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イラスト描いてたら何書こうと思ったか忘れた
2020/11/09 00:05 | Comments(7) | 思考及び書くこと
今日の一言「なんだっけ」

まえがき

 うーん。
 本当は、何か書きたいことが生じて、キーボードに向かったものの、最近の習慣で、ブログ投稿する際には何かイラストも載せなきゃと思って、「簡単に何か描くか」(フラグ)と思ってペンタブに向かっていたら、1時間半ぐらい過ぎて今に至る。
 そして、最初に書こうと思ったことは完全に消えてしまった。

イラストコーナー

 ので、先にイラストコーナーに入ろう。
 改めて、巷にはイラストがあふれているが、いざ自分で完成させるとなると、大変なことなんだなと思う。
 しかし、ラフなのは仕方がないとして、先週? ぐらいの、フィギュアを見ながらかいた牧瀬紅莉栖は、今回のよりは品質が高いと思うものの、動きがないため、今回の作品よりも面白みはない気がする。





 イラストコーナーでいえば、先日から同じように週一でイラストUPされ始めた方について、格段にレベルアップされていて驚く。
 それまでの蓄積が違うとはいえ、デジタルイラストは初めてということで、吸収力が半端ないと思った。少ししたらきっと遥か彼方に行ってしまわれるのだろう。

能力のなさ

 当初書こうと思ったことは思い出せないが、能力のなさというのは、昔からよく感じる。

 このことについて思い出されるのは、とあるラケットを使うスポーツである。
 僕は幼少期、家族でそのスポーツをやったことがあった。
 学校の体育で、そのスポーツをやることになった。
 僕は、経験していたので、クラスメイトより少し上手だった。
 しかし、半年(?)ぐらいしたら、初めて触れた人のほうが断然上手になっていた。

 勉強でも趣味でも、その傾向がある気がする。

 なんだか、「人間としてのスペック」が低いように思う。今はやりの自己肯定感が低いとかそういうのではなくて、上のような経験――客観的な事実としてそんな風に思う。

 もっとも、一つ可能性としては、ある程度できるようになると飽きてしまうという、発達障害的(注意多動性疾患)な傾向のせいかもしれない。


 しかし、「才能」というのは、つくづく、いろんな方面でないのだなと、そんな風に思う。
「よく」言えば、器用貧乏なんだろうと思う。

休息の重要性

 部屋の中がカオスになってくると、ろくなことがないと思う。
 しかし、日々を生活していると、どうしてもカオスになってくる。
 試してみようと思うのは、床に、一切何も置いてはいけないルールだ。

 それだけは守る。何もおいてはいけない。コンセントの電源タップもダメ。

 細かいもの、それ自体はすぐに移動できて、大したことはなくても、積み重なっていると、気分が滅入ってくる。
 とはいえ、そんなことは分かっていて、できるだけきれいな状態を保ちたい。それができないから、だんだんとカオスになるのだ。

 できない理由は何か。
「時間がない」
「空間がない」
「気持ちの余裕がない」
 となるが、抜本的な解決策がなければ解決できない。

 そうすればまず、実現可能な、小さなタスクに分けることから始める。
 ニーバーの仕分けの実践。

 変えられるとと、変えられないことに分ける。……そのあとどうするんだっけ?(笑)
 点数をつけるのと、その理由を書くんだった。


課題:可変度:理由
・転職する:1:喫緊の必要性がない
・引っ越しする:2:時間とお金とやる気が出ない
・休暇をとる:5:やろうと思えばできる

 というわけで、休暇を取って部屋の片づけをするのが適切……いや、荒いな。
 なんかちょっと、問題解決になってない気がする。

 そうか、なんか少し分かった。
 俺は、問題解決をする技術が足りないんだ。
 問題を、途方もないものと捉えてしまっている気がする。
 問題は、これからも、永遠と、死ぬまで、死んでからも続くかもしれない。

