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この自分の行き着く先
2017/08/21 17:30 | Comments(6) | 生きる意味

本記事の目的

 本記事の目的については、時間短縮のために、前回記事を引用。
(かっこ書きである。次回、ある、プロの企業研究家の記事を読んで思ったことと、今回の記事の「信念や目標について」と関係する部分について取り上げ、さらにこの「問題」について表現することを試みたい。


 ということで、引用。

企業研究とは仕事とは何かを理解すること
http://college.nikkei.co.jp/article/85045216.html

社会貢献よりも会社貢献ができるのが人材
http://college.nikkei.co.jp/article/85224918.html


 株式投資も、就職活動における企業研究も、基本は同じであると理解している。
 もちろん、株式投資においては、バランスシート(貸借対照表)や、P/L(損益計算書)といった財務分析も欠かせないことに思われる。しかし、数ある企業のうち、根っこになるのは、その企業の「ビジネスモデル」=どうやってお金を稼いでいるのか、を理解することである。

〇自分の身は自分で守る 〇未来は見通せない
http://college.nikkei.co.jp/article/87242915.html
会社が永遠ではないことはもはやグローバル化した現在の経営では当然すぎることで、長年の歴史のある財閥系大企業が不祥事で消え去ったり、外資や他社に買収されたり、これまでの経営環境では考えられなかったことがいくらでも起きるのが今のビジネスなのです。
会社員としての本丸・給与ですらそんな状況ですから、残業、福利厚生、平均年齢、退職金などの派生的情報はいくら調べたところで、今後どんどん変わっていくことでしょう。「平均残業時間」なども気になるでしょうが、その職務も、対応する人間も、締切も、立場も、顧客も違う環境下で出た平均値を比較すること自体、ほぼ意味がありません。
~略~どんな会社にも必ずブラックな面やブラックは事象があるのです。自分が健康を損なったりしないように生き抜く力となるのは、本稿が繰り返し訴える、自分の判断力です。人が用意した「答」ではありません
逆に「ブラックは絶対お断り」という考えは、理系的にいえばゼロリスク幻想です。「リスクがない」「ハザードが発生しない」会社自体があり得ないものであり、許容できないリスクかどうかの判断は自分で下すしかありません。もちろん違法行為が許されるものではなく、遅ればせながら国も対策は講じていますが、基本、自分の身は自分で守るのが原則です。

自分の身は自分で守る?

 言ってることは結局、自分で考えて答えを出したんだったら、それが失敗でもちゃんと自分で責任取りましょうね、ということだ。
 で、そもそも、「仕事」とは何かということをしっかりと理解しましょうね、ということだ。

 しかし、そうした言説を、まず疑ってかかったほうがいい。二つ、考え方を紹介しよう。
 一つは、私の株式投資の師匠が仰っていたことだ。私のつたない記憶から文字に起こす。

「資本主義社会で一番偉いのは投資家だよ。労働者じゃないよ。株を50%保有していたら、その会社はその投資家のものだよ」

 もう一つは、ある漫画家の作品だ。
資本主義の悪魔
 短いし、漫画で読みやすいから説明は特にしない。
 
 上の二つのことが真実かどうか、そんなことは分からない。仕事でやりがいを見つけて頑張って人から認められて生きて死ぬ人だって大勢いるのである。その構造について、敢えて「間違っている」とか「搾取されている」という必要はない。マトリックスの機械が管理している世界だって、そこで機械に搾取され生きている人たちは、幸せかもしれないのだ。真実が必ず人を幸せにするとは限らないのだ。


 だが、とりあえず、私は、上の二つの例について、共感すると表明する。

生活するということについて

 ので、私は、自分の仕事に対しての「キャリア」(この言葉も空虚であるが)を磨くことも必要だと思うし、投資(お金)に関して学ぶこともとても重要だと思っている。
 そのための勉強をすることには何の疑問もない。

 しかしだ、それらは、やはり僕にとって、「手段」でしかないということだ。


 先日の記事をもう一度引用する。
「没入することしか生きる道がないのか」ということについて、結局全然触れられなかった。簡単に答えを書くと、上にかいたような「日々の営み」が人生そのものだ(没入する)ということを、僕は認められない、ということだ。「いいことも、悪いこともあるのが人生だよね!」とかっていう、甘ったれたクソつまらねえ格言じみた、訳知り顔で語り散らかす思想や考えなど、俺は認めない、ということだ。そんなんだったら、さっさと自殺した方がましだ。人生に意味はある、絶対にだ。――そう信じたいだけかもしれない、それでも、こればかりは、信じるしかない

 
 たぶん……、多くの人が疑問なく感じ、考えているのが、上の下線部と思っている。
 言葉はよくないが、一般大衆は、そうして生きていくしかない。
 それで、少し偉い人になると、歴史に名を残すような業績をあげようとする。

