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面白い感覚のズレ(ウォークラフト感想)
2016/12/26 00:25 | Comments(0) | 創作について
今日の一言「映像が綺麗でもストーリーがダメだと総じてダメだよな、というのは映画でもゲームでも同じ何だよな」

人間(オーク)関係が希薄

 オークと人間の橋渡し的存在を担うことになった女性性をもつハイブリットさんが、何故人間に心を寄せていくのかイマイチ理解ができなかった(というよりも、描写が足りなすぎる。一目ぼれして恋に落ちるレベルで理由が希薄)。

 うーむ。ユニバーサルスタジオジャパンさんが手がけているので、少し期待したけれども、結論的には残念であった。2時間を使うほどの価値はなかった。というよりもこれ、完結してねーじゃねーか! 主要キャラクターみんな退場しちゃって、え、これからどうなるの、って状態で、本当にそのまま終わっちまうという。これでヒットしたら続編つくろうかなみたいな考えらしい。
 それなら最初から、「1」とかうたってほしい。これは詐欺といっていいのではなかろうか、と思うぐらいだ。(前に、同じように、映像はきれいだけど、ストーリーは「今後にご期待だぜ!」的に終わった映画があった。あれ以来だ。その作品が何だったか思い出せないが)

 なんだっけ、シュレックとかいう作品は、結局スリーぐらいまで続いていた気がするけど、あれは、イチだけでも十分面白かった。ジュラシックパークとかもそうだろう。基本、映画は一本で完結して頂きたい。2時間の中にどうストーリーを描くか、そこが重要なんだろうと思うのだけど。

 うーむ。重厚なファンタジーであれば、やっぱりゲームオブスローンズにかなわないな。まぁあれは18禁といっていいほどで、一方これは全年齢向けなのだろうから、仕方がないと思うけれども、ただ、グロテスクとかエロティックが表現できないのならば、もっとストーリーの面で力を入れて欲しいと思わざるをえない。

 具体的にどこがどうだからよくなかったか、というのは、時間をかければできるけれども、もうそろそろ寝る時間だからそれはやめる。

その割に高評価である

 と、正直、全くおすすめできる作品ではないのだけれども、案の定(?)、高評価なのである。
 マス・コミュニケーションにおける宣伝効果なんだろうか。しかし、アマゾンさんでも高評価である。
 これ、実はシミュレーションゲームを題材にしているらしい。だから、そのファンとかが映像だけ期待していたり、という層もあるのかもしれない。

 僕も、ジュラシックパークの最新作は、とりあえず恐竜がかっこよく動いてたからストーリーはともかく満足した。しかし、このウォークラフトについては、原作を知らない自分としては正直楽しめなかった。


 というわけで、今回の記事として書いておくべきは、まぁ、いつも書いてることだけど、やっぱり、他者のレビューとか、あまりあてにならん、というわけだ。

 と、同時に、もう少し踏み込んで書けば、結局、「読者(視聴者)に受け入れられるような作品」を描こうとしても、万人受けするような作品なんて、昨今相当に困難なのである。
 みんな感覚違うのだ。来歴が異なっているのだ。普遍的な美、というのはあるかもしれない。かわいい女の子や綺麗なお姉さんは僕も好きだ。けれども、その「かわいい」とか「きれい」というのは、誰しも共通ではないのである。
 もっと複雑だ。例えば、最近流行っていたらしいドラマの女優さんは僕もかわいいし綺麗だと思うが、じゃあ近しい場面で一緒になったときに、その女性を選ぶかというと、これまたちょっと違うと思う。それは何故か、「様々な社会性」が影響するからだ。これについて書くと長くなりそうだからやめる。

周りに流されるな自分を信じろ

 取りあえず、思ったのは、その、なんだ、好き勝手やるしかないってことだよ。
 いや、他者の言葉を無視するとか、そういうことじゃない。そもそも、自分一人の考え何てモノ自体、幻想に過ぎない。
 その上で、他人の気持ちなんてもうおもんぱかるのを、できるだけやめようと思う。

 いろいろ考えて考えて、何時間もかけてメールしたとしても、思いなんて半分も伝わらない。
 いろんなパターンを考えて、会話に臨んだとしても、思ったように会話が進むなんて滅多にない。

 そもそも、「僕がどう思ったか」というのは、他者にとって全く関係ないことである。哀しいことだけど。

 だから、他人のことなんて考えても無駄だ。

 というのは、すぐさま書いておかなければいけないのは、そんなこと全くないということだ。他者を気遣い、優しくし、情けは人の為ならず、愛し、めでて、慈しみ、大切にすることが重要だ。

 その上で、やっぱり、他者のことに頭を及ぼす時間を、可能な限り小さくするべきだ。


 ものすごーく、端折って書いている。
 恐らく、自分ですら、読み返したときに、この意味をひろうことはできない気がする。でも、だ。
 とても大事なことを書いている気がする。

 明日になると、きっと、あまりの恥ずかしさに赤面して悶えるだろうけれども、でも、この感覚は、酒も入っていない素面におけるこの感覚は、書き残すに値するだろう。

目的を果たす

 他者の感情が重要なのではない。
 他者に幸せになってもらうという「目的」があった場合、それを達成するための行動方策が一番重要なのだ。

 こういったら、こう感じさせるのじゃないか、こう思われるんじゃないか、そんなことに頭を使うことが無意味であるというわけだ。

 愛して欲しい?

