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書くことがないのか書きたい気がないのか
2017/11/14 23:45 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「今日の目標はブログを書くことでした」

時間の感じる単位について

 11月である。
 前回、記事を書いたのは11月5日である。一週間はあっという間である。

 昔、社会人という存在になってからしばらくして、「一週間の単位」について愕然としたことがあった。若いころは、一日、一日が単位だった気がする。社会人は、一週間程度が単位な気がした。
 今は、それがさらに加速して、1か月ぐらいが、単位として感じられている気がする。

 この「単位」とは、時間経過を認識する期間である。確かに24時間が一日で、寝て起きて食べてを繰り返すわけであるが、それらが、ひとまとまりになったような感覚がある。それが単位である。経験単位とか、感覚単位とか言い表そうか。なんだか適当な言葉が浮かばないので、単位というのは造語である。

 以前にもまして、感覚単位が実時間に対して長くなった、ということである。

 そして、このことは、「書く」という行為がなくなったことで、更に加速していると考えられる。

いろいろやってる

 具体的な時間を書くと、忙しい自慢的でイヤであるけれど、後から読んだときに感覚として伝わってくるから書くと、23時を過ぎて帰ってくることが多い。土日も、予定が埋まっていることが多い(個人で完結する用事ではなく、人と関わる予定)。

 まぁそうすると、実際は、書く時間なんて取れないのである……というと嘘であり、睡眠時間を6時間程度確保したとしても、物理的な時間は十分にあるのである。

 あるけれども、この「書く」というのは、ある程度の「精神的余裕」がなければ成し遂げられないことである。――本来は。


 にも関わらず、僕がしばらく、毎日のように長々とブログを書くことができていたのは、それは、「精神的余裕」の無さゆえに、ゼロ秒思考(あんまり考えず、頭に浮かんだことをアウトプットする)によって書いていたのである。――今ふと、「ゼロ秒思考」って、やっぱり思考してないじゃん、と感じた。ただ、ここでいう思考は、「頭に浮かんだこと」という意味であるので、その浮かんだことを間髪入れずに「文字化」するという作業、それがゼロ秒思考アウトプットである。

 なんでこんなことをしていたかというと、「得体のしれないイライラ感」等により、とにかく落ち着かなかったからである。


 では最近は、そういった感覚がなくなったのか?

 否である。


他者に対しても気兼ねなく接している

 僕が抱える問題は、何ら解決していないと思う。
 その問題というのは、このブログのタイトルにあるものだ。

 ところが、体の疲れだったり、精神的な疲れだったりが相まって、書くことというか、考えることが、もうとてつもなく面倒になっている。

 静かに消えてなくなりたい……というのとは少し違う気がするが、「何もない時間」を欲していると思う。

全然筆が進まない

 久々に、「イライラ対処」のカテゴリにした。全然、書いていて楽しくない。――つまり、いまは、「書かなくていい期間」なのかもしれない。

 が、冒頭に書いたように、感覚単位が恐ろしく早くなっているため、いったん、今日は何とか、たとえ何時に帰ろうが、なんでもいいからブログを書こうと思ったのだ。

 そういった点で、今日の僕はよく頑張った。今日はとにかく書こうと思ったのは昼過ぎのことであったが、そこからしばらくして、状況もかわったのに、いま、こうして書くことができているのは、素直にほめてあげよう。えらいえらい。


 あー、ええと、寝具に十数万使ってみたというのとか、生きる意味って何だかずっと考えてます的なことを対人的に打ち明けたりとか、来週のデート的な約束をしたりとか、まぁ、書くことはある気がする、ある気がするが、気持ちが全然のらない……のにかかわらず、こうやってぐだぐだ書いているというのは、なんとも、読者をいらだたせるだけではないか?

