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夏祭り
2017/08/06 22:14 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「祭りばやしと太鼓の低音」「人ごみ雑踏もまた風流かな」


ルーチン進まず

 この記事書いてから、残りの時間は創作にあてよう。
 某自サイトの方も、いくつかリンク切れのバグを発見したので、近々直さねば……。

 この土日、ほとんど何もできなかった。体調が悪かったのだ。かといって、熱が上がったとかそういうわけではないが、虫刺されとか、腰がしゃがんだときに痛めたとか、歯がしみるとか、そういう微妙な属性ダメージに苛まれた。

 最近、ビールの量が多くなっている気がする。そんなに飲むほうではなかったけれども、なんか、無性に飲みたくなる瞬間がある。なぜだ。発泡酒? 第三のビール? よくわからないから、普通の高めのビールしか買っていなかったが、「頂」という奴は美味しかった気がした。ALC7%。確か、CMが卑猥で話題になった奴だったっけ。テレビ見ないから分からないが。

 しかし、こう、平日はもとより、休みの日とかテレビを一切みないと、現実世界と隔絶された感覚があるな。
 買い物がてら、夕涼みに愛機に跨り外に出ると、何やら祭囃子が聞こえてくる。じゃっかん、ひび割れた感じのスピーカーから流れる盆踊りティックなどでかい音は興がそがれるが、公園の空き地やらで、出店が出て、大勢の老若男女が集まってワイワイやっているのは、なんだか風流に思った。
 ただ、その出店に並ぶ長蛇の列には、若干辟易させられた(俺が買うわけではないのだが)。そして、その列の隣に、「並ばず買えます10本1000円!スピードパック」とかやっていて、ディズニーランドのファストパスとか富士急ハイランドの何だかパスかよと、心の中で突っ込んだ。時間をお金で買うって奴かぁ……。
 でも、そんなん買うんだったら、近所のスーパーいってお惣菜の焼き鳥とかでもよくね?
 とか思ってしまうのは、風流ではないのだろう。お祭りの雰囲気の、出店で買うからよいものなのだ、そういうものなのだ。

風竜読了す

 風流と風竜をかけたわけではないが、「風よ。竜に届いているか」を読了する。
 この土日、何もやっていなかった気がするけれども、「蛇にピアス」みたり、マクロの勉強したり、部屋の片づけしたり、まぁ、まったく何もやっていないわけではなかったことが振り返るとわかる。

 しかし、なんか、もっと時間を効率的に使えたのではないか、という気がしてならない。
 というか、なんかあの、頭の痛さというか無気力感……あれ、どうにかならんものか。


 それはともかく、小説、面白かった。
1.隣り合わせの灰と青春
2.不死王
3.風よ。竜に届いているか

 この順番でよんだほうがよいですよ、と、ある方からおすすめ頂き、「ふうむ。よく分からんが、まぁ彼の方が仰るならそうしてみるか」と軽い気持ちでやってみたが、――ううむ、なるほど、これは確かにこの順番以外ありえんな。と思った。

 なんだろう、美辞麗句は浮かばず、とにかく面白かったなぁと、心地よい読後感を味わっていたが、これ、自分の家の中じゃあなくて、どこか他のところで読み終えたらよかったなぁ。本を読む場所ってのも、結構こだわりたい性分だったりする。

 確かに、吸血鬼とか、コボルトとかオークとか、竜とか魔法とか、迷宮とか冒険者とか、「古臭い」と言ってしまえばそれまでである。
 しかし、王道はまた王道として面白いのであると感じた。
 奇抜な性格をもつキャラクターが登場するわけではない。超展開を見せるストーリーがあるわけではない。
 それでも、じっくりと世界観を感じさせる筆致、展開、登場人物たち。

 ああ、おもしろかったなぁと、そんな感想しかとりあえずでてこない。


 ――個人的に、ザザさんが良かった。
 しかしそれより、「不死王」がよかった。風竜よりも、不死王の方が何となく良かった。ザザさんってもしかして、不死王と対峙したあの人とゆかりある人なんだろうか……。
 

やることは尽きぬ

 と、まぁ、読みたい本、読むべき本がまたしても溜まっていく。
 そろそろ、某サイトに連載中の某作品の続きも書かねばならない。

 あー。もうちょっと、このブログの量を減らして、インプットなりアウトプットに力を注ぎたい……というか、注いだほうがいいんだろうなぁ。

(ああ……なんか、夏の夕暮れ時のセミが鳴くのとか、心がざわつくな)

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生産性のあること効率的なこと好きなこと
2017/07/20 17:00 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「他者に求めるのは強制だ」「自分に求めるのは自己実現だ」

ビール飲んでる場合じゃねぇ

 ある方が最近、毎日(毎日!)自作品の進捗をグラフにして公開するという荒行(ストイック・ディシプリン)を始めたので、正直、忙しいとか愚痴いってる場合じゃねぇと思い始めている。

 しかし、平日は、……正直きつい。
 何がきついって、まったくもって帰宅時間がコントロールできないことである。

 日々のルーチン(「これは毎日やるぜ!」と決めたこと)を失敗してしまうのは、往々にして、普段と違うことが起こった時である。
 僕の経験から、

・風邪とか体調を崩したとき
・泊りの旅行とか、日常と異なることが起こった時
・理不尽な事態とか、精神状態が異常値になったとき

 が挙げられる。

 そういった事態が発生すると、いくら最初に「これはやるぞ!」と強く思い描いていても、どうしてもできなかったりする。
 で。できなかった後に、「あー……昨日はダメだったなぁ……」となって、自己嫌悪に陥ったり、「ま、明日からがんばりゃいっか!」とか思って、結局、ずるずる、やらなくなっていく、というのが多い。

