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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
今日の一言「何も考えたくない、したくない


生存報告、という書き出しで始まり始めたブログは、そう長くはないだろう。

ただ、僕の場合は、いずれは戻ってくるだろうとは思う。

しかし、最近は、全く書く時間が取れない。
ということは、考えることも、思考の整理もできていないということだ。今年の目標に資することもできていない。

人生。

何が忙しいかと言えば、平日は仕事、休日はデートである。
仕事は充実しているし、デートは楽しい。

だが、それでいいのだろうか?

人生。

僕という人間は、それでよかったのだろうか?



人はみな、決断せよという。自分の人生を生きよと。やりたいことをやれと。

僕が仕事や、デートをするのは、やりたいことではないのだろうか?

家事をすること、寝ること、掃除すること、ご飯を食べること、それら生活に関する行動は、僕のやりたいことではないのだろうか?



やりたいことと、やらなければならないことを、分けることができるのか?

仕事というカテゴリの中でも、楽しいこともあれば、イライラすることもある。
デートもしかり、家事もしかり。


すべて100%の生活など送れやしない。


そうしたとき、僕の人生として、どこまでが許容範囲なのか?

そこが分からない。



要するに、僕ができる、僕の最大の選択の中の、最高のことが僕はいまできているのか?

それが分からない。

誰に相談しようとも、まともな、、、というか、僕が欲する回答はできない。できるはずがない。何せ、答えがないものなのだから。

故に僕は自分を、納得させようとする。

これが、僕の最高で最大の人生なのだと。



しかし、この疲れ、苛立ち、眠気、未来に対する不安、望みのなさ、退屈感などを、いったいどう制御すればいいのか。


みんな、30代の大人たちは、そうした自己制御が完璧なのか?



分からない、

分からない。




こんなとき、孤独を感じる。

たくさん人がいるのに、誰もいない感じがする。

そんなことはないと思って人とかかわって、やっぱり違う感じがしてがっかりして。

似た感覚をしてるだろう人は、見つかる。

でも、その人たちが存在していることも、具合がとても悪いときは、僕の孤独感を埋めるには足りない。



ああ、こうした、独りよがりな文章は、駄目な極みだ。

何故なら、読んだ人を不快にさせるからだ。けれども、いま、この瞬間の自分は、人との関わりに本当に絶望しているというか、孤独を感じているということ、その表現としてらは、これ以上は書けなかった。

ああ、もう望むのは、明日の自分が、今よりもましな感覚であること……。


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今日の一言「求むってか、望むのか」

幸せな社会のために物語を求む

 要するに、幸せな人生、幸せな社会を望んでいるのである。
 が、そういった、「幸せ」という言葉の器に入れると、なんとまぁ、いろいろなものが窮屈なことか。
 ――だから。ちょっと飛躍するけれども、僕は、「物語」ってのが、すげー重要だと思うのである。
 最初の今回の連載記事に書いた、「泣いた」というのは、あくまで小説の中での物語であるけれども、でも、実際に現実社会であるかもしれない話だし、似たような話しはきっとたくさんあるのだ。
 悲劇的な結末であっても、絶望的な状況であっても、それでも人は助け合ったり、信じたり、優しくしたり、そして生き続けることができるのは、物語があるからだ。
 ああ! そうだ、だから――、物語的ではない仕事は、さっさと「効率よく」片づけて、時間をたくさん作って、物語を創らなければならないのだ。
 以前から、何度も書いている。以前、「物語を創る――創作が大事なのはよい。が、なぜそれをおまえ自身がやるのか?」という問いに対して、「面白い作品に出あうまでの間隔を埋めるため」と書いたけれども、それがポイントではない。
 要するに、僕が、価値を置いているのがその「物語」だからである。

1000字連載

 1月24日からの約1か月間。関連性があったような無かったような。無いな。
 ただ、別に「物語が重要だ」、今年の目標を頑張ろう、という結論にもっていこうと思って書き始めたわけではなかった。意図せず、今回の結論に向かったのは、悪いことではなかった。

 まぁ、要するに、仕事とか、その他の日々の事象などいろいろあるけれども、創作を中心に据えて、目標に向かって頑張ってみようや、って叱咤激励だ。

 いつもの、「オンラインゲーム症候群(すごい人を見て打ちひしがれる)」とか、残業が増えて平日の時間が取れなかったり、休日に予定が入ったりと色々あるだろうけれども、それでも、2018年、当初立てた目標を目指して行動していこう、と。

