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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「人間怖いけれども優しさもある」「いつも以上にメモ的な記事」



体調の回復

 大分体調が良くなった。
 外に買い物に出かけたのも良かったのだろう。家の中にずっといるのは、やはりよくない。朝は平日と同じく起きて、少しでもいいから外出する。目的はどうでもいい。とにかく外出する。これを一つ、習慣にしてみよう。実践できなかった時は、その時はその時で体調の状態を記録することにしよう。
 

温かいコメント

 たくさん、コメントをもらえて遠藤は果報者であることを認識した。
 本当は、弱音を吐くべきではないとはいつも思うけれども、この土日は本当に具合が悪かった。ある意味、明確に風邪ならいいなぁと思うぐらい。

>自分の精神状態をよい風に持っていくには感覚を大切――要するに解釈をいったん捨てる
 これも、外出の目標と同じく、実践してみたいと思います。本当は、坐禅とか生活習慣に取り入れたいと思っているのですが、これも中々定着しないですね。ただ、自分にとっては喫緊必要な習慣かもしれないと今回改めて思いました。

>PSvita
 買い物ついでに見てきました。実物をみると、やはり画面が小さいなぁと感じました。ゲームはやはり大きな画面(PC)でやりたいなぁ。しかし、3DSLLでモンハンやってたころも、やり始めたら全然気にならなくなっていた。要は慣れだろう。ただ、スマホでゲームする気にはなれない。
 とかいいつつ、ペルソナ4ゴールデンとかシュタインズ・ゲートのソフトも一緒に売っていたら衝動買いしてしまいそうだった(笑)。改めてアマゾンさんで注文するか要検討。三国志13とか衝動買いしたものの、結局オープニングみただけで一度もやっていないとかなるともったいない。

原因

 今日も、まぁ、その、うつらうつら、起きているか寝ているかが大半を占めていたけれども、一つ、憂鬱な原因が判明した。
 やっぱり仕事のせいだった。
 夢で仕事しているのを見た。
 おかげで一つ、問題の解決策が浮かんだのは本当に皮肉。

 来週、気が重い案件がたくさん(といっても、問題自体の数的には大きく2つだが、その解決に至るためにすることが多数……)あるので、休日といえ、気持ちが休まらなかったのだろう。

 創作も、投資の勉強もまた、生産カテゴリなので、エネルギーが必要なのである。

 そういう時は、それこそ、感覚を良い方向にもっていくようにした方がいいわけだけれども、ただ、完全なる消費活動は、結局、問題を後回しにしているに過ぎない。

 その点、「書くこと」、ブログは、生産と消費の、ちょうど中間な気がする。文字が残っているからある程度「生産」だし、思うがまま書いているのは(感情の)「消費」でもある。だから具合悪い時にちょうどいい作業なのかもしれない。

 くそー、しかし、気が重いのは変わらないぜ。


(かっこ書きである。うーむ、嫌いなんだよなぁ、嫌な思いを引きずるってのが。しっかし、平身低頭謝るしかないとか、怒られるしかないって状況になってしまうと、まぁもう避けられないわけであり。そうならないようにしてきたのに、それが無駄だった(というと大げさだが)というのも、余計に骨身にこたえる。うーむ。どうしたらいいんだろうなぁ。どうにもならんなぁ。……おっと、このループがアレだ、闇に向かう道である。早速、温かいコメントを活かし、解釈を捨て、快感を見つけるために無心を目指そう)

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今日の一言「体調が良くない頭が痛い」「友人との約束を二つもボツにしてしまった」



退廃した体と心

 金曜日飲み会、24時半に就寝。
 土曜日、10時半に目が覚める。頭痛。倦怠感。
 何とか起き上がり、パソコンを付ける。投資の勉強・調べものを1時間ぐらいする。体調はなお悪い。布団に入る。
 13時目が覚める。買っておいたパンを食べる。体調なお悪し、布団に入る。
 16時目が覚める。カップラーメンを食べる。体調なお悪し、布団に入る。
 22時目が覚める。つけ麺を作って食べる。体調なお悪し、今ここ。

 寝たり起きたりを繰り返すが、一向に体調がよくならない。
 熱は測っていないが多分ない。頭の重さ、鈍重な痛みと倦怠感が続く。

 これは、身体的な症状もそうだけれども、どちらかというと、精神的な不調も原因であると思われる。


 精神的に、とても、具体がよくない。
 分かっている、これは、今にはじまったことではない。何年も何年も、昔から続くうつ状態(うつ病とは言っていない)の症状だ。
 明確なうつ病というよりかは、「精神因性神経症」である。これは、自分の意思において、生ある状態から意義消失することを意味する。

 この状態を防ぐには、もはや、「書く」ということしか残されていない。少なくても、それ以外の方法で、自分自身を回復させられたことは思い浮かばない。

 人に話したらどうか?
 否。先日の飲み会においても、友人との会話においても、このブログで書いているような、「実感」としてあるものについては、本質的な表現で語ることができるようになった。つまり、できるだけ多くの人に受け入れられやすいような表現で語ることができるようになったという意味である。例えば、明るく元気に生きることは大切だ、とか。

 しかし、そういった人との関わり交流においては、気分の悪さがより明確になっていく気がするのである。理由は、「結局合わない人はいる」「さらに深い部分での共有はできない」「会話は泡のように消えていき信念化が難しい」などが思いつく。だがまずは、そういった理由を挙げるより、実際に気分が改善されないという事実に目を向けるべきである。


 本来的に、人は、人の中で生きていかざるを得ないし、その中で幸せや快感や喜びを得ていくべきものであるのだから、以上の症状は、「病気」として考えるべきだろう。

二つのブログ

 布団の中から、新しく、二つのブログを読んだ。
 一つは、LGBTで発達障害の方の過去に体験したエッセイ。とても読みやすい語り口調で、いわゆる「健常者」には分からない世界の見え方が、分かりやすい比喩を交えて書かれていた。
 一つは、美人で若い女性が、出会った男性たちにダメ出しをしていくブログ。これも、「それはひどいなぁ」と思わせられたり、ああ、やっぱり美人はそういう思考なのだろうなぁと思ったり面白かった。