 そんなダメダメな経験の積み重ねの結果考え出したのが、「免除規定」(最初は「例外規定」と書いていたようだが)であった。基本、流されやすい人間ということか……。

ルーチンを超えて習慣へ

 ブログ右横の、カウントアップを見てみる。音読は結構さぼってしまった日があったりするが、筋トレはほんと、免除規定以外は毎日続けられている。270日。これは結構長いほうだ。へー、そうだなぁ、結構がんばったなぁ。


 しかし、筋トレとか音読とか、それ系の無心でできる奴はともかく、クリエイティブな、創作といった内容を毎日続けるというのは、本当に至難の業だろう。
 1時間紙面に向かって、1文字も書けないということも、冗談ではなくあったりする。そもそも、気分が乗らないこともざらである。

 一日500字とすれば、200日もすれば10万字以上だ。10万字が単行本一冊ぐらいの量といわれるから、一日500字でも十分すごいだろう。



 これは、何度も書いているが、何か「創造」できる人を僕は尊敬する。
 ま、これは、エンターテイメントに限らず、仕事でも、遊びでもなんでもいいけれども、何か「創る」というのが、すごいことだと思っている。

 ――そして僕も、やっぱり「創る」のが好きだ。そして、自分でも、創りたい。


 あー、これ、何となく思ってきたけど、やっぱりそうなんだろうなぁ。
 先日、過去記事とか整理していて、「今後、ほんと、どうしようかなぁ」と考えたとき、そもそも、音楽つくったり、小説かいたり、ブログ書いたりって、ほんと、自分の人生になんら影響しない……というか、よくないことなんじゃないかって思ったりもした。

 やっぱり人は、他者にとって役に立つ人間じゃなきゃダメなんじゃないかって。
 自己満足や自己完結に陥ることはダメなんじゃないかって。

 確かに、この時代、「公開する」ということができるインターネットという電子が飛び交う魔法の世界においては、創作に励むというのが、必ずしも閉じた世界になるわけではないだろう。
 けれども、やはり、「仕事」と直結しない行為は、「無駄」なのではないか、と思ったのだ。

 大人は、人にとっては、趣味はやはり「余った時間に行うこと」であり、仕事に生きがいを感じなければならないのではないか、と思ったりもした(就職活動中とか、社会人になってからまもなくとかの過去記事を読んだりしていて)。

好きなことをしている人が強い

 あるニュース記事的なので、ある会社の社長さんとか経営者の就活生向けのインタビューがあって、「結局、楽しんで仕事できない人は伸びないよ」「やらされてる感しかない奴はいらないよね」とかあった。

 まぁ、仕事を本当に楽しめる人たちだから逆に、経営者とかトップに立つ人間になるんだろうなぁと思ったりもしたが、ただ、自分がいくら平社員だからといって、あながち否定もできんと思ったわけだ。

 やっぱ、楽しくなきゃ生きてる意味なくね?



「人生とは、楽しむものだ」

 これは、僕が、中学生(高校一年生の倫理でエピクロスを学んだときだったか)のときに考えた、悩んできたことに対しての答えだった。

 小学校とかから、ずいぶん、嫌な思いもしてきて、「何でこんな生きるって大変なんだろうなぁ」と思ってきて、「うん、やっぱり、楽しく生きなきゃおかしいよ!」と思い立ったわけである(確か)。

 で、そんときは、すげー発見したなぁと自己陶酔していたが、結局、その「格言」が正しかろうと、現実は甘くなかった(かっこわらい)。

 でも、やっぱり、原点はそこなんじゃなかろうか?


 みんな、だれしも、楽しく生きるのが大事なんじゃなかろうか?

 だから、ブラック企業とか、頑張ってやりがいを満たせとか、一方で、「クリエイティブな人材をほっします」とか企業が就活生とかにいっちゃうのは、みんな、根本的に大事なことを見落としてるんじゃなかろうか?

え、これ仕事論になるの?

 大事なのは、「楽しむこと」だと。

「やりがい」を求めて、仕事を必死になること、それが悪いことかというと、僕は全然そうは思わない。

 仕事が好きで楽しい、とかいうと、すぐ「社畜乙」とか言われるのは、それはおかしい社会と思う。

 一方で、「がんばって成果を出しましょう!」と発破をかけて、お金を稼ごうってのは、大事なことを見落としていると思う。


 本当は、「頑張ること」「成果を出すこと」「認められること」というのは、それは単に「結果」に過ぎないのではないか?
 それよりも根本として大事なことは、それら全般が、本来的に「楽しいこと」だということではないか?

