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離婚を突き付けられた30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
南無阿弥陀仏と無常観
今日の一言「つらつら無為に書いていこう」「これはイライラ対処の記事である」

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浄土信仰について

 僕は、「仏教すげーぜ!」的なことをたまに書いている。それは本心なのだけれども、儀式的な仏教や極楽浄土を説くような信仰、全部が全部好きというわけではない。

 浄土宗や浄土真宗において拠り所とされるのは、浄土三部経といわれる、「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」であるが、そのあらすじを読んでみたけれども、深く感銘を受けるには至らなかった。(迦稜頻伽(カラヴィンカ)や共命鳥の話など、面白い内容は多かった)

 そもそも、何故面白いと思えないかというのは、「浄土(極楽)」という考え方が馴染まないからである。
 無量寿経の中に、極楽の描写がある。
「無量寿国のもろもろの天人、衣服・飲食・華香・瓔珞・繒蓋・幢幡・微妙の音声・所居の舎宅・宮殿・楼観、その形色に称う。高下大小なり。61あるいは一宝・二宝、乃至、無量の衆宝、意の所欲に随いて、念に応じてすなわち至る。」
 無量寿国(極楽浄土)は、清く美しく、着るものも食べるものも住むところも、心の思うがままに現れる、と。とにかく幸せなところなのだと。



 ここら辺の教化は、キリスト教の天国の描写と変わらないのではないか。
 阿弥陀様を、神やキリスト様と置き換えても問題ないように思われる。

 その点においては、仏教が特別な何かだとは思えていない。そうではなく、僕が、仏教に対して期待しているのは、その「無常観」、諸行無常や諸法無我といった娑婆世界の見方である。
 

極楽浄土に至る道

 諸行無常諸法無我とは、世のモノ・コトは永遠不変絶対なものはなく、移り変わっていくものである、ということである。
 で、あるならば、6つの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の輪廻を抜けて仏となるというのも、涅槃が達成されている極楽浄土というのも、それを「絶対視」するというのは矛盾に思える。

 そういう点では、修行と悟りは同じことである(修証一如)といったり、悟りを得るためには悟ろうとすることすらやめねばならないとする、道元さんなど、禅の考え方はしっくりくる。
「只座る。それこそが仏の道であります」(只管打座)


 宗教を信じない人のことを、無神論者、と言ったりするけれども、それは厳密には異なる。
 宗教というのと、神を信じるというのとは異なるのだ。

 仏教は、キリスト教やイスラム教の聖書のような、絶対的な拠り所となる書物はなくて、数万といわれる数の経典がある。だから、浄土信仰のようなものもあれば、密教的な(ヨーガの実践により悟りに至る)ものもあって様々である。

 宗教という語を、「超越的なものへの信仰」という意味であれば、なるほど神を信じていなくても、それは宗教と呼ばれるべきものはあるかもしれない。

 なるほど、そういう意味では、僕は、生きる意味を考えなければならないという、宗教にはまってしまっているのかもしれない。けれども、僕は完全に無神論者だといえよう。それも極度の。なにせ、神も、仏も、極楽すらも信じることができない、それどころか倦厭してしまうのだから。

欲望を満たし続ける一切皆苦

 さて。ところで、今、僕はとてもイライラしているのである。
 最近、ツール作って、使ってもらって、いい感じだね~って言ってもらえて、とても楽しく充実した時間を過ごしていたら、仕事でとても不愉快極まりないことに出くわしたのである。
 せっかくの楽しい気分が台無しである。そしてこの気分は、家に帰ってからも続いている。

 そんな不愉快な思いを与えた人も、それも縁なのです。その人によって、どうふるまうべきかを学ぶことができて、よかったではありませんか。

 ……なんて思えるか! ボケ! ◎ね!(かっこわらい)



