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想像上の秩序で膝を叩く
2016/12/17 19:00 | Comments(0) | 学習勉強インプット
今日の一言「自分の感じていることを明確に文字にされると感動するね」
今年の目標その2

ハンムラビ法典もまた秩序である

 腹を抱えて笑った。
 いやぁ、狩猟採集民の生活の分析も面白かったけれども、まだまだ面白さは加速しそうである。




 最近の、というよりもこれまでの中で買ってよかった本のベスト10ぐらいに入りそうだ。
 これを紹介してくれた方には感謝感謝である。

 いやまさか、こうした学術書? といっていいのか分からないが、歴史学的な本で、笑わせてもらうとは思わなかった。
 いや、端的に書けば、紀元前1776年のハンムラビ法典と、紀元1776年のアメリカ独立宣言との対比が秀逸だった。
 そもそも、同じ1776年を対照させるアイディアが面白い、のだけれども、結論的に、どっちも「想像上の秩序」であるという説明が、小気味よいほど面白かったのだ。

人間は自由か平等か

 ハンムラビ法典は、神に認められたハンムラビ王が、上層自由人と、自由人と、奴隷および、男女によって人を分けている。
 一方、アメリカ独立宣言は、同じく神(造物主)によって、生まれながらに自由で平等であると謡われる。

 でも、本当にそうなの? 生物学的にどうなの? という投げかけ。

「我々は以下の事実を自明のものとみなす。即ち、万人は異なった形で進化しており、変わりやすい特定の特徴を持って生まれ、その特徴には、生命と、快感の追求が含まれる。」

 アメリカ独立宣言を、生物学的に再解釈した文章。これがどう面白くて、僕が大笑いしたかは、P.133~から読んでみる必要がある。

 とにかく、僕は思った。
 つい先ほどまで、「あー、こんなくだらないこと書いてたりするのは、きもいって思われるんだろうなぁ」とか思っていたけれども、この本の著者の方がよほどキモチワルイじゃないか!(失礼? いや、敬服である)

傲慢だけれども気持ちいい感覚

 正直なところ、これらの表現類は、僕にとって真新しさはなかった。
 というよりも、むしろ、「ああ、よく書いてくれた」的な感覚である。傲慢である。しかしながら、ちょっと歴史の勉強が好きでしてきた身としては、「人類って、そんな素晴らしいものだろうか」、という感覚がずっとあったのだ。
 自由と平等。美しい国、ああ、そういった表現は素晴らしいし、それに根差す社会システムもまた批判されるべきものではない。

 けれども、どっかしらおかしくないか? という感覚。「法律」は、絶対的なものだと、現代特に日本人は思っている。けれども、その法律なんて、その時代それぞれで変わってきたものだし、今この時点でさえも、国会では法改正の議論がされている。
 法律とか憲法とか、そうしたルールというもの、それ自体が「共同幻想」的(みんなそれが正しいと思うから正しい)なものに過ぎないのではないか、という感覚。

 その感覚は、「正しい」かどうか別として、「危険」なものだから、多くの人に忌避されるし、「お前は何をいってるんだ?」「ガキだな」「危険な思考だ!」と排除されることとなる。

 賢いエリート層は、そんなこと気付いたうえで、一般大衆を操るためのツールとして活用する。

 僕は賢いエリート層ではないが、一方で、社会(もそうだし、人間そのもの)の矛盾(というか、不十分性)にも気付かないままでいられなかった(真の凡人足りえなかった)ため、「中間派の苦悩」とか、意味不明な言語表現で、なんとか生きづらさというか、「くっそつまんねーな人生」という感覚を表現しようと試みてきた。


 まぁ、その試みは、未だ何ら成果もないし、表現し尽すこともできずに、中途半端なままなのであるけれども、だからこそ、この本で書かれていることが、非常に痛快に面白かった。

カオスを認めるということ

 著者も、その点も当然分かっていて、「ハンムラビ法典が神話だというのは受け入れられても、人権も神話だということも受け入れるのは、多くの読者にとって難しいだろう」と。

 でも、僕が生きるこの何十年かでは変わらないかもしれないが、きっと、もう数十年、数百年したら、きっともう、サピエンスが、「神話」に基づいて協力体制をしいていることは、多くの人に受け入れられていくことだろうと思う。

 漫画とか、アニメとか、映画とか、小説とか、その他エンターテイメント作品においても、この世界の不平等さ、矛盾、カオス、絶望といったものの取り扱いが、どんどん鋭敏になっているように感じられる。

 それは、個々の作品においては、単なるカタルシスかもしれないが、僕は、決して、人々を厭世的にさせ、絶望を与え、破滅に追いやるものではないと思う。


 僕の言葉で書けば、

「反転したポジティブ」

 ということになる。落ち込んで、嫌になって、憎しみ、哀しみ、怒り、絶望し、無気力になって……そのうえで、「ああ、くそみたいな人生で無茶苦茶楽しいな」と、反転して感じられるようになること……、うーむ、何か表現がやっぱり気持ち悪いけれども、まぁ、何となく分かるだろう。

 その上で。

 生きる意味なんてないし、人類はいい人ばかりじゃないし、くだらなくつまらないとした上で、だからこそ、「こうする」「こうしたい」「こうあるべきだ」という感覚。

 そうしたものを選択していくということが、先日こき下ろした、「自分の頭で考える」ということなんじゃないのかな、と思う。



 あり得ないのは分かっているけれども、最近特に、「ああ、どうせ俺の感覚に共感してくれる人などいないのだろう」という感覚が、実感として深まってしまっていた。70億人いるんだぜ、人類? それなのに、お前みたいな凡人レベルの感覚や思考が、世界でたった一人のオンリーワンなんてありえるはずがない。それは「知識」としてそう思いつつも、実感としては、そう思わなかった。(この知識と実感の乖離という問題は、長らく自分の中で大問題であり、今も解決できていない重大案件の一つである)

 それが、この作品(敢えて物語性を含めて作品と表現する)によって、この本がベストセラーになっていることから、そのうち何人かは自分と同じように大笑いした人がいるだろうと、少し信じられて、孤独感が少し薄れた、そんな気がした。

孤独感

 いやはや、それにしても傲慢な記事である。
 こういうのを、「黒歴史」というのだろう。視野狭窄に陥った中学生的な邪気眼的発想。

 まぁでも、そう感じてしまう、感じてしまったのだから、仕方がないだろう。それが「大人として」「社会人として」思考(感情)エラーだということは分かっていても、内なる心として発する声を無視してはいけないと、そう思う。

 その結果、友人を失い、恋人を失い、家族に勘当され、職を失ってでも……ということは「無い」のだから、まぁ、せめて、ブログとしてだけにとどめておこうというわけである。


 そしてふと思ったのだけれど、俺はやっぱり、寂しいのかなぁ。
 それでいて、他者と一緒にいる時間が多いほど、その孤独感ってのが深まってくという感覚は、恐らく、「本当の自分を誰も分かってくれない」という思いが深まっていくからなのではないかと思う。

 でた、でた、これまた気持ちの悪い表現である。うら若き女子中学生か、と(女子中学生をバカにするわけではない)。
 エリートは孤独だとか、出世して立場が上になると孤独になるとか、そんなこと言われたりするけれども、エリートでも地位が高いわけでもないのに孤独を感じるとは、まったくもってこの世界は不平等である(かっこわらい)。


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