 そりゃ楽しいことしてても疲れるときは疲れるけど、強制され、拘束されているのと、同じ時間だとしても、身体・精神ダメージは全然違うだろう。


 とはいえ、だれしも仕事を好きにならなきゃいけないってのも違うと思う。
 仕事はお金を稼ぐ手段で、人生は趣味や家族に捧げるってのも、大いにありだろう。
 そういったのをひっくるめて、「多様性」を認めるってことじゃあなかろうか。


 で、その前提として、せっかくだから、「仕事」も楽しむことができたらもっといいと思う。

着地点どこやねん

 あー、その、なんというか、創作をルーチンで続けるって、ほんとすごいなって、思ったんだ。

 ちなみに、ルーチンを超えると、それは習慣になる。
 意識しなくても自然にやってしまうこと、それが習慣だ。

 習慣も、大いに、目標達成には活用すべきである。例えば、外から帰って手を洗うのは習慣だろう。それに、風邪予防にうがいも加えてみる。って小学生か。
 いやしかし、そういう、ついつい「馬鹿にしたくなる」ようなことが、習慣の活用としては有効である。むしろ、普段意識できていないような習慣の方がよい。
 家に帰ってきて、もしくは自分の部屋に戻ってから、必ず行うことはないだろうか? または、普段、初めに目線がいく場所はないだろうか?

 その、当たり前の、習慣の中に、すこーしだけ、種をしかけるのである。習慣プラスα作戦!


 なんの話だ。

 そう、ちょっと、高級なYEBISUビールを飲んで、昂っているせいも影響しているかもしれないが、僕も、創作がんばろうと思った。

 今年中に、音楽と小説と、一つ完成させたいな。

 ――って、今年って、もう半年もないんかい! はやいなぁ、ほんと……。

 
 もうちょっと、具体的な計画や目標は、落ち着いた日に考えるとして、今日のところは、「自分の好きなこと」の確認を少しできた、ということで終わるとしよう。


(創作しようッ!! と思った矢先、「風よ龍に届いているか」を読み始める。え、なにこれ面白い)

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過去記事の整理に費やす:半日以上
2017/07/19 17:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「ものすごい生産性がなかった気がする」「整理という仕事は往々にして大変」

2008年~2010年あたりを整理

 非公開として下書きにしていたり、いろんなところに散らばっていた文章をまとめたり、消したり、整理を実施した。
 しかし、まだまだ、60記事以上が残っているし、2011年以降も残っている。

 そもそも、この忍者ブログの検索機能というか、一括編集機能が非常に使いづらかったので、バックアップファイル(MTファイル)を出力して、それを取り込んで編集しようと試みたが、このMTファイルの形式が、非常に使いづらい。CSV形式とかなら良いが、全然保存形式が異なる。なんだこれ、なんでこんなファイルが一般的になっているんだろう……、そうかこれがデファクトスタンダード(よいか悪いか別として、一般に広まったからそれが使われるようになったもの。ウィンドウズとか)ってやつか。

 それで、こんな使いづらいなら、MTファイルを操作するアプリケーションぐらい、ゴロゴロあるだろうと思ったら、ところがどっこい、そんな便利なソフトも全然見つからない。
 なるほど、昨今、ワードプレスとかはやってるし、わざわざ、こんなテキストファイルを直接編集しようなんて考えるやつなどいないのだろう。

 ということで、エクセルとマクロでMTファイルをテキストファイルとして取り込んで、日付とか、本文部分を分離させて、編集しやすいようにするアプリを自作した。

 これを作るのに、1~2時間ぐらいかかった。テキストファイルを読み込むってのも、いろんなやり方があるみたいで、どれが良いかとか考えるとこれまた複雑だった。
 うーん、最近使っていて思ったけれども、エクセルのマクロって、かなり多機能だよな。そもそも、フォルダやファイル操作が自由にできる。ってことで、エクセルのスプレッドシートを使うのを主にしない、デスクトップに余計なファイルを退避フォルダに移動させるアプリも作った。

 とある、これまたよく読んでいるブログさんでも、エクセルのマクロって聞くと、複雑なプログラム言語ができる人は馬鹿にしたりするけど、実はすごいんだぜ、とおっしゃっていて、なるほど、確かにすごいなぁと思った。


 あ、話それた。
 そう、昔の記事の整理だ。

心をえぐられるようなのもちらほら

 最近、なんか、「幸せな気がするけど、なんか変な感じだな~」とか思ったり書いたりしている。

 しかし、自分自身、その感覚に対して違和感を抱いていた。

 その理由が、過去記事読んだりしていて、なんとなく分かってきた。
 いろいろ、引用したい記事は出てきたんだが、今回はとりあえず一つだけ引っ張ってこよう。
先ほど友人から、「お前はもっと人に興味をもつべきだ」とアドバイスされました。「どんだけ自由に生きてるんだ」「自分についてしか興味がないんだろう」とも。  友人がいう次元においては、わたしは「全くその通りだなぁ」と思いました。ここでいう「友人がいう次元」とは、特定の他者、例えば身近な人に対しての情報を、もっと知ろうとするべきだ、ということでしょう。確かにわたしは、誰々が今どんな職業に就いているのか、誰々がどんなものを好きなのか、なんてことを殆ど知りません。というよりも、ご指摘の通り、あまり興味をもてないのです。 ――2009年8月2日
 ひどい友人だ!(笑)

 いや、まぁ、いいたいことも分かる。というか、それを聞いた俺自身も、「あー、やっぱりそうだよねー」と思ったりしていた。この後、

>と、今書いて改めて分かりましたが、本当に、そういうことに興味をもてない。むしろ、何故そんな「普通の人」は、誰々が誰と付き合ったとか、結婚したとか、どこに旅行に行ったとか、そういうことに興味をもてるのか、分かりません。