 そうじゃない、それは目的としてよくない。お前さんがどうしたいかだよ。愛されたいじゃあだめだ。「愛したい」であるべきだ。
 愛という概念がたとえで分かりやすい気がしたからそうしたけど、別にそれだけに限ることじゃあない。全部だ。生き方すべて。

主体的に生きる

 結局、主体的に生きるしかないんだ、そう思った。

 彼女がいらないわけじゃないが、積極的につくりたいと思うわけでもない、とある方にコメントを頂いて、まさに重要な感覚であると思った。
 それが目的になっていないなら、する必要が無いのであるが、しかし、いい歳して恋人もいないのか、とか、クリスマスに一人過ごすのか、とか、そういった外野的な言葉が脳内を占有する場合に注意する必要がある。
 そしてそれは、時に、実在する他者ではなくて、自分自身の声だったりもするから、よーく耳を傾ける必要があると思う(実のところ、彼女を欲しているというわけだ。しかし、それは何故かということを再度考えたときに、自分の周りはみんないるし……というものだったりして、これはよくよく無限ループとなる場合がある。危険やのぅ)。

モテたいという感覚への懐疑

 なんだっけ、話しがそれた。
 モテたい、というのは違うのだ。それって、女の子からちやほやされて、ハーレムをつくりたいということなんだろうか? そしたら、あ、暗くなってきたね、ちょっと灯りをつけましょうか、といって一万円に火を灯すぐらいお金がなきゃだめだろう。それに、ハーレムって、物語の中ではとっても素敵に思えるけれども、実際問題、お金たくさんもって、高級住宅たてて、5人ぐらいの女性を住まわせて、とかできたとして、その女性たちから「本当に愛されている」とか思えるだろうか? どーせ金にむらがってんだろ? とか思わなかろうか。いや、むしろ超越した感覚になるのだろうか、それはなってみなきゃ分からない。ただ一ついえるのは、何だかすげーめんどくさそうだ、という、僕の感覚である(かっこわらい)。

 となると、モテたいというのは、目的として何かおかしい。
 けれども、同時に、だ。イケメンの方が、はるかに得した人生を送れることは間違いない。(イケメンの定義は不十分だ。しかし、ここでは大して意味はない。単純に、ルックスが良い方がよい、というだけである。当たり前である。不細工よりは美しい方がいいし、汚いよりは綺麗な方がいい、単純な真理である。それに真っ向から喧嘩をうる仏教さんはんぱねーっす!)

 話がそれている。そうじゃなくて、つまりだ、モテたいとか目的になりえないことを考える暇があったら、誰か一人でも本気で愛してみろってんだ!

 ダメブロ界の方々の多くは、彼女欲しいとかそもそも思わないという。それに対して、負け惜しみだ、本当は欲しいに違いないとか、そんな批判をするのは全くもって無意味である。
 そうじゃねーんだよ、愛すべき対象がいないんだよ。
 というのは、「女性」という存在に対しての理想というか、求めるものがなくなってしまっているんだ。「彼女」や「結婚」といった事実が欲しいだけであれば、困難を極めるであろうが、それでも、努力で解決する範囲のことなのである。

 北村透谷という文芸家は、一夫一婦制のロマンティックラブに対して憧れ、一人の女性を愛することにした。しかし、現実の女性は違った。絶望した透谷さんは25歳の若さで自殺した。

 いやいや透谷さん、自殺何てしなくても、女性になんて憧れなくても、人生楽しむ方法がありんすよ、というのが、昨今増えてきている、おひとり様という新たな生き方、人生プランである。

プロットを書かないと収拾がつかなくなる

 あれ、この記事って、ウォークラフトの感想じゃなかったの?(かっこわらい)

 というか、上のロマンティックラブの話も、もう何度も書いてきたようなことの気がするし、ああ、やっぱり歳とってくると同じ話を繰り返しするようになっちまうのかのぅ……。

 ただ、脳科学的な、ダイナミックセンターコアという思考をつかさどる神経群の働きとして、繰り返し同様のことを思考することによって、斬新なアイディアが生み出される、ということなのだそうだ。
 人間、結局、興味のないことだとか、重要性が無い、と判断したことは、頭の記憶からすっぽり抜け落ちていくのである。一週間前の夕食が何だっか覚えている人は、ちょっと人生の重要度がおかしいんじゃないか、ということである。(もちろん、くだらないことだが書いておけば、その一週間前が彼女と祝ったクリスマスパーティーだったりしたら、話は別である)

 インプット無くして、アイディア無し。

 何か煮詰まったら、インプットに励むといい。そこから新たな解決策が見出すことができるようになるのだ。


 反対に、インプットもしたくないが、何だか悶々と苦しんでいるようなときは、取りあえずどんどんアウトプットするべきである。
 くだらない、と思っていることであっても、それは、数日後の自分にとっては発見になるかもしれないのだから。


 ……うーん、何か、うまい具合にまとまるかと思ったけど、残念、諦めよう。おやすみなさい。




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