 問題をすべて解決などできないのだ。

問題について

 問題に対しての考え方を変える必要がある気がした。
 言い換えれば、不安との付き合い方、ともいえる。

 要するに、終わりはないのである。
 人生に終わりはあるが、問題に終わりはないのだ。

 そんな中で、どうやって、「問題」を、「解決した」状態にもっていくのか、その手法を、その方法を、そのやり方を自分の中に落とし込む必要があるのだ。

 つまり、「幸せになるためには」といった問いではなく、「生きる意味とは」といった問いではなくて、「問題とは何か」を適切にとらえるということだ。

 問題、と書いたけれども、僕が今まで思ってきた問題とは、概念が違うと思う。
 問題は、解決すべきもの――でありながら、そうではないのかもしれない。

 問題が発生しないようにすることは、できないのだ。

 問題から逃げ続けても、次から次へと問題は発生するだろう。
 学校が嫌だからと言って引きこもっていれば、それはいずれ他の問題を引き起こす。
 もちろん、かかわらなくてよい問題にはかかわらないほうがよいものだが。

 問題を、解決可能な状態にすること、または、着手可能な状態にすること、その能力が必要であるのだ。




あとがき

(かっこ書きである。もう、24時を過ぎてしまうので、ここらで終わりにしよう。今週の土日は何もできなかったな……という感覚が強い土日になってしまった。そもそも、昼過ぎまで寝てしまった。一度、7時ぐらいに目は覚めたのだが、二度寝である。二度寝して、気づいたら15時過ぎとか、二度寝といえるのかも不明だ。よく寝たものだ。平日、睡眠時間5時間未満である。これが少ない気がする。どうしたら増やせるのか。しかし、睡眠時間が少ないことが本当の問題なのか。増やせばいいのか。解決すべき問題とは何か。どうしたら問題を解決できるのか、ではなくて、この問題はどういう問題なのか、ということを捉えることが必要だ。……とはいえ、実際、これをどう具体的に当てはめるのか、というのは難しい。直線的なリニアな問題だけではなく、円環的なサーキュラな問題もあるのだ。――いやしかし、思うに、問題を問題としてとらえるときに、やっぱり、「生きる意味」というのは大事な気がする。家族のため……という明白な目的があればいいんだろうが、守るべき家族なんていないしな。かといって、いやな仕事を耐えながら、家族のために馬車馬のようにATMのように働くというのは、何か特に憧れない。娘の結婚式で、涙をするというのは嬉しきことかなと思わなくもないが。とはいえ、クレヨンしんちゃんの大人帝国のヒロシ氏の回想シーンは涙なしには見れないだろう。――全然思考にまとまりがないな。とりあえず! とりあえず、だ。お正月はゆっくり休みたい。そのためには、土日仕事も憂わない。12月29日から1月3日までは休む!! 一切仕事はしないぞ! という気持ちで、頑張る。そういえば、受験生の時は、正月特訓なんてのもあったな。正月に勉強する人だから差がつく、とかなんとか)


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コメント

>イラスト
 お褒め頂いたところで恐縮なのですが、あれ、クリップスタジオの作業ウィンドウ横に模写する絵を配置して「見ながら真似した絵」なので、トレース(キャンバスの下に透過させた画像を重ねて線や着色をなぞるなど)こそしていないものの、私自身の手癖とか絵質とかは極力出さないように「線の位置・色の配置を真似しているだけのもの」なので、それなりに様になっていますが肝心の「陰影の付け方・光の当たり方」についてはイマイチ分かった気がしていません。風景を見たままスケッチしたような感覚と言いますか。
 さすがに毎回あのクオリティで描ける段階にはないです。ましてや、何も見ずに、あるいはオリジナルのキャラやポーズ、構図となるとどう陰影を付けたら良く見えるのかが分かっていません。

 ポージングや体のバランス等については、昔からプラモデルや可動する立体物の玩具が好きだったりもしますし、数学の図形や立体的な関係も得意な方だったので、三次元的な構図とか構造的なイメージは掴めている方だと思います。ただ、立体的に捉えたり頭の中で思い描くことはできても、色や陰影の付け方などで立体感を表現するというのがまだ自分の中で良く分かってないんですよね。
 単色の配分だけならまだしも、細かく影や色の変化を出す段階になると飽きてきてしまうというか、線で基本的な輪郭を描いてある程度形になって「キャラとして見れる」状態になったら「次の作品」に行きたくなってしまうというか。

