バーカバーカ!」と言ったのである。

 それを「実存」という。

宇宙の起源と己の生きざま

 世界は偶然に生じ、地球も、自分自身さえ偶然に生じたものだとしても、しかし、この世に生を受け……というよりも、この「俺」というその「意識」が生じた以上は、その時点で、問題はなかったことになどできない。

 今まさにある、「我」。我思う故に――というのは、もう古臭い考え方なのかもしれない。その、実際に生じている「我」というものについて、細かく分解していっても、そこに根源たる意識は見つけ出すことはできないかもしれない。いくら「思った」ところで、我という存在を導くことはできないかもしれない。

 しかし、我は実際に存在する。
 でなければ、いったい、この記事を書いているのは、何だ?(あえて、誰だ、とは言わない)


 それを、現象学という。
 エポケーだか、専門用語は忘れてしまったが、現象学の概念は覚えている。客観や、真理といったものを、一度「かっこ」の中に入れて、実際に、その表出していること、生じていること(=現象)についての、発生しているその条件を問うのが現象学である。
 ヴィトゲンシュタインさんは、言語ゲームといって、「何か」について話し合うルールが先にあるのではなく、話し合いが生じるその現象において、その現象がそもそもルールなのであるという。


 だから。
 宇宙がどう、地球がどう、人類がどう、とか、そんなことは、いったんわきに置いておいて、かっこの中にくくってしまい、とりあえず、この僕、私、俺――いったい誰なのかはさっぱり分からないが、そのよく「自分」と表現する存在について、その存在する条件を問うのである。

 それが、このブログの目的である(そうだったのか、そうだったのだ)。

合致していない記事も多いと思われるが

 そういや、もう、だれにもこのブログを見せる気はないけれども、とある人がみたときに、永遠ぐるぐる、答えのないことを考えていて気持ち悪い、と言われたことがあった。

 まぁ、そうなんだろうなと思う。気持ち悪いし、もてない、それがこのブログだ。

 ――とか書くことが、きっと赤面だ。


 気持ち悪かろうが何だろうが、もう、書き続けるしかないのだということを、今一度、この年の瀬に書いておこう。

 お前は、もう逃れられないのだ、と。

 お前は、何をしようが、この、答えのない問いに答えを出さなければ、何をしても、何を得ても、満たされることなど絶対にないのだ、と。


 呪い、と表現したこともあった。それは、自らを戒めるためでもある。



 人生の些事。仕事も、友人も、恋人も、創作も、遊びも、生きることそのものも、それは些事に過ぎない――というのは、誇張表現でしかないものの、しかし、そうした強い意志を持たなければ、半端な覚悟でいても、ただ、イライラ対処のためだけの記事を量産しても、ダメなのだ。

 ……話を少し戻そう。

前提とすべきこと

 ふと、とあるブログさんの引用。
ベランダに出ることさえできない日々が続いた。
怖いのだ。
誰かの目に触れることが恐怖でしかなかった。
生きているのか死んでいるのか、分からないような日々が何年も続いた。
地獄にどっぷりと肩まで浸かって、ただこの世に存在しているだけのゴミ。
今が何年何月何日なのか、そんなことさえ分からない。
昼と夜が何度も何度も逆転した。
ずっと考えてきた。
人生ってなんなんだろう?って。
おそらく私は普通の人よりも「人生について考えてきた時間」が10年~20年くらい長いんじゃないかと思う。数字の根拠はない。
ただ私は、
みんなが学校に行ってる時、合コンしている時、就活している時、満員電車に揺られている時、上司に頭を下げている時、接待ゴルフをしている時、飲み屋で愚痴をこぼしている時、
ず~~っと人生について考えていた。
もともとがバカだから、長く考えたところで何の成果も答えも得られなかったけど。
でも自分には、それしかないんです。
ずっとひとりで人生について考えてきた地獄のような過去しかない。
私にはそれしかない。
だったら、そこから抽出したエキスを駆使して、何らかの新薬を開発し、それを自分と同じような人間にワクチンとして投与するしかない。
何言ってるか、わかんないだろ?
オレも分からん。適当なこと言ってるだけだから。
だから私はブログを書いている。
私の積み重ねてきた過去が、今の私にブログを書かせている。

――「私は私自身を救うためにブログを書いているのだ」
 さて、上に取り上げた方は、まぁ、きっと、僕と同じような感覚を味わったことがあるだろうと思う。
 であれば、僕が時折書いているような、「もっとこういったことを書く人に出会いたかった、もっと触れ合いたかった」ということが満たせるのではなかろうか、という希望がわく。

 しかし、一つ、前提にしなければならないのは、まずもって、

・絶対的(普遍的)な真理は存在しない

 ということである。

 先ほど書いた通り、僕は、ビッグバンを偶然と思っている(※)。
 世界的、人類共通の真理は信じていない。カオス的世界観をもっているといってよい。それが良い悪いではない。善悪でもない。ただ、混沌が世界の本質だと思っている。――本質? 本質といったものも存在しない。絶対無という表現が好きならそれを使ってもいい。仏教の「空(くう)」という表現でもいいと思う。とにかく、世界には意味もないし、人類にも意味はない。


 そうしたときに、果たして、「生きる意味を徹底して考える」人が近くに寄り添ってくれたとして、果たして果たして、それは、自分に「生きがい」を与えてくれるようになるのだろうか。ならん。

 ――としたら、じゃあ、このブログの意義は何だ? お前がいつも、「自分のため」といいつつ、じゃあ何故公開するのだという問いに対して、「役に立ちたいから」と答えているにも関わらず、おまえ自身が、その意義を否定したのではないか?

 ――話が進まないので、そのあたりの疑問は黙っておいていただこう。



※ちょっと話がそれるので、コメ書きにする。上の「3分で分かる生きる意味」のフローチャートは面白いと思うけれど、でも、ビッグバンが偶然だからといって、地球生成も、人類生成もイコール偶然、とするのは飛躍している気がする。ビッグバンが偶然であっても、地球をつくったのはもしかして「神様」的存在かもしれない。ただ、その「3分生きる意味」で言いたいところは、「ビッグバン」それ自体ではなく、「すべてにおいての起源」という概念を挙げているのである。この点を理解せずに、理系的に批判してもあんまりおもしろくない。思考実験である。
 

実存として戦え

 もう一つ、とある方……過去の自分さんの記事を引用しよう。


 しかし、さて、かなしきことに、記事が消えてしまった。だが、小まめな保存のおかげで、それほど被害がなかった。が、いったんここまでとしておこう。

 まー長くなっちまったから、ここまでちゃんと読んでくれている人などいないと思うが、どっちかというと、ここからが書こうと思ったことである。(ので、この時点でタイトルを修正)
 ちなみに、今回の記事は、先日の記事を読んで赤面したものの、今年7月中旬の「戦う相手は誰だ? ゴールはどこだ?」を読んだら、「おや、これ、面白いんじゃないか」と思ったことが起因している。


(かっこ書きである。続く。というか、こっからが本当は書きたかったところなのだが……)


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