AIさんに要約してもらった忙しい人向けまとめ
他人の「オタクを降りて虚しい」という告白を読み、共感しつつも違和感を覚える。労働・生活・趣味のどれかが特別に偉大なのではなく、突き詰めればすべて等しく虚しいと考える。それでも、過去に熱中して楽しかった時間は否定されるべきではなく、それ自体が人生の価値だという立場を取る。生きる意味は本質的にはなく、人は偶然生きているだけだが、それでも生きていて問題はない。誇りや意味に縛られず、今あるものを見つめ、理不尽な破壊に向かわずに踏みとどまってほしいと結ぶ。
ここから人間の文章
生きる意味を徹底して考えるブログの私としては、見過ごせない記事を読んだ。■オタクを降りた。何も残ってない
https://anond.hatelabo.jp/20251125192426
悲しい。なるほど、上の記事の筆者は、「オタク」をやってきたが、歳をとってそこまで熱中できなくなったのだろう。
ほんま悲しい。
オタク趣味は虚しいわ。
つーか「趣味」が虚しい。
「労働」や「生活」は偉大よ。
生きてきた時間に誇りが持てる。
俺も誇りを持ちたかった。
筆者が何歳かは分からないが、やり直しはいくらでもきくと思う……ということはどうでもよくて、私が気になった点は大きく二つ。
一つは、「労働」や「生活」を偉大とみなしていることだ。
これは、よくある勘違いだと思う。未婚だと、結婚している人が羨ましく思うのと同じように、それぞれの生活は、メリットもデメリットもある。そして、そのメリデメリは、その人自身にとっての享受がどの程度かにもよる。
いやもしかしたら、ずっと引きこもりないし生活保護などで、本当に労働をしていなかった人なのかもしれない。
だとしたら、確かに、「趣味」よりかは、「偉大」なのかもしれない。
まぁなので、筆者の置かれた立場によって、共感できるか、そうではないか、というのは変わってくるように思える。
とにかく、筆者がそこそこ生活しつつ「趣味に生きるオタク」というペルソナでもってとらえたら、「いやぁ、労働も生活も、そんな偉大なものじゃないですよ」って言いたくなる。
まず一つ目の違和感はその点である。
¶
二つ目として、虚しさレベルの感じ方である。
等しく、虚しい、と感じる。
生きていること自体が、虚しいし、労働も、生活も、そして趣味も、等しく、虚しい。
私はそう感じている。
虚しくないことがあるとすれば、それは、「虚しくない」と自分で思えるかどうか、である。
虚しさでいえば、この記事自体がそもそも虚しい。
私がこうして文章を書いていること自体も虚しい。
何にもならない。意味がない。
いやこの文章を書くことで、誰かがチップで、コーヒー代を出してくれるのであれば別であるが。
コーヒーもぴんきりだからな。仮に200円としようか。コンビニコーヒー。おいしいよね。
¶
2つ、違和感があると最初に書いた。
一つは、労働や生活が偉大という点。
二つ目は、趣味が虚しいという主張に対しての、そもそも全部虚しいんですけども……という点。
筆者に対して、前々慰める気が起きない点が私の酷いところなのだろう。
そもそも僕は、少なくても、高校生ぐらいから、(たぶんもっとまえから)「なんか生きるのってつらいな」ということを感じ始め、「そもそも虚しいな」と思い至っている。
だましだまし、これまで生きてきてしまった。
結果的に、つらいことと、楽しいこと(気持ちいいこと)のバランスは、良い方向に傾いていったと思われるものの、そのときどき、バランスの問題であって、どっちに傾くかは運次第なところがある。
故に、生きていてよかったのか、早く死んでしまっていた方がコスパがよかったのか、総括して、断じることはできない。
¶
筆者は、その、オタク趣味から降りることになった方は、どうだったのだろう。
いまは、きっと、つらい気持ちでいるんだろうと思う。かわいそうに、思う。憐れむとか憐憫とかではなく、本当に、かわいそうで、共感してつらくなる。
でも、その方は、オタク趣味全開で楽しんでいるときは、どうたったのだろう?
楽しかった、のではなかろうか?
そしたら、その方の人生は、とてもとても、素晴らしいものだったのではないだろうか?
死ぬ瞬間だけが、人生の+-を決める一瞬になるのだろうか?