 これらのブログが、具合の悪さを助長したのかどうかは分からないが、僕に生じたのは、一つ目は、「あなたの苦しみは良く分かる。自分を理解されないという苦しみや、いじめられたりいじられたりする苦痛は忘れようとも中々忘れられないというのはよく分かる」といったことを、何とか伝えたいなぁということ。
 もう一つのブログの方では、人間ってめんどくせぇなぁという気持ち。

 まぁ、二つ目のほうは、もう少し後でもっと掘り下げて書いてみよう。
 一つ目のほうは、確かに、「共感」という感情が浮かび上がったものの、しかし、その僕の中に生じた「よく分かる」という気持ちが、なんと傲慢で醜いものか……と自分自身が嫌になった。
 ああ……この感覚の変化が何故起こるのか、僕もよくわからない。わからないけれども、きっと「純粋性」への希求なのだろう。
 つまり、菩薩の心、神の心を持ちたいという憧れなのである。――飛躍したか? もう少し書けば、つまり、「その人を救いたい」という気持ちに根差さなければ、いくら「つらかったね。苦しかったね。よくわかるよ。頑張って」と思ったところで、それは浅ましい自己保身なのではなかろうか、という思いが僕の中に生じるということである。

偽善でもいいと思うが

 分かりにくいだろうか?
 もっと書くと、偽善と善との話になっていく。僕が依然ある友人へ、偽善と善も本質的には変わらないのだ、その行為が尊いのだ、と必死に語ったのは、僕自身、「偽善」の塊のようなやつなんじゃないかと、薄々自分のことを思っているからである。

 この点、つらいから、あまり書きたくないけれども、これもある友人から言われた、「結局お前は自分のことが一番なんだろ?」というのは、言いえて妙である。

 やっぱり……そうなのか、と、どん底に陥った(かっこわらい)。

 俺が、他人の幸せを願うのは、全部偽善で、全部自分に利するところがあるからなのか。
 真に、他者の幸せを願っているわけではないのか、と。

 だが、俺はやっぱり分からない。菩薩の心つーのが分からない。
 菩薩は、確かに、衆生を救うために一生を使うのだろう。小乗(上座部)仏教で目指される阿羅漢(己の悟りを目指す)とは違う。
 しかしそれは、他者を救うという行為が、自己の存在規定(レーゾンデートル)と一致したという状態に過ぎないのではないか。
 過ぎない? 愚かしい記述だ。そんなことを言い出したら、人間は食らって糞出して死ぬに過ぎない存在ってことになるが、そんなことはあるまい。人間の生はそれだけで素晴らしいものだ、美しいものだ。生きてるってそれだけで良いことなのだ。

 ――っていうことを、俺は思えない。
 これが病気だと思う。

 生きていることに何の価値があるのだ。
 おいしいものを食べることになんの意味があるのだ。
 美人とセックスして、快楽を得てだからなんだというのだ。
 子供をつくって育てて、それがなんだというのだ。

 全部、いずれ必ずおとずれる死、に向かう過程の一つに過ぎない。



 ……。んなはずねーよ。そんなことはない、生きていることは素晴らしいことなんだ、って、そう思うこともあるのだけれども。おいしいもの食べたらそれだけで幸せになるのは間違いないのだけれども。人と会話して、ぶつかったり、その中で共感する部分があったりしたときの心地よさは決して無意味ではないと思うのだけれども。

 ただ、具合が悪いと、どうしても、そっち方面、暗い感情の方へ引きずり込まれていく。

廃棄物と漂流物

 ドリフターズという漫画があって、歴史上の偉人たちが、現実世界における死に際に異世界に送られて、どったんばったん活躍するという作品である。
 で、その偉人たちが異世界におくられる際に、「廃棄物」か「漂流物」か選ばれるのだ。
 廃棄物になると、その異世界における人類を根こそぎ滅ぼそうとする勢力に加わる。
 漂流物になると、まぁ、世界を救おうという気があるのかはわからないが、廃棄物と対抗する勢力に加わる。

 俺は偉人じゃないから、死に際に異世界に送られることはないけれども、もし送られるとしたら、廃棄物と漂流物の、どっちになるのだろうか。

 漂流物となった薩摩藩士の島津豊久とか、織田信長とかは、まぁそりゃあもう残虐なことをしたりする。「死生観が違うのだ」と語られる場面もあるが、「人を裏切る」「殺す」という行為自体で、漂流物と廃棄物に分かれるというわけではないのだろう。

 僕は、「人を好きか」というところが、ポイントだと思う。
 
 廃棄物の方は、人類(国や部族など)を救おうとして、結果的に敗れたり裏切られたりして死に直面した方々だ。「人」という存在に対して、根源的な恨みを抱いたのだとしても不思議ではない。
 人は……というか、生命は、自分以外の生命を奪いながら生きている。それが自然の摂理なのだと言ってしまえばそのままなのだが、その行為過程自体が、どうしてそれだけで「素晴らしいもの」といえるのだろうか?

