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今後の予定等(住環境の整理は必須)後編
2017/04/24 17:00 | Comments(4) | 目的・目標
今日の一言「頭痛がするときはチョコレート」「長時間同じことをするのは堪えるね」

長期休みの予定

 よし、何もしないことをしよう。

 この結論を書こうと思って、前回の記事のようになった。頭のおかしな人間である。

 もう少し、掘り下げてみると、「理想の生活をしよう」ということになる。

 理想、とか、また抽象的な言葉が出てきやがった。本当に大丈夫か? この記事は、ちゃんと解決、成果に結びつくのか? そんな疑問を同時に抱きながら書き進めていこう。

随筆とエッセイの違い

「書き進めていこう」(キリッ)とか書いておいて、いきなり脱線する。
 あるエッセイストを取り上げたこちらのブログ記事が面白かった。随筆とエッセイについて、端的に区分けすれば、随筆が少し文学よりで、エッセイはより洒落乙なのだそうだ。

 なるほど、じゃあ、僕のブログは分類としてエッセイなんだな、とか思ったら、「エッセイって、気取らない文体がゆえに、エッセイストは面白くするために頭をかきむしって本気で悩んでいるのである。それでいて、読む人に体力を使わせない」とか書かれていて、うわぁ、そりゃそうだよなと思った。

 僕は基本的に、このブログにおいて書く際には、あまり考えていない。考えて紡ぎだした言葉は、それはそれで重要だけれども、それはどこか、「実感」から離れてしまっているように思える場合があるからだ。
 考え抜いて、「ああ、この言葉こそ僕を本当に示す表現なのだ!」というのに辿り着くこともあるだろうが、しかし、僕は同時に、厳密な言葉というものにも、信頼性をおけていない。

 といったことについて、こちらのブログ記事が面白かった。――哲学の科学「人間はなぜ哲学をするのか」
 上の方の記事のいくつかを読んだけれども、面白い。僕が言いたいこととか、考えていたこととか、表現したかったことの大半が含まれているんじゃなかろうか。だからといって、じゃあ、僕として表現することが完全に無意味かというと、そうではない。そうではないんだけれども、やっぱり、無力感を思ったりはする。

理想の生活について

 さて、2017年。
 長期休み……といっても、5連休であるが、ゴールデンウィークが迫ってきた。これはとても喜ばしいことである。わーい。
 しかし、特に予定がない。
 予定とは何か。仕事をしたり、旅をしたり、友人と遊んだり、趣味にいそしんだり、その他何かすることである。
 そういった予定が、何もない。

 僕はこれまで、「暇だ」という言葉を使ったことがなかった(少し大げさな書き方である)。
 独りで過ごすのも嫌いじゃあなかったし、何かしらすることがあった。実際、特に予定などなくても、時間はあっという間に過ぎていった。暇だ、なんて言葉を発する時間などなかった。

 しかし、たぶん、今度の休みは、とっても「暇」な気がする。仕事の予定もない。

 とはいえ、まぁ、無理やりでも予定をいれたら、簡単に時間を消費することは可能だろう。
 学生時代の夏休みのようである。

 しかし。なんといっても、「今が一番若いし、充実している」のである。

 だから、無為に過ごすのは、本当にもったいない。何かしなければ、何か充実させなければと、強く思う。


旅行とかイベントが重要なのか?

 しかし。ふと思う。
 何か人に語れるような何かが必要なのだろうか? 僕は今日目が覚めて思った。うん、そうだ、何もしないことだって、大事なんだ。

 問題は、何もしないとちゃんと自分で決めたことなのかどうか、である。

 ただ単に、漫然と時間を使ってしまったのであれば、後悔に他ならなかろう。


 GWとか、長期休みとなると、海外旅行とか、キャンプとか、何だかそんなアクティブなことをしなきゃならんとか、そんな風潮がある(気がする)。
 それはそれでいい。長い休みじゃあないとできないことってのはあるだろう。

 でも、それが、本当に自分がやりたいことなのか、否か。

 僕は思った。大事なのは、「いま、自分が一番やりたいことをやろう」ということだ。


 それって何か、を考えたとき、「理想の生活をする」という言葉が浮かんだ。


 いい音楽を聴く。いい作品に出会う。物語をかく。思考をめぐらす。筋トレする。坐禅する。ランニングする。朝起きて夜眠る。おいしいものを食べる。

 いい感じに引きこもりであるが、とても楽しそうである。


 これは、誰かに語れるような過ごし方ではないだろうが、しかし、老後を考える上でも重要に思える。

 仕事が定年を迎え、年金生活になったとき、どんな風に生活するのが楽しいだろうか。
 僕はその時も、ブログを書いているのだろうか。音楽を聴くことができているだろうか。小説を書くことができているだろうか。ランニングできているだろうか。思考するだけの知性が残っている(ボケていない)だろうか。

 その場に、伴侶とか友人といった存在を想定できていないところに、僕の頭がおかしい理由や根拠を求められそうであるが、それはまた別のお話である(ただ、このことも非常に重要な問題の一つである)。