 それらの、人としての営みが、無意味無価値とは思わない。「ストレンジトゥエルブ」を読了したが、その尊い神々も、「人間の世界ってのは、生き物を殺して食わねえと成り立たない肥溜めの臭い世界だけどな、まー、そんなに、嫌いでもないぜ」と仰られていた。

 まさか、こんな凡人塵芥の自分がだ、神と同じような感覚なはずはないのだけれども、なんというか、似た感覚ではある。
 しかたがない、この世界はくるっている、でも愛おしい、みたいな。

ニヒル気取ってかっこ悪い

 なんて、ちょっと俺は他のみんなとは違うんだぜ、という感覚……中二病とでも言うのだろうか。
 ただ、先日書いた記事の中の、「私の問題」とはまさにそれで、「苦しいことも楽しいことも、それに没入できない」ということだ。

 これを、「達観」と表現すれば、無執着の体現でもあり、それはゴウタマさん的には正しい道といえる。
 精神医学的に言えば、「解離性人格」といえる。
 ネット用語的にいえば、「中二病」である。


 それを「わかった」上で、さぁどうしようということだ。逆に、それを「問題」というのであるから、解決すべきとは思っているのである。
 しかし、「無執着」で「達観」している僕が、なぜそういった「問題」を抱えるのだろうか?

 それは、「人生は意味があって、とても楽しいものだ」ということを信じているからでもあるのだ。


 ――これは、矛盾した思想といえる。楽しい、というのもまた、無執着であれば、手放していかなければならないものだからだ。
 涅槃(悟り)の境地と、「楽しい」「快楽」の状態とは、相いれないものなのである。つまり、昔の人があこがれて念仏を唱えた、極楽浄土ってのは、決して、酒池肉林の快楽の世界ではないのである。阿弥陀経にも、正しい教えが満ち満ちていて……みたいな表現もある。

没入することを探すのではない

 このように、僕の「問題」を解決するために、徹底的に討論していこう、考えていこう、というのが、このブログの目的である。つまり、人類存在の意義を求める果てしない闘いということである(?!)。
 大げさである。人類がどうこうではない。実存主義だ。まずは、この自分自身が、「我は何者か。我はどこからきたのか。我はどこに行くのか」ということである。

 これは、何か、自分が熱中できる何か(没入すること)を求めようとするわけではない。

 それすらも、クエスチョンをするということだ。


(かっこ書きである。非常に恥ずかしい記事ではあるが、とりあえず、大上段に自分の感覚を、自分の問題意識について書いておいた。これは、10年前からあった感覚ではあるが、しかし、ここまで、明確に問題として打ち出したことはなかった。10年前は、様々な可能性があった。恋人をつくること。会社に入ること。結婚すること。大切な人の死を経験すること。いろいろ、若造としては、やってみることがたくさんあった。そういった経験もなしに、先日から書いてきたような「問題」を書くなどと、おこがましいと思っていたわけである。しかし、それらの経験は、残念なことに、僕に、全能感・充実感・人生観を与えてくれるには至らなかった。結局、今得ている真理は、「生きてるうちは、楽しいことも苦しいこともある。それが人生だ」的な、クソつまんねぇことだけだ。俺はやっぱり、「生きているから生きているんだ! それだけで素晴らしいんだ」的なのは、納得がいかない……納得がいかないというか、つまらない。快楽を得る方法なんてたくさんある。楽しいことなんてたくさんある。だけど、それがどうしたってんだ? だからなんだってんだ? ……いやこの感覚が馬鹿げているのもわかっている。どうして世界中の幸せ、素晴らしいことが、単に素晴らしいことだと認められないのだ。ニヒル気取ってかっこ悪いと、本当に思う。思うから、口に出さない。心の奥底にしまいこもうとする。けれども、だ。やっぱりそりゃあつまらねえよ。人生楽しまなきゃなんねえべ。そして時間はこうしている今も、着々と過ぎ去っていっているのだから)

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コメント

やはり、この世は修行の場だと思うしかないような気がします。それは、自分の魂を良いものに鍛えるため、という以外に、他人の為に良いことをするというのが目的なような気がします…
自分、自分、、、で考えていくと、解決しなくなるようなので、僕は今のところこう考えつつあります。
苦しいことがあるなら、人生の意味なんてないなら、自殺してしまった方がいいと考える自分とは違って、世の中には、苦しいことがあっても嬉しいこともある人生を素晴らしいと考えてる人もいるし、人生に意味がなくても人生というのは素晴らしいと考えてる人もいるし。そういう人のために自分も何かしてあげるのがこの世での自分の使命なのかも…
長々と投稿してしまってすみません…
posted by うーたんURLat 2017/08/27 14:37 [ コメントを修正する ]
 この世は修行の場、魂を磨く、……少し硬い言い方をすれば人格の陶冶。
 うーたんさんの仰るとおり、自分という中に自分の根源……意味、を、突き詰めて求めていっても、そこには何もない、空っぽなんじゃあないかと、僕も考えています。ただ、これはまだ、「実感」レベルにはなっていないことです。