 とか、そんなことまで書いたりしている。

 でも、違うんだよな。
>それよりも、「お前はもっと人に興味をもつべきだ」という点において少々書きたいと思います。わたしはちゃんと人に興味をもっているのだよ、と、そう言いたいわけです。でも、わたしが興味のあるのは、特定の人ではなく、広い意味での「人」です。認知症や精神病の本など、非常に面白いと思います。

 自分でも当時書いているが、そういうことなのだ。
 人自体に興味がないというわけではない。ただ、「誰それが今何をしている」とか、そんなに興味がないのだ。
 つーか、そういうのって、田舎の近所のおばさま方が、「ねぇ、田中さん(仮名)、知ってる? 高橋さん(仮名)のお子さん、〇〇会社に就職したんですって」的な奴に思ってしまう。なんか、そういうの、いやじゃない? ――いや、俺だけか。

 いや、別に、久々に会った友人と、「お、久しぶり! 最近どうよ! 何してるん?」とかいう会話が無駄だとか嫌いだとか言うんじゃない。それはありだと思うし、興味もある。けど、そんなん、別に常日頃変わっていくだろうし、そんな歴史の授業みたいに記憶するのが必要か? と思う。

 みんな、今を生きてればいいじゃん。過去の話だけだと、結局面白くなくない?(いや、思い出話に花を咲かせるのも、いいことだ。ペルソナ4の夏休みに主人公が、おばあさんの櫛を川の魚から取り戻して、思い出も取り戻してあげる話とかよかったじゃないか)

 まー確かに、だ。その友人は、間違っちゃあいない。確かに、当時、まぁ今もだけど、あんまし、他人に注力できるほど余裕なんてなかった。
 でもさ、「どんだけ自由に生きてるんだよ」「自分にしか興味ないんだろ」って、それはどうなんだ?(笑)
 少なくても、そんなに楽しい思いばっかりしてきたとは到底思えないんだが。


 まぁ、今となって、そんなこと言われたの、すっかり忘れていたけど、こうやって過去の記事を読み返すと、「ああ、そんなことあったかもしれんな!」と感情がよみがえったりもする。

感情を蘇らせるのが良い記事

 ネガティブとか、ポジティブとか、そんなん僕はどうでもいいと思っている。その時々で判断も変わるだろうから。

 けれども、その記事を読んで、何らかの感情が蘇ってくるような記事が、よい記事だと僕は思う。

 それがたとえ、嫌な思い出でも、さ。

 まだまだ、整理がしきっていないけど、今年中に全部整理してしまいたいな。

 こうやって、新しいメモを書くのもいいが、過去も有用に使っていきたいところ。



 いやぁ。しかし、いろいろ、やってきたなぁ。

 オフ会の幹事とかもしたことがあるらしい。すっかり忘れていた。それは、感情は蘇ってこなかった。単純な「記憶」だけ。っていうのは、日記としては有用だろうが、実際どうなんだろ?

 実感が伴わない過去の体験・経験って、役に立つのかな?

 つまり、それを成し遂げたとしても、その成し遂げたのが「自分」と一致させられないということだ。
 赤の他人の業績のようなもの。
 無意識に影響は与えていても、意識下で使うことができない記憶・感情であれば、残念ながらあまり有用じゃない気がする。

ループの罠

 なんつーか、過去の自分に対して、とりあえず、こう、「お疲れ様」っていってあげよっと。他人事みたいだがな。

 無駄な悩みとか、時間を無駄にしたり。もっと頑張れたのかもしれない。
 でも、まぁ、「自分」っていう身体・環境制約の中では、よくやったと思うよ、ほんと。上から目線だな。だが構わない、唯一、上から目線になっても怒られないのが、過去の自分相手だ。

 しっかし、文章量がほんと多いな。中身ないやつとか、意味が完全に壊れている奴とか消していったりもしたけど、まだまだ残ってる。
 過去記事のどっかでも見かけたが、ほんと、ただ書くことは「いくらでも」できる、のかもしれない。確かに、いっつも、「そろそろやめとくか」とか思ってやめてる感じだもんな。これは今も昔もそうだったんだろう。

 いや、それが何の役に立つってんだ、ということも感じたり考えた。
 それで、意識的に、何年か、その思考をとめて、書くこともやめたりもしたりした。
 けれど、それは結局、何の解決にもならなかった――というのは、今このように書いている事実があるからな。


 とはいえ、先日も書いたけれども、「ループ」というのに、どう対処するかってのはある。

 しかし、どうなんだ?

 実際、ループしてんのか?

 確かに螺旋みたいに、ぐるぐるしている気はする。しかし、その階下、上下はしているような気がする。
 いやしかし、それは、周囲の、環境の変化がそう思わせているだけなのかもしれない。

 思考のループ。
 これには対応する必要があるだろう。

 そうだ、そういえば、そのための、今年の目標、「整理」ってのもあるわけだ。

 でも……、どうなんだろ。
 分からない。
 例えば、今回のこの記事は、今までの、どれかと全く同じことを書いているのだろうか?
 この感覚は、今まで感じたことがある何かと同じなんだろうか?