>能力のなさ
 これに関しては私はもっぱらスポーツとか運動関係ですねぇ……。
 喘息の影響で幼少期の基礎的な体を作る時期に満足に体を動かせなかったので運動神経からっきしなんですよね。
 水泳だけは心肺機能の強化目的で一時期スイミングスクールに通わされていたので人並みにできますが、それ以外は本当に上手く動けません。
 学校の体育では、水泳以外で参加すればみっともない無様な動きを晒して笑われていましたし、そのくせ水泳だけは人並みにできた分陸上競技では「わざと休んでるのでは?」とか思われたり、大会系イベントとかでは足を引っ張る厄介者とか持病持ちだから配慮しないといけない腫れ物扱いされたりで、良い思い出はほとんどなく、いわゆる「陽キャ」とか「スポーツマン」とか「体育会系」という存在やノリには(創作物でもなければ)嫌悪感を抱くぐらいには羨望を通り越して憎悪に近いトラウマや悪感情がありますよ。

 もっとも、そうして運動が極端に苦手で嫌いだった分、手先や指先、頭を使う方向では負けたくない、人並み以上でありたいという意識は働いていた気がします。

>ブログレイアウト
 格段に分かりやすくなりました!
 以前のデザインで重宝していたのは、最上部のプルダウンっぽいメニューで「全記事対象で新着コメントのチェックができた(=記事問わず新着コメントがリストアップされていた)点」でした。
 私も今の自分のブログを作る際にレイアウトテンプレートで気にしたのが「自分が他人のブログを定期的にチェックすると想定した時に嬉しい項目の配置」ということで、「新着記事」「新着コメント」は出来る限り上の方に来るように設定した上で、縦に伸びすぎないように表示件数を絞り、続けていればどんどん伸びていくであろうアーカイブを最後に、カテゴリ関係は「見たい人ならスクロールぐらいするだろう」ということでアーカイブの上に、といった感じで今のレイアウトになっています。
posted by 白銀URLat 2020/11/09 04:18 [ コメントを修正する ]
>能力
能力と才能は分けて考えたほうが面白そうだなと感じました。このケースが才能(努力とは別の話、腕がないならラケット使う競技の才能はないと判断する)のことを言っているのか能力(その時の性能であって才能ではない)のことなのかがはっきりさせるともう少し深掘りできるような。

>問題
問題を解決するためには問題が何かを定義しなくてはならないと思います。問題があいまいなら解決することはできません。あと、解決することでどの程度メリットがあるかも大切です。なんというかこの世の中の問題のある程度は問題がキチンと定義されれば解決策は自明だったりするので。そして、解決されることでメリットが大きければ大きいほど解決への意欲が高まるので定義されれば解決したも同然だったりするわけです。逆に解決が難しい問題とは明確に定義されていないか、解決するメリットとデメリットが拮抗している問題だったりします。

posted by イミフat 2020/11/10 19:22 [ コメントを修正する ]
●白銀さん
>模写する絵を配置して「見ながら真似した絵」

 割と衝撃だったのですが、模写して上手く描けたら、なんかそれだけで「うれしー」的な感じに思ってました(汗)。
 模写はあくまで練習で、画力UPというわけではないんですね……。

 陰影は私も全然わかってないですね……。
 大きなところから塗っていく……というのがセオリーらしいですが、どうにもいつも適当になってしまいます。
 模写の時はどっちかというと、線画の部分を中心に取り組んでましたが、線画はさくっと終わらせて、「色の模写」を中心にやってみようかなぁ……。


>能力のなさ
>嫌悪感を抱くぐらいには羨望を通り越して憎悪に近いトラウマや悪感情
 という表現がよいなと思いました、って不謹慎ですが。
 いやしかし、よく分かります。しかし私の場合は白銀さんのように人並み以上にできる水泳などの特技もないのですが(ずーん)。頭脳的にも自信がないなぁ。いやほんと生きづらい世の中だ。