仏門に入っても同じこと

 ベジタリアンになれということではない。肉、旨いし。
 つーか、菜食主義者でも、植物、生きているでしょ? どうしても、命を奪って生きていくしかないのである。

 そういう意味では、僧侶になっても、この連関からは逃れられない。

 唯一、終わりがあるとしたら、輪廻転生を信じないのであれば、明白だろう。だが、それしかないわけだ。


 と、いうような思考が、布団の中で延々と流れるわけですよ。
 もう起き上がる気力もありませんな(かっこわらい)。

 こんなこと、表現できやしない。
 こんなこと誰かに相談しても、よくて「ま、まぁがんばれや」と引きつった笑いでいわれるか、「きもっ」と避けられるか、「じゃあさっさと死ねばいいだろ!」と怒鳴られるかである。

 なので言わない、言えない。
 せいぜい、「人の一生は限りがあるんだから、死に際に『ああ、素晴らしい人生だったなぁ』と思えるように、できれば日々の生活の中で、『生きているって素晴らしいなぁ』と思えるようにやって行こうぜ!」と言うぐらいである。これは全くその通りに思っているが、実際、この表現の内に潜む、というか、根本命題的なものは、「生きているって、本当に意味があることなのか?」ということである。

生きていることに意味があるのか

何のために生きるのか、人生の意味を探し続けています。最近はやっぱり人生に意味はないのではないか、生きることに意味がないなら早く死んでしまった方が得なのではないかと思ってしまっています・・・

 これもとあるブログさんからである。
「得か」という表現の部分は、やや違和感がある(損得というよりも、むしろ命題として「すべき」といった感覚が僕は強いかもしれない)けれども、ほぼ僕が暗い感情に引きずり込まれている際の感覚を表現されていると思う。

 ある精神科医さんの著書によれば、「精神因性神経症」といって、現代人に増えてきている症状だという。これはうつ病とかよりも、むしろ精神医学的に「健常」の状態のほうが、顕著に表れるという(深刻なうつ病の場合はむしろこんな「生きる意味」とか考えられるほどの元気がない)。


 まぁ、別に病気だろうが何だろうが、いいんだけどさ。
 何が困るかというと、もうほんと、「どうでもいい」と思ってしまうことが問題である。

 すぐさま死にたいとか、生きたいとかそういうのではなくて、何もしたくないし、何もできなくなるのである。


(かっこ書きである。あーもう、これ仕事のせいもあるな。正義だけじゃあやってけないし。効率とかずるがしこさとかもねぇとやってらんないとかストレスだな。シュタインズ・ゲートも見終わってしまったせいもあるかもな。でも、劇場版とか、シュタインズ・ゲート0(zero)というのもあるらしい。ゲームも買ってみたいが、win版はwin7までしか対応してなかったこの野郎。PSvita買うかな、しかしソフトも含めて結構高いのな。不人気と聞いていたからもっと値下がりしてるかと思ったが。そういえば、シン・ゴジラも観てみたいな。エクゾスカル零と覚悟のススメもみたいな。ナイツ&マジックもみたいな。ペルソナ4ゴールデンもみたいな。……って全部消費系じゃないか! 生産的なことしろや! ……しかし、その、生産への欲求というよりも、強迫観念が逆にうつ状況をつくりだしているのかもしれない。うむ、つまり精神力が低い人間だということじゃ。とりあえずルーチンは無理やりでもする)

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今日の一言「やっぱり長くなった」「基本的に、『面白い作品を書ききる。今年度中に。』というだけの内容」

神を信じられるなら問題は少ない

 実感のまとめの、実感レベルが高いものを引用。

1人はいずれ死ぬ。有限の存在である。 高
2未来のことは誰も分からない。リスクはゼロにはならない。 高
9実感が大事。実感の積み重ねが価値観。価値観の総体が信念。 高
22理念としては世界平和、自由、平等、正義が大事。しかし実現性が問題となる。 高
23社会とはルールの体系である。体系とは一定の法則のまとまりのことである。 高
24ルールとは約束と決まりである。しかしそのルールの根拠は「信頼」である。だから信頼、信用は大事である。 高
28宗教とは信仰を取り扱う「科学」である。 高
36ルーチン日課を続けることは散漫な注意を集中させることに意味がある。 高
37創作をすることは重要である。人生は物語であるから。 高

 しばらく経ってから読み返しても、大きく批判したい気持ちは起こらない。ただ、もうちょっと、分かりやすく、かつ短めに表現できないものかなぁとは思う。

 他者のブログなど読んでいると、様々な「信じているもの」というものがある。プロフィールに、「私の前世はノアの箱舟プロジェクトに参加したのです」とか「神々との対立から与えられた課題は現在は瞑想によって解決しています」とか書かれていて、びっくりすることもある。

 他者がどんな考えをもっていようが、たいていのことでは驚くことはないのではあるが、やはり世界(日本)は広く、人はたくさんいるのであるなぁと思う。

 馬鹿にしているわけではない。
 たとえば、最近とある作品のことを記事にしているが、「アニメ面白い! まじ感動した」という主張が、そもそも、「うわ……いまどきそんな人いるんだ。アニメなんて子供がみるもんでしょ? 30代で……きも……」と思う人もいるだろうと思うのである。
 そういう人たちの存在を考えたうえで、なおかつそういった記事を書くというのは、「神さまはいまーっす! しんじてまーす!」というのと、あまり変わらない。

 この「変わらない」という表現も難しいものである。ここで言いたいのは、「善」と「偽善」も本質的にはあまり変わらないという意味においてである。実際、アニメが好きというのと、神様が好きというのとでは、次元がまったく異なるともいえる。


 そして、その「神様を信じる」という行為自体、僕は否定する気にはなれない。
 神様なんて信じるのは怪しい宗教である、と切り捨てたくなる気持ちもわからなくもないが、「信じる」ことができるのは、これまた人間としての能力である。恋愛を信じる、友情を信じる、いろんな「信じる」があるが、その対象が、目先のものではなく、より高次なもの(神)に向かっているというのは、逆に素晴らしいことではなかろうかと思う。

 ただ、僕は、残念なことに、「神」を信じることができない。
 いや、それどころか、すべての、「信じる」という行為ができない。

信じることと自分を委託(コミット)すること

 虚脱感。黄昏。
 簡単に表現すると、そういった言葉が適切に思えるが、どうにもこの感情の対処に苦慮している。

 これもとあるブログを読んでいてのことだが、
・テレビ見ていて笑ったり、ご飯食べておいしいと思うことはある。しかししばらくしたらまた暗黒世界だ
・人生がつらいと言っていた人が、仕事を見つけて、頼りにされているというメールをもらった。喜んで、よかったねと声をかけたが、その人は、前と同じように「つらい、さみしい」のだという。