 直感的に、何の根拠もないが、僕は、「違う」と、今思っている。

これからの自分

 さぁ、これからどうすっかなぁ。
 その点が重要である。

 なんか、本当に、ある意味、人生の目標達成したような気分でもあるんだよな。と書くと傲慢なんだけど。
 確か、2008年ぐらいも、最初のうちはそんな風なこと書いていた気がする。
 けど、だんだんおかしくなっていって、2010年ぐらいまでかけて相当気がめいっていくんだよな、確か、そんな年表だった気がする。

 そうすると、過去の自分から敷衍すれば、今、「あー満足満足。幸せじゃなぁ」と思っていても、あと数か月か数年かわからないけれども、どんどんおかしくなっていくのではあるまいか、そんな気がした、今。

 それは本義ではないなぁ。

 それは望まない。もしそんなんなるんだったら、早めに物語の帳をおろしてしまいたいものだ。


「ねぇ。あなた、なんか、やりたいこととか、ないんですか?」

 うーむ。




 ある方のブログで、人生で、重荷を下ろすことはできない、と書かれていた(ほんとは、全文引用したいぐらい良い記事だと思ったんだけど、ブロ主さんが嫌かなぁと思ってやめた)。
 問いが良いんだ。
「重荷を下ろしたら幸せになれるのか」と。

 上に書いた僕の友人の言葉、「人に興味を持つべきだ」というのは、もう少し別の表現をすれば、「他者に対し役に立つ人間であるべきだ」ということでもある。効率的に、役に立つ人間になる。そして自分を高めていく。
 確かに、学校でもバイトでも、会社でも、一般的に良いことだとされることだろう。

 その感覚や、思想や、考え方、それに対して、まっこうから「違う」ということは難しいと思う。これを、なんかの本で、「香山リカ」と「たじまようこ(?)」との対談の決定的な決裂、について書かれていて、なるほどな、と思ったこともあった。
 つまり、「まったり」という生き方について、一切認めることができない人も多いってことだ。

 確かに、自分を高めることで、周囲の人からも「承認」され「所属」欲求も満たされ、人生はよりよくなっていくことだろう。

 俺自身、大した回数でもないが、二の腕を太くしたいと思って筋トレを、270日ぐらいずっと続けている。ストイックであることを否定する気など全然ない。

 ないんだが、――これも、過去記事を整理していて見つけた言葉だが、

「禁欲することは大事だ。けれども、それは主体的でなければならない。他人に強制される禁欲は、「拘束」である」と。
 なんかそんなようなこと書いてた。

 だから――つながってるかわからないが、上の友人の、「自分にしか興味ないんでしょ」というのも、あながち、間違っていないとも思うのだ。確かに俺は、主体的に、「他者」を排除しようとしている節がある。
 他者を認めないとか、自己完結するとか、独善だとか、孤独がいいとか、そういう意味ではない。なんというか、ありふれた表現になってしまうが、「自分の人生は、自分で決める」――決めたい、ってことだ。
 そういう意味では、「他人なんてどうでもいい」と思っているのかもしれない。ただ、こんなん、たんなる表現問題だ。「他人なんてどうでもいい」なんて、そんなはずあるまい。「社会」の中で生きてるんだぜ? アマゾンで注文した商品を届けてくれるのも人なんだぜ?(って話が違うか)

まとめ

 まとまらないだろうが、これまた終わりが見えないから終わらせよう。

 とにかく、過去記事の整理は、物理的時間もかかるし、精神的にもダメージが大きいけれども、まぁ、頑張ろう。頑張るって好きな言葉じゃないけど、ここは頑張ろう。誰の役にも立たない、誰が考えても、見ても無駄なことだと思うけれども、ただ、僕にとっては意味があることだと思う。「お前がそう思うんだったらそうだろうな(笑)」とか言われてもめげない!

 でもさー。

 役に立たなくてもいい、ただ、生きていてくれるだけで、幸せだよ。


 なんて、言ってくれる人、いるんかな。
 親、ぐらいだよな。で、その親も、実際「そう思うべきだ」というのが強制されているってことで、必ずしもそういうわけじゃないとかいう言説もあったり、まったく、この社会はいつからこんなに生きづらさであふれてしまったのだろう。

 でもあれだな。この前書いた、ある精神科医さんの記事で、「大人はなるもんじゃない、やるもんだ」ってのは、まさにそういうことなんだろうなぁとも思う。

 でも……これは、どうなんだ、まだ、結論を出すまでに至れない。
 この考えを正とすれば、とりあえず、相手はともかく、「子供をつくって育てる」というのが、人生にとって最重要である、ということになる。

――結婚している人は偉いのか

 まぁ、僕の知人とか見ていると、子供がいるってのは、いいことだなぁとも思ったりもする。
 うらやましいなぁと思っていないか、というと、それもあるかもしれない。


 そもそも、なんか俺はやりたいこととかあるのか。
 別にないなら、子育てぐらいしてもいいんじゃねえか。……って書くと、苦労している諸先輩方に石を投げられるわけだが。そんなテキトーな思いでできるほど子育ては甘くない! って。

 でも、そういった言説も俺は疑問である。
 そんな、立派な親ばっかりか? 車の中に子供おきざりにしてパチンコいってる親だっているし、まともに愛情もそそがないで仕事とか異性関係に興じる人だって少なくなかろう(少ないの?)。

