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没入することしか生きる道はないのか
2017/08/20 23:00 | Comments(0) | 生きる意味
今日の一言「正確な記述を試みる」「分かりやすさへの配慮は無視する」「ここ数日15分記事のまとめ的な試み」

この記事の目的

 私は、大きな問題を抱えている。
 これは、10代前半から後半にかけての出来事に、端を発していると考えられる。
 この問題について解決することができれば越したことがないが、せいぜい、1時間程度の記事への取り組みで、解決までこぎつけられる可能性はない。
 よってこの記事では、その問題について、表現することを目的とする。

(しかし、それすらも、十分にできない可能性が高い。この問題は、非常に複雑であるのだ。――と書くと、いかにも、高尚な悩みに心身を埋没させているようであるが、他者から見たときに、それは重大にはとても思えないものだろう。それでも、その問題の実態を表現することには、非常に大きな価値を感じているのである)

信念とは何か

 信念とは、価値観の総体である。ここでいう総体とは、たくさんの個々具体的な要素を、一つにまとめたものと考えてよい。そして、さらにその総体(=統合体)を、ブラッシュアップ(洗練)させたものと捉える。

 先般の記事で、「信念をもつことが大事」と書いた。
 ここで、果たして、信念をもたない人が存在するのか? という疑問が生じることであるが、「価値観」を持たない人はいないだろうが、それを洗練・昇華させ、「信念」にまでしている人はそう多くはないと思う。言うに及ばず、僕にもそんな信念は存在しない。

 存在しないが、僕は、信念をもつべきだと考えている。

 さて、以前作成した図であるが、価値観とは、以下のように整理される。



 実感は、信仰(信じていること)と、論理的に納得したものの総体である。そして、その実感の総体(まとまり)が、価値観であるということだ。

 基本的に、価値観は、イコール自己である。

 つまり、ぼくの世界認識というか、他者存在の認識については、
「価値観をもたない人は一人としていないが、信念を持っている人は少ない」
 というものである。

幼い子供は価値観を持つのか?

 まだ、話の本題に入るどころか、前提の前提ぐらいの内容だ。この当たりのことは、これまでの記事に断片的に書いているから、目新しくないと思ったら読み飛ばして構わない。

 さて、価値観は誰にでもあるもの、と書いた。しかし、幼い子供についても、本当に価値観をもっているといえるのか?

 これは、上と矛盾するようだが、「否」である。
 子供は、価値観を持っていない。しかし、「実感」はある。

 痛い悲しいむかつく、楽しい嬉しい、これらの感情や情動については、生まれたての赤ん坊でも持っているものである(――赤ん坊の感情や情動については、専門書があるだろうので、ここでは適当な感覚を書いているに過ぎない)。

 子供のころの経験が大切だというのは、そうした実感が、後々、価値観となっていくからである。

過去の苦しみは理由(言い訳)になるのか

 記事の最初の方に、10代前半ぐらいから嫌な思いをしてきた、と書いた。

 いってしまえば、「世界・人間なんてくそったれだ」と思ったわけである(当然、そんな表現が当時に思い付いたかどうかは知らない)。

 ここで、いじめられる側にも原因があるとか、そもそも、お前が感じたことやされたことは、一般にいじめとも言えないようなものだ(いやがらせだ)とか、そういったことは取りあえず置いておく。

 そして、そういった過去の出来事について、何らか言及して、現在を肯定したり否定したりしようというものでもない。
 ここで一つ、他のブログさんを例に書いておきたい。

 そのブログさんは、過去に家族から受けた仕打ちについて、大人になった現在も、ずっと忘れられず、苦しんでいる。現在は、すでにその家族からも離れて暮らしているが、過去に受けた仕打ちが、普通に暮らそうとしてもフラッシュバックのように蘇って苦しんでいるのだ。

 その苦しみについて、「苦しい!!!」といつもブログに書いている。僕は、ひどいことだとは思うが、正直、いつも同じ表現で苦しいと書かれても、面白くないと思っている。苦しいという感情を否定したいわけではないが、その苦しさというのを、もっと具体的に表現できなければ、他者の感情を引きずりこむようなことはできないのである。
 最初はその苦難の人生に同情する人はいるかもしれないが、ずーっと同じことを言い続けているその人を見れば、「いい加減、もう立ち直ったら?」と思っていくのである。そう言ってあげる人はまだ優しいが、その他大勢は、何も言わずにその人から去っていくだろう。

 しかし、そんな中で、そういった人の心性について、そのブログさんも言及していた記事があった。
「俺がずっと苦しんでいるのは、それは、今が解放されたから終わりというわけではないのだ。今が良くても、そのされてきた仕打ちは、ずっと何十年も蓄積されきたのだ。今がよくても、蓄積されたその苦しみは、簡単になくならないのだ」
 と。