 凡人、衆生は、悩みが尽きない生き物である。

 しかし最早最近は、その悩みや怒りというのすら、それを軽減させていくことが良いことなのかどうかすらよく分からない。
 とにかく、気付いたことがある。いや、分かったことだ。
 楽な仕事なんてないし、楽をして生きられることなんてないのだ。
 この世の中は苦しみに満ちている。どこまでいったって、ずっと永遠に苦しみが続くわけだ。
 なんて、仏教の一切皆苦と同じことなのだけど、言葉じゃなくて、実感として分かったよ。
 公務員なら楽、先生ならきついとか、そんなことを考えるようではもう 自殺 するしかない。
 死ぬしかないのだよ。
 分かってたんだけど、忘れてた。
 思い出したよ。
 人生は、特に、ボクの人生は苦しみしかないのだ。
 その苦しみの中で、どう苦しみと付き合っていくのかを、それを考えるしかなかったのだ。
――生きる意味を徹底して考える(2007/2/3)
 10年ぐらい前の文章である。
 もっと前には、
 欲望が満たされなくなったとき、人は悩むのだ。苦しむのだ。辛いのだ。結局人は、死ぬ。その直前まで、欲望を満たし続けなければならないのである。
 人の個性というのは、すなわち欲望の違いということができるであろう。無償の愛の典型とされるボランティア活動さえも、「人の役に立ちたい。」という欲望の域を抜けていないのだ。
 人はもっと、正直になるべきなのだ。もっと自分の利益を積極的に肯定し、追求してよいのだ。その個々人の欲望を調整するのが国家であるといえよう。
――生きる意味を徹底して考える(2004/11/22)
 こんなことも言っている。
 基本的に、ここら辺の思想信条というか、価値観というものは、今の今まで変わっていない、と言える。色々と、試みたことはあったけれども、しかし、根本は変わらなかった。
 というよりも、「この世は苦しみである」というのは、全然、僕が思いついたことではなく(僕が強く感じたことではあるが)、紀元前5世紀ぐらいのゴウタマさんが仰ったことである。それが「仏教」という一大宗派が築かれて、現代も信者が大勢いるというのだから、僕の感覚を変えるというのは土台無理な話なのかもしれないのである。


 ところが、最近の問題としては、上の過去記事において前提とされている、「楽」とか、「欲望」といったもの。
 それがよく分からなくなっているのである。

自己言及的な生き方

 そこで、現在新たに提示しているのが、フランクルさんとかが仰る、「人は皆、生きているだけで意味があるのだ」ということ。

 いや全然新しくないじゃん、そんなの小学校の道徳の授業であるようなもんじゃん。


 仰る通り。
 言葉にすると難しい。踏み込んで書くとすると、自己言及的な生き方、ということである。

 欲求と欲望の違い、ということで以前どこかで触れたことがあった。欲求とは、何か足りていないものを満たそうとすること。欲望とは、足りているか足りていないかにかかわらず、その対象を求めてやまないこと。そんな感じで定義した。(気がする)

 ただ、この用語区別は分かりづらい部分があるので、ここで、「欲動」という、フロイトさんが仰る表現を使ってみようと思う。

 欲動とは、もうそれ自体が目的となっているような欲求や欲望のこと。
欲動
精神分析学の用語。人間を常に行動へと向ける無意識の衝動。フロイトによれば、心的なものと身体的なものとの境界概念と位置付けられ、自己保存欲動と性欲動(のちに生の欲動と死の欲動)とに二分された。――大辞林

 無意識で兎に角求めちゃう! というのが欲動である。

 自己言及的に生きるとは、生きていることに意味があるかどうかを考えるのではなく、ただ生きていることそれこそが目的なのだと、欲求・欲望・欲動だとして生きるということである。



 ……。
 気分が高揚しているときであれば、「おお、素晴らしい教えだ! そうだ、生きているそれだけで十分なのだ!」などと思うかもしれない。
 しかし今は、イライラの真っ最中である。そういった場合では、

・生きる意味を考えるということからの逃避ということではないか。
・現に不愉快な事象に面したり、理不尽な状況に陥ったり、まさに死に際したとき、生きることそのものが目的であったら、死という避けられない事象に対して何ら意味をなさない考えではないか。
・努力すること頑張ることストイックになることの否定ではないか。
・他者に胸を張って伝えられるものか。世界規模で肯定される生き方といえるのか。