 初めから立派な親なんていないし、そもそも、親が少しぐらい立派じゃなくても、立派な子供が育つような社会であるべきなんじゃねーの、と俺は思うが、まぁ、そんな、結局、独身で子供も育てたことないような俺の意見や感想なんて、誰も耳をかすまい。そう、「経験」ってのは、大いに、「マウントポジション」をとれる強い武器なのだ。

 ……って、やっぱりまとまんねーじゃねーか! というか、まとめる気ないだろ、俺……。


(あー、もう、休日に、なんでこう、自ら陰鬱になるようなことしてんすかね~。ま、悩んでる俺、かっこいいとか思っちゃってんのかね。きんも~☆)

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日々是好日:ペルソナ4の精神攻撃
2017/07/16 21:02 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「精神攻撃に耐えられなくなって文章を書く」「ペルソナ4面白い」
※拍手コメント下さった方へ。前記事のPBRの式の誤りに関するご指摘ありがとうございます。修正いたしました。――いやぁ、しっかり細かいところまで読んで頂けているとは、特に学習カテゴリでは思っておりませなんだ……お恥ずかしい。

特に理由もなく離れていく

 最近、僕がペルソナ4のアニメを、アマゾンプライムで見始めたのは、ある方のレビューというか感想が、理由の90%以上である。

(注釈:ラスボス(?)との戦いにおいて)主人公に幻覚? 的な? サムシングを見せて精神攻撃してくるわけですよ。これが、原作ゲームにはない演出だった。そらまぁ、RPGで戦闘中にんなクソ長いイベントシーンなんかできるわけがないから当然なわけだが、
(中略)
で、その幻覚の内容が非常に、非常にエグい。いや残虐描写があるわけではないのだが、そんなものよりもっと心に来る。まぁその、なぜか唐突に時間が飛んで、
(中略)
主人公と仲間たちの絆が特に理由もなく徐々に薄れ、なんだかよそよそしくなってゆく。一人また一人と主人公のそばから姿を消してゆくが、別に失踪したわけでもなく、単につるまなくなってゆくだけだ。
(中略)
何がアレって、「特に理由がない」という点が実にアレである。なんか劇的なイベントによって絆が壊れてしまう、というのなら、まぁそれさえなければうまくいっていたと思うことはできるし、原因があるということはそれを取り除けばまた絆が戻ってくる可能性もありうると思うことができるのだ。だが、理由などない。何も起こらず、自然消滅である。救いがない。
(中略)
(注釈:ゲームでは絆を構築するのも努力が必要なため、プレイ済の人にとって)このアニメのイベントは特に何の理由もなくこれらの努力をすべて無へ帰す所業であり、なんかもう見てて叫びたくなること甚だしかった。恐ろしい。恐ろしいアニメやで……!
――螺旋のモノリス
 僕が見たかったのは、その精神攻撃パートであった(やはり俺はマゾなのか?)。
 ゲームはやったことないけれども、その、上のレビューを読んだだけで、もう何というか、身の毛がよだつというか、恐ろしさが伝わってくるではあるまいか。

特に理由がないことの恐怖

 とまぁ、そのシーンみたさに、ちょくちょく、6月下旬ぐらいから見ていったわけですが、いつ、そのシーンが来るのかも分からなかったので、ついつい、上のレビュー的サムシングも忘れて、普通に作品を楽しんでいた。
 作画的な綺麗さだと、RE:クリエイターとか、正解するカドとかの方が、やっぱり綺麗だなと思うけれども、もちろん及第点ではあって(上から目線的な書き方だけど、よい表現が浮かばなかった)、そもそも単純にストーリーを楽しんでいた。

 そんな中、――もちろん、犯人的サムシングと対峙したので当たり前だが、僕にとっては突然、その精神攻撃が始まった。

 いやぁ、僕の貧弱な表現では、僕の感じたことを上手く表現できないのだけれども、何というか、その「自然さ」が怖かった。

 確かに、なんかよそよそしくなっていくのである。

 でも、そのよそよそしさが、まったくもって、「自然」なのである。

 ――友達なんて、――絆なんて、――結局、空っぽなんだ。無(む)、なんだと。

 状況や環境が変われば、物理的な距離がひらけば、途端にほころびをみせ、瓦解してしまうようなもの。

文章整理

 また上の章の話に戻ってくると思うが、ちょっと話を変える。

 まとまった時間が取れているので、ペルソナ4を見るのと、読書をするのとプラスして、過去記事の整理などを行っている。

 今まで非公開としていた記事も、できるだけこのブログに収れんさせようと思っている。
 さらに、短くて読むに値しない記事は削除するか、まとめて一つの記事にしようと思っている。
 あと、映画カテゴリは削除した。前からやろうと思っていたけれど、思い切って実施。いや、映画とか見て感想を書くのはいいんだ。ただ、その作品に対する批評のみで終わってしまっている記事は、後から読んでも面白くないことが分かった。

 先日書いた、「君の名は。」を見たときの記事は、まぁ、それなりに読み返す価値もあると思った。それは、その作品を見た結果としての、自分の「変化」を記載しているからである。「この作品を見た。まぁまぁだった。以上」――こんなんで終わっている記事は、正直、なんも面白くない。いや、先日読んだ、「日記の書き方」的な本では、むしろ、「思ったこと」など書かないで、「ただ事実だけを書きましょう」とか書かれていた。僕は真逆のことを今書いている。

