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人の多様性について(04多様性は害悪なのか)
2018/10/27 17:00 | Comments(0) | 生きる意味
今日の一言「実存を目指せども共通価値を無視してはならない」


新聞やニュースを見るべきか

 情報収集は必要である。
 ただし、情報は、氾濫する。
 そこで、重要になるのは、「価値」を探ることである。
 これは、個人的に重要視しているものを意味する「価値」ではない。
 社会の、人々の、共通した価値を探るという意味である。
 よく企業や、団体のトップが不祥事に対して、「常識」に対してズレた発言をして、テレビやネットで炎上することがある。パワハラや、飲酒運転する人がたえないのも何故だろうか。
 共通価値とのズレが原因である。
 社会で求められている価値と、自分自身の価値が乖離してしまっているのである。
 これは、つらいことである。
 かわいそうだなぁとすら思う。
 けれども、断罪されるべきだと、僕は冷酷に思う。
 何故なら、僕も、共通価値とズレているからだ。
 今がどうかは知らないが、10代……いや、それ以前から、「生きづらさ」があった。
「生きづらさ」とは、共通価値と、個人価値とのズレが原因なのだ。
 しかし、簡単な問題ではない。
 個人価値のズレは、病気ではないし、仮に病気と表現しても、薬はないし、治療は困難なのだ。
 例えば、よく分からないけれども、イスラム教圏に生まれたけれども、イスラム教を信じられない人がいたら、それは、個人価値と共通価値とのズレが発生しているということである。
 学校や会社や、家族の中であってもいい。組織とならずとも、集団には共通価値は必ずある。

多様性は害悪なのか

 共通価値は悪いものではない。
 共有するものがなければ、対立が生まれやすくなる。言語など、人間の状況認識能力の補助的な役割である。ロボットのフレーム問題を思い出すまでもなく、一つの行動や思考に至るまで、その無意識で行われている判断は、到底言語表現は困難である(文字を打つ間の心臓の鼓動やホルモン調整の意識などできなかろう)。
 だから、共感できる行動原則に基づいて、人はコミュニケーションを成立させる。
 そこに異物が入り込んだら、排除したくなるのは性であろう。
 しかし、それにも関わらず、多様性を認めるというのは、人間としての真価が試されているのではなかろうか。
 んなこと、明日の食い物や命が心配な人たちが、考えられるはずはなかろう。
 戦争や飢餓、直面する問題を解決することは、無思慮に善といって構わないと思う。
 しかし、「それ故に」未だ人は恒久平和を手にできていないともいえる。
 場当たり的な解決では、無限に起こりえる問題すべてに対応できるはずはない。

(かっこ書きである。先日の記事とまた、話が変わっているようだ。先日は、創造性とか抽象的な言葉に惑わされてはならない、ということだった。今回は、共通価値という新しい言葉が舞い降りている。社会通念とか、一般常識、というのと違うのだろうか? 本質は、同じだと思う。しかし、ここが、前回と共通性を見いだせるところだが、一般常識といったときに、何やら怪しげな先入観が生じだすのだ。その、一般とは、何をもって一般なのか。もちろん、共通価値といったところで、その本質を変えられてはいない。しかし、言葉の表現として、ちょっとまて、と。その共通性というのは、決して普遍ではないと、不変ではないと、そう言いたかったのではなかろうか。なかろうか、って自分で書いたはずなのにおかしな表現だが、素直な感覚である。前回の記事が、予約投稿で公開されていて、僕は不思議な感じがした。まだ、一日で書き上げた文章は半分以上残っているはずだ。しかし、次の記事がどんな内容なのか、本当に全く分からない。調べれば分かるのは当たり前だが、あえて、読まないようにしてみよう。次の記事は2、3日後だ)

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