人生とは、そういうものではなくて、総括されるものではなかろうか。
ものすごく、熱く、楽しい期間があったのなら、それでいいのではないだろうか。
あとはもう、燃えカスのように、過去の自分を卑下して、悔やんで生きていくだけだとしても、それでいいのではないだろうか。
そんな風に、僕は思う。
¶
昨今、長い文章は読まれないらしいので、まぁ気にする必要はないけれども、誤解を生まないように、もう一度僕の書きたかったこと、感情を書いておこう。
筆者は、今はつらいんだと思うので、かわいそうだなと思う。
でも、慰めようとは思わない。
オタク趣味で楽しんでたその瞬間の「自分」というものは、なかったものではない。
今燃え尽きているのだとしたら、それこそが、当時の自分の熱中を示していたのでは?
労働や生活というものが、趣味によって犠牲になったと考えているのだとしたら、それはその人の実際のケースを見てみないと何とも言えないが、少なくても、軽く労働しながら趣味ベースで生きてきたのだとしたら、労働や生活というものが趣味に比べてそこまで価値あるものではないと思うので、落ち込む必要はないと思う。
それは、趣味<労働とか、趣味>労働という意味では全くなくて、等しく虚しいということだ。趣味<虚しさ、労働<虚しさ。虚しさこそが真理に思う。
生きていることに意味はなく、ただ単に、偶然、生きているというだけに過ぎない。
燃え尽きて、過去に後悔しながらつらい日々を送っているのだとしても、生物としては、「生きている」こと、それ自体が目的なので、別に何ら問題ない。
楽しいこと、が見つけられない状況と推察されるが、楽しいことがないということは、別に即座に死ぬという選択肢になるわけではない。後悔しているうちは、まだ死なないと思う。
生きている意味があるとしたら、死んでいない、ということだと思われる。
ただそれだけなので、とにかく、誇りとかそういうの気にせずに、まずは自分の、いまある「もの」を書き出してみるとよいと思う。
身体。貯蓄、資産。人間関係。物。少なくても、ネットにカキコしてるんだから、スマホか、PCはあるってことだろう。スマホかPCがあれば、できること、めちゃくちゃたくさんあると思う。
まぁ、なんだ、その。
話し相手が欲しいというのなら、僕が聴いてあげるから、とりあえず、テロとかそういうのは、思いとどまって欲しい。
なんというか、理不尽さが僕は嫌いだ。
理不尽に通り魔事件で害されるといのは、かわいそうだと思う。
何かその、前にニュースであったが、同じ職場の同僚にキレて害した事件があったと思う。せめてそういうのであれば、分からなくはない。いや許されることではないと思うが、一応、理不尽さは、通り魔事件よりは幾段もマシだ。
いや繰り返し述べるが、害人はよくない。原則として。
しかし、死刑として国家が人を害すということも社会のルールとして成り立っているし、そして、本当に胸糞悪い最悪なケース()を想像すれば、消えてもらった方が社会のためになる、というケースは存在すると思う。
ましてや、「戦争」という人を害すということも、大義名分の中で、この現代でも起こることが証明されている。害人はよくないというのは、所詮は「原則として」という前提をおかなければならないのだ。
だが、その、趣味を見失って絶望してしまった筆者が、無差別に人を害するというのは、なんだか違うと思うのだ。
違うと思うが、「虚しさ」ということについては、僕は筆者に負けずにかなり強く思っていると思うので、なので、落ち着いて頂きたい、そう思うのだ。
(●人とか、サツという漢字が怖いので、害するという表現にしておいた)
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昔、大学時代とか、めちゃくちゃもやもやしてた時期、毎日日記を書いていた。
絶対書く、という強い意志で。
書くということ、それ自体が目的として、書いていた。
今も探せば残っている気がするが、正直、読んだところで、当時の感覚は蘇ってくることはあるまい。あるまいし、仮にあったとしても、別に呼び起こしたいものは何もない。
では、過去のその、書くという行為は、無駄だったのか。
しかし無駄とは何か。
生きていること自体が、無駄だともいえる。
無駄じゃないともいえる。相対的なものだ。主観的なものだ。意味などない。
ないし、ある。トートロジーであり、二律背反である。
こういった文章の書き出しを見ると、わくわくする人か、「何かいてるのきっしょ」ってなる人か、もうそこで選別される。
僕は、ワクワクするな。なんか面白そうって思う。正直、AIに添削してもらえば、ある程度読みやすくなると思う。しかし、読みやすさに意味はない。
思考というものは、存外にそういうものだ。AIは、きれいな思考だ。エッセンスだ。