 といった表現に出会った。

 これ、分からない人にとっては、「何甘えてるの?」で一笑で終わる。

 逆に、親しい人に死に別れたとか、彼女にふられたとか、大金を失ったとか、そういったわかりやすい悲劇のほうが「ラク」だったりする。

 明確な弱者に対して、人は優しい。国も社会も集団も、困っている人や弱っている人は大切にしようとする。
 むかーしむかしは、「戦えない奴は潔く腹をかっさばいて死ね」とか言われたかもしれないが、昨今現代社会特に日本は恵まれている。弱者にとっても、居場所が与えられる社会である。男女平等、貧困撲滅、自由平和である。
 そういう意味で、発達障害とか、今まで「変わった人だね」ですまされていたのが、「病気」として扱われるようになるということは有意義であるともいえる。

 ただ、「弱い人や困っている人を助けましょう」ということだけを、学校の道徳で教えていれば、それが「正解」だった時代は、もう終わってしまっていると僕は思っている。
 ここですぐさま書くべきは、僕は、その理念が間違っているとは全然思ってないということだ。実感表の22番、「理念としては世界平和、自由、平等、正義が大事。しかし実現性が問題となる。」ということである。

 この「しかし」の部分が重要だ。
 理念としての「正義」を考えることが、必ずしも役に立つわけではないということだ。無駄ではないと思う。しかし、その正義をどう実現するのか。「力」が必要だ。昔であれば暴力、資本主義社会でいえば「金・資本」。

小見出しおかしくなったな

 上の小見出しは失敗である。
>信じることとは何か

 という問題提起であった。だが、この問題は、僕にとってもうあまり重要性がない。
 神だとか、スピリチュアルとか、お金だとか、よく巷で価値があるとされることがあったとして、それらが「嘘」とは思わない。
 問題は、「僕」が、それらを信じることができるのか(=委託(コミット)できるのか)ということである。

 コミットとか、横文字使ってかっこ悪いと思うが、どうにも、この言葉がしっくりくるのだ。
>委託する、引き渡す、ゆだねる、付する、(…に)身を任す、(審議のために)委員会に付託する、掛かり合いにさせる:、(責任上)引き受ける、(…を)約束する、約束する

 英和辞書をひけば、こんな感じ。僕は、身を任すという意味でよく使っている。(どうでもいいが、これ、マッスルになる会社のCMで使われる前から使っているのだ。だから何だということだが。ちなみに、そのCMでの意味は、結果を約束する、という意味ではなかろうか)


 で、その身を任すということだが、「何に?」というのは明らかで、「自分の人生に」ということになる。

 ここで、実感表の1番、「有限性」についてが重要になる。

愚痴を言う人を否定したいわけではない

 この記事――というか、このブログ全体が、巨大な愚痴のようでもある僕が言えたことではないが、ネガティブな人とか、ぐちぐちした人を否定するつもりも、嫌いでもない。むしろ好きだ。

 が、その行為自体は根本的に否定している。(めんどくせーやつだな)

 実感表の3番、これは、実感レベル中であるが、「楽しむことが重要。苦しみ自体に価値はない。苦しみの低減を望まないのは生存欲求と反する。」というのもある。
 つまり、うえで取り上げた、「少しの幸せはあるが、また歳を重ねるにつれて、気持ちが落ち込んで暗黒になっていく」という人の在り方は、認められないということである。

 中途半端である。
 だったら、早く死んだほうが幸せなのではないか? と、これは割かしマジで思う。こんなことを思う人間は、この幸せな現代社会には認められないだろうとも思う。許されざる人格である。サイコパスで出てくる潜在犯の矯正保護施設に送られるべきであろう。

 いやしかしだ。
 きっと、精神科医フランクル氏は反対するだろうが、不治の病に侵されて、体を蝕まれ、耐え難い苦痛に泣き叫びながら残りの時間を過ごさなければいけないとした場合――いやもちろん極端な例だが――すぐさま死を希うのではなかろうか。

 もちろん。
 人には生存欲求なるものがあるため、潜在的に「死」を恐怖する。(そういった意味で、ドリフターズに出てくるトヨちゃんとか武士の死生観は驚くべきといえる。ただ、その観念を取り入れようというのは愚策である。しかし、ときおり、「大和魂を復活すべきだ」とか主張しだす人も発生する。日本人は平和ボケしてダメだ、もっと対外情勢に対してなど危機感をもたねばダメだという主張もわからんでもないが、これもドリフターズだったかもしれないが、他の作品でもみたことがあるが、人は基本的に「自分の死は信じられない」ものである。あまり好きな表現ではないが、あらゆる芸術(物語)は死からの逃避である――というのは、まぁそんなに外れてないとも思う)
 ので、さっさと腹をかっさばいて死ね、というのも無理がある。

 とはいえ。
 毎日毎日、苦しい、俺なんて死んだほうがいいんだ、人生全然よいことなんてなかった……。
 なんて、どんな拷問ですかと。としたら、その生きていること自体を認めて、愚痴を吐く時間を、「幸せ」とは何かを考える時間にしてはどうかと思うわけである。

 まぁ、上で取り上げた方は、「若いときは楽しかった」と書かれていて、この辺りはちょっと共感できないな、とも思っている。
 僕は、ループものが結構好きかもしれないが、戻りたい過去とか、一切ない。そういう意味では、実感表12番「言い訳や文句、後悔は役にたたない。反省と再行動は役に立つ。」をちゃんと実践できている気がする。

 マジックワードで、
「日々ますます、あらゆる面であらゆることが良くなっている」
 といったようなことを、毎日鏡の前で唱えていると、本当に人生が改善されるという。

 よく覚えていないが、昔、失恋してショックを受けていたころ、1か月ぐらい実践したところ、確かに効果があったと思う。とかいうと、スピリチュアル乙! となるが、まぁ、人の心は、ある意味では、それほど科学的でも複雑でもないということである。