>ブログレイアウト

 ありがとうございます! 白銀さんにコメント頂かなければきっとずっとそのままだった気がします(笑)。
 上部のメニューも、前のレイアウトから移植してみましたが、いかがでしょうか?
(今回移植して気づいたのですが、上部メニューのポップアップはjavascriptで実装されてたテンプレートでした。単純にCSSをコピーしただけでは動作せず、「なんでや?!」ってなってました。まぁこういう移行作業とかできるのは、HPを自分で作ってみたりしている経験のおかげだなとは思いました)

●イミフさん
>能力
 努力で補完できるのが能力で、努力で補完できないのが才能、ってことでしょうか?
 そういう仕分けは分かりやすいですね。
 そういう意味では、この記事では、「能力」(努力での補完可能)を扱っていたと思います。
 腕がなければ、どれだけ時間をかけても得られない、いこーる才能がない、と。
 ただアレですね、今思いましたが、能力といっても、さらに分けて考える必要はありそうです。修練によって得られる可能性があったとしても、そこにたどり着くのに100年かかるとしたら、それは現実的に得ることは不可能。それはもう能力ではなく才能がない、という分類にしたほうがよいかも。
 ラケットを使ってスポーツを楽しむ、という能力はあっても、プロとしてやっていくという能力はない――才能はない、とか。

>問題
 問題の定義が重要。
 問題を解決した際のメリット・デメリットの多寡が重要。
 んーなるほど、おっしゃる通りに思います。

 確かに、メリットが多ければ、問題解決する方向に向かいますよね。
 そのメリットの種類が難しそう。残業時間減らしたら企業の費用は減るが、残業代目当ての社員にとってはメリットはない、とかいうのが往々にしてありそう。みんなが同じメリットを感じて、それが大きいと思うのなら、問題を解決しようという動きをしないはずがない。まずは、問題が明確であることが何より大事なのだと、そう思いました。
posted by endoat 2020/11/16 00:47 [ コメントを修正する ]
> ただアレですね、今思いましたが、能力といっても、さらに分けて考える必要はありそうです。修練によって得られる可能性があったとしても、そこにたどり着くのに100年かかるとしたら、それは現実的に得ることは不可能。それはもう能力ではなく才能がない、という分類にしたほうがよいかも。

自分はココが最も重要だと思うんですよね。努力が足りないから、あるいは誤っているから能力として発揮できないのか、それともそもそも才能がないためにできないのか、それって切り分けるのはすっげ―難しいんです。

自分は計算が遅いんですが、これって才能の問題なの?その他の問題なの??
自分としては簡単に才能の問題にはしたくないんですよね。そこまで自分は努力したのか?もっとできることはなかったのか?

逆にほかの人がすごい能力を発揮しているときに安易に才能のためだともしたくない。彼がやっている努力をわたしはしっているのか?


別に才能を否定したいんじゃないんです。ただ、すぐに才能を論じるのは安易だなと思うわけです。なぜなら方法論にかける時間が短くなるように思うからです。もちろん、その能力の重要度が高くないなら才能で片付けてしまってもいいとは思います。時間の点で合理的なので。しかし、そういった合理化を挟めないような重要な話であれば安易に才能を語るのではなく、方法論を突き止めることで結果として能力の向上が望めるのだとおもうのです。

自分の場合、計算が遅いのは恐らく努力のためだとおもっています(才能の問題にするほど時間をかけていないし、その必要もなかった)。でも、実際に努力する気があるかといえばないです。なぜなら必要がないから。このままだとやればできる子の自分を信じ続けて人生が終わってしまいそうですが、まぁ、こだわりがないからいいかなと思っています。計算の速度については。


才能と努力を切り分けられないのって結構恐ろしくて、弁護士とか医師とかの資格を取れる才能がない人が努力の問題だとおもって時間をかけすぎてしまうケースもあるからね。そういう意味では早い段階で見切ってほかに行くのも悪い選択だとはいいきれないかなと。