何もしないためにすること

 さて、これにて、5連休は何もしないことに決定したわけであるが、これは、龍樹の四句否定ではないが、「何もしないために何かする必要がある」。

 矛盾するように聞こえるけれども、何もしないための目標が必要になる。

 ということで、一つ、小説を読もうと思う。もしこの記事を読んでくださった方がいたら、ぜひ、コメント欄等でおすすめの作品を教えていただきたい。(というかむしろ、どういった過ごし方をするのか参考に教えていただきたい)

 もう一つ、一般書を読もうと思う。そして、概念記憶を一つ増やそうと思う。

 もう一つ、音楽を一つ創ろうと思う。

 もう一つ、小説を一つ書きすすめようと思う。

 もう一つ、7時に起きて、23時前に寝ようと思う。

 もう一つ、料理をしようと思う。そして、一日三食食事をしようと思う。フルーツを食べようと思う。外食に出向こうと思う。

 もう一つ、買い物をしようと思う。鞄と靴が欲しい。漢字が似ている。

 もう一つ、坐禅を一日15分以上しようと思う。

 もう一つ、ルーチンを続けようと思う。

 もう一つ、ピアノで弾ける曲を増やそうと思う。

 もう一つ、日本株で購入したい銘柄を調べようと思う。

 もう一つ、ブログを書こうと思う。

 もう一つ、カラオケに行こうと思う。

 もう一つ、ボウリングに行こうと思う。

 もう一つ、……いやいや、まてまて、なんかいろいろやってんじゃねーか!

 そして、全部ひとりで可能なことであるという(かっこわらい)。

やりたいこと

 なんだろう。何故か、何かやりたいことを考えると、「誰かと一緒に」という発想がでてこない。
 何でだろう。
 学生時代は、なんやかんや、友人に誘われたりして遊びに行っていた。
 恋人がいた時代は、一緒に過ごしていた。
 会社の先輩たちから誘われて旅行にいったりしていた。

 でも、よくよく考えると、俺、自分から誰かを誘ったことって、あったろうか……。
 主体的に、俺が、誰かと一緒に何かしたいって思ったことって、あったんだろうか。
(完全に蛇足だけど、モテる人って、イケメンなのも一つの要素だけれど、「誰かと一緒に何かする」ことが上手い人なんじゃあないかと思ったりした)



 なんだ、ほんと、独身の人って、ふつう何して過ごしているんだろう。
 こうして、「特になんもすっことねぇなぁ」って人が、寂しさを覚えて、婚活とか友人誘ったりするんだろうが、どうも、あんまりそんな気が起きないんだよな。これは、僻みとか、単にチャレンジに臆病なだけとも解釈できるけれども、今の自分の中ではそんなに悲壮感がない。というより、なんだか、これ、むちゃくちゃ幸せなんじゃなかろうか。

 仕事から解放され、自由に使える時間と、お金がある。これほど恵まれたことはないのではなかろうか。

 次のゴールデンウィークが、僕の人生で、もっとも幸せな時間なんじゃあなかろうか。

(とか書いていると、マジで死亡フラグみたいで笑える、いや笑ってる場合じゃない!)

やるべきでないこと

 逆に、やるべきでないことも書いておこう。まずすぐさま浮かぶのは、

・ネットサーフィン

 である。まとめ系のサイトとかニコニコ動画とかって、ついついリンクたどってみてしまう。けれども、たいてい、何も残らない。刹那な感情の起伏のみだ。現に、今週も2~3時間費やしたような気がするが、まったく何をみたのかすら覚えていない。
(世界の奇人変人のニコ動は面白かった)

 パソコンを起動することや、ネット検索をすることは避けられないだろうが、余計サイトは一切みないことは徹底しよう。

・惰眠

 これは、致し方ない場合がある。創作活動とか、作業をしていると、どうしても、頭痛というか、眠気が襲ってくる場合がある。朝も活動にうつるまで、時間がかかる場合がある。
 これを防ぐには、強靭な意思力が必要だが、事前に、作業計画をインプットしておく必要がある。あとは、効率的に限定的な昼寝を組み入れるなど、対策が必要だろう。

・漫画

 漫画自体は駄目じゃあないんだけれど、これ、いつでも(精神力がないときでも、体力がないときでも、時間がないときでも)見れるので、敢えてやる必要がない。(そういや、先週は、ワンパンマンのリメイクがWEBで読めてしまって、ついつい最新話まで読んで夜更かししてしまった。)
 これは、それほど、やらないことにパワーは必要ないけれども、事前に取り決めしておかないと、気づいたら読みふけっていたという事態に陥ることは目に見えている。

・ゲーム

 これもダメじゃあないけれど、時間を決めてやろう。具合悪くなって、面白くはなくなったんだけれども、何となくやめられない状態に陥るのが、このゲームというジャンルはよくある。


 って。こうやって書いていると、小学生の夏休みの目標みたいだぞ! おい、いいのかこれで30代ッ!!