 でも、「短い記事」(100字に満たない程度)も、やっぱり価値を感じなかった。と、いうよりも、ブログという媒体では特にダメだと思った(他のブログさんへの批判ではない。「僕は」、「僕の」ブログではそうだ、ということだ。しかし、100字程度だと、ツイッターでもやってた方がよいのではなかろうか。まぁそもそも、僕はツイッターへの価値をあまり見いだせていない)。

 まぁ、それで、その記事を整理していて、いろいろ、出てきた。

似た経験がある

 精神攻撃の話に戻る。
 その、親しかった人が、特に理由もなく離れていくということ。この経験が僕もあって、それも相まって、このペルソナ4のアニメーションにおける精神攻撃シーンが、僕に多大な揺さぶりを与えたのだろうと思った。

 いやー、今日は、作曲と家計簿のアプリを作ろうと思っていたのだけれども、――今はもうこの精神攻撃のことを記事にするのがMAXプライオリティである!

 でもさーでもさー、俺、思うんだけど、そのラスボス(?)のシャドウを、完全に否定できるんか、って思うんだよな。

 ――すべては無、空っぽなのだ。

「俺は、空っぽなんかじゃない!」

 と、主人公は、仲間に助け出されて、自分のペルソナをフル稼働させてラスボス(?)のシャドウを倒しますよ。
 そして、精神攻撃のときとデジャブりながらも、それとは違う、仲間との新たな絆を彷彿させるシーンでエンディングを迎えますよ。「これからもよろしくな!」的な。


 いやぁ、よかったよかった。
 友達だなんて思っていたのは自分だけ、なんて、そんなことはなかったんだ。一度生じた絆は、尊いものなんだ、固いものなんだ、大切なものなんだ。


 ――なんて、そんな風に思って、仲間との絆の中に生きようとする人は、この三連休に、きっとBBQとか川や海にいってパーティーピーポーしてますよ! きっと!!

根暗なラスボス少年

 完全に擦れた大人になっちまったんだなぁ、俺、と思わざるを得ない。

 仮に、ペルソナ4のゆかいな仲間たちは、いわゆる「リア充」であるとしよう。
 そして、僕は、「リア充」ではないとしよう。

 そうするとだ。ペルソナ4は非常に面白かったのだが、それを「面白かった」と言う場合、現時点性の僕自身を否定することになるのではなかろうか。

 つまりだ。
 僕の本心(ペルソナ・シャドウ)は、「いえーい! ノリノリだっぜぃ! みんな一緒に楽しもうぜぇ!☆」的な奴なのではなかろうか。アマギさんが「逆ナンよッ!」とかいったり、カンジくんが「あっはーん☆」とか言っちゃうアレだ!

 そしてだ、ペルソナ4を面白いと言っちゃうってことは、「リア充」的なノリに憧れているということであり、「そんなことない、俺は、今の生活に満足しているんだ! お前なんて、俺じゃない!!!」とか言っちゃうと、「あはーん? そう。自分を認めないってことね~!(闇覚醒)」的になって、俺はシャドウに喰い殺されてしまうのではなかろうか!! 怖い!



 でもさー。ふつーに考えて、もう高校生には戻れないわけじゃん?
 んで、そんな、新しく絆芽生えさせるとか、そんなん難しいわけじゃん?

 そしたらさ、もう戻れない過去を嘆いて、悔やんで悔やんで人生送るしかなくなるわけじゃん?

 どうなの? それ?

 主人公陣営に憧れたり、感情移入したりするのはいいよ、それはそれで作品を楽しむってことだ。

 でもさ、お前(自分)は、どっちかというと、その根暗なゲームばっかやって、他者を認められず、自分の殻に引きこもって、誰も自分を認めてくれないと妬み、目立ちたいと事件を起こすような、ラスボス(?)側なのでは??

過去の発掘

 で、まぁ、この記事のオチはなさそうだ。とにかく、精神ダメージが与えられて、そのまま落としどころなく彷徨い、果てることとなるだろう。

 先日、古い携帯とか、人間は総合力だ、とか、リア充的なサムシングを書いたりしてたけど、まぁ、俺にはシャドウさんが、たくさんいそうだ。

 過去記事の整理をしていて、これはこれで、精神がえぐられるようなものもあったりする。
 ちょっち、冷静な判断ができなくなるものもありそうだ。が、しかし、今年は整理の年だ。思考も、生活環境も、そして文章も整理していこう。



 ペルソナの面白いところは、敵の「シャドウ」が、自分自身だってことだ。見たくない自分。見せたくない自分。それを「お前なんて、俺じゃない!」と否定してしまうと、シャドウは力を増して、本人を喰い殺そうとする。
 それを乗り越えて、「そうだな、そんな俺も、俺の一部なんだな」と認めることができると、シャドウは、新しく「ペルソナ」(≒スタンド)として、自分の新たな力となるのである。
(この葛藤みたいなものが、後半、かなり「暴力的」になってしまっているのが、少し「あ゙ー」と思ったが。いや、仲間のみんなのペルソナが強くなっちゃったので、取りあえずシャドウをボコって、弱まったところで「自身を認める」プロセスに入るってのは、物語的に仕方がないのだろうが)


 でさ、まぁ、何んだろう。
 とりあえず絆(ベルベットルームで、「新たなアルカナを~」って別嬪さんがいっつもいうんだけど、アルカナって、キズナって意味なんだよね?)って、別に、外でバーベキューやらないとダメなもんじゃないと思うんだよね。

