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書き散らすことと整理すること
2016/08/27 12:00 | Comments(0) | イライラ対処
すきかってかくのは、スマートホンからもできるが、やはり、整理するのは、パソコンが必要だ。

昨日の記事、何書いたか正直あまり覚えてなかった。ほんと、自動記述だった、って、少し覚えてるのは、いま読み返したからだな。

恥ずかしくて、消そうか、と思ったが、意外に、まぁ面白かった。いや、恥ずかしいんだが、それほど、いままでと比べて変わらない(笑)
といいつつも、やっぱり書いたときの気分は、めちゃくちゃだった。けど、その感覚、あんまり、普段のものと比べて分からない。これ、他者の理解可能性なるものだな、って思う。自分ですらそうなんだ。にもかかわらず、他者にわかってもらおうなんて、傲慢だな。


ネタ整理



やっぱり、最近はやりの、話題とかからめて書いた方がいいのかな、と思ったり。
2012 11 15あたりの記事と、最近読んだ進撃の巨人とが親和性あると思った。

ケニーアッカーマンが、しに間際に、みんな、誰しも、何かに酔っぱらってなきゃやってらんねーんだな、って。

それを読んだから書いてたわけではないが、神の概念、である。あの、つまらない、、神っていうと宗教ってすぐ想像するが、資本主義だって科学だって、凡人には神にちかい存在なんだぜ、ってあれだ。

ポイントは、こんなこと、書いていて、実存的にはナンにも役に立たねーってことだ。

言葉が悪いな。なんだか、整理的な投稿も始めたため、反動がきてるのかな。



生活分類



人は……とか、一般論はおいといて、



彼女童貞前後

就職前後

結婚前後

離婚前後


と、分けられる。そのうちで、共通的に書いていること、考えが変わったこと、経験的に実感にかわったこと、それらを分析するのは面白いことなんだろうか。


たとえ、僕の通低する考え方がわかったとして、それが他者に役に立つか分からない、ってかくと、ハンジゾエさんに、役に立つかはてめえが決めることじゃねぇ、って怒られるかぁ。




まぁいいか、神の概念とか、期待水準願望水準とか、失望と絶望とか、理想自己と現実のギャップとか、反転ポジティブ思考とか、それらのある種の基準、は、まぁ、それほど論理的でも、科学的でも、理屈でも、抽象的ですらない。だから、あえて理論的に書こうとすれば、すぐに言葉は収まるだろう。


それらの定義が、僕の実際の生活において、どのよう作用するのか、っと、現実、リアルタイムの記述の方がいい、かな。

まぁ、そういう整理、一度はやっておくべきか。


と、適当に書き続けて、少し変化があらわれる。

人は、変わる。


一日として同じ日はない。


それなら何故、自分は自分でしかないのか。


記憶が、身体が、現実に自分を規定する。



現実がいやなら、自分を変えろ、というのは、よく言われることだが、ちょっと違うと思う。

体も記憶も、現実ではなかろうか。
そういう意味で、変えられるのは所詮は現実でしかない。

あぁ、これは、禅的なものかもしれない。
自然と自己との一体化、と表現するか。禅は、そもそも言語を否定する場合がらあるから、表現が難しい。ヴィトさんも沈黙、って言ってたりする。

ただ、自分というものも、現実に対するあぷろーち手段、に過ぎないと思う。

現実が変わらずに、自分だけ変わる、なんてあるか?