 などと否定語が浮かぶ。


全然書きたいことに到達しない

 イライラに任せて書いては、到底まとまるはずはなかった。
 時間切れである。

 しかし、何か、表現したいことにまったく到達しなかった。

 結局かけたのは、仏教は仏教でも、キリスト教的な(神様の信仰)的な仏教は好きじゃない、ということぐらいか。
 いや、まぁ、このあたり(浄土信仰など)は、もう少し勉強してみるつもりである。少しさわりを読んだ限りだと、おそらく、可能性として、「阿弥陀仏」という、「ナンマイダー」と唱え帰依する対象の仏さまは、偶像としての神ではなく、涅槃の境地の象徴であるとも考えられるからだ。
「衣食住が満たされた極楽」という表現も、「悟りの境地」の、たとえ話――豪華絢爛酒池肉林という意味ではなくて、そういった衣食住に心が惑わされないような安らかな状態の表現であるとも考えられるからだ。


「南無阿弥陀仏とただ唱えるだけで極楽浄土にいけますよ」

 というのも、それだけ聞けば、幼稚な迷信のように思ってしまうが、心を統一して、一つのことに集中して世の中の些事にとらわれなくなるという、実践的な意味もあるかもしれない。(そういった側面の強調が、密教やヨーガである)



 本当は、「思考することの意味について」この記事と頂いたコメントについて、もうちょっと踏み込んだことを書きたかった、書いておきたかった。
 恥ずかしい記事だと、上の記事では書いていたが、よほど今回の記事の方が退化しているといえるだろう。困った困った。

 やはり、身体と精神が好調な状態でなければ、思考も十分にできないということなのだろう。

(いやしかし、そういったよくない状態の時にどれだけまともな記載ができるかというのが重要な気もする)


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コメント
わたしの実家に時々来るお坊さんは「仏教を学ぶことは結構だが、それよりも自分の人生を生きたほうが仏教を知ることになる」的な話をしてました。
(たしか自分の息子(お坊さん)に対しての言葉だった)

まぁ確かに本を読む際に、今まで生きてきて答えを感じたものをなぞる様な時とそうでないときで理解の感覚が異なるので、仏教にせよなんにせよ、生き方や死に方や道理を説いたものを読むには人生に向き合う必要があるということだと思います。

つまるところ、仏教の書物なんかより、わたしたちが生きてきた中で得た感覚のほうが確かだと思うわけです。
  • QUWE さん |
  • 2017/05/17 (21:09) |
  • Edit |
  • 返信
知識と実感
 ご訪問ありがとうございます。
 なるほど、そんなことを仰ってくださるお坊さんは、確かに仏教者なんだなぁと感じます。
 私の親族等に来るお坊さんは、取り敢えずお経あげときゃいいじゃんぐらいな印象があります。まぁ言葉がすべてじゃあないですが……。

>わたしたちが生きてきた中で得た感覚のほうが確か

 仰るとおりに思います。畢竟、経験豊富な人は理解力も高い。
 同時に、それを適切に言語化できる能力もあると、それはもはや「カリスマ」と呼ばれるような人になります。
 というわけで、経験ってとっても大事だなぁということになりますけれども、何でしょうね、生きる意味を考える(QUWE様の言葉では「自分自身を知る」)ための経験というのは……。

