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虚構の言語
2016/11/20 22:03 | Comments(0) | 学習勉強インプット
サピエンス全史まだ紀元前から進んでいない。
ただ、むしろ思うに、この初期の人類の構成、そして発展こそが、非常に重要な点だと思う。

言語は人だけのものにあらず

 言われてみれば当たり前だと思いつつも、明確に文章になっていると改めて感心する。
 250万年だか、200万年だかその辺り、原人やホモ・エレクトス辺りの時代から、ヒト属は、言語を用い始めたという。

 しかしながら、言語は、別に人だけが扱えるものではない。

 人の特徴として、学校教育においては、二足歩行、火の使用、言語、の3つを挙げるが、何のことない、クジラやチンパンジーやオウムなど、他の、ヒト(ホモ)属以外の種においても、言語は用いる。

 サバンナモンキーという種は、「気を付けろ! ライオンだ!」という言語と、「気を付けろ! 鷲だ!」という言語を使い分けるという。

 しかし、現生人類(サピエンス)は、「虚構の言語」を用いることができる点で、他のヒト属と大きく異なり、結果的に、1万年~3万年ごろには、サピエンスオンリーの状態になった。

認知革命

 虚構の言語を用いることができるようになった時期、7万年ごろを認知革命というらしい。

 虚構の言語とは何か。
 それは、噂話とか、想像上の物語を表現する言語のことである。
 サバンナモンキーという種も、嘘はつけるということなので、嘘が人間固有のものかというと、それもまた異なる。ただし、神話や伝説、宗教といった表現、物語をつくり、信じることができるのは、人(サピエンス)だけだ。

 この、認知革命が、何故サピエンスという種だけに発生したのかは、分からないという。ただ、この認知革命がもたらしたこと、その必要性について、この「サピエンス全史」は、これから先突き止めていくという。

想像が何の意味があるのか

「ちょっと、森にユニコーン探してきますわw」
 とかいう人は、シカやキツネなど、食料を求めて森に入る人に比べて、生存確率が相当低いだろう。

「我が部族ライオンの守護神への祈りを!!」
 とかいってるより、狩りしたり生殖に励んだり、他にすることあるだろう?


 果たして、何故、想像の言語、「虚構の言語」が必要だったのか。(逆に、そうした能力をもつサピエンスだけが絶滅を免れ生き残ったのか?)


 神話や伝説、宗教は、その「集団」で信じることができるからだ。
 前述の、噂話は、確かに、ある集団において、誰が信頼できる人間かを取捨選択する際に非常に有効である。といったような記述を見て、僕は、世の女性たちが噂話が好きな理由もそこにあるのではと邪推した。
 会社の昼休みなどでも、女性たちはよく親しい仲間と一緒にランチして、短い休憩時間のほとんどをお喋りで費やす。そしてその中身は、だれだれのうちの息子はどうしたとか、他の部署のだれそれが仕事でどうしたとか、そんな噂話が中心となる。

 それら噂話は、サピエンスが手にした、高度な生存戦略だったのだ!

 そう考えると、変な同調圧力とか、理由はよく分かる。まさに、「誰がいらない人間か」「誰が信じられない人間か」を、ふるいにかけているのが、まさに女性たちのお喋りなのである。居心地がいいはずもない。
 しかし恐るべきは、その居心地の悪いはずの空間を、女性たちは本当に楽しんでいるのである。楽しめる能力も手にしているのである! 何故か、とまた邪推すると、女性たちは生物的に体力や腕っぷしがないため、そうした言語という武器によって、より優れた男とセックスして子孫を増やせるように特化していったのではないか。

 とまぁ、本の内容とはかけはなれた邪推であるが、ただ、敢えて強調するために、わざと「女性たち」という表現を使ったが、これは別に男性も同じだと思っている。僕はもともと、女性がどうこう、男性がどうこうとかいう、ジェンダー論的なのも胡散臭さを感じている。男性だって、居酒屋で夜な夜な上司や同僚の噂話や愚痴に花を咲かせているではあるまいか。
(同時に、生物学的な男女の差異や、社会的性差の存在が皆無だという主張をするのでもない、立場的というか思想的に、「興味がない」というのが近い表現)

