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決断できる親父
2016/07/22 18:00 | Comments(0) | 異性関係について
ニュースくらいは見なければと思って毎日トピックスを眺めるものの、面白いのは滅多になくなってきた。

交通事故とか、首都の選挙、ミサイル発射や領海侵犯、どれもこれも重大な問題なのだが、これらに真剣になれないのは、やはり、自分の問題が大きいからだ。

そのなかでも、ある国の大統領選挙において、かなり過激な発言をする人が、候補に選ばれたという。その理由が、決められる親父だから、ということだ。

現在の大統領は、繊細で気配りができて、スマートで。ただ、物事の複雑さを、そのまま有権者に語る、それは世界の真実なのだが、その複雑さが面倒なのだ。

新しい候補は、敵か味方か、はっきりさせて、解決法も一本道で示す。

不安を抱えている民衆にとっては、救世主のように思うのだ。

まさに、第二次世界大戦のころの、ヨーロッパのある国のようだが。

最近平和なのだろうが、人間の本質がそうそう進化したとは思えない。日本の軍部が暴走したとか語られることだが、それは昔の人がしこたまアホだったわけではない、そういった方向に向かう環境があったのだ。

その、環境の話と、責任とは別。
例えば、幼い頃いじめられたり、性的虐待をうけたりとひどい環境で育った人がいても、現時点、何らか犯罪をおかせば、情状の余地はない。

いまさら、なにいってんの? いい大人でしょ?

で終わる。


やっぱり美人が得


努力を否定するわけではないが、今日急遽飲み会になり、いまから帰るが、やっぱり、ルックスがいい人は幸せな人生を送れるのである。

この、ルックスというのは、いわゆる努力でいかんともしがたいため、思考のタブーとされる。

だって、考えたって意味ないんだもん。

でも、この、ルサンチマンというものは、まずもって、表現の根本とすべきだ。

で、ないと、自分に必要な言説について、抜け落ちてしまうことになりかねない。


こんなこと書いて、なんになるのか、であるものの、結局……

次の日


長い記事がよいわけではない、先日の、虫瞰のブログは、週刊で短くまとめられていて非常に読みやすい。
しかし、僕は、あんまり短いと、投稿する気になれない。それは、ちゃんとまとめられてないからなのだけど、結局、自分で過去記事を開いたとき、え、これだけ? と、損した気分になることを防ぐためだ。



文章にも、ノリ、というのがあって、勢いある部分とそうでない部分とで、面白さも変わってくる。そのノリが、自分の記事だと、昔のものでもなんとなく分かるから、長くてもそれほど気にならない。逆にその強弱が自分でも分からないものは、無理して表面的な言葉を連ねただけだったのだろう、面白くない。


さて、急遽の飲み会で、どんな子がタイプか、みたいな話になった。

すごく、困った。

一緒に考えてくれる子?

いつも笑顔でいてくれる子?

自分の意見をしっかりもってる子?

論理的な考え方ができる子?




すぐに答えられない自分に気づき、あれ、やっぱり、他者の存在を僕は望んでいないんじゃ、って思った。

認めたくないが、自分大好き人間で、他者の存在を認められず、嫌い、果ては憎んでいるのではないか。


むしろ、嫌いとか、憎んでいるのですらなく、他者に興味がないのかもしれない。
ネタバレになるが、アイアムアヒーローで、主人公のその、他者に対する距離感みたいなものが、物語のキーポイントになっていることが、最近の巻で明かされた。

でも、僕は、他人に興味ないんでしょ、といわれたら、違うと否定したくて、むしろ、自分含めた人間に興味ないんでしょ、と言われた方が嬉しい。

ただ、それはきっとよくないきがするから、それをなんとか、求めようとしているわけだけど。



話がずれた、好きなタイプ、である。

恋愛として、男女問わず、自分を好きになってくれる人が好き、というのは、よくないのだそうだ。

相手のなにか、尊敬するとこでも、好きな身体の部位でも、求めるところがないと、関係は成り立たないという。


僕はこれって、いわゆる恋愛が商品化した状況における、裕福な考え、例えれば贅沢品のようだと思う。

13歳で家のため結婚し、14歳で出産し跡継ぎをつくり、という社会もあるそうだ。

ただ、家族というか、結婚という目的を考えれば、子供をつくって育てる環境を整えるため、であって、そこに、好きとか嫌いとか、パートナーそれ自身の好み、それは別の話と思うのだ。