 こういう問いかけを偉い人(その他年長者等)に聞くと、「若いうちはいっぱい苦労した方がいいよ」的な回答になりやすいわけですが、正直僕はもうまっぴらごめんだと思っています(かっこ乾いた笑い)。
 人に裏切られるのが良い経験? 失恋するのが良い経験? 理不尽に怒られるのが良い経験? いい加減にしてくださいよ、と。それら諸々の経験は、僕の人間不信感(もしくは嫌い感)を醸成しただけじゃなかったろうかと。
 まー、本日もイライラ気味なので、そんなルサンチマンを思ってしまいます(笑)。
 念のため書き添えると、QUWE様のコメントに苛立っているわけではないですので……。むしろ、おかげで少し落ち着きました。ありがとうございます。
  • 遠藤 さん |
  • 2017/05/17 (21:20) |
  • Edit |
  • 返信
経験とは
若いうちは苦労しとけっていう言葉には3点ほど反論したいですね
・経験の価値は年齢によらないと考える
確かに若ければ、相対的にその経験は大きくなるが、それは影響が大きいのであって、重要さとは関係がない
・苦労をあえて得ようとしなくても、苦労してしまう
苦労しないように生きようとしたものが苦労しなかったことがあっただろうか
・苦労である必要はない
苦労をなぜ賛美するのか。それによってしか人は良くなれないのか。その考えこそ歪んではいないのか


生きる意味を考えるための経験とは何か?と言われると難しいですね
おそらく自分を広げる経験がそうだと思っています
要するに自分は何が好きで、何が嫌いかを知るための経験ということです
(少し簡略化しすぎだけど)
これは自分がどこに行きたいと感じるかを知るということと同じ意味です

重要なことは、理屈によって感覚を妨げないことです
怒ったり、悲しんだり、嫉妬したりしても、それでよいわけです
「世の中のせいだったり、人のせいだったり、自分の弱さのせいだったり」といったことを考えるよりも、その感覚や感情を味わうことの注力したほうがいい

意味とは心を味わうことであり、理屈ではないです

悲しいときは悲しみを味わえばいい。感傷に浸ってみっともないなんて思う必要はない。悲しいときは涙が出てしまうし、怒りを感じたら、それを他の何かにぶつけてしまうものです。したいことなんて言うものは、悲しいときは泣きたいものだし、怒りをぶつけてしまうくらいの単純なことです

生きる意味や、自分がしたいことなんて言うものは、おそらく感情・感覚を味わううちに見いだされるものだと思います
  • QUWE さん |
  • 2017/05/21 (02:38) |
  • Edit |
  • 返信
No Title
初めまして。pinと申します。
私は浄土信仰など、それを信じて幸せになれるなら、それでいいのだと思います。
一番大切なのは民衆が幸せになることで、真理の追究などは二の次です。
でももし真理の追究がしたいのなら、他の宗派だとか西洋哲学だとかを
勉強すればいいのだと思います。
恐らくそれが分かっているから、親鸞は浄土真宗を開いたのだと思います。
そしてそれが真理なのだと思います。
鎌倉時代は現代より、はるかに民衆が苦しい時代だったのだと思います。
現代だと民衆は皆物質的にも豊かだし、餓死する人もいないし、
幸せなのだと思います。そんな中ではこういう考えは出てこないと思いますね。
でも私は何となくですが信じてしまっています。何でなのか分かりませんが。
まぁでもそれでいいんじゃないかと思いますねぇ。真理の追究にもあまり興味がないし、
人生の意味というのも考えたことがありません。でもそれでも毎日楽しく
生きていけたら、そして仕事に充実感、達成感を感じて生きていけたら、
それでいいんじゃないかと思いますねぇ。私はそう思います。
難しいことを色々考える生き方もいいとは思いますが。まぁそれはその人ごと
ってところでしょうかねぇ。皆が同じ生き方ってのもないと思いますし。
返信:QUWE様へ
 コメント頂いてから、もう一週間が過ぎようとしているとは、何とも早いものです。

>経験の価値は年齢によらないと考える
>苦労をあえて得ようとしなくても、苦労してしまう
>苦労をなぜ賛美するのか。それによってしか人は良くなれないのか。その考えこそ歪んではいないのか

 三つの金言、さすがに思います。

 若いうちは苦労しろ、というのは、そういう人たちにとって、今現在もはや新しいこと(苦労すること)をする気がないということであって、そういった点も面白くないなぁと思います。