 あー、1000字ってのは、ほんと、せせこましく窮屈であった。だが、いつまでもブログの心地よさに酔っていてはならんだろう。ずっとそこに酔っぱらっているのが僕の幸せなら、それはそれでいいのだろうけれども、きっと、それは違うだろう。
(かっこ書きである。この記事を機に、しばらくブログを書くのは中断しようと思う。ほんと、今度こそ、今年の目標の「創作」の優先度を上げたいと思う。(2/21追記)いやまて、ちょっとまて、まだだ、まだ終わらんよ!)

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今日の一言「前回の記事はなんか恥ずかしい」「傲慢さも感じ取れる」

いい加減自分の人生を生きろ

 まぁ、前回書いた便所の落書きはともかく。
 俺は、これも誤解を恐れず書くけれども、人生、楽しくなきゃ失敗だと思う。
 仕事がどうこうではなくて、俺は、楽しいことがしたいのである。
 しかしこの、「楽しまなきゃならぬ」というのが命題になると、これはこれでかたっ苦しくて重たくて、面倒くさくなる。
 ……んじゃー、結局、「何も考えない!」ってのが正しいんじゃねーのか、このめんどくさいやつめ!
 というか、この、自分の過去をもとにして、卑下したり、評価したり、正当化したりするのも、ほんと嫌なんだ。
 過去とかどーでもいい。今である。今後である。
 今後であるんだけど、どうしても、自分という連続性を考えたとき、過去は切り捨てられないとは思う。自分の身体的限界性に、思考も縛られてしまうように。
 単に「頑張ればいい」ということでもない。
 体制順応的(他の誰かがやってることを自分もやる)でもダメだし、全体主義的(周りの人が自分に欲していることをやる)のでもダメだ。
 人は、人であるのならば、みな、自分の欲するところに自分の人生を生きるべきだ。

かっこつけたいわけじゃない

 ひとはみな――的な書き方をすると、「おめーがいうな」的になってしまうが、しかし、俺は世界がそういった方向に向かってくれることを望んでやまない。
 その、人が人として生きるということを否定するような――自由からの逃避によって全体主義に流れていったヨーロッパや、カンボジア、ポル・ポトの共産主義の理想による大虐殺に、ちっとも戻る傾向がないような、そんな人間性を、誰もが持ってほしいと思う。
 え? かっこつけすぎ? いや割とマジで思う。
 でも、そのためには、みんな、「バカ」じゃあ駄目である。
 みんな、自分で考えなければいけない。人のせいにしちゃあいけない。かといって、独善はだめだ。
 そして、環境(政治や企業体制等々)の誤りは誤りであるとはっきりと主張できなければならない。
 自分の感覚と反する人も認めなければいけない。同性愛者だろうが、独身者であろうが、宗教に入れ込む人だろうが何だろうが認めなければいけない。同時に、公共の福祉に反する場合は駄目だとはっきりと修正を求められるようでなければならない。
 俺は全人類、若い人も年寄りも、だれに対してもそれを望む。
 でもそれは、苦痛であってはならない。
 みんなが、それを目指し、生きていることが、楽しくなければならない。失敗もするだろう。その失敗もあたたかく認められるようにならなければならない。
 酒でもはいって、大言壮語になっているのだろうか? いや俺は大まじめにそう思う。

(かっこ書きである。次回、2/21(水)「幸せな社会のために物語を求む」。ついに次回が感動のフィナーレ! ……感動はしないが多分最後)

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今日の一言「諦めではなく可能性」「連載は水曜日、だが形骸化している」

分かりづらさ

「何言ってるかさっぱり分からん」

 といったコメントを頂いた。
 傷ついて、哀しくなった。しかし同時に、大切な感想だなぁと思った。

 僕は、昔から理解可能性というものを信じていない。
 このことは、「1」か「0」と割り切れるものではない。
 信じていないといったところで、結局、日本語という言語を使えばコミュニケーションは可能だ。
 一方で、コミュニケーションを信じている人たちだって、その「気持ちの伝わり具合」に微細な変化が存在することは百も承知なはずである。

