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2017年中途半端な目標
2017/01/02 20:00 | Comments(0) | 目的・目標

2017年

などと書いていたら、年が明けてしまったよ。恒例の何だか自意識をこねくりまわしたような、来年の抱負とかそんなものをしてる間もなく、年老いた両親と過ごしたよ。まだ元気だけれどもね、年月の経過は否めないよね。

今回は休みが短いのもあり、完全に頭を切り替えることができなかった。仕事のことも気になるよね。前に、重く責任があることが迫ってると、三連休も嬉しくない、気が休まらないと書いたけど、似たようなもんだよね。

これを例えると、いつもの極端だけど、死刑囚みたいなものだ。毎朝、今日は執行の日か、と怯えるのだよ。年末の執行はないとのことだから、28日ぐらいまで大丈夫だと、しばし何日かは安寧なんだと聞いたよ。でも、その一日や三日や、その程度の時間が、なんになるのかって思うよね。

壮大な人生のカウントダウン

でもね、今思ったけど、まぁ、人生そのものが、明日終わるかもしれないカウントダウンなわけだよ。
平均寿命? 単なる気休めにすぎないよね。

それにたいして、僕たちがとれる手段って、

考えないこと、なわけだよね。

だから、考えない生き方ってのもあるわけだよ。それは、ヤンキーとかチンピラとか、バカ野郎とか屑人間とか、一般にダメなやつらにカテゴライズされる人たちがいても、実はそこに学ぶことは多いのかもしれないよ、まぁあまり関わりたくないが。

ただ、すぐさま書いておくべきは、僕はそんなカテゴライズをそもそも信用してない。茶髪、ピアスしてたらヤンキー? 悪い奴? そんなことないよね。見かけだけの問題じゃないし、パリッとスーツできめた真面目そうな人でも、詐欺師かもしれないよ、怖いよ。

そういう、他者、の信頼性が、大人になるほどに構築が難しいという点で、子供のころ若い頃の友人が大切だということが言われるわけ。

だから、別に大人になってからとか、会社のなかで友人ができないとか、そんなのもくだらない思考でしかない。

でも、シビラシステムなんてないせかいだと、そもそも他者をスキャンする、時間的精度的コストが高いから、そもそも他者を信頼しない、という行動方策もまた、正しいという場合もある。

ようは、完全敵役悪役だった、サイコパスの狩猟大好き会長のいってた、程度の問題、というわけだよ。


まぁ、そんなこと皆わかってるんだろうね。わかっているなかで、みんな、心の自動的なスタビライザーによって、安定させて、日々を生きているのだろうね。

何で生きてるとか、こんな役に立たないことを考えたりしないんだろうね。

だが。

死ぬ直前まで死ぬことを認められない

これも何かで見たり聞いたことだけど、人は、最後まで自分の死ぬことを認められないという。
それは、ギロチンで、首をかせにはめられ、ロープが断ちきられ鋭い刃が落下するおとを聞いた瞬間でさえも、自分はなにか奇跡がおきて助かるのではないか、と。

これはまぁ、突発的な状況においてで、キューブラーロスの、死ぬ瞬間においては、終末期医療における、五段階ぐらいの、患者が死に向かう際の心の移り変わりが事例をもって示されている。

最初はやはり、何で自分が? と、認められないけれど、徐々に死を認めて諦念していく、というわけなので、突然事故にあったようなときでは、死ぬことを簡単に認められないことは当然に思える。


だから、一日一日を、大切に生きなさいよ、という結論だ、しかし。

本当にそうか?

どうなの? ヤンキーのように、日々を楽しく暮らしてればそれでいいんじゃない?

めめんともり、死を毎日感じながら生きてるなんて、そんなの死刑囚の生き方じゃない?

もっと自由に、自分にはまだまだ可能性がたくさん広がっていて、ますます喜ばしく楽しい人生が広がっていくって、そんな風に感じて生きてりゃいいんじゃない?


さてここで問題だ。

あなたは、2017年を、どのように生きるのか?

2008年や2010年ぐらいのように、感覚的に享楽的に生きるのか。

それとも、2004年や2009年ぐらいのように、思考的に禁欲的に生きるのか?


答えは決まっている。

ハードウェアの部分は後者で思考的に、ソフトウェアの部分は前者で享楽的に生きる。

矛盾する概念であり、難しいところだ。

が。

これしかないだろう。
今年、あまり目標だとか目的だとか書こうと思わなかったのは、方針がもう固まっていたというのもありそうだ。

目標

なんだろう。目標をたくさん掲げて、今日はこれを達成できましたーとかやってく、意識高い系のblogって、嫌悪してしまう。

なに頑張ってる感だしてるの? 勝手にやってろよ。

なんて思ったりしたりどうだったり。ただ、ある派遣プログラマの方のblogも、そんな目標書いていて、スゲーちゃんと実現とかしていて、すげーなぁって思うけど、あんまり嫌な気分にならない。

これって、SNSで、幸せな家庭ですアピールをするために写真をせっせとあげる人なのか、本当に自分のせっぱつまった生きざまにおいての必要性にせまられてるものなのかの違いな気もする。

まぁ、その、リア充自慢する人も、ある意味必死なのだろうから、別に否定する気もないのだが、恐らく、その、優しい旦那さん(奥さん)がいて、子供が健康ですくすくそだち、頭がよくて、友人も多くて家でクリスマスパーティーやって、と、そういう幸せ観を絶対視していて、それを享受できる私ってすごいでしょ、という感覚がにじみでていると、うわ、なんかイラつくな、ってなるのかもしれない。

例えば、非モテなアラフォー女性が婚カツパーティーでいい男ゲットだぜ! とかいうブログは面白いよ。目標もはっきりしてるし、創作だとしても、なんか頑張ってる感じが応援したくなる。



はて?
では俺は、応援したくなる人間なのだろうか?