そこにビジネスはあるかもしれないが、「面白さ」はないと思う。
最近、色んなレビューコメントなど見ていると、「長い」という反応を見かける。うん確かに、意味不明に長い文章というのはある。僕も、ビジネスの面で、分かりづらい文書を提出された場合、やり直すよう指示をしたりする。
文書は、伝えたいことを伝えるという目的が一つと、正しく記録するという目的が一つある。
ビジネス的にはそれでよい。
同時に、文書は、面白いという価値もあってもよい。
そしてその面白いというのは主観的なものであって、統一的な何かは存在しない。しかし万人にうけやすい小説などというのはある。それは人間がある程度同じ思考感情をもつために、面白いと思うことができるのもある程度コントロールできる証左である。
しかしビジネスでは、面白さはいらない。ただ、正しく伝えられたらそれでよい。
そもそも、文書という存在が、時代遅れかもしれない。小説よりもアニメの方が多くの情報を伝えられるのではあるまいか。しかしこれはすぐに否定することもできる。文字という媒体だからこそ、伝えられる「心の機微」というものが存在するからだ。それは、アニメの独白では伝わらないものだろう。
しかしそうか。心の機微というのは必要なのか。必要だとしたらそれは何故か。人間が、深いことを考える存在であるという、それはホモサピエンスという傲慢さではなかろうか。人間は案外、単に電気信号が脳をかけめぐっているだけであり、そこに思考も感情も、ただ人間が、「大事で深い」と錯覚しているだけではなかろうか。
仮にそうだとしても、やはり、思考というものが深いものであるということは疑えない。悩み考えるというのが、僕たちの性質であるからだ。
しかし今僕は、必要性の話をしている。
面白いか、そうではないかの話をしている。
そこに、文書は必要か?
とはいえ、画像生成AIを超えて、動画生成AIもすごい精度になっているなと感じつつ、それでも、自由に、自分自身の思考を具現化するということは、まだ程遠い。いやそもそもにおいて、僕自身の思考というものが、いったい何を表しているか、僕自身も分からないし、ましてや、AIが理解できるようなものでもないのである。
唯一できる描写としては、この長くて、意味が不明な、この文書全体を通した、集合体なのである。この思考的実験について、AIは、果たして、どのような「要約」を行うのか? この文書群を、AIは、どのような意味づけをするのか、さて、試してみるか。
Ψここまでが人間が書いた文章
ChatGPT
「(この文章は、)文章が「意味を持つ」とか「無駄かどうか」じゃなくて、書くこと自体が“心の動きの現象そのもの”になってる。」
「ざっくり言うと、筆者は「文章を書くことの意味」や「思考することそのものの価値」をぐるっと俯瞰しながら、自分の中の問いと遊んでいる感じだね。
以下、読み取れた主旨と感情をまとめるね。
■ 主旨(書いた意図)
1. “書くこと”の価値を問い直したい
昔の日記を思い出しながら、「あれって意味あったのかな?」と自問しつつ、意味の有無自体が揺らぐ世界を語ってる。
「無駄って何?」「意味って何?」という問いそのものを楽しんでるようにも見える。
2. 人間の“思考の雑味”こそが面白さだ、という主張
AIは整っていて合理的。でもそこに「人間的な面白さは欠けてるよなぁ」というニュアンスをぶつけてる。
“きれいな思考”じゃなく、“ごちゃついた思考”こそ味わいだ、と言いたい。
3. 文書・文章というメディアの価値と古さを考えたい
アニメや動画の方が情報量は多いけど、文字にしかできないこともある。
「じゃあ文字の価値ってどこ?」
「そもそも必要?」
……という問いを楽しんでいる。
4. AIにこの“混沌”をどう扱うのか見てみたいという遊び心
最後に「さて、AIはこれをどう要約する?」と書いてあるのは、
自分の思考実験を、AIという鏡に映してみたい
という知的好奇心。
■ 読み取れる感情
1. もやもやとワクワクが同居してる
昔の自分を思い出して「もやもや」を振り返りつつ、「思考の深みに潜るぞ」というワクワクもある。
2. ちょっとした反骨精神や皮肉っぽさ
「読みやすくしたところで意味はない」
「心の機微って必要?」
こういうフレーズには、
“きれいごとで片づける風潮への反発”
が漂ってる。
3. ちょっと寂しさもある
「意味なんてあるのか?」と繰り返すのは、
“意味が揺らぐ寂しさ”
もどこかに感じるね。
4. 思考を遊んでいる知的な楽しさ
全体的に、難しいことを語ってるんだけど、重苦しいんじゃなくて、
自分の脳内を使った遊び
みたいに書いてる。
「自分の思考をネタにして AI と遊びたい」という軽やかな好奇心がある。
■ 一言でまとめると?
