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血の入れ替えと終わりなき脳内会議(仮称)
2016/08/20 00:35 | Comments(0) | イライラ対処
翡翠色のショートカットの髪が、夜風になびく。
「おつかれさま」
透き通る控えめな声は、人通りの少なくなった大通りに、しんみりと響いた。

こちらへ駆け寄ってきた少女は、交渉が上手くいかなかった僕の顔をみて口をつぐんだ。
途端に、眉尻が下がって、心配そうな顔になる。もともと下がり気味なまなじりは、いつも優しげで、それでいてどこか困っているようにも見えるが、今は何と言っていいのか、本当に困っているのだろう。

「大丈夫だよ、気にするな」
ぽんぽんと頭を撫でると、少し緊張したように細い身体を震わすと、やがて目を瞑って身を任せてきた。

あっという間に時が過ぎ

なんというか、忙しい、かといって、忙がしくない気持ちもする、とにかくあっという間なのだ。

そして同時に生じている、なにも楽しいことを見いだせないような感覚。

すべてを知り尽くしたわけでもないが、何もする気がおきない。

そう、だから、この前、喪失感といって、違和感を覚えたのはそういうことだ。つまり、喪失感とは、何か必要なものを失ったために起こるもの。
いまの感覚は、どちらかというと、ほしいもの自体がなくなった、といえる。


うそつくな、金だって女だって時間だって欲しいんだろ!!


というのは正にその通り!っといいたいが、違うんだよね。
なんの引き換えもなく1億円もらえるなら、そりゃ嬉しい。でも、そんな妄想意味なくて、様々な行動方策が必要になる。
その対価として、価値があるものが見いだせないのだ。

ある意味で、いまの状況に最高マックス完璧満足している、ということなのだ。

欲求不足

確かに、好きな人に彼氏ができて、落ち込んでた時代は、苦しくて人生がいやになった。

彼女ができずに孤独に不満を感じていたときは、自分の矮小さにおしつぶされそうだった。


そのときはそのときで、大変だったろうと、他人事のようだが、思う。

が、その頃といまとは、なんだか若干違う気がする。

それでいて、根本となることは、共通している気もする。


とにかく、何か、求めたいものがよくわからない、その一方で、いまの状況に不満はないにもかかわらず、どうにもやる気、それはすべてにおけるものに対する動機が減っていくのだ。

何も魔法は使っていないのに、MPが失われていくようだ。

創造の言葉と実感の言葉

よし、やっぱり、いいこと書こう症候群はよくない。こういうときは、とにかく、書く。

しかし、先ほど、ほんの1時間前は、何にもする気になれなかったよね。立っているだけ。定期券をもった指を一本動かすのも億劫、みたいな。

それって、普通に「うつ病」ってやつでは……?

うつ病って、本当に、身体が動かなくなるらしいね。甘えとか、新型うつとか、うつって言葉はあまり理解されてないけど。

理解されていないというか、そもそも僕もよくわからなかったりする。ただ、脳機能の問題であって、本当に「病気」という状態なんだってことは分かる。問題は、じゃあ、明るい状態が本当にその人の真の姿かどうか、ってことを考えていくと、やっぱり難しいなって思うわけだけど。

薬とかつかって元気になる、ってのは、危険ドラッグと何が違うんだろってのはあるよね。

そうそう、ロボトミー手術っていって、脳の一部を切り取ると性格が穏やかになって精神病が治るってのが流行った時代があったそうな。でも、副作用で人格が変わったようになってしまったとか。

本当の自分、って言葉もあるよね。自分探しの旅、とか。

僕もそれって考えていたときは、あるよ。恥ずかしいけどね。でも、やっぱり、自分ってのは、単独ではありえないってことを実感するようになると、それもまた無価値に思えるわけだ。

それは正しい、けれども、その自分自身ってのに対する興味の喪失が、逆転して欲求のなさとか、問題の発現になってるんじゃないかな?

ふーむ、なるほどね。逆に、自分ってのに固執していたほうが、欲求自体は生じやすいわけだ。一人で生きていけないとか、そういう次元じゃあなくて、自分も世界の一部なんだという自覚と実感は、一体感とか、人類のため、世界のため、という思想につながる可能性もあるけれども、逆転した失望、絶望につながる可能性もある、と。

脳内会議における人格の設定困難性

今回の記事でメモっておくべきは、この、僕たちの話すことというのが、一貫性をもちえないってこと。

こうやって会話していると、一見、そう、会話のようなんだけど、じゃあ仮に、各人に名前を付けてみよう、と思ったとき、はたと難しくなる。固有名詞とかじゃなく、Aさん、Bくんとか、そんなのでもいいんだけど、その発言者の人格の一貫性が見えないってことだ。

その点を意識して書いていくと、実はそれだけで小説風にはなりえる。

そこを意識せずに書き続けて、似た発言を集めて、一つの人格に統合する、ってやりかたもありそうだね。


思い出した、もう一つ、「こたえ」のありなしだ。
なんというか、基本的に、ブログとかって、答えがある。エッセイ的なのもあるんだけど、それって、結構有名な人が、何か生活の中で感じたことをつづっていくわけなのであって、必ずしもこたえありき、ではないとは思いつつも、やっぱり、人格統一した、「こうあるべき」と、自分の生き方を確立した人の文章ってのが多いと思うんだ。