(もうちょっと休みが近くなってきたら、やること・やらないことをまとめて、紙に書き出しておこう)

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目標を立てよう(2017年)その4
2017/03/03 12:00 | Comments(0) | 目的・目標
今日の一言「カテゴライズ、整理ってホント重要だな」「今の気分にぴったりの記事を人工知能的に提供してもらいたい」

2017年の目標

 少しずつ、少しずつだけれども、株式投資への意識付けは進んでいる。NISA口座開設にもまた住民票が必要とは思わなかった。先日平日に休みをとったなら、取りに行っておけばよかったよ。それはともかく、ある方が、初心者にも優しい解説してくれたり、分かりやすいサイトを紹介してくれたりとしてくれるので、大変ありがたい。多分その方がいなかったら、未だに口座開設もしてなかった気がするな。

 さて、2017年というよりも、3月の目標を立てようと、先日から試みているわけであるが、難航している。
 寝る前に思ったのだけれども、例えば、婚活とか人脈を広げるための作業(努力? なんといえばいいんだ? 単純に「行動」でいいのか)をするにあたって、このブログとかサイト運営とかどうしたらいいんだ?
 自己開示しなければ、「本気で他者と向き合って」みたいなことにはなり得まい。しかしながら、このぐちゃぐちゃーっとした状態の、思考の渦みたいなものの開示は、正直、お忙しい誰もがノーサンキューであるに違いない。これは自己卑下ではない。対面状況において、愚痴や悩みを延々と聞かされたら、恋人友人関係であったとしても、いずれ疲れ果ててしまうであろう。

 であるならば、やはり、ある程度、思考も生活も、整理できた状態であるのが望ましい。
 目標を立てなきゃ、と焦ってしまったが、落ち着こう。今年1月に立てた目標は何だ?

 今年は整理の年にしよう。

 というものであった。まぁ既に、今年も2か月を過ぎてしまったのだ。早いなぁ。
 本一冊読み終えるとか、目標を立てておいて本当に良かったと思う。そうじゃなきゃ、日々の生活に忙殺されて、何も成し遂げられなかったろう。

3月の目標

 さて、既に、3月に突入したわけであるが。
 言うまでも、書くまでもないことであるが、体調管理は基本である。

 一つ、ルーチンを追加しようか、禁欲と、23時以降のPC消灯。
 基本的に、消極目標は優先しないことにしていたが、最近、生活の乱れが(主に帰宅時間が遅いせいに思われるが)発生しているので、強制力を行使する必要もあるかもしれない。

 取りまず、3月の、1か月限定で施行してみよう。

 最近、料理もたまにしているが、3月には、4回程度実施してみよう。少ないな! しかし、ここ半年ぐらいでは、月に2~3回ぐらいしか料理をしていなかった気がする。そのうち、1回に2品(カレーとみそ汁とか、グラタンにカボチャの煮つけとか)は作るとか、グレードアップしてもいい気がするけれども、ま、いきなりレベルアップするのは難しい。少しずつ生活レベルを上げていく他ないのだ。

希薄な感情

 離人症的気分と表現してしまってよいけれども、何だか、全般的にやる気が起きない状況である。
 ただ、今まで考えると、よくあったことだろう。景気循環みたいに、躁モードと鬱モードが結構激しく訪れるのである。大局として見て、さて、今、すべきことは、と問おう。あんまり、流れにさからってもよくない。ギャンブルで損したからと言って、次で取り返そうみたいに思っても、失敗するのと同じである。

 かといって、鬱々と落ちていってもよくない。こういうときは、守りに入る。できる限り、日々の生活レベルを壊さないようにする。漸次、向上させられたら御の字ぐらいに。


 では、3月いっぱいかけて、4~6月の四半期の目標を立てる。(忘れてはならない、2017年の大目標は、「整理」(体系化)である)

 可能であれば、後期の目標も立てる。

 なんとも、のんびりであるが、これでいいだろう。いつも焦って、生活レベルも壊したり、ろくなことがない。漸次、漸次。

(追加ルーチンは、しばらく触れていかなければ、すぐに破られるだろう。習慣づけは初めが肝心である)

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目標を立てよう(2017年)その3「描く生活」
2017/03/02 12:00 | Comments(0) | 目的・目標
今日の一言「連載といいつつ、まとめて書いてるよね」「ベースラインは整えておかないと忘れちゃうから……」

まずは求める生活から

 ここに二つの道がある。一つは、その「求めるもの」に対して、現実の変容を決意し、努力を重ねて、目標に到達する道である。もう一つは、その「求めるもの」について、再度解釈を試みること道である。
 一つ目の、現実へのアプローチについては、「専門性の取得」と、「彼女をつくる」という目標に具体化して、検討を加えた。結果的に、そこに至るには、「がむしゃらな行動(体験・経験)」が必要であり、思考的な納得をするには、未だ検討が不十分であることが分かった。

 それでは、二つ目の方策を検討していく必要がある。
 二つ目の方法とは、「その「求めるもの」について、再度解釈を試みること道である。」ということだが、これは、どういう意味だろうか?