 ただ、じゃあ今この実践をやってみようか、というのはちょっと違う気がする。
 どっちかというと、もうこれは信じているのである。

 前にも書いたけれども、仕事でうまくいかなくても、離婚した後であっても、「ああ、生きていてよかったなぁ」なんてことを、ふと思ったり、口にしたりするのである。


 しっかし。
 実感表6番、「ただ生きてるだけで意味があるというのは認められない。」のである。

生きてることにコミットしやがれ

 あー! 長くなってきた。
 こうならないように、実感表をちゃんと引用して、余計なことを書かないようにしているというのに。

 なんというか、答えは、書き始める前に、考えて、なんとなくメモしていたのである。

・面白い作品を書ききる。今年度中に。


 というものである。
 仕事もする。投資の勉強もする。女の子とデートもする。

 が。
 最大優先順位は、創作に置くということだ。

 なんで? と言われても上手く答えられない。
 ただ、10年後、20年後に、「お前、30代前半に何してたの?」と(自分に)言われたときに、「これを書いた」と言いたい。
 そんな漠然とした感じ。
 とりあえず、前段階として、1~2年前ぐらいに、「作品を完結させる」という目標は達成している。次は、「自分自身本気で面白いと思えるものを創る」ということだ。

 これ、とても難しいものではある。「本気で面白い」って、そもそも俺は、何を面白いと思うのか。
 その、面白いというものを、「感じる」のではなく、「創る」というのが、本当に可能なのか。
 その、「本気」とは、どういう意味なのか。


 ただ、期限をつくる必要はあるのか? というのについては、必要だと思う。
 間違いなく必要だ。

 実感表1番、「人生は有限である」ということだ。
 しかし、理由はそれだけではない。人は、自分の死を有意に想像することはできない。「明日がある」と思ってしまう。その根拠なき「信じる」ということ! 神様やスピリチュアルを信じることと何ら変わらない。我々は、一番大事なことをわかっていながら、その生きてることに対して哀しいほど無自覚なのだ。

目標と実践

 さて、目標が決まれば、実践のための小目標を立てていかねばなるまい。しかし、シュタインズ・ゲートのゲームもやってみたいし、――PSVITA?でも買うか――そもそも今年度と来年度、仕事が忙しい気がする。その後どうなるかは、今年度次第かもしれないし。……と、まぁ、言い訳しようとすればいくらでもできる。仕事ってのは便利である。手軽に、自分の意義っつーのを与えてくれる。どんなつまらない仕事でも、誰かの命令に従うだけでも、そこにいることによって、自分という存在を意識することができる。

 話が若干変わるが、メモしておこうと思ったのは、俺の来歴として、10代ぐらいのとき、非常に大きな欲望(成し遂げたいこと)があって、それが諸所の事情でダメになって、そこから代替的な目標を立てて、上手くいくことがあればダメなこともあったで、まぁ平々凡々やってきた、と。ただ、その10代ぐらいのときの欲望からの挫折(諦念)によって、僕は、人生にコミットすることができなくなったのだと思う。
 わかりやすく書けば、「(自分に対しての)言い訳」が上手くなったのである。

 これは、よいことでもある。失敗しても、それほど落ち込まずに、次の行動にうつることができる。
 でも、だめなことでもある。自分の人生を、自分のものだと思えなくなるのである。

 失敗したことや、苦しいことや悲しいことも、さっさと捨て去ることができる一方で、良いことがあった、上手くいった、成功した――それらの体験も、自分のものだとは思えなくなるのだ。

 僕が、上のほうで取り上げた人に対して「苦しいと思っているならそれを解釈して幸せの方向へもっていかないと人生もったいなくない?」といったのは、つまり、「諦念のススメ」でもあるわけだ。

 それは果たして、万人に勧められる良い方法なのだろうか?

 ここで、実感表2番「未来のことは誰も分からない。リスクはゼロにはならない。」というのも関係してくる。
 完全に、自分の人生にコミットすることは、確かに、人としての生きざまとしてかっこいいことは間違いないが、しかし、漫画やアニメじゃないので、失敗という可能性もあるのである。物語では、失敗した結果、それを糧として成功に導いてハッピーエンドというのが多いけれども、失敗したらすぐさま「腹掻っ捌いて死ぬ」だとか「なーに、失敗したら単に死ぬだけよ」と諦念できるものだろうか。

助けを求める方法

「なーに、人生、なんとかなるさ」

 正直。
 特に問題もなければ、苦痛もなければ、悲しみもなければ、何もない。

 涅槃寂静。
 心が凪のように穏やかである。

 なので、僕が一般に「弱者」なのかというと、たぶん違うと思うし、「ダメ人間」カテゴリにブログ村を選択してよいかというと、それもダメな気がする。

 じゃあ、至極一般、普通の人だと。幸せに生きていく人の一員だと。

 ――そういわれると、なんか、これも、シュタインズ・ゲートの感想がうまく書けなかったのと同じに、なんか違和感なのである。
 繰り返しになるが、この違和感は、「甘ったれるな」で切り捨てられることであるので、誰にも相談ができない。そういう意味で、孤独なのだが、じゃあ、「友達ゼロのおっさんが孤独に生きるブログ」と題せるかというと、ふつうのことを相談できる人はいるし、それもちょっと違う。

 そもそも、この違和感について、特定の誰かに話そうという気になれない。
 いや、話さなかったら理解なんてされるわけないっしょ、というのはもっともだ。

 でも、そもそも、自己責任という言葉が流行るこのご時世、結局最終的には己が判断をくださないといけないとしたら、他者との会話になんの意味があるのか。

 いやいやわかっている、そんなこと言うやつが、そんなことをブログに書くなんて卑怯じゃないかと。
 そう、だから、なんか、一人は嫌なんだ。寂しいんだ。孤独なんだ。だから、「公開」して書いているのだ。
 でも、適切な他者の求め方が分からない。相談の仕方が分からない。相談されることはあっても、人をどう頼っていいかが分からない。教えることはできても、人に教えを請うやり方が分からないのだ。