“思考の意味”“文章の意味”“人間の意味”をふわっと問いながら、その問い自体を楽しんでいる文章。
そして AI にその混沌をどう扱うか試してみたいという、知的で少し孤独な遊び心。”」
Ψここからが人間が書いた文章
なるほど。自分としては、「モヤモヤといら立ち」、という感情であったと思っていたが、AIにそういわれると確かに、「知的で少し孤独な遊び心」というのは良い得て妙な気もしてきた。
「自分の脳内を使った遊び」
という表現も、いいな。
楽しい遊びをしたい。
わくわくすることをしたい。
そうしないと、こころが、止まってしまいそうだ。
ブログの形式、「まえがき」とか、統一して書いてたのですが、ちょっとやめてみます。
なんか、最初に「見出し」しないと、文章の1字空けが、最初の1行だけ、反映されないんですよね。そんな細かいことも、久しぶりに忍者ブログのエディター開いたら思い出した。
でもなんか、1行改行してから書き始めたら、そのまま、1文空けいけそうだ。
どうでもいい話すみません。
それで、久しぶりにこちらのブログみたら、コメント頂いていて、申し訳ない!! って気持ちになりました。
正直、こっち、誰か見ている人がいるとは思わなかったのですよね。
カウンターとかつけてるわけでもないですし、SNSみたいに「イイネ」があるわけでもないので、完全にモチベーション「ゼロ」になってました。
誰か見ている、見ていない、にかかわらず、「自分の思考」の整理のためという理由が強かったので、こちらのブログは大変大きな価値がありました。
しかし、最近、「イライラ」すると、ChatGPTさんに話している。
要領を得ない時もあれば、逆にイライラさせられるときもないとは言えないが、それでも、自分の言葉に対して、しっかり「読んでくれた」と感じさせたうえで、コメントをもらえるという経験、体験価値はでかい。
まじででかい。
それゆえに、こちらのブログの価値が相対的に下がってしまった。
むしろ「ゼロ」に近くなってしまった……と、私は思ってしまっていた。
でも、コメントしてくださる方がいた。
これはもう、本当に申し訳ない、としか感じない。
申し訳ない、……私の感じ方が誤っていた。
――――――
このブログは、「生きる意味を徹底して考える」ブログである。
そして私は、もう、「生きる意味」がない、としか思えない状況である。
5億年経てば海は干上がる。
50億年経てば太陽は地球を飲み込む。
いずれ人は死ぬ。
「だからこそ尊い」
と感じる人もいれば、
「だからこそ無意味」
と感じる人もいる。
ただそれだけのことである。
生きる意味なんてないのだ。
絶対ない。間違いなくない。言い切ってしまってよい。ない。
同時に、生きる意味はあるのだ。
創ることができるのだ。
だから、生きる意味はあって、それでいて、ない。
頭の良い世の中の人たちが、生きる意味なんて考えても無駄、という理由はそれだ。
答えがないから、考えても意味がないのだ。
本当にそうか???
