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人の多様性について(02言葉は活動の手段に過ぎぬ)
2018/10/22 17:00 | Comments(0) | 生きる意味
今日の一言「前の記事との繋がりが難しい」

言葉は活動するための手段に過ぎぬ

 会議が長くなるのを好まない。
 すべての雑談やお喋りを否定するのではない。
 しかし、何らかの行動が生じない会議は無価値に思う。
 進捗報告を無碍にするのではない。経営やプロジェクト判断にとって、情報は最重要である。
 そのうえで、「何もしない」という判断を否定するのではない。
 ただ、何かするでも、しないでも、「意識的に」判断しているかどうかは、僕は問いたいと思う。
 不要な情報であれば、そもそも、不要な情報が生じる仕組みに改善を図るべきだ。
 感情を満たすだけの言葉は、恋人や友人とすればよい。
 すぐさま書いておくべきは、同僚など会社の人たちと友人になれないということではない。人は人である。会社組織に属するからといって、冷酷無比なマシーンと考え、常に利益や効率だけを考えることは非人道的であろう。
 無駄やゆとりというものを否定するのではない。アクセルやブレーキの「あそび」は必要だ。緩衝地帯は大事だ。オイル、潤滑油は大事だ。
 しかし、それらは、車が動くとか、製品を開発するといった、大きな目的が明確化された上での話だ。
 何ら目的がないままに、だらだらと、よく分からないままに、何の意味があるのかと疑問のままに活動することは、苦痛である。苦痛に思わない人もいるようだが、苦痛に思わなければなるまい。
 何故ならば人は、創造性をもってこそ、人なのだから。

(かっこ書きである。前の記事では、人生の要素を、「時間」「記憶」「身体」であると書いた。それと、今回の記事はどう関係しているのか。前の記事で書いた通り、かっこ書きと、今日の一言は、別の日に書いている。本文については、同じ日に繋がって書いたわけだから、自分の思考の中では何か関連性があったのだろう。しかし、今になって思うと、分からない。今回の記事は、「だらだら会議するのは無駄だ」→「でもゆとりは大事だ」→「でも大きな目的がないとだめだ」という流れだ。中庸的なことを表現したかったのではなかろうか、と思う。ただ、思考やブログにおいては、世界の事実なんてどうでもいい。自分の事実を書かなければならない。それが間違っていようがどうでもいい。問題は、その自分の事実は、「時間」「身体」「記憶」の制限の中で、どのように導かれ、アウトプットに至ったのか、そのプロセスを描写する必要がある、ということだ。そういった意味で、前回の記事も、今回の記事も、何を問題と考えて、何を解決したいのかよくわからない点で、残念である。短い記事では、他の人のブログなどでも、そういった傾向がある。長ければいいというものではないが、ある程度の文量は必要だろうと思う。とはいえしかし、結論的には、次の記事を待とう、ということになる。次は、2日もしくは3日後だ)

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