 僕はその、理解可能性について、「0」というのではなく、一般の人たちよりも低いと自覚している、ということだ。

 1000字連載は、個人的にはそれほど分かりにくくはない――というよりも、いつもの記事と同じレベル感である。中学生でも分かる表現を使っている。

 問題は、その表現の先に、「何を言いたいか」ということなのであるが、その最終結論なるものが伝わらないと、結局その文章というのは、「さっぱり分からん」という結論に繋がる。

1000字連載(1)~(3)の要点

・努力することは大事だ
・しかしその努力は自らの欲望を果たすことに基づいている必要がある
・何故そう思うかといえば、僕は(自分の身体・精神・環境の限りで)努力をしてきたが、これまでの人生はつまらなかったからである
・もっといえば、今もつまらない
・しかし物質的・欲求的には充足している(強いて言えば時間がない)
・だから自分の欲求・欲望に基づく未来をイメージすることが重要だ

 といったことである。これらを、誰かと議論しようというつもりはない。単なる思考の整理である。――もっといえば、整理する必要すらあまり感じていない。要するに、最後の点、「未来」の具体化が目的であるということである。



 ある方が、「自分の本当に重要視する分野については人と話すことが困難で(出会える可能性も低いし、レア故の馴れ合いが生じる可能性もあるため)メリットも薄い」と仰っていたがこれはその通りと思う。

 哀しいことであるけれども、これは大切な感覚だと思う。
 僕は、昔から(10代前半から)ずっとそれ(理解が中々しあえないこと)を感じて、「生きづらいなぁ」と思ってきたけれども、これはこれで、大事な考え方であるし、だからこそ人間は面白いのかもしれない。
 そういった感覚を分からない人が、自分の価値観を押し付けたり、横暴にふるまったりするのだろう。要するに子供である。

だけど冷めてもいけない

 という上のことについては、数年前から書いてきたことである。
 問題は、「そうはいっても、それでも、価値観を共有して尊重して高めあっていくのが本来あるべき人間社会の在り方ではないか」という問いである。

 これは、問いは問いとして正しいと思う。あっていいと思う。存在価値はあるだろう。

 ただ、それを、「実存問題」(要は自分の問題)とすべきか、という点は、選択である。岐路である。



 僕は、30代になって、そろそろ「保留」もできなくなってきたこれらの問題に対して、非常に焦燥している。
 焦っているけれども、答えがでないし、行動は環境に命ぜられるまま、思考を介在させられないままに動き、過ぎていく。

 この焦り、というものが、「鬱屈」としたエネルギーとして、文章を書かせているのだろうと思う。
 僕が動いているのは、行動できているのは、この「鬱屈」したエネルギーなのだろう。

 そういえば、10代前半のころ、僕は「負のエネルギー」という言葉を使っていた。
 エネルギーとはプラスのものなので、本来表現としておかしいけれども、「いらいら」とか「むかついた」とか「くやしい」とか「うらやましい」とかそういった負の感情をもとに行動することをそう名付けていた。

 ああ、それを、何か、社会の役に立つことに使えたらよかったのであるが、まぁ、うまくはいかなかった。

教育について

 手段とかどうでもいい。
 問題は、どういった人間が必要か、ということだ。国が学習指導要領というものを作っていて、それに基づいて公立の学校は授業を行う。
 しかし、その、国が定めた指導要領なるものは、果たして、本当に、あるべき人間像を体現した素晴らしいものなのだろうか?

 僕は、否とも、正しいともいえない。

 というか、現代の日本人――否、世界の人類に、そうした「あるべき人間像」を表現できる能力があるとは思えない。

 単に、「その時代に」「その国にとって」「その条件において」は、正しいものだろう。

 最初の話に戻るけれども、「人はみんな違ってそれでいい」ということであるのだから、それと「教育」という手段は初めから相いれないのである。要するに、「コミュニケーションの土台」を作るに過ぎないのである。