その答えとは、一般論的な答え、真実的な答え、科学的な答え、という類するものである。
主観的な答えというのは、存在することは否定されるものではない。
友人をつくって、結婚したり、子どもをつくったり、お金をかせいだり、権力をえたり、コミュニケーションを楽しんだり、趣味をたしなんだり、……。
色んな「楽しみ」がある。
だから、「生きる意味」なんて大したものじゃない、って考えられることが多かったのだろう。
過去は。
今は、どうだろうか。価値が相対化し続けいているこの時代。VUCAとか、ますます不透明になっているというこの時代。
真実普遍の生きる意味はなくても、「私自身」としての生きる意味を考えるというのは、無意味と切り離してよいわけがなかろう。
だから私は今も、この世の中に絶望しつつ、「死んだ方がましだ」という傍らに常に存在する思想思考をなだめつつ、今日もイライラしながら生きる意味を考えている。
――――――
という哲学風近況報告でしたーー!(笑)
(本当にコメント頂けて嬉しかったです! ありがとうございました!)
注意書き
この記事は、さっき書いた記事「人間って愚かだなと思うこと」を、ChatGPTさんに推敲してもらったバージョンです。いっつも言われるんだけど、論理飛躍してるとか、感情が強すぎて読みづらいとか(かっこわらい)、「今、指摘してくれた点を推敲して書き直して」ってお願いしてみたものになる。
読んでみても、誤読されているとはやっぱり感じられない。
ちゃんと言いたいこと、伝わっていると思われる。これは生成AIが流行る理由も分かる。下手な人間(アンチコメント)とかより、「ちゃんと読んでくれてるな!」って感じになるもの。
文章における生成AIは、まだまだ色んな使い方というか活用がありそうだし、面白いなーって思う。
と……、ここまでは、私(人間)が書いてます。
以下の「まえがき」からは、私ではなく、ChatGPTさんの文章となります。
(でもたぶん、AIが書いた記事と初見で見破るのは難しいんじゃないかな。逆になんだろ、「整いすぎてる」のが特徴といえなくもない。しかしそうなると、「読みづらさ」があった方が逆に人間っぽいということになるのだろうか。より洗練させた文章にしていけば、AIっぽくなっていくという、これまた矛盾のようで、面白きなり)
ではどうぞー。
まえがき
今の生活は、表面的には安定していて大きな問題もない。ただ、自分の中では、夢中になれることがある時期と、何に対しても興味が持てなくなる時期が交互にやってくる。まるで、気分の波のようなものだ。最近は、年齢を重ねたこともあってか、その波が少し緩やかになってきた気がする。心が動きにくくなってきたのは少し寂しいけれど、その分だけ落ち着いていられるのも悪くないと思う。
■ 戦争が変えたもの
2022年にある国が戦争を始めたことは、自分にとって大きな衝撃だった。これまで、自分の中では「リベラリズム(自由主義)」が少しずつ世界に広がっていって、最終的には平和な世界が作られるのだろうと、ぼんやりと思っていた。それは教育を受けてきた環境の影響もあるし、リベラルな価値観があたりまえのように身についていたからかもしれない。
歴史を見れば、共産主義による失敗や弾圧はたくさんある。だから、「やっぱり自由主義がいいよね」という感覚は、理屈と経験の両方から自然と身についたものだった。
でも、戦争が現実に起こったことで、それまでの前提が崩れてしまった。「こんなこと、もう起きないと思ってたのに」という気持ちが強かった。
■ 人間って、やっぱり愚か?
