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創作と生きる意味を考えること以外はどうでもよい
2017/12/20 00:20 | Comments(3) | イライラ対処
今日の一言「これはイライラ対処か」「書くことで気持ちを落ち着けるという意味か」

他者に対しての攻撃性

 ううむ、忙しいと、いろいろと周囲に対して怒りを覚えるようになる。
 そういうときに、部下の残業を減らすために管理職の残業が増えて過労死したとか、そのようなニュースを目にしたりすると、イライラに拍車がかかる気がする。

 クリスマスイブはデートに行こう、そうしよう。リア充爆発しろ? しかし、自分自身、そこを大事に思えない。

 モンスターハンターワールドは面白そうだけれども、シュタインズゲートのゲームも全然すすめられていないけれども、それどころではない。

 大事なものは何か。
 創作することと、生きる意味を考えることの、この二つである。

創作することの重要性

 何故その二つが大事なのだろうか?

 創作することは、それ自体がやはり楽しいのだ。確かに、よい表現が浮かばずに悩んだり苦しんだりすることもある。ただ、それ自体が自分の血肉になっているような気がするし、何せ、その結果として成し遂げられた「作品」という完成品は、とても貴重なものだ。その作品が、果たして、「客観的」たる価値が認められなかろうが、しかし、その作品は「自分」という存在が成し遂げた「存在(事物)」なのである。

 作品をつくりあげるということは、すなわち、それこそが、「自分」たる存在証明のようなものなのだ。何故ならば、その作品は、絶対的に、「自分」でしかつくれなかったのだから。


 ちなみに、ここでの「創作」というのは、プログラムでサイトをつくるのもそうだし、ブログを書くのもそうだし、仕事で資料をつくるのだってそうだ。

 だから逆に、「レポート」という体系にように、「自己」「自分」という主体を排して、「客観性」たるものを満たさなければいけないドキュメントなどは、作品とは言えない。いやでは学術論文はどうなのか? そこらへんの微細な分類を考えるほど暇ではないし、面白そうには思えない。

 とにかく、自分という存在の表現が為されたものが「作品」であるのだ。コピペ? 言語道断である。

生きる意味を考えることの重要性

 創作を突き詰めることができれば、僕は、これからも生きることができるかもしれない。

 ところが、人生はそれだけではままならないものである。いや、創作という生き方――たとえば、音楽家なり、小説家なり、いわゆる芸術家なる生き方をしたとしても、人との軋轢はさけられない。

 いや、人と関わらなければならないということだけでなく、葛藤というものは、人生から取り除くことはできない。
 悩み苦しみも含めて、人生なのである。

 ――同時に、僕は上のことを否定する、と以前書いた。苦しみ悩みながら時折の満足を得ながら生きる姿……ただ、実存として生きることが大事だという考え方を、僕は受け入れられていない。

 何故、今すぐ死ぬということを肯定してはならないのか。この問いは強力な、禁断の呪術のようである。これは、神という概念や、死後の概念を信じられない人にとっては、恐ろしい言葉でありながら、一方で福音の可能性もある。福音の可能性……そう、だから、良いことの可能性もあるというその可能性、蓋然性、よく分からないということ自体が、一切の思考を止めることができなくなるのである。

 これに対する処方箋は、やはりニーチェの永劫回帰(永遠回帰)ということになろうか。
 すなわち、この先苦しんだ結果、「そうだ、やはり人生に意味はない。死のう」として命を絶ったとして、結局、それは、再び、繰り返されるのである。「自分」は、永遠に「自分」なのである。苦しもうが悲しもうが、痛かろうが辛かろうが、それは変えられない。同じ頻度で、同じ順序で、まったく同じ内容のことが、永遠に、いつまでもいつまでも繰り返されるのである!! ――これが永劫回帰の思想だ。

 とすれば、自殺という手段が、決して、救済にもならなければ、正解ともいえないことが分かるだろう。いや、もっと恐ろしいことに!! 正解も失敗も、この世には、人生には一切存在しないのである。


 で、あるならば、これから先……否、この瞬間に! 今なさんとすることについて、それは、本当に、これから先何度も何度も、ずっとずっと繰り返すに値する行為なのかと! 次の、お前の、次に書こうとしているその文章が、指の動きが、思考の流れが、判断が、感情が、すべてすべてすべてすべて! 本当に成すべきことなのかと!!