コミュニケーションとは

 人との会話、コミュニケーションについて、情報伝達であるとしたのは、実感表29番「コミュニケーションとは情報(意思)伝達のことである。そして、コミュニケーションの目的は、相手を自分の意図通りに行動させることである。」の、実感レベル中である。

 これはまぁ、実感が高い方なのであるが、これもいけない、よくない定義かもしれない。

 コミュニケーションのもつ、「感情統制」の機能を書けて(表現できて)いない。

 人と会話することによる、ただそれ自体の効用・意義というものについて、僕は上手く実感できていないのだろう。ただ、その必要性とか、実際に存在するということ自体は信じられている。でも、それをどうやって使えばいいかが分からない。

 この点が、「お前、人に興味ないだろ」と言われる所以だろうとも思っている。
 人に興味がない……のではなくて、その会話の「意義」について、無意識に求めてしまう心性がよくないのだろう。その人が好きな映画とか、好みのタイプとか、デートのときはとても興味をもって聞ける。でもそれは、その人と親しくなるための目的だったり、次にあったときの会話の種にするためだったり、プレゼントするときの材料だったり、目的があるのだ。――あー、なんか、こうやってかくと、やっぱり、おれは最低な人間で生きている価値がない気がしてくるな(かっこかなしいわらい)。ただ、その人が喜ぶ顔がみたいとか、そういった優しい気持ちがないかというと、そんなことはなくて、喜んでくれたらうれしい。――と同時に、喜ばすことができたという自分の行為にとっての安心感もあるのだろうという「邪推」も自分の中に発生してしまうが。


(長くなったので強制かっこ書きである。この、「人への頼り方」と、コミュニケーションの感情機能について、もう少し掘り下げて書かねばなるまい。人に頼るぐらいなら自分でやってしまうタイプである。これはよくない。よくないのは分かっているので、できるだけ人に仕事を割り振ったり、お願いするようにはしているが、それ自体が結構ストレスの原因だったりする。もう一つ、雑談の効用についてもよくわかっている。専門的にはアイスブレイクとかいうのだったか。ただ、それゆえ、そもそも「効用」といった言葉がまっさきに出てきてしまう点がもうダメダメである。心底会話を楽しもうという気持ちがもともとない。――あ、だからか。だから、SNSとか、ツイッターとかも苦手なのか。ブログはどっちかというと独白である。相互コミュニケーションの面もあるが、自分の考えの整理(もしくは、お金系スピ系の場合は「教化」)の面が強い。ああやはり、いろいろな面で実感を37個ぐらいも挙げても、まだ新しい気づきがあるのか。まだまだやること、考えることは多いわけだな。「衛府の七忍」という漫画も面白そうだ。しかし連載中なのか。その前に、「エクゾスカル零」か「覚悟のススメ」を読んでみるか)

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今日の一言「虚脱感」「21話までは文句なし首位」

永遠にラストを見なければ良かった

 うーむ、うーむ、うーむ!!!
 うわー、シュタインズ・ゲート、もうしばらく2週目でひっぱろうと思っていたけれども、もうどうしようもなく欲望に負けて、全部見てしまった。

 面白かった。
 とても面白かった。最近見た作品の中ではトップなのは間違いない。
 ただし……、しかし、何度も見たいと思えるかというのは、今の正直なところは微妙である。

 21話まではよかった。文句なしでよかった。どちらを選んでもつらい選択。その中で、どういった選択、行動をとるのかと、緊張してみていた。

 しかし、そうか……そういう方向に行くか。なんか、ちょっと、……うまーく書けない……ネタバレになるからという意味よりも、この自分の中のわだかまり感をうまく表現できないのだけれども、「なんか違った」。

よくまとまっていた

 ええと、ようやくアマゾンレビューとかいろいろ解禁してみてみると、まぁ高評価が多いけれども、低評価の人も少なからずいる。
「タイムパラドクスとか、古典的過ぎて、今更なに喜んでるの?」とか言う人もいるけれども、それは観点が違うと言わざるをえない。
 純粋なテーマを求めるってのは、純文学というか、「文化」である。
 もう一つ、「テーマ」を重視するものと、「表現」を重視するものがある。
 タイムワープ・リープとか、そういったテーマがすでに使い古されているから「面白くない」というわけではない。それを解釈し、新しい表現にしたものは、それだけで価値があるものである。ハルヒの夏休みとか、まどか☆マギカとか、時をかける少女とか、バックトゥーザフューチャーとか面白いけれども、それだけで人の鑑賞欲を常に満たし続けられるわけではあるまい。
(あ、そうだ、まどマギも最近みた作品の中ではかなり面白かった。あれもループっちゃあループだろう。もしかして俺はループものが好きなのだろうか……)

 君の名は。も、テーマ的に言えば、使い古された「男女の入れ替わり」ともいえるが、あれほど爆発的にヒットしたのである。「テーマが陳腐だから面白くない」という感想を抱く人は、もう一歩、自分の中で「つまらない」と思ったことについて掘り下げて考えて欲しいところ。単に流行っているものとか、みんなが「面白い」というものを批判してみたいという只の虚栄心のみの発言であれば聞くに値しないのである。

 その点、「主人公の中二病感が耐えられなかった」とか、「伏線が多いのは分かるが話が進まな過ぎて耐えられなかった」といった感想は仕方がない。そう感じることは悪いことではない。


 では僕はどうか。そんな、単なる虚栄心だけで、手放しで喜べないというのだろうか?
 違う。
 なんだろう、僕としては、確かに、意外に多くの人が高評価だったことが逆に「あれ?」といった感じはあったけれども、でも、素直に、よい作品だと思った。
 ただ、なんか、ちょっと物足りなかった。
 なんでだろう。なんでなのだろう?