150人を超える集団の統率

 その噂話で維持できる集団の限界が、150人程度だという。では、サピエンスはどのようにして、巨大な集団の維持を可能にしたのか。
 もう何度も書いてきてしまっている(起承転結がなってない文章だ)が、神話や伝説や宗教である。
 社会的構成概念、虚構の言語、想像の現実。

 これは、前から書いてきている、「資本主義もまた信仰の一つだよね」というのと似ていたから理解がしやすかった。
 この本においては、有限株式会社が例に挙げられていた。即ち、法人という想像上の人格を創り上げることで、個人では責任を負いきれないことも可能にしたのだ。プジョーという会社は、創始者が死んでも、従業員が入れ替わっても存続するが、法的根拠がなくなると、一瞬にして、幹部職員が残っていても、会社の機械が残っていても死に絶えるのである。

 法律が絶対だ、と思っている我々であるが、その法的根拠、といったものも、サピエンスが培ってきた発明品なのである。

まとめ

 宗教や、ナショナリズムだとか、神話や、資本主義、法律といった様々な高度な文化。
 もちろん、その中でも資本主義と法律については、密接に僕たちの生活にかかわっているから、逃れることはできないことは十分に理解しつつも、どうしても、それらの「信仰」に対しては、違和感を覚えていた。

 その原因の一つを、この本では明らかにしてくれる(完全に新しい概念を生み出すというよりも、モヤモヤ悶々として霧がかった状況を、明瞭に表現してくれるのではないかという期待)のではないかと思った。

 まぁ、忘れてはいけないのが、バタイユさんやキルケゴールさんがおっしゃる、「芸術はすべて死の恐怖からの逃避である」とか「客体の問題は主体的な問題の苦悩を遠ざける」といった言語表現であろう。
 ただ、インプットとアウトプットは両面必要なことなのだ、というのも、明確にここで残しておこう。
 それにもう一つ、これは単に妄想に過ぎない気もするけれども、やっぱり、「物語」というのが重要なのだ、ということの示唆や確信、実感にも繋がるのではないかという期待もある。そうであれば、まさに、今ここで、主体的な問題に取り組んでいるともいえるだろう。

追記というか蛇足というか

 ところで、ある方からコメントを頂いた。自分が尊敬している人から褒められるというのは、何だかあまり無い経験なので、何だかとても嬉しい気持ちになった。どんだけ褒められる体験が少ないんだ、ということでもあるが、親や教師や上司や同僚や友人や恋人やその他大勢の人がいても、何だか、その「役割」的な部分における行為が褒められても(いやもちろん、それはそれで嬉しいし、やりがいになるし、生きがいになることなのだが)、どこか「できて当たり前」的な感覚が生じ、「嬉しい」という感情の抑圧に繋がっているように思えてならない。

 つまり、「素の自分」に対する承認という部分である。

 無茶苦茶な、厳しい言い方になってしまうが、「お手伝いができて当たり前」「仕事ができて当たり前」「女性に優しくできて当たり前」ということである。その「役割」において、何が求められているか、というのが、何となく感じ取れてしまう(と書くと、傲慢に過ぎないし、他者が本当に何を求めているかなんて、エスパーじゃないのだから分かるはずがない。ただ、ここで表現しておきたいのは、そうした「感覚」についてだ)。
 その求められる役割について、何となく、その方向に行為してしまう。そして、それと違う行動をとってしまったとき、イライラが生じたり、落ち込んだりする、と。まぁ自己分析すれば、よくあるパターンである。
 で、さらに悲しき哉、その求められる役割に対して、何らかの行為を行い、それが褒められたり、成果になったとしても、何となく嬉しいのだが、さほどのモノではないのだ。

 そのため、昨日の記事は、特にあまり意識していたわけでも、言いこと書こうとしていたわけでもないため、(いや実際、今読んで見るといつものようにグダグダな文章であるわけだが……)、「よかったですよ~」的な一言であっても、かなり真に迫って嬉しいものになるのである。

 それはそうと、ネアンデルタール人の女の子可愛かった。


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