どうおもいます??
自分にとって重要な領域で、自分には才能があるのか、ないのか?これをどうやって見極めるべきなんだろうか??
安易に才能のせいにして見切ってしまうのもあれだし(あと少しがんばれはできたよ)、かといって引っ張ったまま死んじゃうのももったいないような(もっと別の道あったんじゃないの??)。

あからさまに腕がないとか喘息とかそういうケースならわかりやすいんだけど、わかりにくいケースが多いような。
posted by イミフat 2020/11/16 01:29 [ コメントを修正する ]
イミフさま

>実際に努力する気があるかといえばないです。なぜなら必要がないか
ら。このままだとやればできる子の自分を信じ続けて人生が終わってしまいそうですが、まぁ、こだわりがないからいいかなと思っています。計算の速度については。

 才能と努力の切り分けは非常に難しいと思います。
 それゆえ、才能のせいにもできるし、努力のせいにもできる。

 なんかの本で読んだ気がするのですが、
>『1000時間の法則』・・・分野を問わず「セミプロ」「中上級者」と言われるレベルに到達するには1,000時間の努力が必要という理論。

>『10000時間の法則』・・・分野を問わずで「一流」や「トップレベル」と言われるレベルに到達するには10,000時間の努力が必要という理論。

 というのが一つ指標にはなるのかなと思います。1000時間は少しイメージしづらいので、100時間ぐらいかけて、そのときの成果、自分の達成したと思える感覚で、「才能の有無」にありーいこーる「向いてる向いてない」を判断できるのではないかと。

 そうなると、最初の論点に関係しますが、努力する必要性があるかどうか(自分にとって必要かどうか)、ってところをどう思うかが重要になる気がします。

 とりあえず僕が思うところでは、最低限100時間ぐらいはかけてみないと、「才能がない」というセリフは吐いちゃいけないかなとは思います。

 腕がないとか喘息とか、そういった物理的な理由の場合も、そもそも100時間かけることが不可能という点で、序盤で「才能がない」として切り捨てる判断も容易になる気がします。
posted by endoat 2020/11/22 20:57 [ コメントを修正する ]
なるほど。考え方はほぼ同じですね。

> そうなると、最初の論点に関係しますが、努力する必要性があるかどうか(自分にとって必要かどうか)、ってところをどう思うかが重要になる気がします。


ここも同じく。


努力する必要(どうしようもなく好きとか、諦められないとか)がある場合はどうしたらいいんだろうかっていう話も、できたらしてみたいんですよね。


果たして100時間であきらめきれるのか?


自分は諦められないんですよね。じゃあどうするのかって話。売れないロックバンドよろしくモラトリアムをさまよってもいんだろうか。なんてことを考えるわけです。

逆にあきらめきれないものがないっていうケースもしんどいんだろうなと思ったりもするんですが・・・
posted by イミフat 2020/11/22 22:40 [ コメントを修正する ]
 イミフさま、コメントありがとございます。

>自分は諦められないんですよね。じゃあどうするのかって話。売れないロックバンドよろしくモラトリアムをさまよってもいんだろうか。なんてことを考えるわけです。

 諦められないものがあるというのは、決して悪いことではないと思います。イミフさんの場合は投資などでしょうか。
 これはきれいごとじゃなくてそう思います。
 人生とは壮大な時間つぶしである論を採択したときに、「執着」というのは間違いなく一つの拠り所になると思います。

 売れないロックバンド氏であっても、ロックをやったことない人よりは絶対上手いはず。数万人の観客を見込むライブはできなくても、場末のクラブハウスで演奏しているかもしれない。ビッグではなくても、ロックを人生の傍らに置くというのは決して無駄なことなんかじゃないと思うのです。

>逆にあきらめきれないものがないっていうケースもしんどいんだろうなと思ったりもするんですが・・・

 然りと思います。諦めきれないものがない、なんでもあきらめてしまう、執着することがない……それは大人で、割り切っていて、良いことに思われますが、でも、それは本心から納得していることなのか。きっと何か足りないようなそんな思いが根っこに渦巻いていないか。そんな風に思います。
posted by endoat 2020/11/23 22:56 [ コメントを修正する ]

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