 うーたんさんもかなり悩まれているようですが、その、この世を修業の場だと思うことについて、核心に迫っているのでしょうか。

 人生を素晴らしいと思う人はたくさんいると思います。その人たちのために、人生に意義を見出せない人は、人格を投げ出し、長い一生を修行の場として、身と心をささげなければいけない……僕は、それについて、「正しい」ような気持ちもありますが、同時に、全力で否定したい気持ちも湧き上がってくるのです。
 この世の中がくそったれでろくでもないもので、人間の本質が腐っていて気持ちの悪いものでも、それでも、この世は素晴らしいと、生きていてよかったと、そんな風に思いたいと、どこか心の奥底では希っているような、そんな感じなのです。

 ありがとうございます。ぜんぜん長々とではないです。ブログもいつも拝読していますが、もっとうーたんさんの言葉に触れたいと思っています。
posted by endoat 2017/08/27 20:48 [ コメントを修正する ]
この世には辛いことがたくさんある

修行だと考えて耐える

だと、辛いままだと思ったのです。


この世には辛いことがたくさんある

人のために苦しんでいる。これは喜びである

だと、世の中に辛いことや苦しいことは無くなるわけですが、本当にそうですか?


この世には辛いことがたくさんある

耐えられない辛さからは逃げつつ、耐えられる辛さは受け止める

的なやり方もありかなって思うんですよね。周囲の人は「逃げた先のほうが辛いに決まってる」っていうんだけど、わたしの場合は、逃げた先のほうが辛くなかった。逃げたわたしが言うんだから間違いないですよ。
実は仕事している人より、ニートだったり生活保護受けてる人のほうが辛くなかったりするんじゃないかな。
posted by QUWEat 2017/08/29 07:39 [ コメントを修正する ]
〉この世を修業の場だと思うことについて、核心に迫っているのでしょうか。

全然核心に迫ってません(^^;;
posted by うーたんat 2017/08/29 18:57 [ コメントを修正する ]
>周囲の人は「逃げた先のほうが辛いに決まってる」っていうんだけど、わたしの場合は、逃げた先のほうが辛くなかった

 私の話になりますが、他者のアドバイスについて、常日頃から中々本気になれない理由の一つに思われました。
 往々にして、他者のアドバイスって、「私はこう思うよ。でも自己責任だから後は君が判断するんだよ。でも私はこう思うからね」みたいな、卑劣な感じがするんですね。
 他者の話でも、「ピン」とくるのがあれば取り入れようと思いますが、ことに、「生き方」的なものになると、もう全般うさん臭いように思ってしまう。「私は」ね。

 その点、QUWEさんは、自分の実体験に触れて「実感」をもって語っているから信頼できます。

 ただ、それでも、「逃げた先」が「まし」なのか、「よい」のか、逃げないことが「よい」のか「悪い」のか、それらひっくるめて、結局各々が結論を出さざるを得ない問題になってしまう。
 この点が、私が一切妥協を許さず、このブログを続けなければいけない理由になります。

 意味不明になったのでまとめますと、
・QUWEさんのおっしゃるとおり
・そのうえで、自分の人生は自分で結論を出す必要がある
・だから私は徹底して考えて決めなければならない
 ということです。いつも書いてることですが、改めてコメントを読んで思いました。とても大切なコメントありがとうございました。
posted by endoat 2017/09/06 18:27 [ コメントを修正する ]
>>この世を修業の場だと思うことについて、核心に迫っているのでしょうか。
>全然核心に迫ってません

 コメントありがとうございます。
 QUWEさんのコメントと関連しますが、私が思ったのは、
・QUWEさんのおっしゃる通り
・うーたんさんのおっしゃる通り
 というものでした。

 けむに巻く書き方をしてしまったので、もう少し突き詰めると、お二人が出す結論には答えがないともいえるし、答えであるともいえる。それは、「強度」であると思いました。

 ただ、この「強度」というのが、「大人」になるにつれて、それをもう変更ができない(と自分自身で思わざるをえなくなる)ことによって、その結論と、自分があろうとする「本来の在り方」(本来的な自己)とが、乖離しないようになればいいなぁと強く思いました。

 コメントとしてはちょっと書ききれなそうなので、いずれ整理して書いてみたいと思います。
 改めてコメントありがとうございました。
posted by endoat 2017/09/06 18:31 [ コメントを修正する ]

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