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創作は力なり
2016/08/21 00:02 | イライラ対処
よし、今日は日常カテゴリだ、好き勝手に書くぞ。

なーに心配するな、結局いつも好き勝手書いているだけだ。

そも、好き勝手って何ですの?

あー、とにかく、メモすべきことを端的に書いてから、楽しくおしゃべりしようね。

本屋さん

近所の本屋さんに足を運ぶ。といっても、定期券内で少しだけ電車移動を試み、らーめんを食べる。
本屋さんでは、進撃の巨人の20巻を買いに行ったのだが、はからずしも、様々な書籍に目が向く。

面白いなと思ったのは、脳の仕組みを図解にしている大判の本。
海馬が記憶を保持する仕組み、Mg+がシナプスの流れを遮っているが、何回も繰り返し刺激を与えると記憶の受容体になる、とか。うん、立ち読みだからよく分かっていないが、イラスト付きで見やすくて面白そうだった。けれども、説明が結構本格的で、専門用語もバリバリだったので、ちょっと引いてしまったのと、値段が2000円ごえだったので、保留になった。

もう一つ、世界の絵画の解説本。
ゴーギャン、ダリ、ゴッホ、ムンク、ピカソ、有名な人たちの有名な絵はたいてい載っていて、その絵の背景とか、画家の生い立ちとか考えとか、絵の技法とか見どころとかが解説されている。
かなりいいな、と思った。

あとは、バイクの乗り方に関する解説本。

コーヒー、日本酒、ウイスキーに関する本。

いろいろと、ぱらぱら読んで、興味が深々となった。

が、結局、買ったのは進撃の巨人と、禅の解説本だった。
まぁ、絵画の本はちょっと今後の購入候補。
ちなみにアマゾンにあるかな……タイトルが思い出せないが……




あ、これだこれ。西洋、絵画、解説、アマゾン、みたいな断片検索でみつかった。他にもどうようのジャンルの本もあるんだなぁ。なるほどね。こういうのは、実際、本屋さんに行ってみないと買おうと思わないから、いい発見だったな。

創作は力なり

今日は、上のお出かけ以外、ほとんど何もしなかった。
黒い砂漠というオンラインゲームは起動はしたものの、ほぼ放置。ちょっとオークから猫を取り戻すクエストはやったけど。
勉強もせず、読書もせず、家事もせず、だらだらと。

ただ、そうしていたら、なんだか逆にやる気が少し回復した気がした。
昨日は、本当に憂鬱でだった、憂鬱? というよりも、やる気が何も起こらなかった。
もうね、死ぬ気力もないぐらいだ。そう、うつ病ってのは、最高に具合が悪いときよりも、少し回復してきたあたりの期間が危ないらしい。自殺ってのは、何分体力も精神力も必要なことなのだ、と、ずーっと昔に書いた気がするけれども、こういうのは長期記憶になってるんだよな。そんなに何度もインプット・復習している気はしないのだけれども、不思議だ。やっぱり、興味のあることは、記憶が断然はかどる、ということなのだ。話がそれた。なんだっけ。

そう、少しやる気が起きたので、ピアノをひいたり、コード進行から曲をつくったりしてみた。実際につくりはじめようかと思いながら、そういえばパソコンからソフトウェアがほとんど全部消えたことを思い出して、やめた。

そして思い出したが、小説書きためていたやつ、消えちゃったなぁ。完成して投稿した奴は残っているけれども、途中経過のやつとか、設定メモとか、それらはお亡くなりに……。バックアップの大切さがわかる。

そして、少し元気になったため、以前から読みたいと思っていた小説に目を通す。
面白い。感想も書く。作者さんから返信がある。嬉しいものだ。
昔、サイトを作ったとき、ある小説(これはプロ作家のもの)のレビューを書いて、その小説の画像の掲載許可を、作者さんにメールでお願いしたことがある。
結論的には、出版社の権利云々とかでダメ、だったけれども、面白いと思った作品を作り出した作者さんから、直接連絡をもらえるなんて、とてもうれしかった。



ディバイデッド・フロント、あ、これこれ。やっぱり、長期記憶になっている。

そう、記憶ってのが、人間そのものなんだって、思う、とか、こんなこと書き始めると、また話がそれる。ここら辺は、攻殻機動隊の外部記憶に対する見解……人形遣い事件あたりを参照すると良いと思うし、僕がわざわざ書くことではない、が、EDENの遠藤浩輝さんが言うように、よいものはいくらたくさんあったっていいんだ……と、話を戻さなければ。

そう、やっぱり、僕は、何か創っているのが楽しいんだ。

反応のなさ

そして、この辺りは、認めたくない部分でもあるが、やっぱり、認められたい、って思いがあるのだ。
認められたい、とまではいかなくても、やっぱり、反応が欲しいのである。

見栄っ張りなやつめ。と、否定する必要もないだろう。人は一人では生きていけなくて、相互依存関係の上に社会を構築し、生活していくのだ。

という、ロジックに対して、「いやでもそんな綺麗ごと言ってんじゃねぇ!」って、ぶつかっていく作品だって創れる。で、エンディングをどうするかによって、読者の反応で「あーなるほどな」ってのもまた面白い。何も、手放しで称賛されたいってわけではない。万人にうけるものを創りたいってわけでもない。

ただ、分かる人には分かる、なんて大上段で傲慢な気持ちじゃなくて、少しでも、他者の記憶の片隅にでも残るような作品でも、又は、他者の心を動かすような作品でも創れたら、きっと、非常にうれしいと思う。

仕事と創作との関係

よし、僕のやりたいことは決まった! 今すぐ、それに向けて頑張るぞ!
仕事なんてやってられない! もっと自分の力を発揮できる世界に飛び立つんだ!


