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表現の限界性と物理時間
2011/07/20 21:52 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
何が正しいかが見えなくなるのは、記憶力のなさが原因だろうか。
パターン化がすべて解決してくれるというのも一つの思考である。

パターン化とはいえ、ロボットのプログラムではなく、高次の問題解決も、複合的なパターンと呼ぶことは可能だろう。


そうした想定は、理想主義的である。ある一つの真理を求めるのは、人間の本能でもある。典型化による安心を求めるのだ。


だが、そうした理想主義は、しばしば現実を置き忘れる。

すべてを包含した最上位のパターンがあったとして、それを身に付けられる人間を想定するのは無理がある。

ここで、不可能なものに対する二つの見解が生まれる。カオス理論、複雑系に対して、古典物理では、すべての条件が明らかになれば、状態も自ずと予測可能とする。


この到着点の考え方は、ある人にとっては些末でありながら、ある次元の思考においては重要性を帯びる。


何も信じられないという人はまず考えが足りない。

何も信じられないとすれば、何も信じていないことを信じている。

これは無意味なトートロジーではない。信じる行為を表として、信じないのは裏、そして上記は裏の裏である。


だがまだ足りない。
裏の裏であることは、その解釈可能性を広げる。

何も信じないことを信じているとしたら、己は果たして信じているのか信じていないのか、永劫判断できなくなる。

これが第三の段階である。


この地点に陥ると、脱出は困難である。旧来は神の信奉こそがすべてであった。その価値観の転換は、確かに人々を恐慌に貶める。

魔女狩りや宗教裁判の心性を現代人、日本人が理解するのは難しい(たかだか、なんと残酷かという同情!)が、訪れえる恐慌を想像すれば、人々の恐れもまた理解できるだろう。



現代に課せられたこのカオスという課題は、まだ殆ど知られていないようだが、確実にそれは広がり始めている。

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