そういう文章は面白いけれども、でも、今僕が求めているものはそうじゃない。

というのが、さっき書いていることと矛盾しそうだけど、自分一人しかいない、自分しか自分を理解できない、自分は自分、という、自己中心的な思考である。
素晴らしい教えってのはあると思うんだ。ただ、それに対して、自分を同一化できるかどうか、ってのは、かなり、努力がいることなんだと、そう思うわけだ。


ってことを、書くと、思うと、すぐに、君は言ってくる。そういって、まじめに、努力するのが、答えを出すのが怖いんだろう、と。
その何か正しいことを認めてしまえば、今まで悩んできた自分自身の否定になるのではないか、と、そう恐れているのではないか、と。

そうかもしれない、んだけれども、そこは今はどうでもよい、というのは、何というか、臆病な自分というのが事実だとして、反転して真実性に全権委任できるのか、ってことなんだ。


逆に、こうやって、グダグダぐじぐじ書いているのが楽しいってことであれば、それはそれでいいんじゃないか、とすら思うわけだ。

人生は限りがある

で、ちょーっと待ってくれよ、となる。
そりゃあ、今楽しんで、そうやって書いているのもいいさ。
ただ、じゃあ、65歳になったとき、同じように書いているのか、ってことだ。


まず、正直な感想として、それってちょっとカッコ悪いというか、気持ち悪いんじゃないかっと。

まぁね、30代でこういうこと書いている時点でちょっとどうなの、って感じはするけど、それが2倍じゃあ、ねぇ、ちょっと目も当てられない。


さっき、進撃の巨人の12巻を、集中せずに読んでいたら、巨人に囲まれ死を覚悟したミカサがエレンに、「私に生き方を教えてくれてありがとう。マフラーを巻いてくれてありがとう」と言ったシーンに差し掛かった。

で、エレンは、「そんなの、これからも、何回でも巻いてやる!」といって、巨人に立ち向かうんだ。かっけぇ!

かっこいいね、というか、自分も、ミカサにそんなこと言われてみたい(笑)

生き方、ねぇ……。やっぱり、オッサンってやつは、生き方知ってないとかっこよくないよね。

そうそう。見た目は大人、頭脳は子供、じゃあ笑えない。

生き方、ね。生きる意味を探す、ってのよりも、ちょっと大人っぽい表現かもしれない。


まぁ、やることって、同じなんだろうね、きっと。

ともかく、オッサンは、生き方を知っているがゆえに、ぶれなくて、それが「老害」という現象につながる。

まーた、始まった、なんでも批判しだす。

いや、そういう面があるってことを言ってるだけだ。変わらないってことは、変われないってことでもあって、時代の変化にそぐわなくなったとき、バリバリ働いていた中年が、クビになったらほかでもやってけなくて、結局妻子残して自殺しちゃったとか、別に珍しい話じゃないだろう。

そういう面もあると思うけど、実際自分の生き方を確立して、それを実践して毎日生きて成長してる人って、かっこいいし、モテると思うよ。

そりゃそうだろうねぇ。

モテるということ

女の子にモテるってのは、残念ながら、かどうかはおいておいて、一つ重大な価値観であることは、昔も今も、そしてこれからも変わらないだろうと思う。

世界には、男と女しかいないわけだ。で、まぁ、女の子の心をつかむってのは、実は、仕事の面でも重要だと思う。
人心掌握、という表現をするかどうかは別として、仕事だって、一人でするものはほとんどないのだから――小説家、という職業だって、本当の意味で一人では成り立たない――他者の気持ちを理解し、適切な行動をとれるってことは重要だ。

その能力の多寡はあるにせよ、やっぱり、優秀な人は、モテるわけだ。仕事ができる人はモテるってのは、仕事ができてカッコいい! って女の子が思うってのもあるが、そもそも、仕事ができる=人の心をつかむのが上手い=女の子の気持ちもGETだぜ! という繋がりがあるわけだ。

こういった、自己啓発本とかビジネス本的な表現は、いくらでも批判できるし、反例だってたくさんあるだろう。過去に、独身を貫き通した偉人は大勢いる。

が、常日頃このブログでは表現しているとおり、極端な事例というか、真理的なモノをもとめるのは、専門家、科学、学問にまかせておこう、ということだ。厳密性を追求している暇は、残念ながら僕ら凡人にはないのだ。


僕ら、といったが、実は、こんな問題を抱えているのは僕一人なんじゃないのか、と、残念ながらいつも頭に浮かび、同時に、そんなお前は特別な人間なわけないんだから、ほかにも大勢いるに決まっている、と否定が入るのが、もはや面白くなってきた。

こういった、反転した共通意識と、さらに反転した孤独感というのが、表現が難しいところだ。




そして、疲れて、眠くなってくると、なんでこう、自分の切り売りみたいなことして、こんなこと書いてなんになるんだ、バカじゃないかって思い始めるのも常日頃でありながら、ただ、こうして何とか眠れそうだってのは、いいことだ。

下手に睡眠薬に頼る必要なんてない。いわば、適度な運動をするとぐっすり眠れるよ、的なアレだ。





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