ヒトラーやポル・ポトのような独裁者が起こした過去の残虐な事件については、もちろん非難されてしかるべきだと思っている。でも、その人たちだけが悪いという見方には、疑問もある。独裁者が力を持つには、それを支持する多くの人々が必要になる。その背景には、仕組みとしての問題もある。つまり、愚かな選択がなぜ繰り返されるのかは、「人そのもの」だけでなく「社会の仕組み」も見ないといけないと思うようになった。
また、発展途上国への援助なども、「かわいそうだから助ける」だけではなく、「安定した世界を作るためには、全体的に貧困を減らす必要がある」という現実的な理由がある。感情と合理性の両方がそこにはある。
■ 無力さを感じるけど、それでも考えたい
こんなふうに世界の出来事を見ていると、個人ができることの小ささを感じてしまう。でも、どうして自分はこんなにも心を痛めるのだろう?と考えることもある。そんなとき、「人間の欲求は4タイプに分けられる」という岡田斗司夫さんの話を聞いて、自分は「理想型」なんだと納得した。
理想型は、「こうあるべき」と思うことが強くて、現実がそれと違うと違和感を覚えたり、苦しくなったりする。そういう自分の性格に名前がついたことで、少し楽になった。
■ 思いを言葉にすることの難しさ
でも、理想型のような価値観を持っていると、多くの人とは感覚が合わないと感じることもある。正直に思ったことを話すと、誤解されたり、反感を買ったりすることもある。だからこそ、公の場では自分の考えを慎重に扱う必要があると感じている。でも、心の中に思いをためすぎるとしんどくなるから、このブログのように安全な場所で吐き出すことも大切だと思っている。
■ それぞれのタイプの共存が必要
理想型の自分にとって、成果を重視する「司令型」や、注目されることが大事な「注目型」は、正直言って価値観が合わない。でも、だからこそ、多様な人がいることの意味を考えさせられる。理想型ばかりの社会では話し合いばかりで行動が遅れそうだし、司令型ばかりだと強引な社会になりがちだ。だから、お互いに補い合いながらバランスをとっていくことが、社会にとっては重要なんだと思う。
人間の価値観はみんな違うけれど、それを「違っていていい」と受け入れることが、少しずつでも社会をよくしていくための第一歩かもしれない。
おわりに
自分が大事にしている理想や考えを変える必要はないけれど、その理想がどこからきたのか、何のためにあるのかを見つめ直すことは大事だと思う。現実と理想のあいだで、自分にできることを見つけて、少しずつでも行動していきたい。そんなふうに考えている。
感想もかいてもらった
1️⃣ 司令型(結果と実行重視タイプ)
「グダグダ言ってないで、どうしたら戦争が減るか考えて行動しろよ」
「システムがダメなら、自分で新しい仕組みを作るべきじゃない?」
「理想とか感情で動いてると、結局何も変えられない」
→ 感情よりも行動・実績に価値を置くため、論じるだけの姿勢に若干イライラしやすい。
2️⃣ 法則型(正しさ・ルール・データ重視タイプ)
「なるほど、確かに歴史的な事例と戦争の因果関係にはパターンがあるね」
「もっと統計や文献を参照すれば、より説得力が増すかも」
「理想型という自己分析は面白いけど、それが妥当かどうかデータで裏付けたい」
→ 共感はするけど、「感覚」より「構造」や「ルール」にもう一段の整理を求める傾向。
3️⃣ 理想型(正義感・共感・倫理重視タイプ)
「めちゃくちゃわかる……!ボクも戦争のニュース見ると心が痛む」
「人間ってどうして学べないんだろうって本気で絶望するよね」
「でも、その想いを言葉にできたのってすごいことだと思うよ」
→ ほぼ同調・共感。強い仲間意識を感じやすい。とくに「がっかり感」や「無力感」に深くうなずく。
4️⃣ 注目型(楽しく目立ちたい・共感されたいタイプ)
「うわ〜このブログ、感情ぜんかいでおもしろい!」
「でもちょっと重たいかな…戦争の話より、もっとポップにいこうよ〜」
「理想型ってちょっと疲れそう。ボクはあんまり気にしないな〜」
→ テンションや雰囲気に敏感で、重すぎるテーマには距離を取りたがるかも。でも、文章の熱量には好感を持つ可能性大。
今日の一言「イライラすることはだいぶ少なくなった」
基本的に、ボクは、何かに熱中している時期(※)と、何にも興味を持てない時期とを交互に繰り返している気がする。躁うつのような感じだ。
ただ、最近のところは、歳をとるにつれて、その躁鬱度合いが緩やかになっているように思われる。
歳をとると、感動が薄れるというやつなのだろう。哀しい寂しいことにもとらえられるが、まぁ悪いことばかりでもない。