 まずいきなり、壁にぶち当たるのだけれども、昨今の、感情等の希薄化問題がまとわりつく。
 これについては、日々の仕事の忙しさや、ルーチンの実施によって、何とか乗り切っているが、それもジリ貧なのは目に見えている。ある意味幸運で、ある意味崖っぷちなのは、離婚という生活基盤の変化によって、とどまるところがなくなっているということである。
 空虚な結婚という言葉があるかはわからないが、いかに問題があろうとも、その社会的制度がある場合においては、まずもって、その状態を修復することを試みるであろう。その意味で、独身生活は、明らかに便利(楽? といっていいのかわからないが、自由ではある)である。

 ゼロから考えることはできない。
 ブログタイトルを読み返してみよう。「離婚を突き付けられた30代男が、自己と仕事と家庭の総合から生きる意味を徹底して考えるブログ。」とある。
 ふーん、そうなんだ。と、俺のことなんだな、何か、他人事感があるな。

俺は誰だ?

 ここじゃない感。と表現すればよかろうか。

 うーむ……。

 俺が、成し遂げたいこととは何だろうか。
 と、書くと、先日コメント頂いたコメントが役に立ちそうに思える。

【その一】

 今回の例で言うと、「そもそも、最初からそのゴールを目指して走り出していたのか? 走り出した時点で想定するゴールは見通せていたのか?(=そもそもゴールがあるという前提のもとで走り出していたのか)」という部分自体が曖昧で、「とりあえず見えてきたゴールに、周りの人たち同様インすることはできる」としつつも「自分の思うゴールはこれとは何か違うんだよなぁ……」と、「一旦ゴールすることもなく、違うゴールを探しに別のルートに行ってしまう」といった印象で、逃げるというよりは、わざわざ険しい方に、遠回りするように、向きを変えて延々とゴールを探し求めて走り続けているような印象と言いますか。 
 私からすれば卑屈だなんて思う以前に、「自分から進んで走る距離を伸ばして凄いなぁ」ぐらいの感覚ですよ。 

 こちら、率直な意見を述べつつ、後段は肯定的に書いてくださっているあたり、大人と言うか、人格者に思える。こういう方、好きだ。
 でまぁ、後段に浮かれて浸っていても良いが、結局賞味期限がある感傷に過ぎないのであれば、むしろ、前段についての注釈解釈が必要である。

「そもそも、最初からそのゴールを目指して走り出していたのか? 走り出した時点で想定するゴールは見通せていたのか?(=そもそもゴールがあるという前提のもとで走り出していたのか)」

 ぐぬぬ……。
 くっそー! それが分かってりゃ苦労しねーぜ!!(かっこ笑い) 的な、感じである。
 いやはや、先日返信したように、全く図星をど突かれるとはこのことである。

 まぁ、若いうちはよかったことにしよう。がむしゃらに、ゴールなんて考えずに、思いつくままに駆け巡るってのも「あり」だろう。
 がしかし、もう、いい歳なのだ。アラサーになっても、少女系ファッションしてる痛い女性にはなりたくないのだ。40歳なっても、俺はミュージシャンになる! なんていって無職ヒモ生活しているような男性にはなりたくないのだ。

 と、こうやって、「なりたくない自分」を挙げていって、消去法的に目指す「ゴール」を明らかにしていく、という手法も、あることは、ある。


 ただ、この方法は、致命的な問題がある。世界は、広いのだ。攻殻の素子さんの言葉を借りれば、「ネットは広大だわ」みたいな。つまり、「消去!」「消去!」「消去!」と、デスノートばりに、ダメな自分像を消していったとしても、現実における選択肢は、中々に多様であるのである。
 もう一つ、こちらの方が致命的かもしれないが、消去法では、結局のところ、残ったいくつかの自分の中から、「じゃあこれにしよう」と、妥結したに過ぎないという思いが残ってしまう可能性があるのである。

【コメントその2】

遠藤さんは考えることが目的なんでしょうね。的を選ていると思います。 
これは私にも当てはまるんですが、結論を出さない議論を繰り替えしているんですよね。
科学者と哲学者の違いは「思考が結論を求めるか、求めないか」だと思っています。だとすれば我々は哲学者っていうことですね。
ちょっと思ったんですが、「生きる意味」について考える前に生きる意味とは何を指すのかについて定義してはどうでしょうか
「生きる意味」と言われても結構漠然としてて何かイメージできない。 
・死ぬまでに成し遂げたいこと 
・この世の中で果たす自分の役割(世界平和のためとかそういうの) 
・神様が自分を生産した理由 
ある程度具体的に定義しないと議論出来ないのでは?と今更ながら思ったんだ。 
別に正解なんて無いと思うし、いくつか定義してみてそれぞれについて考えてみてはどうでしょうか