 土台に過ぎないのである。最初の話のように、本当にその個人が話したい事、重要視したいことなんてのは、往々にして、理解可能性レベルを超えているのだ。

創作について

 ふと、むかし、2010年ぐらいに作った曲を聴いた。
 あー。
 音圧とか、調教とか、粗削りだけれども、しかし、歌詞はいいなぁ。
何のために歌うのか ずっと探し続け
時間は平等だけど 無常に過ぎ去る時は
冷たい痛み与える 心がいたみだす
美しく広がる景色 あたたかな人の優しさ
充たされる思いも今は 幻のように
漫然と過ぎ去るとき 忙しさにおわれるとき 僕は
何か大切なものを 僕であるためのものを なくして
本当の自分なんてどこに あるというのだろう
今は白い世界――
何のために生きるのか ずっと意味を求め続け
求める時間さえも失われていくのか
疲れ弱音はくとき 何かいいわけするとき 僕は
あの日に信じていた 確かな思いすら 忘れて
孤独が怖いというだけで 誰かを求めていた
夢の中の自分がいた――
何のために生きるのか ずっと意味を求め続け
求める時間さえも失われていくのか
だから僕は歌い続け 「無意味」の言葉はねのけ
生きる意味は何なのか 今分かる気がした
僕は歌う いつまでも――
 まさに、僕の価値観がよく表現されている。まぁ、当時、どういう気持ちで作っていたのかは正直もう覚えていないが、彼女にもふられて、あまり精神状態はよくなかった状態だった気がする。

 この当時から、初音ミクの作品は作れていないが、やっぱり、歌にのせるってのはいいなぁと思った。今、これ以上の作品をつくる気力も、時間もないなぁ……。

 しかし、言い訳をしていても仕方がない、と、創作中枢が少し刺激されたので2時間ぐらいで一つ作った。
2018/2/11作曲(インスト)DL
(実質30秒ぐらいの曲をリピートして1分ぐらいにしている……)


(かっこ書きである。あー月曜からまた忙しそうだ。先日、友人たちと会話する機会があって、みんなまぁまぁ仕事に対しての不満はもっているようだった。みんな大変。お前は恵まれているなぁって言われたりもした。――が、ぶっちゃけもう、そういった比較は本当に無意味だと思っている。仕事の内容も全く違うわけだし、時間的拘束が長ければ大変かってのも俺は違うと思う。同じ業種だって、取り巻く環境・取引先とかそういう意味で、異なるだろうし。「じゃあテメーがやってみろ!」という苛立ちや怒りがよく生じる(友人たちに対してではない。そんなことを思っても仕方がない)。まぁ……ただ、できることをするだけだ。とにかく、自分のパフォーマンスを落とさないようにすることが大事だ。ひいては、勤め先の会社にもそれは良いことなのだ。社員が役に立ったほうが会社としては良いはずだから。しかし、6分でわかる金持ち父さん、貧乏父さんを見る。うーん、なんか、図書館で借りられるから読んでみてもいいかと思ったけど、興味はほとんどわかなかった。というか、なんとなくそういった本だろうと思っていて、その確認ができたのはよかったかもしれない。正直、僕は大人になってから(働き始めてから)お金に困ったことが今までない。もちろんこれは、無尽蔵にお金を手にしているということではない。そもそも「欲求」がわかないのである。久兵衛の寿司を食べてみたい気はするけれども、まぁ、一度ぐらいならそれに費やすことは可能である。それを毎日食べるとしたらすぐに破産するだろうが、そうしたい欲求は特にない。上の動画で、「勉強をたくさんしなさい」というのは、金持ち父さんも貧乏父さんも共通していたが、その目的が、「良い会社を買うこと」と「良い会社に入ること」という違いなどは面白いと思った。一方、どちらも価値観レベルの問題に思う。たしかに、金持ち父さんの方が、「あー楽して生活したいなぁ」って友人がいっていたけれども、みんな憧れなんだろうと思う。が、しかし、「コンテンツ」を作る人がいなくなって、「買う」人だけの世界なんてありえんだろう。投資家だけの世界ってのはありえないのである。ま、もっとも、そんな極端な事態になど早々ならないのであって、賢く勉強して、賢くお金を運用できる人のほうが、コツコツ真面目に働くよりもお金持ちになれるってのはその通りだと思う。――が、まちたまえ。「コツコツ真面目」ってのが、本当にいいことだと思っているのだとしたら大間違いである。「コツコツ真面目」という事象を、一体どのように考えているのか? 人から言われたことをしっかり丁寧にこなすだけでは到底、「コツコツ真面目」などではないが、まぁ、一般にそういった表現のうちに含まれることになるのである。僕は、投資家を、決して楽して生活できる人だと思ってはいない。彼らは彼らで、とっても勉強して、リスクある判断をし、苦労をして生きているのである(当然、全員ではない。宝くじに当たった人が、努力をして当たったなどとは思わないだろう。そういうことだ)。あー、なげーなぁ。要するに、努力は否定しない、ってことだ。1000字記事と同じ。大したことなど、常に言っていない。というか、「大した事」なんて、どれほどこの世界にあるというのだ。僕は、「表現」ぐらいしか、差異を表現できないと思っている。あー、この辺の価値観も、きっとあまり伝わらんのだろう。ま、構わない――構わないわけではないが、仕方がない)