 この表現、指摘、感覚については、僕も非常に面白いと思った。

 一見、何の不自由なく、恵まれた生活を送っているように見える人でも、過去に受けた傷によって、ずっと苦しんでいることもあるということだ。
 これを、トラウマ(心的外傷)といったりするのかもしれない。抑圧された情動が突然噴き出すということもあるだろう。

自分のこと

 上の内容から、「僕は、過去に苦しい思いをしたから、今が恵まれていても、実は苦しんでいるのだ、助けてください」と言いたいのではない

 ここまでで確認したいことは、以下のとおり整理できる。

1.実感とは子供のときから醸成される
2.過去に苦しい・辛いことが発生したとき、それは実感としてインプットされる
3.2.でインプットされたことが、いずれ価値観として確立していく
4.2.で発生したことがたとえいくら苦しくて辛いことでも、他者からみたら分かりづらい(人は、今目の前に存在する人しか見えない)

 
 僕が、自分自身確認しておくべきは、その自分の過去というのが、「世界の否定」であったということである。よい表現が浮かばないが、「人生とは苦しみである」という考えが、10代前半に……というか、10歳のときに思ったわけだ。

 人生のスタートが、いわば「ゼロ」になった。いや、「マイナス」かもしれない。そういった表現はどっちでもいいのだが、幼い子供(10歳がそうかは分らんが)だからといって、誰しも人生楽しくワクワクしているわけではないということだ。

 で、そこから考えると、いいことあったり、悪いことあったり、いろいろ波に乗って、いまは「プラス」だと思う。
 そして、そこから発生したのが、冒頭に書いた、「大きな問題」である。

私の問題について

 ようやく、ここから話の本題の前提に入っていくことができる。

 前回の「信念が必要だ」という記事や、長期的な目標を立てることが重要だ、というのとも関連するけれども、僕が、人生というゲームに何故没入できないのかという原因が、その「実感」の積み重ねというか、人生の始まりの座標のせいではないか、という確認である。

 なかなか、他者に理解してもらえないこと……なのか、他者は理解しているが、僕の方が他者が理解していると思えないだけなのか分からないが、

「たのしいこともくるしいことも、それが自分のものだと感じられないということ」

 が、問題である。

 解離性人格障害の本とか、EDENという漫画のソフィアという女性の来歴が語られるシーンを読むと、まぁあんな感じである。
 もちろん、それが、深刻な状態として僕の中にあるのか、というと、とんでもない、凡人レベルでそんなはずはあるまい。手首を切りつけて血がどばどば流れるのをみても、「自分の感覚じゃないみたい」とか、そんなこと思うはずもない。というか、痛いの嫌だ!(かっこわらい)


 なので、どうしても、この「問題」について、語ったり、書いたりすると、大げさにとらえられてしまってよくない。そういうレベルではないのである。むしろ、歯を磨いたりご飯を食べたりするのと同じレベルで、「あー今日、上司に小言を言われて嫌だったよー」とか、そんな日常の愚痴レベルで、僕はこの問題を悩んでいるに過ぎないのだ。

 だが、僕の性格上、「問題」は解決したいのである。
 その解決の方法が、「目標」だったり、「信念」であるということだ。

整理

 まず、上のような問題について、今書いてきたような内容で、分かりやすいのかどうか、僕はよく分からない。今できる、僕の出力できる最高スペックで書いてみたけれども、これでも分からなければ、とりあえずここ数年としては仕方がないだろう。
 これを、数年後の自分が読んで、何らかのヒントにできたらいい。

 それでもって、これまた、先日の「仲間」が欲しいという記事と繋がるけれども、この、少々得体のしれない問題について、一緒に取り組んで解決できる人がいたらいいなぁということである。
 といっても、すでに、師匠とか仲間(勝手に僕が認定している)がいるから、とても恵まれているのである。



 この生きる世界は、生き物を殺してご飯を食べて排泄して、寝て起きて、人を傷つけ助けて、友人や家族と笑ったり憎んだり、そういった尊い営みの繰り返しである。

 僕も、普通の人間なので、そういった営みの繰り返しの中に生きているわけであるが、そのすべての行為行動言動の中で、根底にあるのが、その「問題」であるということである。


(かっこ書きである。次回、ある、プロの企業研究家の記事を読んで思ったことと、今回の記事の「信念や目標について」と関係する部分について取り上げ、さらにこの「問題」について表現することを試みたい。ちなみに、メインタイトルの「没入することしか生きる道がないのか」ということについて、結局全然触れられなかった。簡単に答えを書くと、上にかいたような「日々の営み」が人生そのものだ(没入する)ということを、僕は認められない、ということだ。「いいことも、悪いこともあるのが人生だよね!」とかっていう、甘ったれたクソつまらねえ格言じみた、訳知り顔で語り散らかす思想や考えなど、俺は認めない、ということだ。そんなんだったら、さっさと自殺した方がましだ。人生に意味はある、絶対にだ。――そう信じたいだけかもしれない、それでも、こればかりは、信じるしかない)

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