 この提案も、素晴らしいツールとなった。頭がいい人なんだろうなぁと思った。それでいて押し付けがましくもなく、スマートである。こういう方、好きだ。

 この「生きる意味」であるが、フランクルさんの本を読んだ直近の今として浮かぶのは、「創造的価値」「体験的価値」「態度的価値」の、三つの価値に思われる。

 んで、すぐさま、僕のダメなところとしては、こういった三段論法的なものを出されると、すぐさま、「態度的価値」的なものが一番すごいんだ! 的に思うことである。そうじゃねーんだよ。「体験的価値」で挙げられている、音楽や芸術に触れて感動する、という、もうそれだけで、生きている意味があるってことである。優れた作品……何も劇団四季だとか、ミュージカルだとか、歌舞伎だとか落語だとか、伝統文化でなくてもよい、映画やアニメや漫画だって、ゲームだってよい。心打ちふるえる感動を、自らに引き入れることができたら、それだけで十分価値があることではあるまいか。
 そこで感じたことが、たとえ、すぐに時間とともに薄れゆくものだとしても、その瞬間起こった凛とした煌めきは、無かったことになるだろうか? いや決してそんなことはあるまい。

 仕事をして創造的価値を果たし、エンターテイメント作品に触れて感動を果たし、その繰り返しを積み重ねていくだけで、十分、人は、人として生きる意味があるのである。

創造的価値及び体験的価値に生きること

 上の、その2のコメントで重要なのは、もう一つある。「考えることそれ自体が目的であり、結論を求めていないのではないか?」ということである。

 これについては、追加のコメントにおいて、結論を出すということについては、「一次結論」と「二次結論」とに分類できるのではないかと触れた。二次結論とは、一次結論に対しての実践を指示・示唆する結論である。

 ……と、ここで時間切れである。

 うーむ。今回、このテーマに切り込むのは、何ともかなり精神的に削られる作業である。
 自分自身と向き合った文章を書くというのは、その表現がいかに拙くて、つまらなく、稚拙で、まどろっこしくても、疲れる作業だ。

 傍から見ると、アホちゃう? 状態であるが、残念ながら、これは、必要に迫られてやっているに過ぎない。そういう意味だと、「仲間」が欲しいなぁ……。「彼女」が欲しい、というのは却下されてしまったが、仲間が欲しい、ってのは、自然的ですぐさま承認されそうな感覚だ。

仲間をつくろう

 時間切れ、といいつつ、書き続けているが、一言だけでも、ベースラインを作りたい。
 なかまだなかま。ひらがなにすると間抜けにみえるな、ってそうじゃねえ。っと、恐ろしいこの、せっかくいいアイディアに思えたことが浮かんでも、「おめーさぁ、それって、仲間というより、自分を肯定してくれる「舎弟」みたいなの望んでるんじゃねーの? 教祖様になりたいんじゃないの?」みたいなことが同時に浮かびやがる! 何て奴だ! そうじゃねーんだよ、仲間だよ! 一緒になって、目的を果たそうと努力する仲間だよ!

「いやでもさ、結局、お前の言ってる「目的」ってのは、仏教的にいえば、「小乗」(個人の悟り)じゃねーか。例えば、お前のいう「仲間」ができて、一年ぐらい一緒に頑張って、結果、その「仲間」が先に「解脱」したら、お前、どう思うの?」

 えー……、そ、そりゃ、おめでとうって……「本当か?」 ――いや、もしかしたら、正直、悔しいなって、思うかも……。

 って、そんな、自己卑下、自虐しても意味無いじゃないか! もっと前向きにならなきゃだめだよ!


(といったところで強制終了。上の叫びは、虚しく響き渡るのであった)


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目標を立てよう(2017年)その1
2017/02/28 12:00 | Comments(0) | 目的・目標
今日の一言「苛々と焦燥感と無気力感に負けるな!」「日々の生活の中に答えがあるのでは……?」

3月の目標を立てよう

 目標を立てよう。ダメだこりゃ、毎週毎週が、サバイバル状態である。毎日毎日が、断絶状態である。もちろん、記憶障害もなければ、譫妄(せんもう:幻覚や錯覚)があるわけでもない。

 何だろうか、表現するならば、日々の生活が「虚しい」。空虚な感じがする。「実存的空虚感」という表現は、言い得て妙だと思った。

 と同時に、書棚を眺めていて、「あー、一時期、宮台先生(※)の『終わりなき日常を生きろ』だとか、『この世から綺麗に消えたい』だとか、よく言ってくれたと思っていたこともあった」が、結局一時的な処方にしかならなかったのではないか――もしくは、結局僕自身の生き方としては「信じ切ること」ができなかったのではないか、と思った。

 社会学は、所詮は、僕らが生きている時代や環境の、外的な(客観的な)位置づけについては役に立つが、結局は、実存的な問題には寄与しないのだ。
 僕らが生きる社会がどうであれ、僕が立っているのは、紛れもなく僕だけの場所なのだ。その場所が、文脈によってどのように定義付けられようが、「僕自身」からみる場所は、外的な定義によって虹色に変化することはないのだ。僕がみるのは、あくまでも、僕自身の眼によってなのだから。


※エリート社会学博士。イケメンで妻子持ちである。

恥ずかしい表現ではなかろうか?

 おーい、30代男性が、上のようなことを書くなんて、恥ずかしくない? 気持ち、悪いよ?