てなことを考えでもしなければ理不尽さに潰れそうだ

 ああ……上のようなことを考えることが、なんと愚かなようにうつることであろう。こんなこと、デートの会話にはふさわしくなかろう。友人との忘年会にはふさわしくなかろう! だが、しかし、でも。

 もうこれは、俺にとっては、必須である、まったなしに必要なことである。でなければ、今にも怒りやその他もろもろの感情で自壊しそうである。


 だから、珍しく結論としてこの記事においては、もう創作と生きる意味を考えること以外は、些末事として切り捨てる、ということを記そうと思う。
 ああ、しかし、思ったのだ。この、苛立ちというか怒りというかは、とても、ある意味「楽」だなぁと。

 僕は昔から、他者との関係に気を使ってきた。その気の使い方が、適切だったのかどうか、そんなことはどうでもいいし、きっと、「変わったやつだなぁ」という感覚は与えてしまっていただろう。
 だが、それは、気を使っていたからなのだ。この感覚までは、「わかるわかる」って言ってくれる人も何人か見つけたことはある。
 そして、この感覚について、怒りがたかまるにつれて、どうでもよくなっていくのだ。つまり、人に嫌われることや、敵を作ることや、対立することが、怖くなくなっていくのである。

 これが冒頭に書いた、攻撃性というやつだ。でも、自分がこう、攻撃的になってわかったのは、「人のせいにするって、楽なんだな」ということだ。
 だから、理不尽に怒っているような奴をみつけたら、「ああ、あいつ、楽してんな~」と思ってやればいい。まぁ、その「あいつ楽してるな」というのが逆に、「なんであいつだけ楽してるんだ!」と逆に、怒りを増幅する原因にもなるだろうが(かっこわらい)。


(かっこ書きである。ここまで書いて、やっぱりカテゴリをイライラ対処にした。まぁその、書くことで感情を落ち着けられるというのは、やっぱり効果あるなぁと思った。とりあえず、風呂に入ってこようという気持ちになることはできた。ま、こういう記事をだ、何故わざわざ書いて公開しなきゃならねぇのかってのは、いつも思うことである。でもまぁ、こういう、頭がおかしくなりかかっている人の記事って、ちょっと面白いんじゃなかろうか、って思う。だって、先日取りあげた本だって、有名な人のブログとかだって、そりゃあもう、立派なことが書いてあるわけじゃあなかろうか。ごちゃごちゃした、くだらない考えや感情をたれながしたようなものなんて、あんまなかろうよ。……けどまぁしかし、なんか、「くだらない考えや感情の垂れ流し」というのは、確かにあるし、逆に面白くないなぁと思うこともある。この違いが俺はよく分からない。なんだろうか、そのくだらない「表現」が、ただの「コピペ」的であると、面白くないのである。そして、完全に「感情」に支配されてしまうと、これまた面白くないのである。かっこつけて、フロイト流に書いてみれば、エス(衝動・欲動)と、スーパーエゴ(理性)とのせめぎあいの中で書かれる文章が面白いのである。欲動だけでは面白くない(というか、何いってるのか全く不明。これは「いわんとしたことが分からない」というのではなく、文字通り外国語・宇宙語的な意味不明になってしまうということだ)し、理性だけでは、レポートのようで面白くない。レポートなんて、「これこれこういう条件だと、こうなります」というだけだ。その「こうなります」に興味がなければ、その時点で面白くなどない。あああ、しかし、この記事は、この俺の記事は面白いのか? いや、面白いと思う人が多いはずはないことは分かっているのだが、面白いと思ってくれる人は存在するのか? いやいやいや、お前はどれほどを望んでいる? 一人でも面白いと思ってくれる人がいたらOKなのか? それとも、それ以上を望んでいる? それは高望みじゃあなかろうか。せめて、たった一人、未来の自分でも、少しでも面白いと思ってくれるなら、それで満足すべきなのではなかろうか。ああ、しかし、またしても、だらだら・どんどんと続きそうなので、今日はここで強制終了)


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コメント

 誰にどんなことを言われても、納得「する」かどうかって本人次第なんですよね。
 しようと思えばどんな意見であっても納得は「できる」わけで、ただ、「できるからするかどうか」は本人次第だと思うわけです。善悪の判断にしろ、正当性云々にしろ、どんなことであってもそう。
 それぞれ考え方や性格、人格が違うのだから100%一致するような意見というのはそうそう出てこないでしょうから、自分の考えや性格に従って納得「する」かどうかを決めているのだと思います。全く同一の個体が存在しないことが人の良いところであり悪いところであり人を人たらしめるところだと思うわけですが話が脱線していくのでそれはさておき。