こうかくの草薙少佐は、現実が嫌なら自分をら変えろ、それが嫌なら口をつぐんで慎ましくしろ、それも嫌なら死ね! って言うんだけど。

夜にまた追記



追記ってたぶん更新にならないんだろうな。
検索エンジン的に。

2011 5 16の記事

今から、もう五年前か。なんとなく、5年前の、2011年の記事はいまいちだ。恐らく、メインは思索カテゴリではなかったのだろう。

2011 5 30 の記事。受動意識とか、哲学的ゾンビとか、唯心論唯物論。懐かしいな。これらの関係の本とか記事とか、読み漁っていた時代か。

しかしこれら、じぶんの求める解に対する、答え、みたいなものだったな。
新しい発見がある、というよりかは、こういうはずだ、という思いがあって、それを補強する一般材料としての使用。

どこか、ひとと分かり会えないと思っていて、人間嫌いで、そんな理由を、一般性に求めていた時代。承認欲求が強かったのだろう。

2011 1011 書く頻度が低下したことの記述。少し文体がいまとちかい。メンターのあの人についてふれて、インプットとアウトプットについて記述。


2011 1203 ほぼ、いまと同じ感じ。正義とか、信用と信頼の違い、創作について、ユニーク性について。時間目標、自己、責任。
記憶より記録を残せ、いい言葉だな。


役に立つのか面白いのか



ざざっと、流し読みしていて気づくのは、やっぱり抽象的なことしか書いてないのは面白くない。

という言葉はまさに、抽象なのだが。
休日に仕事して、ラーメン食べて帰る、って書けば具体的になるのかというとそうではないし。

とにかく、抽象は面白くなくても、概念、について書いているのは役にはたつかな。

ニーチェの権力への意志は、信仰VS信仰で、政治ゲームで、そのルールを知ろうというのが対応策だという記事とか、分かりやすい。

書いた本人はすっかり忘れてるんだがね。


迷える子羊



逆に分かったことは、悩んで、何か目指そうとして、何にも熱中できず、そんな自分にいやけがさして、という。2012年あたりからそうだ。

ってことは、やっぱり、彼女とか結婚とか離婚とか、やっぱり、関係なかったということだ。


やっぱり、根が深いな。

まぁ、ほんとに、それなりに、ほんと、悲しいくらい、少しばかりは楽しく、人混みの中、孤独のなか、嬉しく、心地よく過ごしているその点。


初音ミクの、ちょうど、ああー、なんだか泣けてきた、という曲がながれてきた。毎日ただの繰り返しだと気づいたとか。

この偶然性が、昨日の出会いとか、ほんと人生って面白いな。





だからこそやばい



やばい、って、他の雅な日本語、ないのかな。
思い付かない。やばい、ってなんだ? 危険だ。焦る、みたいな。なんか違うよな。

やばい、ってなんだ?

この、だらだらとした気持ちよさが続くことそれが、40歳、50歳になって、いざ、死神さんが、はーい寿命ですよ~ってきたとき、え、ちょ、まだ何も答えを、何も成せてないんですけど! まってくれよ、まって、俺はまだ、うあああぁー!


みたいな、かっこわらい。


単に恐怖的なのはそれなんだよな。

日常の楽しさ、嬉しさ、まぁ苦しさ、悲しさ、苛立ち、そんなの含めてもいいが、それらが、結局統一性がない、雑然とした、点に過ぎない。

リオタール氏の、大きな物語の終焉、って言ったとして、それでも、自分が何か、生きた意味ぐらい残したいじゃないか。



生きる意味ではなく生きがい?



生きる意味、という表現を、深くほりさげてこなかった。小学生のとき自殺を考えたときから、何故生きるのか、という問いからして、生きる意味、という表現にしていたが、もしかして、生きがい、という言葉が適切か?

いや、何が違うのか。

ゴーギャンの、我々はどこからきたのか、我々とは何者か、我々はどこへゆくのか。

と、それって何なんだろ。イコール、生きる意味、なのかと思ったが、違うのか?





なんなんだろ。

ほんとに、待ったなしに時間が過ぎる性で、


この、この時間は正しかったのか。


しかし、いまのこの、記事のまとまりがなければ、きっと少なからず、遅かれ早かれ、この渦に巻き込まれていただろう。そのさいに、この積み重ねすらなければ、俺は本当に迷い消えてしまったのではないか。


と、肯定を書きつつ、同時に、この感情、思考は、単に、自分が費やした時間が無駄ではなかったと信じたいだけなのでは、という懐疑も生じている。

うん、この、相対的な思考をまずなおすべきかな



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