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宗教のうさんくささ
2016/06/09 23:26 | Comments(0) | イライラ対処
国民会議、という本を読んだ。といっても、まだ数十ページだけれど。
日本の政治家、閣僚の8割が所属しているという民間の政治団体だ。

民間の、といっても、各種宗教の代表や、各界の著名人が名を連ねているという。


その書きぶりからして、宗教というものの気持ち悪さを感じる。
これは興味深い発見であり、やはり、僕の文章で、仏陀の教えがこうこうで、みたいなことを、書いたり、話したりすると、気持ち悪いと感じられる可能性が高いのだろうと思った。

しかし、新興仏教系が、戦後に数多く生まれているというのは、何か時代的な理由があるのかもしれない。その大半が、利益誘導型の生臭組織かもしれないが、果たして、当初勃興させた教祖というのは、本当に、世界を破滅させてやろうと、ハルマゲドンを起こそうとしていたかというと、そうではない面もあると思う。でなければ、何百人、何千人、何万人という人を求心することはできなかっただろう。


最近、役に立つ文章を書きたいと言っていて、悩み苦しむ人に言葉が届けばいい、なんて書いていて、それってつまり、新興教祖になりたいってことなのじゃあないかと、そういった批判の生じが、発見であり、面白かった。

と同時に、やはり僕は、宗教からも阻害された人間なんだなぁと思わざるをえない、というと、これもまた過剰なのだけれども。

引き寄せの法則

いや、まぁ、僕も、「すごいもの」に憧れたい、信じたい、という気持ちはあるのだと思う。そもそも、宗教とは何かといえば、超然たる存在に従い、教示を受け、信仰することである。

それは、とても難しいことのようでありながら、考え方をかえれば、すぐにでもできることだ。
何せ、今、こうして生きていることが奇跡のようなものなのだし、悶々としていたら合コンの誘いが舞い込んできたりと、これはもう神の思し召しじゃあないか、と。

同時に、そんな「神」概念をもちだすまでもなく、引き寄せの法則、として、良いことも悪いことも、心から信じているものは現実化していく、という考え方、これもある意味「宗教」となる。

これも、引き寄せの法則! と喜々として話せば、宗教的で気持ち悪い、となるけれども、例えば表現を変えて、「笑顔の人の周りには笑顔の人が集まる」とすれば、あら不思議、受け入れられる幅が広がるのである。

表現による真実性の隠蔽

僕は、映画も漫画も小説も好きだし、表現することはとても楽しいことだと思いながら、それがエンターテイメントじゃなくなったとき、欺瞞を感じ、気持ち悪いと思う。

結局同じことを、本質的には同一にもかかわらず、都合のよいように解釈すること、それが好きではない。

と、言いながらも、社会生活、人間関係、それらを営むにあたって、むしろ、僕自身が常日頃言っている、「人と人とは分かり合えない」という表現が根拠となって、笑顔をはじめとしたコミュニケーションスキルは重要視されるのである。

言い換えれば、恋愛市場において、モテる男講座を読んで、モテる服を着て、モテる振る舞いをして、モテるプレゼントをして、可愛い女の子をゲットしてベットに連れ込んで、それは「成功」となるけれども、非常に嘘くさいと思う。

ハクバノ王子サマがムカエニキテクレル、じゃあないけれども、やっぱり、純愛って素晴らしいじゃあないか。


一方で、純愛ってなんだよ、それって性欲と何が違うんだよ、とか、まぁ、表現はいくらでも出てくるわけだ。

こんなこと浮かぶこと時点で、「変な奴」扱いは避けられないはずだ。
だから、変な奴と思われないように、自分をひた隠しにして、所属コミュニティで地位を向上させ、お金を稼ぎ、結婚し、子どもをつくって、家族に看取られて老い、死ぬ。


本当に、それでいいのか? ということまで、ここから、ようやく、思索としてはスタートできるのだけれども、やはり、時間が足りない。





なんだろう、この記事に、僕はどんなコメントをしてもらったら、嬉しいのだろうか、と思う。
いやいや、そもそも、コメントをもらうことが前提なのか、誰かに読んでもらって、感銘を受けてもらうことが目的ではないのか、もしくは、何らかの教示になるものではないだろうか。

死の恐怖

まぁ、久々の、この日常カテゴリだから、このまま書き連ねていこう、徒然。

夢で、建物が崩れて、鉄骨に何人も押しつぶされた。
瓦礫を取り除くと、胴体が半分つぶれた人がでてきた。しかし、まだ生きているようで、体をびくびくと痙攣させている。それを見た人たちは、その人を放置して、他の人を助けに行った。助からないのはもう分かるけれども、一瞬でも早く楽にしてやってほしいと、僕は、体がない状態でその映像をみていた。


その夢がきっかけ、というよりも、最近、死ぬのが怖いな、と思い始めた。
かなり昔も、そんな風に思ったこともあった。
死ぬのが怖い、というのは、先行き不透明の極致だからだ。
仏陀に、弟子の一人が、「仏陀さま、私は死後のことが知りたいのです! 死んだら人はどうなるのですか!」
と食い下がった。
仏陀は、答えなかった。そして、毒矢を受けたある人が、毒矢を射た人を見つけるまでは治療をするな、と言い続けて死んだ、という話をした。弟子は座り込んだ。仏陀は、死後の世界を知ろうとするよりも、今この世界での生をしっかりと見つめ生きていくことが重要なのだ、ということを言いたかったのである。


いや、まぁ、無駄なんだけれども、やっぱり、死んだらどうなるか分からないと、怖いよね。

で、また、最近(といっても、もう1年は経ったろうか)、存命の祖母が、老いてきていることが分かった。
何か月か前、あったとき、変わらぬ態度で出迎えてくれたのだけれども、もう、僕の名前を覚えていなかったことが分かった。

幼いころ、一緒に遊んでくれたり、ご飯を作ってくれたり、親に内緒でお小遣いをくれたり、本当に可愛がってくれた。

それなのに、僕の名前が、もう、でてこないのだ。



敢えて言葉に、直接的な記述をすれば、離婚することになり、大好きだった祖父が亡くなり、とても可愛がってくれた祖母が僕のことを忘れてしまった、仕事はまた忙しさが増してきた……、と、これは結構、損耗する気がしないだろうか。


ただ、意外と平気なのである。
逆に、仕事が忙しくて、人とかかわることが多くて、それゆえに気付いていないだけなのか、もしくは、「大丈夫大丈夫」といっていて、実は鬱だったり(元気な人が突然うつ病に)みたいなことなのだろうか、なんて、自分で言っているうちは平気なものなのだ、という説明なんかもあったりして、こうなってくると、自分の気持ちが分からない。

自分の気持ち、しかし、そんなものないんだぜ、というのが、諸法無我というものだ。縁起によってすべての事象は成り立っているのだから、自己なんてものはないのだと。


何の話だろうか、とりあえず、頭に浮かぶ言葉を羅列していっただけだ、つまらない文章かもしれない。

とにかく、時間切れ。

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