この問いは結構、自分でやってて心がえぐられる。
うーむ、確かに、あんまり、こいつ、応援したくないな(笑)

ただ、ある精神科医のブログの方なんて、とても応援したいなぁって思う。まぁ応援なんてもう必要なくて、能力も高くて、妻子に恵まれ幸せな生活を送られてる方なんだけどさ。

でも、書いてる内容的には、ちょっと僕も目指したいというか、その方のブログを読んだときに僕が感じた、ああ、よく言ってくれた! という感覚を、僕も、僕のブログをもし読んでくれた方がいたら、その人に与えたいなって、そう思うよ。

というのを前提に、目標を立て並べる。

目標

ブログ継続。
思考の体系化。

ええと、これは、僕は、自分ってどんなひと?
と聞かれると、困ってしまう人間なんだけど、明確な答えを言えるようになりたいということだ。

仕事にも関係する。君はなにできるの? といわれたとき、明確に価値を語れるような人間になる、ということ。

これが何故大事なのか? 仕事人間になるということか? すわ社畜か?

ノーだ。むしろ、効率的に時間を捻出できる方策だ。つーかむしろ、誰にでもいい顔して、やる気を見せて、がむしゃらに頑張るってのを遮断する方策だ。

俺はこれができる、そのためにはこれくらいの期間が必要だ、だからそれはできない、と。読んだことないけど、断る力、みたいなもんだろう。たぶん、それ系統の本を読んでも、コアコンピタンスをもてとか、その程度のことしか書いてないはずだ。

もう1つ消極目標を掲げれば、コラムとか、ビジネス本とか、自己啓発的なニュースとかは、極力目にもしないようにしたい。ああいうの、不安だけ煽って対した答えが全くないのだ。99%ないといっていい。当たり前ちゃあそうで、責任もなければ、そもそも、これやって誰でも絶対成功する遣り方があるなら、それでもうみんな大成功してる人ばっかりになるはずだ。

1つ、誰にでも絶対に当てはまって、成功することをここで書いてみようか。

それは、習慣をつくることだ。
筋トレでも、勉強でも、ビジネスの営業でも、繰り返し学び身に付けそれを見直し改善していくというプロセスとメソッドを自分のものとして、習慣化することが、人生の大成功のための唯一絶対普遍的な方法である。



誰にでも当てはまる、ただし、誰でもできるわけではない、ここがポイント。

メソッドはあっている、ただ、あなたが成功できないのは、あなたがそれを正確に毎日ちゃんと実践できていないからです!

というわけだ。責任はとる必要などない。

具体的に、こういう方法が必要です、と描かれる本やニュースはまだいい。その殆どが、不安を煽るだけで終わってるからたちが悪い。


まぁそれは2017年、僕にとってはどうでもいい。きっとこれからも、そうした記事や本はなくならず、コマーシャリズムはこれからしばらくも続くことだろう。

だから、頑固親父になろう、というのでもないけれども、例え後ろ指さされてクレームや批判をされても、必要以上に気にしないことだ。

不安を煽ってるのはお前自身では?

不安を煽るだけ煽って、答えを示さない。
それって、このブログそのものじゃないかと思った方はその通りだ鋭い。

あれもだめ、これもだめ、じゃあ何がいいの?

なんだろう?

それを探し求めているのが、このブログの主旨そのものである。

生きる意味を徹底して考える。


これー、結構大変なことな気がしてきたよ、と、いまさらか!

何をしても、何を感じても、この価値基準ではかられるわけだ。

友人と楽しく徹夜で遊んだと、で、それは意味につながったのか? と、常々聞かれるのだ。
ええ、楽しかったよと。わざわざ出向いてくれて、気兼ねせず好き放題やれる関係があるって、ほんと素晴らしいことだとおもったよ。

家族もよいものだった。一緒に酒を飲んで、リビングで寝転がって、テレビを見て他愛ない話をして。


それらは、それだけで価値のあるものだろう。

それらについて、果たして生きる意味を考えることに資する行為だったのかというのは、これはもう野暮というか、頭がおかしいサイコパスでしかなかろうに。



だからこそ。
いやそれでもなぉ、どうしても、このブログのタイトルを変えずに続けるというならば、それはかなり困難な大変なことであるのは、、間違いないのだ。


今から方針を変えるか?
感覚的に、享楽的に生きたあの頃に戻るのか?

煽りに対して安定している

うん、さんざん馬鹿げたことだと書いてもなお、やっぱり、今年の方針は変えようとは全く思わない。

このまま攻める。


攻める?

うん、新しい言葉が出たけれど、この攻めるのはいいかもしれない。
あるリアルタイムストラテジーのゲームが好きで、高校のときずっと友人と遊んでいたものだけれども、高い城壁を築いて、大砲を配置し、内政に力を入れて守りを固めても、その友人にはいつも勝てなかった。結局、攻めなきゃ、どんどんじり貧になって、滅ぼされてしまうのである。

もちろん、今の世の中で、軍備拡張して他国に攻めいるとか、帝国主義的なことではなく、言論とか法律とか資本主義とか、したたかな外交とか、他の面での戦いが必要だというのは当たり前である。

じゃあ、何をして攻めようかというのは、今後の検討だけれども、まぁ、どんどんやってこう。

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