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今日の一言「とりあえず連載は進めるが、休憩に書く」

仕事が忙しい

 特に、タイトルに意味はない。
 最近のことのメモである。
 忙しい。この一言だけで十分だ。物理的に時間がない。
 具体的には、ここ一、二週間、家に帰ってくるのが、22時~24時か、という日がほとんどな状況で、7時には出発しなければ間に合わない。

 まぁこれも、一時的なものだと思われる。
 が、どうにも、精神的なすり減りがある。

 要するに、未来、である。

 ユングは、意味は殆どすべてのことを耐えられるものにしてくれる、といっている。
 ニーチェは、何故生きるかを知っているものは、すべてのどうやって生きるかに耐えられる、といっている。
 ――精神療法における意味の問題P.36参照


 これまで、僕は仕事上の困難を何度か乗り越えてきた。大きなヤマでいえば2回ぐらいか。
 で、まぁ今のプロジェクトというのも、プラス1回になるだろうと思う。それはそれでよい。

 しかし、それを乗り越えたからといって、「だからなんだ?」という気持ちが高まっている、ということだ。

 そもそも、こうした仕事を選んだという20代の僕の判断なのだから、「仕方がない」とは思う。
 思うし、他の多くの仕事に比べたら、恵まれているだろうとも思う。が。

 がしかし、どうにもモチベーションが上がらない。

未来と意味

「忙しいことを認めよう」と先日書いたので、もう一つ認めておこう。
 僕は、中・高校生ぐらいのときから、ほんと、何で生きているのかさっぱり分からなかった。死にたいって毎晩思って泣いていた時期もあった。泣きつかれて、もう一回だけ頑張ってやるって思って、国公立の大学に入ることはできた。頑張ってその程度かって感じでもあるが、とりあえず、頑張ったってことにしよう。
 先日の記事で、上のようなことを書いた。
 まぁ、こっぱずかしい内容である。その他、多くのお忙しい方々に対して恐れ多い。

 が、とりあえず、自分という低スペックにおいては十分忙しいということは、頑張ったということは認めておこうということである。つまり、気持ち的にはだいぶ限界であるということだ。

人間存在の理解

 僕のよくないところを書いておこう。
 これは、僕の「感覚」なのであって、単なる言葉ではない。つまり、いかに取り繕った説明をなそうとしても、その「感覚」はなかなか取り払えないものである。

 その、悪い感覚の一つは、人間とは利己的な存在である、というものである。

 これは、事例は事欠かない。他者を犠牲にして、部下を駒のように使ったり、気に食わない者をいじめたりと、苛立たせる事象や事件はよくあることだ。

 しかしもちろん、これらは人間の全面なのではなくて、もちろん素晴らしい人間性なるものをもっている人もいるわけである。サイコパスのような存在は例外だ、切り捨ててよい、ということだ。
 という、「知識」的なことはあったとしても、どうしても、人間の利己的な面が気になってしまうお子様な自分なのである。


 もう一つは、人間の生物学的・心理学的なとらえ方である。つまり、欲望に準じた存在であるということだ。一つ目の「利己的な」という面とも関連するが、要は、人間を機械のように捉えていることである。
 人間は刺激に反応し、衝動を発散するだけの存在だ、という考え方である。


 上の二つの感覚については、僕は、手放した方がよいと思っている。というよりも、そうあって欲しくない、と思っている。
 でも、僕の感覚は、僕の生活は、市井や社会からの情報は、ますます僕をがっかりさせるものである。




 大人という存在は、もっとかっこよく、憧れられるようなものであるべきだ、そうあるべきだった。
 ところが、僕の崇高な(かっこ笑い)価値観は、人間たちへの失望へと繋がったのである。