 どんなに納得できるものであっても、結局のところそれを受け取る側が納得するかどうかを決めるわけですから、「自分にとってこの答えは違う」と思い続けるのであればもはや答えは求めようのないものになっているかもしれません。誰かに教えてもらえるものではないでしょうし、自分で気付く、あるいは自力で納得しうるものを創り出す必要があるでしょうから。
 人のせいにするのが楽、というのは多分そういうことで、思考をある程度のところで手放してしまうのは楽になる方法の一つだと思います。
 以前、「答えを求め続けている」とコメントで書いた気がしますが、これ、「納得することのできる」が頭に付きますね。そして「納得できる答え」ではなく「納得するという判断を下せる答え」の方が重要なんだろうなーと今回の記事を読んでいて思いました。
posted by 白銀URLat 2017/12/20 17:38 [ コメントを修正する ]
 ついさっきサイトの方で不具合らしきものに遭遇したのでこちらにもお知らせコメントしておきますね。
 詳細はサイトの掲示板の方に記しておきました。
posted by 白銀URLat 2017/12/20 18:04 [ コメントを修正する ]
 白銀さんありがとうございます。

>以前、「答えを求め続けている」とコメントで書いた気がしますが、これ、「納得することのできる」が頭に付きますね。そして「納得できる答え」ではなく「納得するという判断を下せる答え」の方が重要なんだろうなーと今回の記事を読んでいて思いました。
⇒確か、「答えを求め続けている」とのコメントに「ちょっと違う(違和感がある)」と答えた記憶があります。その理由が、今回の、その「納得できる」という修飾詞なのかなと思いました。

 ざっくり、人を二分すると、主観重視の人か、客観重視の人か、となると思っています。どちらが大事、正しいというわけではないですが、白銀さんも私も、主観重視なのかな、と感じました(いや、白銀さんは単に私の記事に対するコメントで、ご自身は違う考えなのかもしれません。ただ、主観重視の考え方に対しての理解も深いのだなと感じたわけです)。

 主観というと自分勝手というか道徳に反するとか、そんなマイナスイメージもあるかもしれませんが、どんな立派な主張も、その正当性を示したい主観なのだ、というのが、ちょっと表現が悪いですが私の主観。もちろん、元が主幹であっても、多くの人が「納得し」「正しい」と思うようなことであれば、それは「客観」といえるかもしれません。

 このあたりの話しは、あまりこう……理解されづらい部分なので、話す気にすらあまりなれないのですが、問題はここからであって。

 僕がまぁ主観重視で世界をみているとして。次に、じゃあ、その主観世界で「納得する」ことができるのか、という問題。
 ――主観だからできるに決まっているじゃないか。
 それはそうですが、しかし同時に僕は、「自分」という存在自体も、「確かに絶対にあるもの」とは思っていない(という主観)。
 つまり相互関係の中で、均衡を保っている状態(同一体という意味ではない)が、自分というものであると思っている(という主観)。
 であるならば、実体がなく状態である自分という存在が、「こうであるのだ」という納得が可能なのか、というのが今直近の問題意識な気がしています(という主観……ってうざったいですね(笑))。

 納得、というキーワード。ありがとうございます。これもとても大事ですね。最初にコメント拝読したとき、僕の中の言葉では、「理解」といった表現を使っていた内容に近い気がしました。
 ただ、納得といったほうが、「主観」といったイメージがより強く表現できている気がします。理解というと、客観性が強そうですね。今後、納得と理解という言葉は意識して使い分けたいと思いました。

 言葉……結局、言葉でしか思考はできないわけで、言葉を大切に使うというのはとても重要だと、今までも思っていたことは思っていましたが、最近はさらにそう思うところです。
 ただ、これは、他者にどう伝えるか、という視点ではなく、自分の中で「納得した」言葉をつかえているか、という点を意識したいと思っているところです。

 ちなみにいつもながら話はまとまりませんが、「どんなに納得できるものであっても、結局のところそれを受け取る側が納得するかどうかを決める」というのは、まさにそう思うところでありまして、ゆえに、「同じこと」であっても、言う人によって受け取り方が違ったりしますよね。
 でもその違うというのは、その切り出した言葉としては「正しい」ものであっても、文脈として、その人が発するその流れにおいて、その人の思想的背景において、必ずしも「正しい」(納得できる)と思えないから、納得できないんじゃないかと思いました。
 だから、「言ってることは正しいけど、納得できないよ」というのは、実は違っていて、「言っていること」も違う可能性があるんじゃないかなぁと。だから、「人を見て態度を変えて嫌な奴だ」とか、そんなの気にしなくてもいいんじゃないかなぁと、なんかそんな風なこと思いました。
posted by endoat 2017/12/25 06:14 [ コメントを修正する ]

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