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飲み会とホメオスタシス
2016/07/08 23:00 | Comments(0) | イライラ対処
表現するということ、それを突き詰めていくしかない気がする。

今日は飲み会であり、女の子と話す機会があった、とかくと、喪男な人たちに嫉妬をあたえるかもしれないが、心配することなく、彼氏持ちだったり、絶対に美味しい場面になることがない状況における異性との会話は、リア充というよりもむしろ、マゾヒストである。

いわゆる、美味しい料理を目の前に、猿ぐつわをされて食べることはできないような拷問である。


まぁそれに進んで参加するのは、自暴自棄なのかもしれない。

ストイック



ほとんど寝ないで研究に没頭して、しごともして、と、ストイックなその姿勢に憧れる。年下だろうが、魅力的な人間は魅力的である。


俺は、できることが少ない。

なんでもできるけど、と書くと、これまた非難ばかりになるが、その何もかもが突出しないと、何もかもが自己肯定とか、自信につながらない。

なんでもできるとは、なにもできないことの同義かもしれない。


と、いうのは、どこか、他者よりもうえにたちたい、認められたいという思いが強いからかもしれない。

あるコミュニティがあったら、そこで一番にならなければ気がすまない、一番になれなかったらそのコミュニティを離れていく。

結果、どこにも所属できない、孤独がうまれる、こういう構造だろうか。


飲み会あとの高揚感



帰りの電車では、先日ほどの無気力感はない。
むむ、まさか、アルコール中毒ではあるまいな。

酒を飲むといやなこと忘れて楽しくやっほーってなる、そんなことはなくて、この書く内容が変わるかどうかってぐらいではなかったか。

あ、ひとつ分かったが、なんだか、自分の話をするとき、その話がつまらないんじゃないかと、ものすごい不安感におそわれる。


いやはや、こんなにブログでは饒舌なのに、なぜだろう、と考えるまでもなく、なにせ、ブログだって、これ、本当に面白いのか、っという思いが常にある。

それでも書き進められるのは、これが、誰でもない、自分のため、という思いが強いからだ。

結局、誰一人きいていないかもしれない、つまらないと思われているかもしれない、それでありながら、僕は、僕自信は、昨日の赤面するかもといいながら書いていた記事も、ちょっと面白かったのだ。

なんだろ、僕は、自分の話が、自信ないのか。
だったら、話の教室とか通って訓練すればいいのでは?


よくわからん。

でも、今日の飲み会は出てよかった。
女の子分は払うみたいなことになり、お金は2万近くかかったが。

でも、


思考と言葉



なぜ、自分のブログが面白くて、思考がとまらずに、表現したいと思うのか。

自分のこと嫌いと思っていたが、もしかして自分大好き人間なのか。

ただ、なんとなく、書いていないと、頭が整理できない、言語化できない混沌とした渦に巻きこまれて、触手に絡まれて、身動きがとれなくなっていく。


そのぐちゃりぐちゃりした、からめとられた身体をひねり、少しずつ触手をはずしていく、その作業が、僕にとって書く、ということなのだ。


書く。

言語化。


言葉だけを信じるのではない、しかし、感覚的に生きたとき、僕は、




そして翌日


途中まで書いて寝落ちしていたようだ。
サンドウィッチマンの動画を見ながら、風呂に入る前に仮眠しようとしたら、そのまま今に至る。


初めて訪れるカフェに足を運ぶ。


とくに二日酔いとかでもないが、なんだかふわふわして、何も言葉が浮かばない。

かといって、何も感じていないかというと、そうではない。

なにか、なにか、感じていて、それは、不快なのか気持ち良いのかもわからないけれども、なにか、何かしたいと思うのか、なにもしたくないかと思うのか、やりたいことはあるのか、ないのか、誰かと話したいのか、そうではないのか、……

軽い頭痛がある、ただ、それほど大きな身体的痛みはない。


そんなこと書いてる間にも時間は過ぎる。


昨日のことを思い出してみるか、きれいな子で、犬を飼っていて、家族旅行の時の写真をみせてくれた。

建築関係の仕事をしているという。数時間しかねれないような日も続くが、自分を追い込んで頑張っているという。

僕の仕事とは違うが、どちらかというと研究する面が強いから、コミュニケーションをする必要がある僕の仕事の方が大変だよ、といってくれた。

おちついていて、かといって暗いとかじゃなく、話しやすくて、他の人には、話してると癒されるといわれた。


楽しかった、んだと思う。

こんなこと、書くと、きっとよむひとにはしんじつてきに思われるだろうが、その楽しさは、もしかして僕に気があるのでは、彼氏がいても、付き合えるのでは、そんな気持ちがあるのだろうか。