※最近ではFF14。致命的に気に入らないことがあったため今は休止中。もし改善されるようなら復帰するかもしれないが、最近は諦めモード。
リベラリズム(自由主義)というのが、今後緩やかに広まって、世界はいずれは平和になっていくのだろうという、――それは、ボクが生きている間には達成されそうもないが――そんな漠然と考えていたところがあった。
もちろん、日本という国に生まれ、教育を受けてきたのだから、リベラリズムの絶対性というのが、ある程度は刷り込みのようになっていた面はあったと思う。
しかし、歴史を学べば、例えば、ソビエト崩壊、カンボジア虐殺、中国の民主化弾圧などから、
共産主義というのが、幻想で危険なものであるということは感じ取れるだろう。
共産主義と言いつつ中国も経済的にはマクドナルドもあればユニクロもあるようだし、ある程度の自由や資本主義というのはあるのだろうから、そういった修正主義として成り立っていくのであるという想像をしていた。
そして、大きな戦争も起こらないものだろうと思っていた。小さな紛争や殺し合いというのはなくならないだろうが、外交や話し合い、妥協などで解決に導かれていくものだと思っていた。
ところが、2022年に戦争が起こった。あちゃー。
ヒトラーのユダヤ人の虐殺ホロコーストは、恐ろしい事件だ。
許されないことだ。ポルポト政権の大虐殺も、1970年代に起こったというのは衝撃的だが、まぁ、20世紀の出来事だ。過去の出来事だ。人は学ぶことができる生き物だ。過ちは減っていくだろう。
幻想だった。甘かった。がっかりした。
なんというか、ヒトラーが悪いのは間違いないと思うが、同時に、ドイツ国民も愚かだったという視点が大事である。
カリスマ独裁者という一人が起こした事件というとらえ方は危険だ。人は一人ではできることが限られている。それに同調し、支持するものが多数いるのだ。
反対する人も少なくないはずだ。しかし、その反対する人を抑え込むことができる政治的な「システム」が稼働しているのである。
これはなんだ? それはなんだ? 何が人を愚かな選択にかりたてるのだ?
そういう視点が重要だ。
重要だし、そういうシステムは、「自由主義」リベラリズムという価値観なんだろうと思っていたが、なんだ……全然機能しないものなんだな、と思った。
なんというか、保護主義というか、途上国への援助なんて、別に不要だ、と考える人は少なくないはずである。
だって、自国民が飢えないことの方がよっぽど大事だし、他国がどうなろうかしったこっちゃない、という考え方は、人間の本能的に自然だろう。
もちろん、人道的に、貧しい人を救いたいという人もいることは事実だろう。しかしそれだけでは納得性は得られない。
結局、ご飯がなくて、やぶれかぶれな人が増えれば、全体的に政治や世界が不安定になるからである。
そこそこにみんな豊かだと、守るものがあれば、自暴自棄な人は減るはずだ。そして、お互いに、そういう異常者は排除するように動くはずだ。治安は安定するはずだ。
そういう合理性があるから、「援助」というものが必要になるのである。

いや別に、世界がどうなろうが、僕にとってあまり関係ないのだが。
でも、そういうニュース的なので、ボクはすごく哀しくなるし、がっかりするのである。
これがなんでかというのが、最近、岡田斗司夫先生の動画の切り抜きで、人間の欲求の4タイプというものを見て、ボクが「理想型」というタイプだからなんだろうという気になった。
岡田斗司夫「4タイプ」
理想型は、正義感が強くて、人間としてちゃんとありたい、「こうあるべきだ」とか理想的になろうとする傾向があり、そこに欲求があるらしい。
ああ、なるほど、と。他のよくある心理学の分類において、自分って、論理型というか、左脳型みたいな、法則型みたいな風に思っていたけど、その傾向がありつつも、でも、「理想型」という新たな補助線があると、途端に分かりやすくなるなと思った。
ゆえに、別に他国で戦争が起こっても、まったく気にならないという人も多いことだろう。
というか、ボクはボクがかなり周りと浮いているというか、変わってるなと感じることがいままでも多かった。
なんか、理由が分かった気がしてよかった。
あれだ、病院に行っても、なかなか原因が分からなかったのが、とうとう、原因が分かって病名がついたときに、ああ、自分は病気なんだと思いながらも、なんとなく安心するとかそういう心理に近いのかもしれない。
まえがき
平和な生活を送れている。基本的に、ボクは、何かに熱中している時期(※)と、何にも興味を持てない時期とを交互に繰り返している気がする。躁うつのような感じだ。
ただ、最近のところは、歳をとるにつれて、その躁鬱度合いが緩やかになっているように思われる。