WAIT、だ。
そういう問題ではない。
仕事、人生、創作、よく考える必要がある。

あるお笑い芸人さんが小説を書いたら、文芸賞を受賞した。
東京の都知事になった人が書いた親の介護をした体験本だって売れている。
あるIT企業の社長だった人の本も好調のようだ。

後半は、創作ではないけれども、作品で人に影響を与えるってのは、仕事と切り離されるものである必要はない。

あれ、書きたいことが変になっている。そうじゃない、上の例だと、仕事と書くべきことは密接に関係している、ということにしかならない。

そうじゃなくて、僕が言いたかったのは、仕事とプライベートを分けてもよいではないか、ということである。


というのは、仕事が生きがい、という考えの否定ではない。ライフワークバランス、とかスローライフとかの、「よくわからない」ことばの称賛でもない。

どっちも大事、とか、そんな投げやりなことでもない。

ただ、仕事も創作も、それもまた「自分」でしかありえないだろう、ということだ。



工事現場やコンビニのバイトで生計をたてながら、いつかビッグなミュージシャン(小説家でも、スポーツ選手でも何でもよいが)になってやるんだ! というやり方もあるけれど、それってそもそも、仕事ってなんなんだ、って感じだ。

何だろう、よく言いたいこと、書きたいこと、がはっきりしないが、とにかく、仕事も創作も全部含めて、人、人生、自分、なのだ、ということだ。

努力とは何ぞや

上司にいびられて、客からのクレームに対応して、日々不満な仕事を送る。
その後帰宅すると、創作活動に打ち込む。そして、その場では、自分の作品を読んでくれる人がいる、聴いてくれる人がいる。反応がある。ときに厳しい意見もあるが、一人、二人と、面白かった、と言ってくれる人がいる。イイネだったり、拍手だったりつけてくれる人がいる。
そして次の日、やっぱり、上司から叱責をうけ、同僚には出世を追い越されて、営業成績は落ちて、給料も下がっていく……。
でも、家に帰ると楽しい時間が待っている……!

というのは、歪である。

まぁ、その人がそれでいいというなら、僕は気にしないが、僕は嫌だ、と思う。

うーん、ただ、別に上司から怒られるのはよい。注意されるのもよい。ただ、いびられるのは、そりゃあだめだ。客から怒られてもいい、ただ、理不尽なクレームにずっと付き合っている必要もない。
出世できないのはいい。ただ、営業成績が落ちて、給料が下がっていくのはダメだ。

……上のことを、なぜ僕は思うのか。

それは、全人格的、全生活的に、「向上」を目指す、という点にあるのではないか、と今思った。

ここに、感情を軽視する心性が見え隠れしている。

感情は大事かもしれない、ただ、それが、「合理的にメリット(有益)にならない」のであれば、切り捨てるべきだ、と僕は思っているのだ、ろうか。

創作と現実

そして次の問題。
創作が楽しめるのは、現実があってこそであることも一つ。
上の、会社ではダメダメで、家では少しよくて、というのは、構造欠陥な妄想である。

いや、それで満足する人もいるはずだ、という思いから、「僕は気にしない」と書いた。
ただ、僕は、そんな状況だと、創作する気力すらなくなるだろう。
どうやったららくにしねるんだ、みたいなことを考え出しそうだかっこわらい。

少し思索の方向へ

と、メモすべきことは、きっと全部書いたな。クレジットカードの住所変更しなきゃとか、ハンドソープとかその他生活用品の買い出しに行かなきゃとか、そういったことはまだあるが、ここで書くべき、思考として必要なことは全部書いた、と思う。

思考、そう、思考をするには、というタイトルにでもしたら、少しでもアクセス伸びるだろうか。
自分をつくるための読書術、とかいった本もあった気がする。

「考える」とは何か、とかね。

そこら辺なら、こんな自分でも、一家言はなすことができる。まぁ、こういった場合における「考える」ってのは、ビジネスで成功するための~とか、株で勝つための~とか、そういったものを求めて検索してくるだろうので、僕のぐだぐだした話を読んできっとがっかりするだけだろう。


取りあえず、今日は早めに寝よう。といってもこの時間だが。
とにもかくにも、このブログも一つ、創作なのであって、その創作は、現実とも一部リンクしている部分があって、その現実とは、仕事も金も心も含んでいるものであることから、今後も、ぜひとも、有効に活用していきたい。


取りあえず、進撃の巨人の20巻で、エルヴィン団長が、新米調査兵たちの鼓舞において、
「私たちにこの戦いで死ねってことですか」
「そうだ」
「どうせ死ぬなら、潔く戦って死ねと?」
「そうだ」
「でもどうせ死ぬなら、戦って死んでも、命令にそむいて死んでも同じってことですよね」
「そうだ。人はいずれ死ぬ。生きる希望や夢をもっていても。(敵の攻撃で)岩に身体を砕かれても死ぬ」
「……」
「では、我々の生は無意味なのか。これまで死んでいった戦友の死は無駄だったのか。
 ……断じて違う!! 彼らの死に意味を与えるのは我々だ! 我々がここで戦い次の者たちに意味を与えるのだ!」
(あいまいな記憶だけで書いたのでかなり適当)

というシーンは、今まさに、僕が考えて、明らかにして、行動していかなければいけないことに対する、一つのヒントにもなった。(それは直接的な言葉の意味というよりも、俯瞰的に、生きる意味とは、そもそもその「単独」においては答えになりはしないという点において)
やっぱり、創作、作品ってのは、大事だなぁと、思う。

おお、珍しく、最初に書いたタイトルと結末が一致した。


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