 二点目の、敢えての苦労というのも、形容矛盾に思えます。「苦労を避けようとすること」というのもまた、それ自体が苦労故に。

 苦労と、成果とをイコールでとらえてしまう傾向が、僕らにはあるのかもしれません。どうしても、苦労したならそれに対する報いを求める傾向がある。物語も大半はそういった構造です。しかし、働かなくてももうけるという在り方、生き方というのが出現し始めているので、この傾向も大きく変わっていく可能性を僕は思っています。同時に、そこに乗り遅れた人、はじかれた人のルサンチマンはどう処理されるのか、これも検討の必要がありそうです。

>意味とは心を味わうことであり、理屈ではないです
>生きる意味や、自分がしたいことなんて言うものは、おそらく感情・感覚を味わううちに見いだされるものだと思います

 QUWE様は、生きる意味を見つけられた方なのだと思いました。
 コメントからにじみ出るその「実感」と、熱っぽい思い。生きてやろうという意思が、じりじりと僕の心を灼いていきました。

 意味とは心を味わうことであり、理屈ではない。

 非常に良い言葉を頂いたと思いました。
  • 遠藤 さん |
  • 2017/05/27 (19:16) |
  • Edit |
  • 返信
返信:pin様へ
 pin様、初めまして!
 このように初めましての方からコメントを頂けるのは、いつまでたっても非常に嬉しく、かつ緊張するものです。

>一番大切なのは民衆が幸せになることで、真理の追究などは二の次です。

 仰るとおりと思います。
 政治や会議でよくある、批判のために批判するような状態は、望ましくない。その論理が正しいかどうかよりも、どうしたら良くなるのか、その点を忘れてしまった議論は空虚なものです。
 ただこの点、その「良さ」という点が、万人普遍でない場合においては、社会システムの維持という点において、翻って「正しさ」のみを追求せざる得なくなるという事態、このジレンマをどう考えるかというのは重要に思っています。
 言い換えれば、「民衆の幸せ」が至上命題なことに意義はなくても、それが、個々人の利害調整が必要になった場合、はたと困ってしまうということです。
 その調整は、非常に地味で、面倒なものにならざるをえないでしょう。だから、「とにかくこれを信じれば幸せになれるんだ!」という方法は、時に重要だし、有用性を帯びることがあるでしょうが、無批判な信仰はただの洗脳のようなものになってしまうでしょう。

 上に書いたことは一般的なことでありますが、僕の思いとしては、同時に、その洗脳状態も必ずしも批判するものではありません。いや何せ、僕ら自身、政治や会社やその他組織、さらには他者の心の闇といったものに、敢えて知らないように振舞うことがある。真実に目を背けてしまうことを洗脳されているというのであれば、もはや一種の洗脳状態ともいえるのではないか、と思ったりします。
 けれども、それが必ずしも「悪い状態」とはいえないのではないか、と。

 なので、

>でも私は何となくですが信じてしまっています。何でなのか分かりませんが。

 というのは、非常に重要なことだと思っています。
 例えば、マトリックスという映画では、人間が生体電池として機械の家畜となっていて、人間は夢のようなものを見させられている。時に、主人公は、そのカラクリに気づいて、人間の尊厳を取り戻すため機械に叛旗を起こすわけですが、幸せな夢を見続けて、それを夢とも思わずに一生を終えるのは、それは駄目なことなのだろうか、と。

「まぁでもそれでいいんじゃないかと思いますねぇ。真理の追究にもあまり興味がないし、 人生の意味というのも考えたことがありません。でもそれでも毎日楽しく 生きていけたら、そして仕事に充実感、達成感を感じて生きていけたら、 それでいいんじゃないかと思いますねぇ。」

 ほんと、pinさんの仰るとおりなんじゃないかって、最近は思っているのです。

 と、同時にですね、僕は、その「夢なる生き方」というのがどうにも「実感」レベルで引き寄せられていないが故に、日に日に、頭を悩ませ、苛立ち、こうしてブログを綴っているわけなのですが、いやはや、これこそ親鸞上人が仰る衆生、悪人なのかもしれませんなぁ……。

 とにもかくにも、ご訪問&コメントありがとうございました。pinさんのブログにも立ち寄らせて頂きました。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。
  • 遠藤 さん |
  • 2017/05/27 (19:39) |
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