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人間不信というよりも組織不信
2012/12/28 00:58 | Comments(0) | 対人関係
セールストークが嫌いだ。


別に数万円が惜しいわけじゃない。ただ、騙されるのが嫌いだ。

他者がよいといっても、自分でよいと思えないものは嫌いだ。


見ず知らずの人間に、自分の考えを変えられるのが嫌いだ。仕事は別だ。


ルールとかマナーは大事だと思う。それがないと、世の中不快なことだらけだと思う。それを性悪説といったりする。性悪説に基づく人間なんて滅びてしまえという人もいた。もっともだ。全員が悪だったり、善だったりするとは思えない。でも悪は必ず存在する。ゼロじゃなければ、やっぱりルールもマナーも重要だ。

いやいやそのルールこそ、人間の善が形になったものだというのも一理ある。そうすれば性善説だ。だから、性善説も性悪説も、どちらも一面的であるというのが正解だ。

哲学というのは、そういう考え方もあるよね、ということに使えるが、結論を出すのには不向きだ。

もちろん突き詰めた哲学は、鉄壁かもしれない。しかし、凡人に理解できないレベルになったとき、哲学は思考から離れていく。

仕事の一番大切なことは、シンプルさだ。しかし、人生とはアナログで、境界がなく、複雑だ。
それゆえ、複雑な人生をシンプルにしようとする哲学の価値は色褪せない。


ただし、真理など、存在しないのではないか、という考え方もある。仏教でいう縁起や、社会学でいう関係性や相互依存。


僕は今、後者の考えに近い。究極には、自分なんて、自己意識なんて存在しないという、受動意識仮説に賛成だ。

これは、唯物論と言い換えていいと思う。モノの集合の関係性が、世界をつくっているのだという意味である。これは、AとBの間にCというモノを想定するのではない。AとBそのものが、関係性としてある、ということだ。

ある、そう表現すると、モノの集合であっても、自分という個体は存在するともいえる。ただ、自分の本質を自分の中に探していっても、単一のモノがあるだけになる。自己はない、とは極端な表現で、自己の本質はない、といえば適切だろうか。


ともかく、陥りがちな、考えるということ、それは自分の頭の中で完結してはいない。考えるというのは、目をつぶっていたとしても、様々な環境によるインプットの中で存在できているのだ。




何故こんな話しになったかといえば、自分の考え方を他者に変えられるのがイヤだということからだ。

何故他者が自分の中に入ってくるとイヤなのだろう。それは、生存欲求だ。共存ではなく、他者にのっとられる、それは死を意味する。

しかしアポトーシスとは何か。細胞の自発的な死といわれる。細胞は、何を生かすために、死を選ぶのか。

選ぶ、細胞に意識はあるのか。意識とは何なのか。


解決したいのは、この不快な感情だけなのだが。

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