ペルソナ4と比較

 しかし、何が物足りなかったのか。最近みたペルソナ4と比較して考えてみる。
 まず、単純に、どっちが面白かったかというと、シュタインズ・ゲートの方がよかった。でもそれは何故なのか。

 ある方が、「女性比率高すぎてちょっとどうなん?」と仰っていて、言われて「ああ確かに」と思った。ペルソナ4のときは、「リア充乙」と思ったこともあったが、シュタインズ・ゲートでは特に気にならなかった。これも何故なのか。何故なのか? と問うていて、きっと俺は回収する気がないから一つ挙げておけば、ペルソナ4は高校生で、シュタインズ・ゲートは大学生(?)だからかもしれない。あと、シュタインズ・ゲートは、その出会い自体が伏線だったり、その必然性が描かれていることも理由かもしれない。

最終3話あたりが微妙

 よくまとまっていた。大きな不満はない。昨今みた作品の中でトップなのは間違いない。
 しかし、なんか、22話、23話、24話あたりが、どうにも、消化試合みたいな感覚が芽生えた。特に、22話が微妙だった気がする。

 いや、こうなるから、まとめてみるのはよくないと思っていたのだけれども、それだけが原因でもなさそうである。
 実は後半、「●と〇が実は◆だった」ということが判明するのだが、この根拠がどうにも……どうにもなんか、ちょっと違和感があったのである。どうして「◆だった」という必要があったのだろうか? それなくても話は成立してたと思うよ? いやだって、主人公が大切にしてたのって、「◇は大切」ってことじゃないですか? 俺はなんか、その目的のために必死になってる主人公をいつの間にか応援してたのである。それが実は「◆だった」ってのは、そりゃ、「◇」がなかったことにはならないけれども、でも、終盤になってそれをもってきます? え、なんで……? と思った。

 それを顕著に思ったのが、22話だった。ここ、アマゾンレビューの低評価であるように、もうちょっとサクッっと進んでくれたら(※)、最後の感動も大大大になったんじゃあないかなぁと思う。

※いや、前半の冗長性はむしろ僕は必要だと思っている

虚脱感

 いやー、しかし、終わっちまった。見終わってしまった。
 なんか、よい作品(期待していた作品)を見終わったときの、この感覚は、「黄昏」って表現があうと思う。もう外は真っ暗だけど。

 そういえば、久々のネット環境かつブログである。

 いきなり、シュタインズ・ゲートの感想メモみたいなのを書いてしまったが、コメントなどたくさん頂いていたにも関わらず、返信が遅くなり申し訳ない次第でございます。




 なんか、その、かなり、……虚脱感である。

 ネット環境(PC)がないところにしばらく身を置いて、いろいろと、考える時間はあったはずなのに、もう、また普段の生活に戻ってしまう。

 体の疲れと、気持ちの疲労とで、つい作品鑑賞をしてしまったが、果たしてよかったのだろうか(いやよくない)。

(こういうリズムが崩れている時に、ルーチンをしっかり続けられるかが重要。結局感想も中途半端になった。まぁよかったところをもうちょっと次回とか書きたい気がする) 


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今日の一言「ほんとは対人関係カテゴリだったのだが……」「後半の内容が盛り上がったせいでカテゴリ変更」



本記事の目的

引用:ある友人と会話をしていて、とてもダメージを受けた経験について書いてみたい
 ということで、本記事では、先日経験したことについて……と予告はしたものだけれども、そっから数日が経ってしまうと、どうにも、その「感動」(悪いものでもよいものでも)が薄れてしまう。

 だから、大事な体験をしたときは、すぐさま書いておきたいのだ。そうしないと、自分が消えてしまうような感覚になるのだ。とりあえず、思い出しながら書く。

お前は自分が良ければ良い人間だ

 君は、他人のことなんて、どうでもよいって思ってるよね。

 そんな感じだったっけ。それほど悪意は感じなかったが、とてもショックを受けた。
 しかも、これは、一度ではないことだ。

 大学生ぐらいのとき、ある友人からやはり、「君は、他人に興味がないよね。もっと興味を持った方がいいよ」とかって言われた。先日整理した記事からも出てきたので、事実なのだろう。誰から言われたのかも段々薄れてしまっているが。

 しかし、自分としては、世界平和を掲げて生きているわけで、そんな、他人なんてどうでもいいなんて思ってるなんて、そんなはずないじゃないか! と否定したい気持ちになったわけだ。

 と、同時に、まぁ、やっぱりそうなのかもしれないという気持ちもあった。
 この、ある程度の事実性、自分でも実はそう思っている、ということが、より傷を深めることになるという確認ができて、とても有意義に思えた。

自分が良くなくても良いって人はいるのか

 これは、「偽善」というものはあるのか、という、これまた別の友人と会話したときのことを思い出した。

 偽善とは、偽物の善いこと、……つまり、動機が不純である、というのが、その友人の主張であった(たぶん)。一方で、僕は、偽善も善も本質は変わらない、どっちでもよいと語った。

 その友人は、何か良いことをしたとき、「見返りを求めるかどうか」ということに着眼した。見返りも求めず、ただ、その行為がその他者にとってよいことであったとき、本当に喜ばしいと、自らも嬉しいと思えるのが善であると。一方、こうしたら、相手はこうしてくれると、見返りを求めるような場合、それは「偽善」であるというのだ。

 僕は、それを聞いてもなお、どっちも同じだと言った。
 前者が見返りを求めていないようでも、結局、「相手のためになって嬉しかった」ということが、見返りなのだ。その見返りのレベルが、金銭だとか、低レベルなのか、心の充足かなのかとう「程度の問題」はあれ、どちらも、本質としては「善」であると、僕は主張したのだ。