 と、俺は思う。が、僕は、仕方がないと諦めている。

 むしろ、てきとーに、逃げてきたことを、恥ずべきだと思う。何が体験重視だ。何ががむしゃらに、だ。何が子どもはバカやって学ぶもの、だ。いい加減に、他者の言説に惑わされるのをやめろ。不安なのはよく分かる。「自分自身」をもっていないと、非常に不安で、「あれをやらなきゃ」「これをやらなきゃ」という様々流布される言葉に、焦燥を掻き立てられる。

 僕の記事らに、「実感」という言葉が登場し出したのはいつ頃だろうか? 意識し出したのは、最近のことに思われる。少なくても、15年前ぐらいには、無かった気がする。
 厳密に考えていけば、「自己の考え」と、「他者の考え」を明確に分離させることは困難である。完全にクローズされた環境で育てられたのなら別だろうが、そもそも、それは正常な人間としての成長があるとは思われない。

最近求める面白い記事について

 んで、最近思ったのは、他者のブログにおいて、面白いと思うのは、それが、ポジティブだとか、ネガティブだとか、そこがポイントなのではないことだ。愚痴でもいいんだけど、その向かう先が、外部になっている記事は、おもろーない。
 これは、社会批判の記事を否定するのではない。「自分はこう思うから、社会がこうあるのはおかしい」という主張は、有意義に思える。科学技術についてだとか、漫画を描く技術だとか、そういったテクニックに関するものも面白いものだ。ただ、これらは僕が、今クリティカルに求めているものではない。

 僕が今求めているのは、実存的問題を取り扱った記事であるが、これが中々多くない。というのも、単なる「愚痴ブログ」なものは、ちょっと違う、からだ。

 ここで僕が(面白くないもの)想定しているのは、同じグチグチしているブログ(俺はダメな奴だーとか)であっても、何だか面白くないなと思うときの大半が、それを、「誰かのせい」にしているのである。

 家族の誰々のせいだ。
 社会のせいだ。
 会社の上司のせいだ。
 友人のせいだ。
 彼氏のせいだ。


 誰かのせいにするってのが、僕は嫌いである。(んじゃー、なんでいっつも苛々するんだよ、という突っ込みは、非常に鋭い。これはまた別途、検討に値する気がする。ただ、取りあえず一次感情(実感)としては、僕は人のせいにするのが嫌いだ)

 いや、誰かに責任を負わす、ということは、仕事のうえでも、友人関係のうえでも、重要なことに思われる。ただ、責任とは何ぞや。部下が失敗して、叱責をしたとして、問題が解決するのだろうか(※)。それよりも、何らかの解決に向けて思考を使った方が有意義なのは言うまでもない。

 怒りの発散としての記述は、読んでいても面白くない。(え、お前の苛々対処の記事は何なんや! というのも鋭い突っ込みだ。やっぱり俺も同じことやってんじゃねーか、と更に鬱になる)

 ……ということは、やっぱり、俺の記事は面白くない、ということになる。


※叱責の不要を主張するのではない。ただそれは、次のミスを防止するためのものであるべきだ。人格攻撃して、悦に浸るような人間も存在するが、できるだけ避けた方がいい。

問題の提起

 別に、今、苛々しているわけじゃあないんだが、とにかく、色々、このままではまずい。

 この状況を、『君の名は。』『SAO』ショック、とか言ってふざけている場合ではないのだ。

 整理しよう。
 まず、何故、種々の作品の視聴が、「ショック」であったのか。

 羨ましいなぁ。

 という感情であったと、まず仮定しよう。その羨ましいとは、若さへであったり、一途さであったり、充実さであったり、彼女だったり、特異な能力などが挙げられるであろう。

 そして、それとの、自分との距離感による、「喪失感」であったと推定しよう。


 フランクルさんの言葉を借りれば、「若さは憧れるものではない。自分自身の積み重ねてきた過去の一つ一つが、かけがえのない価値なのだ」となるだろう。
 確かに、それは正論であって、そうあるべきものなのであるが、しかし、「実感」としてそのことを落とし込めてはいない。


 ここで、二つの道がある。

 一つは、その「求めるもの」に対して、現実の変容を決意し、努力を重ねて、目標に到達する道である。

 もう一つは、その「求めるもの」について、再度解釈を試みること道である。


(分割して書く。まず、第一の道について掘り下げて検討する)

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2017年中途半端な目標
2017/01/02 20:00 | Comments(0) | 目的・目標

2017年

などと書いていたら、年が明けてしまったよ。恒例の何だか自意識をこねくりまわしたような、来年の抱負とかそんなものをしてる間もなく、年老いた両親と過ごしたよ。まだ元気だけれどもね、年月の経過は否めないよね。

今回は休みが短いのもあり、完全に頭を切り替えることができなかった。仕事のことも気になるよね。前に、重く責任があることが迫ってると、三連休も嬉しくない、気が休まらないと書いたけど、似たようなもんだよね。

これを例えると、いつもの極端だけど、死刑囚みたいなものだ。毎朝、今日は執行の日か、と怯えるのだよ。年末の執行はないとのことだから、28日ぐらいまで大丈夫だと、しばし何日かは安寧なんだと聞いたよ。でも、その一日や三日や、その程度の時間が、なんになるのかって思うよね。