だから、僕は、きっと、好きなタイプを聞かれて悩んでしまった。
次元が違うのだ。

子供に優しく愛情を注いで大切に育ててくれるような人がタイプです。

となら、そう思う。

じゃあそれって、どんな理想の家庭を考えているのかとか、優しく愛情ってなんなのか、ってのが、まだまだ自分の考えの足りない部分である。



身体と思考


イケメンが何も考えていないかとか、そんなことはない。仕事ができる人が遊びを知らないかというとそんなことはない、むしろ逆だったりする。


そして、問題になるのは、思考と身体の関係である。
これまで、このことは、何度も触れつつも、真剣に考えようとせず、自慰のように書いていただけだったろう。つまり、思考というものと、身体、自分自身の、もう顔から手足から体毛からニキビから声、息、すべてとの関係。


人間とは総合、総体である。と最初にかきはじめるのがキルケゴールさんだけど、僕は最初高校生に読んだとき、なんかよくわかんねーな、って思った。いまは、少しわかる。

まず、エンターテイメントの主人公なんかじゃなく、自分を知れってことなんだ。
孫子じゃないけど、こうやって書くと、ありふれた表現になって面白くないけど、自分自身の分析がまず必要。

この、自分を知る作業、ここが、いわゆる思春期によくやる作業であって、これが結構苦痛で、いやになっちゃう人も多い部分。

イケメンや美人だったらいいんだけど、男女問わず、不細工でモテなかったりすると、こんなの自分じゃない! となる。不細工がさらにましてカッコ悪くて気持ち悪い状況だ(笑)

不細工よりも、不細工を認められない勘違い不細工の方がたちが悪いのは、誰しも認めるところだろう、それはそれで、ここの問題は、その不細工を、いままさに、その、自分自身として認められるかどうかだ。

よく、あいつなになにだから、自分はできるって勘違いしてるよな、とか、最近の表現だと、意識高い系とかそういった言説があるが、僕はそういうことほとんど言わない。怖いのだ、そのことが事実だろうが、自分がそうかもしれないという不安があるのだ。

ここら辺の、不細工は不細工なりに、という、これは一見ネガティブなんだけど、全然そんなことなくて、むしろポジティブに大切なことなんだけど、これは口でいっても相手にわからせることができるものでもないし、ましてや、現実コミュニケーションで、そんなこと伝える必要がないのだ。

まったく飲み会では役に立たない内容だけど、このあたりの説明は、僕は繰り返し書いてきて、探せばたくさん出てくるだろう。

今日は、残り十分位だが、もう一歩考えたい。

現実と自分の距離感


いやそもそも、こういった表現、自己分析みたいなことが、ものすごくくだらなくて、即刻やめるべきだ、って、言われたこともあるし、自分でもそう思っていた時期があった。

でも、僕はもう、この辺は、ぶれないと思う。

誰に言われようが、考えなきゃ、この先人生に対応できない、ってことだ。

これは、他の人にはきっとあてはまらないだろう。馬鹿げたことに思われるだろう。きっとこの先も、こんなこと表現してると、気持ち悪いとか言われるのだ。


他者に合わせて生きてきた。

そのときどきの環境、コミュニティにあった考え方や振る舞いをしてきた。

それは、これからもそうするかもしれない。


でも、この、考えること、表現することはやめない。

僕にとってこれは、僧が、無為に思われるかもしれないが、坐禅を何時間もすることと同じ。ある経営者が、朝起きてからマジックワードを唱えるのと同じ。

喫煙者が身体に悪いと知りながら一服するのと同じ。

酒を飲んでリセットするのと同じ。

友人たちに愚痴を語るのと同じ。




僕は、考え、表現することで、自分自身として、存在するのだ。


ところで最後に、先にあげたブログのなかで、やっぱり、尊厳死とかあっていいんじゃないか、という記事もある。家族が介護を続けるという矛盾の指摘もある。

上の、考え表現することで前向きに人生送ろう、みたいな結論を書いたわけではないと、未来の自分にいっておく。自死も、有意義な選択肢であり続けている。

だから、この考えることは、人生の現実直面する困難に劣らず、命がけ真剣に取り組むべきことであり、決して、これまで時おりあったような、自虐的でいてそれを認めて欲しいと望むような、自慰行為であってはならないことを、今この時点でも自覚している、ということだ。

どうか、この記事を読んだ未来の方は、その点を十分に考慮した上で、新しい価値、考え、表現をして欲しい。



















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