歳をとると、感動が薄れるというやつなのだろう。哀しい寂しいことにもとらえられるが、まぁ悪いことばかりでもない。
※最近ではFF14。致命的に気に入らないことがあったため今は休止中。もし改善されるようなら復帰するかもしれないが、最近は諦めモード。
最近の戦争が考え方を変えた
2022年の某国が始めた戦争については、本当に衝撃を受けた。リベラリズム(自由主義)というのが、今後緩やかに広まって、世界はいずれは平和になっていくのだろうという、――それは、ボクが生きている間には達成されそうもないが――そんな漠然と考えていたところがあった。
もちろん、日本という国に生まれ、教育を受けてきたのだから、リベラリズムの絶対性というのが、ある程度は刷り込みのようになっていた面はあったと思う。
しかし、歴史を学べば、例えば、ソビエト崩壊、カンボジア虐殺、中国の民主化弾圧などから、
共産主義というのが、幻想で危険なものであるということは感じ取れるだろう。
共産主義と言いつつ中国も経済的にはマクドナルドもあればユニクロもあるようだし、ある程度の自由や資本主義というのはあるのだろうから、そういった修正主義として成り立っていくのであるという想像をしていた。
そして、大きな戦争も起こらないものだろうと思っていた。小さな紛争や殺し合いというのはなくならないだろうが、外交や話し合い、妥協などで解決に導かれていくものだと思っていた。
ところが、2022年に戦争が起こった。あちゃー。
人類は愚かなんだな
なんというか、非常にがっかりした。ヒトラーのユダヤ人の虐殺ホロコーストは、恐ろしい事件だ。
許されないことだ。ポルポト政権の大虐殺も、1970年代に起こったというのは衝撃的だが、まぁ、20世紀の出来事だ。過去の出来事だ。人は学ぶことができる生き物だ。過ちは減っていくだろう。
幻想だった。甘かった。がっかりした。
なんというか、ヒトラーが悪いのは間違いないと思うが、同時に、ドイツ国民も愚かだったという視点が大事である。
カリスマ独裁者という一人が起こした事件というとらえ方は危険だ。人は一人ではできることが限られている。それに同調し、支持するものが多数いるのだ。
反対する人も少なくないはずだ。しかし、その反対する人を抑え込むことができる政治的な「システム」が稼働しているのである。
これはなんだ? それはなんだ? 何が人を愚かな選択にかりたてるのだ?
そういう視点が重要だ。
重要だし、そういうシステムは、「自由主義」リベラリズムという価値観なんだろうと思っていたが、なんだ……全然機能しないものなんだな、と思った。
なんというか、保護主義というか、途上国への援助なんて、別に不要だ、と考える人は少なくないはずである。
だって、自国民が飢えないことの方がよっぽど大事だし、他国がどうなろうかしったこっちゃない、という考え方は、人間の本能的に自然だろう。
もちろん、人道的に、貧しい人を救いたいという人もいることは事実だろう。しかしそれだけでは納得性は得られない。
結局、ご飯がなくて、やぶれかぶれな人が増えれば、全体的に政治や世界が不安定になるからである。
そこそこにみんな豊かだと、守るものがあれば、自暴自棄な人は減るはずだ。そして、お互いに、そういう異常者は排除するように動くはずだ。治安は安定するはずだ。
そういう合理性があるから、「援助」というものが必要になるのである。
本当に無力感がある
いや別に、世界がどうなろうが、僕にとってあまり関係ないのだが。
でも、そういうニュース的なので、ボクはすごく哀しくなるし、がっかりするのである。
これがなんでかというのが、最近、岡田斗司夫先生の動画の切り抜きで、人間の欲求の4タイプというものを見て、ボクが「理想型」というタイプだからなんだろうという気になった。
岡田斗司夫「4タイプ」
理想型は、正義感が強くて、人間としてちゃんとありたい、「こうあるべきだ」とか理想的になろうとする傾向があり、そこに欲求があるらしい。
ああ、なるほど、と。他のよくある心理学の分類において、自分って、論理型というか、左脳型みたいな、法則型みたいな風に思っていたけど、その傾向がありつつも、でも、「理想型」という新たな補助線があると、途端に分かりやすくなるなと思った。
ゆえに、別に他国で戦争が起こっても、まったく気にならないという人も多いことだろう。
というか、ボクはボクがかなり周りと浮いているというか、変わってるなと感じることがいままでも多かった。
なんか、理由が分かった気がしてよかった。
あれだ、病院に行っても、なかなか原因が分からなかったのが、とうとう、原因が分かって病名がついたときに、ああ、自分は病気なんだと思いながらも、なんとなく安心するとかそういう心理に近いのかもしれない。