 それに、金銭なのか、心の充足(承認欲求・所属欲求)なのかであれ、それは、明瞭に区分できるものでもなかろう。動機なんてもんは、ある程度混合しているのである。

自分がよくて相手もよいのがいい

 ので、まぁ、傷ついたのは傷ついたけど、僕は、自分がよければ何でもそれでよい、とは思っていないと、やっぱり、明確に書いておく。

 ただ、自分がだめで、相手がよい、というのは望んでいないのは間違いない。

 本当は、僕が楽しいと思うことや、充実しているということをやって、それが、相手も喜んでくれるような、そんな関係、それがベストだと思う。

 でも、それって、みんなそうなんじゃないの? と思う。自己犠牲の感覚をもって、他人の笑顔が僕の笑顔です! みたいな人はいるかもしれない。でも、その人は、「自らの痛み」というのが、「気持ちいい」のである。「身を削って」「誰かのために」「頑張っている」姿が好きなのである。

 ……なんてこというから、変な奴、と思われるんだろうな(かっこ悲しみを含んだ笑い)。

なんか上手く表現できなかった

 と、まぁ、この記事の目的はこんな感じだけど、なんか、そのとき受けた強烈な感情を表現することはできなかった。淡々と、浮かんだ言葉を強引につないでのせたみたいな。

 うーむ。
 やっぱり、時間経過はもったいないなぁ。


 時間経過といえば、そう、シュタインズ・ゲートのことを書いておこう。

 まだ、15話ぐらいまでで、最後までみていないが、ここ数年の一番面白かった作品にランクインしそうだ。

 そういや、最近何見たんだっけ。
・カバネリ
・サイコパス
・君の名は。
・オルフェンズ
・カド
・ペルソナ4

 こんぐらい?
 あんまり見てないな。いや、きっともっと見ているのだけど、すぐ浮かんでこないということは、まぁその程度だったのかもしれない。

 上の順位をつけてみれば、

1.サイコパス
2.オルフェンズ、ペルソナ4
4.君の名は。
5.カド、カバネリ(※)

 こんな感じか。
※ある方のレビューを前提にすれば、順位はぐっと上がる。実際、最初の引き込まれ感は半端なかった。1話、2話あたりだけとすれば、カバネリが1位かもしれない。

 シュタインズ・ゲートは、堂々と、1位を塗り替えそうである。
 というか、ここ数年というほどでなくとも、これまで見てきたアニメーション作品の中でも、トップ3ぐらいになるんじゃないか、というぐらい。
 とある、熾烈な顔をしながら屈強な男どもが殴り合う話しか受け付けないという方にとっては物足りない作品かもしれないが、僕はホントに面白いと思った、思っている(現在進行形)。

 あまりにも面白すぎて、続きを見るのがもったいなくて、1話から見直し始めたぐらいである(しかも、見直すと、伏線にもより気付けるようになってさらに面白いという! しかし、1話は初見では全く面白くなかった。主人公にも、ヒロインの女の子にも全然興味をもてない……どころか、ウゼーぐらいに思っていた。――それがなんと、途中から「オカリンー!!」「まゆしぃー!!」とか叫びながら(大げさ)応援するようになっていったのである)。

 この、話の内容が、複数回みるごとに段々分かっていくというのは、たぶん、僕の好きな作品の一位なんではなかろうかという攻殻機動隊であったぐらいである。攻殻は、何度見ても面白い。話のオチがわかっても、なお面白い。
 僕はネタバレを非常に気にする。それは、オチが分かってしまうとつまらなくなる作品が多いからだ。できれば、シュタインズ・ゲートは、攻殻のように、オチが、答えがわかっても何度も見たいと思えるような、そんな作品であってほしい。

 ……ああ、あと、6~7話か、そこらしかないと思うと哀しい。

とある映画監督の話

 最初の目的と大分話がずれたけど、最後に、10代向けの哲学の本を読んで書いてたこと。
 ある、映画監督さんは、昔から、映画とか、物語が好きだったそうだ。
 でも、物語ってのは、やっぱり、物語の中(二次元)でしかなくて、現実は、「大人の論理」みたいなのに支配されていたんだそうな。
 そんなのつまんないっていって、その人は、自分の生きる意味、使命について、「ベテランの大人になる」ということに決めたのだそうだ。
 そして、その人は、ずっと、「青臭い」「そんな子供じみたこと」とか批判されながらも、自分が子供のころに面白いと思った物語を撮り続けたのだという。

 サイコパスみたときも思ったけど、物語を、ただ単に物語の中だけのことだとして、現実と別だとしてしまうのは、僕はつまんないと思っている。
 その映画監督の作品が面白いと僕が思うかはわからないけれども、ただ、彼のその感覚……ずっと子供の心をもっていよう、ということと、物語を現実から切り離してしまうのは何かいやだ、ということには共感する。

 物語で、「面白い」「美しい」って思う気持ちってのは、それは、現実でもやっぱりあっていいものだと思う。いまの現実はそうじゃないかもしれないけれども、本当は、それを目指すべきものなんじゃなかろうか。そこまでの道のりがいかに遠くて、高い壁のように立ちふさがっても、途方もない時間がかかりそうだとしても、それでも、体を向ける先はそっちなんじゃないだろうか。

 そうじゃなきゃ、面白くないよ。俺は、人生も、人間も、世界も実は奥底で嫌ってて、つまらないと思っているのかもしれないけれど、それでも、……同時に、そんなの、否定したいと思っているような気がするんだ。


(かっこ書きである。シン・ゴジラもみてみたいと思い始めた。しかし、来週もまた忙しそうだなぁ。坂道のアポロンもなんか、この動画みたら面白そうだなと思った。ああ、そうだ、次回予告か。今週は書けるかな。そうだな、シュタインズ・ゲートみてて、「いい人」って何かって思ったわ。俺、やっぱり、本記事の友人の言葉じゃないけど、あんま良い人間じゃない(人格がよくない)んかもしれんな。自己中心的……それは人間の本質だなんて、そんなこと言ってて、それは単に自己弁護だったのかもしれない。けど、それでも、自己犠牲がいいことだとは思わない……思わないんだけど、なんつーか、シュタインズ・ゲートのアノ子のアノシーンとか、ものすごく、深く心に突き刺さってきたり……って、ネタバレ気にすると何がなんだかわからんな)


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