この、楽しかった、という表現を、僕はとても、恐れているのだろうか。

なんだか、急スピードで、思考、表現が浮かんできた。

昨日のことを思い出そうとして、褒められた、ということ、そういえば、仕事の時も、仕事早いねさすが、といわれたのも昨日だった。

幸せ恐怖症



で、この、褒められたとか楽しかったという表現が、
僕にとって、恐怖なのではないか、と推測する。

なんだか、どちらかというと、いわゆる一般的なネガティブといわれることを書いている方が安心する。


この心性は、とくに珍しいことではなく、つまり、裏切りとか、期待の不達成という結果に対する恐怖、と表現することができる。

書いていて不快だが、思考から、感覚から、逃げてしまえば、これまで書いていたことが、すべて無駄になるだろう、つまり、いっさいがっさい、本気で、言葉をつくる、という宣言がうそになる、ということだ。

自分の心を分析するために、一切に、表現から逃げてはならない。

本当に幸せなのか



幸せ恐怖症、新しい病名が発見された。

楽しいことや嬉しいことがあったとき、それが自分のものと信じられず、または偽りのことなのではと信じられず、すぐに朽ち果てるのではと継続性を信じられず、落ち着かなさや恐怖を感じるようになる病気、症候群。

ちなみに、病気と症状との表現の違いは、病気はその原因を指すのにたいし、症状は、原因は不明だが臨床的に発生する状態を指す。

幸せ恐怖症は、症状であり、まだ、原因となる病気は分からない。そういう意味では、無気力症も、症状であり、原因はわからない。

先日の思考の部屋ブログさんでは、うつ病は脳の病気であると紹介されていた。感情などを司る前頭前野の血流が不足することが、原因であるので、電流流したりその部分を治療すると、薬なく回復するという。

俺も電流流してもらおうかな、かっこわらい。

ポイントは、決して、楽しいとか嬉しいとかそういう感情がないわけではない。

落ち着いてるとか、いわれても、怒りの感情だってあるし、悲しくなったりもする。

ただ、それらが、何となく、自分のものと感じられないような、そういう身体的に生じさせるものを、少し離れた位置でみているような、そんな自分の存在を感じるのである。

薬でも、電気でもよいが、この、解離したような感覚は、例えば酒とか、いろんな遊戯、エンターテイメントにふれたとして、自分自信の感覚として、取り戻せるものなのだろうか。


例えば、そういった感覚が、他者との触れ合いの足りなさだ、孤独さがよくない、というアドバイスがあったとして、他者と会話を重ねたとする。そのとき僕は、相手をよく観察し、自分がどうみられているか考え、適切な言動を考える。
それはたいてい意識的でありながらも、自然に行われる。

その相互行為のなかで、僕は楽しかったり嬉しかったりするわけだけれども、でも、そうしたなかでも、思考、というものが必ず介在しているのである。

僕の身体、顔とか、手足、体毛にいたるまで、それは僕であって、僕に他ならないわけだけれども、ところが、それを自由に支配し動かせる思考という存在と、どうにも仲がよろしくないように思える。


他者を求めるということ



自死がばかげたこと、と、ヘルマンヘッセのシッダールタで書かれていたとはいえ、尊敬できるヘッセさんの言葉だとしても、それはまだ、完全に捨て去る必要はないと思う。

とはいえ、まだそれをするには早いように思える、


こんな、暗いことをかいていながら、さっきの、昨日のことを思い出しているときの方が不快だった。

それって、本当は楽しくなかったってだけかもしれないけれども、この、反転した感覚というのは、メモする必要がある。


はっきりいって、そんな暗い感情でいて人生楽しいの? ということであり、楽しい気持ちでいるべきと思いながら、まさにその暗いことを書くのが楽しいのである、それは逃げであり、本当の自分を知ってくれる人を探すことの諦めであり、しかしその自分というものをわからないといい、それは惨めな自分を認められない自己保身でありながらも、それこそが、自分であるというホメオスタシス、自己恒常性であるのだ。


ということが、いま書いていると、順をおっているけれど、思考として、感覚としては、どばっと、瞬間的に、同時的に頭に浮かぶのであるがゆえに、パニックになる、というのは大袈裟だけれども、なんだかよくわからない不快感に悩まされるのだ。


そうして今日も、彼はこうして、ずっと生きていくのだろう。
それが、彼の幸せかどうかは分からない。人生は有限であり、彼は死の間際でなにを思うのか。それは分からないが、ただ、彼が残した表現、言葉は、確かに残された、少ない人だけだったかもしれない、それでも、彼の言葉は示された。
せめて彼には、そのことだけは、信じて欲しいと、願わないわけにはいかない。


と、無理矢理にこの記事を終わらせてみようとしてみた。

これとか、ちょっと脚色とか加工して小説として投稿してみようかな。

ジャンルはなんだろう、随筆とか純文学かっこわらい、か。
見向きもされなそうだが……、例えば量は質、ということもあって、一週間に一万字ぐらいを毎週、一年ぐらい続ければ四、五人ぐらいの読者は、それがもしかしてアンチかもしれないけれども、このインターネット社会においてはついてくれる気もする。

それもちょっと面白い試みな気がする。冒頭に書いたように、表現をしつくす、というのが、直近すること、もちろん、そろそろ申し込み期日の資格の勉強もあるのだけれども、大事かもしれない。


残念なことに、この作者は、その小説の、エンディングをまだ分からない、知らないのだけれども。





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