 そうだろうけれども、でも、この……なんともいえない、やる気のなさというか、気力のなさを、なんとか表現したいと思っている。――それより、こう、友人と遊んだりとか、女性と食事にでかけたりとか、そういった行為の瑞々しさがどうにも感じられない。

 以前、赤面必須の、「恋」についても書いたことがあった気がするけど、そんな感覚って、もうないのかなぁと思ったりする。恋……。なんか、若いころは、「女の子と付き合いたい!」って思っていた気がする。それはなんというか、「女性と付き合う」という、そういうことができる自分、というのに憧れていた――とか、そんな解釈、あとからならいくらでもできるんだけど。

気分がのってきた

 ああ……分かった、気がする。
 なんというか、「こういうことを書いたら(言ったら)こう思われるだろうな」的な思考回路が先に進みすぎて、なんだか何も書きたく(言いたく)なくなっているのだろう。


 ほんとうは、100人いたら、90人は知っている事柄があったとしても、自分が対面した人が、その知らない10人だったとしたら、その事柄についての話はとても興味深いものかもしれない。

 コミュニケーションっていうか、人との関係って本当はそういうものなんだと思う。一回性と唯一性というのはフランクルさんの言葉だけど、本当にそれはそうだと思う。



 もう一つ理由として、「こうやって思われたい自分」というのを、無意識に醸成してしまっている気がする。ええい……そんなまどろっこしい書き方なんて今までしてなかったろう――つまりだ、僕は「いい人」と思われたがっているのではないか?


 その、ある人に悩みを打ち明けた……という表現もどうにも気に食わない。ええと、人が生きる意味について語り合ったとでもいおうか。その話の流れで、「お前は頑固な人間だ」というのと、「人の話を聞かない」と言われた。

 頑固、という表現は、ある程度親しくなった人に、笑いながら、あるいは真顔で言われることがたびたびあるので、まぁ、他者からみたらそういう人間なんだろうなぁと自分でも思うようにしている――が、僕の中では、全然そんなこと思っていないのである。――という表現がまさに、頑固で、人の話を聞かない、と言われる所以だとも思っているのだが。





 そうそう、ある人には、「お前は、結局納得してないんだろ」とか「わかってないんだろ」とかも言われたことがある。結構傷つく。

 頑固ってなんだ? 人の話を聞かないって何だ? 「わかる」ってなんだ?

けれども時間がない

 なんか、「書きたい」思いは、ここまで書いてきてようやく戻ってきた。が、もう時間ぎれである。
 まぁ、その、なんだろ。

 僕は、やっぱり、いいひとでありたいと思う。善人でありたいと思う。みなと仲良くしたいと思う。

 これらは真に、心から思うのであるが、その良いだとか善いだとかいう、その感覚が、結局多様であると思っている。
 僕は、「真に」、普遍的に「良く」ありたいと思う。

 ただ、それは、子供じみた空想であるともわかっている。人は、一回性と唯一性の中で、折衷主義といわれようが、たゆまぬ不断の努力によって、よい生き方を模索し調整しながら生きていく必要があるのである。

 ――というような、一般論的なのが、どうしても腹立たしいのだ。どうしろっていうのだ?! そして、「どうすればいいんだよ!」というと、「それを『考える力』を養って、一人ひとり考えていかなければならないのです」とか言われるわけだが、それが輪をかけて腹立たしいのである。

 僕は、考えることは好きだが、考えることだけで実践――生活、現象がなければ意味がないと思っている。そして、一般的な真実が、必ずしも個人としての、実存としての真実でもないと思っている。

 ……ああ、いろいろ、ようやく言葉が戻ってきた。カオスな感じでまとまらない感じ。論理的に、分かりやすい構成にしようとすればするほど、つまらなく、気力が失われていくあの感じ。ゼロ秒思考が戻ってきた!!(かっこわらい)

 ――しかし今日は終わる。


(かっこ書きである。んあー全然創作活動できていない。アウトプットはおろか、インプットも。こういうときは、とにかく、今続けられているルーチンに、必死にしがみつく必要がある。まさに、今が、生活(ルーチン)の危機である。この期間に、どれだけ生活を崩さずに、当初の目標に向かって気持ちをコントロールできるかにかかっている。今、この時期は、現状維持すら難しい状況。この時期に、新しいことはできるだけしないほうが良い。むしろ、今続けていることのシェイプアップすら必要だ。焦らず、ゆっくりと。時間は不可逆のためそれは言うは容易く行うは難しいが、それでも、焦らず、ゆっくり、今できていることを可能な限り壊さないように……。明日も遅くなりそうだが、なんとか、書くことに時間を、気持ちを向けたい。そういえば、ウォーキングデッドの1シーズンは何話かみたな。まぁまぁ面白そうである。ゾンビものって、バイオハザードの映画を一つ途中でみたぐらいか。なんか、ホラーといっても、暗い感じのホラーじゃなくてまぁみられる。続きも、時間があったらみたいなぁ)


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