壮大な人生のカウントダウン

でもね、今思ったけど、まぁ、人生そのものが、明日終わるかもしれないカウントダウンなわけだよ。
平均寿命? 単なる気休めにすぎないよね。

それにたいして、僕たちがとれる手段って、

考えないこと、なわけだよね。

だから、考えない生き方ってのもあるわけだよ。それは、ヤンキーとかチンピラとか、バカ野郎とか屑人間とか、一般にダメなやつらにカテゴライズされる人たちがいても、実はそこに学ぶことは多いのかもしれないよ、まぁあまり関わりたくないが。

ただ、すぐさま書いておくべきは、僕はそんなカテゴライズをそもそも信用してない。茶髪、ピアスしてたらヤンキー? 悪い奴? そんなことないよね。見かけだけの問題じゃないし、パリッとスーツできめた真面目そうな人でも、詐欺師かもしれないよ、怖いよ。

そういう、他者、の信頼性が、大人になるほどに構築が難しいという点で、子供のころ若い頃の友人が大切だということが言われるわけ。

だから、別に大人になってからとか、会社のなかで友人ができないとか、そんなのもくだらない思考でしかない。

でも、シビラシステムなんてないせかいだと、そもそも他者をスキャンする、時間的精度的コストが高いから、そもそも他者を信頼しない、という行動方策もまた、正しいという場合もある。

ようは、完全敵役悪役だった、サイコパスの狩猟大好き会長のいってた、程度の問題、というわけだよ。


まぁ、そんなこと皆わかってるんだろうね。わかっているなかで、みんな、心の自動的なスタビライザーによって、安定させて、日々を生きているのだろうね。

何で生きてるとか、こんな役に立たないことを考えたりしないんだろうね。

だが。

死ぬ直前まで死ぬことを認められない

これも何かで見たり聞いたことだけど、人は、最後まで自分の死ぬことを認められないという。
それは、ギロチンで、首をかせにはめられ、ロープが断ちきられ鋭い刃が落下するおとを聞いた瞬間でさえも、自分はなにか奇跡がおきて助かるのではないか、と。

これはまぁ、突発的な状況においてで、キューブラーロスの、死ぬ瞬間においては、終末期医療における、五段階ぐらいの、患者が死に向かう際の心の移り変わりが事例をもって示されている。

最初はやはり、何で自分が? と、認められないけれど、徐々に死を認めて諦念していく、というわけなので、突然事故にあったようなときでは、死ぬことを簡単に認められないことは当然に思える。


だから、一日一日を、大切に生きなさいよ、という結論だ、しかし。

本当にそうか?

どうなの? ヤンキーのように、日々を楽しく暮らしてればそれでいいんじゃない?

めめんともり、死を毎日感じながら生きてるなんて、そんなの死刑囚の生き方じゃない?

もっと自由に、自分にはまだまだ可能性がたくさん広がっていて、ますます喜ばしく楽しい人生が広がっていくって、そんな風に感じて生きてりゃいいんじゃない?


さてここで問題だ。

あなたは、2017年を、どのように生きるのか?

2008年や2010年ぐらいのように、感覚的に享楽的に生きるのか。

それとも、2004年や2009年ぐらいのように、思考的に禁欲的に生きるのか?


答えは決まっている。

ハードウェアの部分は後者で思考的に、ソフトウェアの部分は前者で享楽的に生きる。

矛盾する概念であり、難しいところだ。

が。

これしかないだろう。
今年、あまり目標だとか目的だとか書こうと思わなかったのは、方針がもう固まっていたというのもありそうだ。

目標

なんだろう。目標をたくさん掲げて、今日はこれを達成できましたーとかやってく、意識高い系のblogって、嫌悪してしまう。

なに頑張ってる感だしてるの? 勝手にやってろよ。

なんて思ったりしたりどうだったり。ただ、ある派遣プログラマの方のblogも、そんな目標書いていて、スゲーちゃんと実現とかしていて、すげーなぁって思うけど、あんまり嫌な気分にならない。

これって、SNSで、幸せな家庭ですアピールをするために写真をせっせとあげる人なのか、本当に自分のせっぱつまった生きざまにおいての必要性にせまられてるものなのかの違いな気もする。

まぁ、その、リア充自慢する人も、ある意味必死なのだろうから、別に否定する気もないのだが、恐らく、その、優しい旦那さん(奥さん)がいて、子供が健康ですくすくそだち、頭がよくて、友人も多くて家でクリスマスパーティーやって、と、そういう幸せ観を絶対視していて、それを享受できる私ってすごいでしょ、という感覚がにじみでていると、うわ、なんかイラつくな、ってなるのかもしれない。

例えば、非モテなアラフォー女性が婚カツパーティーでいい男ゲットだぜ! とかいうブログは面白いよ。目標もはっきりしてるし、創作だとしても、なんか頑張ってる感じが応援したくなる。



はて?
では俺は、応援したくなる人間なのだろうか?