意識高い系なのか

 僕は、意識高い系、と言われるタイプの人間なのか?
 意識高い系とは、揶揄されるニュアンスであるが、しかし単純に考えれば、よいことである。
 その「意識高い」というのが、他者を見下したり、自己実現(かっこ笑い)のみ追求するような方向性になるから、よくないのである。

 僕は、「より良い方向に協調し協働し向かっていく」という精神を求めているのだ。
 ざっくり言えば、WIN-WINを目指せということだ。

 誰かが得したら、誰かが損をするような考え方をするような人間は、滅びてしまえ、と思う。


 ――じゃあ、おまえが、その崇高な(かっこ笑い)人間になればいいじゃないか。

 もちろん、目指すつもりである。が、あまりにも、がっかり感が強すぎて、モチベーションが上がらない。

仕事から離れて

 つかの間の休息。別途友人と会う予定もあるため、あまり一人でいる時間はない。

 しかし、やはり、休息は大事だなぁと思った。ふと思い出して、今敏(コン・サトシ)さんのブログ記事を読んだ。
 母親の、「丈夫にうんであげられなくてごめん」という言葉が突き刺さった。哀しいね。
 ぎりぎりまで、両親に会いたくないという気持ち、最初は不思議にも思ったけど、なんとなく分かった気がした。大事な人だからこそ、自分の弱った姿を見られたくない、ってのはあると思った。

 しかしほんと、仕事が好きな人だったんだなぁ。大変だったろうけど、しかし、世の中に作品をうみだすって仕事は、きっとやりがいもあったんだろうと思う。

 ――しかしだ、僕の今やってる仕事だって、やりがいはあるのだ。あるのだけれども、しかし、もうなんか、疲れる。非常に疲れる。
 やりがい――、こんな一言で片づけられる言葉じゃないと思う。どんな仕事だって、やりがいはあるはずだ。問題は、その「やりがい」ってのと、自分の価値観が一致しているかどうかである。

 飲食店のホールの仕事で、お客さんの笑顔が見れて幸せ、――なんていうのは、確かに「やりがい」だろうが、僕は絶対そんなんにやりがいは覚えないと思う。料理人は、自分の作った作品(料理)を喜んでもらうのが幸せなのだろうが、僕はそれも無理だと思う。

 その、「無理」というのは、努力のあきらめ、ではない。
 前の記事に書いた通り、
 ストイックであることを否定しない。
 努力することを否定しない。
 継続することを否定しない。
 平坦な人生などない。
 苦労のない人生などない。
 楽な人生などない。
 と思う。

 ただ、自分の価値観というか、「本能」的なものに反したものは、「無理」である。

俺は何に楽しみを見出すのか

 とりあえず、これだろう。目下、課題だ。
 何か、楽しいことを探そう。
 面白いことを探そう。
 何か集中できることを探そう。
 何か、一生懸命になれることを探そう。
 何か、奉仕できることを探そう。

 目は、世界を見るという機能を、自分自身を見ないことによって果たす――前掲書。

「俺は」

 という自己にとらわれているうちは、決して、反転して自己を知ることはできないのだ。

 それは、何か行動することによって得られる。

 ――が、その行動は、意識しなければ、流されるままとなる。

 この整合性をどのようにとるのか。まだ僕はよく分かっていない。――ええと、つまり、自分を意識しすぎると、結局自分ってものが分からなくなるということだが、しかし、環境や状況に流されるままであっても、結局「忙しさ」に精神をすり減らされることになる。

 忙しさは、別に悪いことではない。
 以前ある方が、「充足は、必ずしも必要ではない」と仰っていたが、僕はやっぱり、それは違うと思う。忙しくても満たされていることはあると思う。苦悩にも意味は見いだせるものだと思う。だが、それらの根底に、やはり「満たされている」ということは必要ではなかろうか。
 その満たされている、そのモノ、が何かというのは不明だ。いやむしろ、それが不明だからこそ、それを見つけなければならないのだ。


(かっこ書きである。司星者セイン2巻届く、少し読む。ズァグ氏の魔女王との謁見シーンで震える。くっそかっけぇぇってか、魔女王怖ぇぇ。下賜された魔女王の血の盃の真意を知って、全身の血が凍りつくようだった。すべて見透かしたうえで、そして許す、とは。戦闘シーンもよいけど、こういったシーンを巧く描けるのはさすがだなぁ)

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