この問いは結構、自分でやってて心がえぐられる。
うーむ、確かに、あんまり、こいつ、応援したくないな(笑)

ただ、ある精神科医のブログの方なんて、とても応援したいなぁって思う。まぁ応援なんてもう必要なくて、能力も高くて、妻子に恵まれ幸せな生活を送られてる方なんだけどさ。

でも、書いてる内容的には、ちょっと僕も目指したいというか、その方のブログを読んだときに僕が感じた、ああ、よく言ってくれた! という感覚を、僕も、僕のブログをもし読んでくれた方がいたら、その人に与えたいなって、そう思うよ。

というのを前提に、目標を立て並べる。

目標

ブログ継続。
思考の体系化。

ええと、これは、僕は、自分ってどんなひと?
と聞かれると、困ってしまう人間なんだけど、明確な答えを言えるようになりたいということだ。

仕事にも関係する。君はなにできるの? といわれたとき、明確に価値を語れるような人間になる、ということ。

これが何故大事なのか? 仕事人間になるということか? すわ社畜か?

ノーだ。むしろ、効率的に時間を捻出できる方策だ。つーかむしろ、誰にでもいい顔して、やる気を見せて、がむしゃらに頑張るってのを遮断する方策だ。

俺はこれができる、そのためにはこれくらいの期間が必要だ、だからそれはできない、と。読んだことないけど、断る力、みたいなもんだろう。たぶん、それ系統の本を読んでも、コアコンピタンスをもてとか、その程度のことしか書いてないはずだ。

もう1つ消極目標を掲げれば、コラムとか、ビジネス本とか、自己啓発的なニュースとかは、極力目にもしないようにしたい。ああいうの、不安だけ煽って対した答えが全くないのだ。99%ないといっていい。当たり前ちゃあそうで、責任もなければ、そもそも、これやって誰でも絶対成功する遣り方があるなら、それでもうみんな大成功してる人ばっかりになるはずだ。

1つ、誰にでも絶対に当てはまって、成功することをここで書いてみようか。

それは、習慣をつくることだ。
筋トレでも、勉強でも、ビジネスの営業でも、繰り返し学び身に付けそれを見直し改善していくというプロセスとメソッドを自分のものとして、習慣化することが、人生の大成功のための唯一絶対普遍的な方法である。



誰にでも当てはまる、ただし、誰でもできるわけではない、ここがポイント。

メソッドはあっている、ただ、あなたが成功できないのは、あなたがそれを正確に毎日ちゃんと実践できていないからです!

というわけだ。責任はとる必要などない。

具体的に、こういう方法が必要です、と描かれる本やニュースはまだいい。その殆どが、不安を煽るだけで終わってるからたちが悪い。


まぁそれは2017年、僕にとってはどうでもいい。きっとこれからも、そうした記事や本はなくならず、コマーシャリズムはこれからしばらくも続くことだろう。

だから、頑固親父になろう、というのでもないけれども、例え後ろ指さされてクレームや批判をされても、必要以上に気にしないことだ。

不安を煽ってるのはお前自身では?

不安を煽るだけ煽って、答えを示さない。
それって、このブログそのものじゃないかと思った方はその通りだ鋭い。

あれもだめ、これもだめ、じゃあ何がいいの?

なんだろう?

それを探し求めているのが、このブログの主旨そのものである。

生きる意味を徹底して考える。


これー、結構大変なことな気がしてきたよ、と、いまさらか!

何をしても、何を感じても、この価値基準ではかられるわけだ。

友人と楽しく徹夜で遊んだと、で、それは意味につながったのか? と、常々聞かれるのだ。
ええ、楽しかったよと。わざわざ出向いてくれて、気兼ねせず好き放題やれる関係があるって、ほんと素晴らしいことだとおもったよ。

家族もよいものだった。一緒に酒を飲んで、リビングで寝転がって、テレビを見て他愛ない話をして。


それらは、それだけで価値のあるものだろう。

それらについて、果たして生きる意味を考えることに資する行為だったのかというのは、これはもう野暮というか、頭がおかしいサイコパスでしかなかろうに。



だからこそ。
いやそれでもなぉ、どうしても、このブログのタイトルを変えずに続けるというならば、それはかなり困難な大変なことであるのは、、間違いないのだ。


今から方針を変えるか?
感覚的に、享楽的に生きたあの頃に戻るのか?

煽りに対して安定している

うん、さんざん馬鹿げたことだと書いてもなお、やっぱり、今年の方針は変えようとは全く思わない。

このまま攻める。


攻める?

うん、新しい言葉が出たけれど、この攻めるのはいいかもしれない。
あるリアルタイムストラテジーのゲームが好きで、高校のときずっと友人と遊んでいたものだけれども、高い城壁を築いて、大砲を配置し、内政に力を入れて守りを固めても、その友人にはいつも勝てなかった。結局、攻めなきゃ、どんどんじり貧になって、滅ぼされてしまうのである。

もちろん、今の世の中で、軍備拡張して他国に攻めいるとか、帝国主義的なことではなく、言論とか法律とか資本主義とか、したたかな外交とか、他の面での戦いが必要だというのは当たり前である。

じゃあ、何をして攻めようかというのは、今後の検討だけれども、まぁ、どんどんやってこう。

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