 俺は昔(いや、今もかもしれんが)、なんだか、「溝」というか、「理解のされなさ」というか、そんな人との間に違和感をずっともっていた。

 で、かなり滅入っていたのが、2008年~2010年あたりだと思うけれど、そんなとき、ある人に出会った。出会った、といっても、それはネット上でのことだった。
 でも、その人は、常人を超えた観察眼で、僕の悩みというか、懊悩をすぐさま看破し、コメントくれたり、相談にのってくれたりした。ああ、こんなすごい人もいるんだなと。

 生きづらさに耐えられなくなっていったとき、その方の存在は、まだ世界にあきらめるのは早すぎると、強くそう思わせてくれた。


 離婚って、もう珍しいことではないが、それでも、結構落ち込んでいた時に、ある二人の方がメッセージをくださった。それでどんなに救われたことか。そのメッセージの内容とタイミング性は、かけがえのないものであった。


 だから、だ。

 別に、三連休、友人や恋人と一緒に出掛ける予定が何もなくても、それが、「絆」を否定するものでもないし、ペルソナ4の主人公たちを「ケッ、リア充どもが!」とか思う必要もないのだ。
 いろんな絆の在り方がある。いろんな関係性がある。いろんな生き方がある。

 たまたま、その表現が、イオンモールみたいな大型ショッピング施設のイートインコーナーに複数人で集まって、一緒に事件を解決するためにワイワイがやがややったり、事件の解決の打ち上げに自宅に集まってパーティするとか、そういったものであっただけだ。

 切り取られた日常は、特別視されやすい。
 しかし普通は、多くの何もない、退屈な日常が、ただ過ぎていくだけなのだ。

 そうした生活・人生のなかで、何を正解として生きていくのか。
 何を「楽しい」と感じるのか。


 幸せの「モデル」はあったとしても、自分の幸せは、自分で創り上げていくものなのだ。


(くっそぅ……。精神攻撃のせいで、何とかポジティブなまとめにしようと思ったが、空虚な言葉の列挙になった気がするぜ。いや、ただなぁ。全国アイドルの女の子といい感じになったりとか、主人公、ちょっと恵まれ過ぎてやがりますな!(嫉妬血涙) ……いやぁなんだろ、この女の子の取り扱いって、物語的にどうしたらいいんだろう。ちょっとこれは、別の記事でここ何年かで思ってることまとめてみようか。いやつまり、理想の女の子を登場させることってのは、そこに何の意味があるのか、ってことである。いやこれは、AKBとか、綺麗な女子アナとか、可愛い女優にドキドキするってのと同じ問題を抱えている。つまり、かわいい女の子とイチャイチャしたいという男なら誰でも持っているであろう感情……というか本能的な奴。しかし、その欲求は、一握りの恵まれた身体・ステータス・環境を持った人に限られる。だから、二次元(テレビなど実写も含む。2.5次元とかメイドカフェ的なものや、女の子が接待するお店とかも含む)によって満たそうとするのである。逆に女性は男性にどういったものを求めるのか、というのも興味深いが、まぁ僕が男性だからその疑問の優先度は低い。いやはや、3次元も実は物語が重要であって、例えば「優しい彼女(彼)」「かわいい(かっこいい)彼女(彼)」とか、「自分を一番大切に思ってくれている」とか、そういった物語(信仰)。「貴方の人となりが大好きよ」と言ってくれたとしても、実は、目が「¥(円マーク)」になっているかもしれない。けれども、そんなこと考える必要もなく、ただ、「優しく可愛い彼女(妻)」を信じればいいだけだ。そうしたら幸せになれる。あー、こんなこと言ってるからダメなんだろうなぁ(かっこ乾いた笑い)。だからね、このあたりのことを考えるにあたって、最近あるブログで、「愛について」の定義を書いていた方がいたんだけどね、この定義が非常にしっくりきたんだよな。あー、この辺りも整理して記事に書いておきたかったんだけど、忘れてた。あーそれと、……って、なんかおわんねーから強制終了。精神攻撃ほんと怖いな!)

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短い記事を書く練習
2017/07/05 23:39 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「わかりやすい文章を書く技術」「そんなん、短かったらええやん」

短い記事を書こう

 僕はふと気づいた。
「僕は長い記事が書けるのではなく、短い記事が書けないのではないか?」
 ということで、テーマは、ブログについて思うことと、他者に期待すること、として、短い記事を書く練習をしてみよう。

 初めに、僕が、すごいなと思うブログさんの特徴を挙げてみよう。それは、ある程度長い記事が書けることというのと、長らく続けられていることである。
 この文脈上で、僕のブログはどうなのか、ということを先に考えてみる。
 まず、僕は、ある程度長い記事を書ける。

肯定ポイント1:長い記事が書けること

 長い記事が書ける、といっても、週に二、三回、5000字程度のものであるが、結構量が多い方だと思う(何と比べて、といえば、ブログなんて書いたこともないような人たちも含めて、である)。

 長ければ良いというものではない。ただし、ある程度、意味の連続性が認められる状態で、文章を連ねていくというのは、やろうと思ってもなかなかできないことである。
 まったくブログを書いたことがない人や、日記など書いたことない人が、「さぁ今日からたくさん書くぞ!」と思ったところで、長くは続かないだろう。

 なので、内容はともかく、ある程度の文章量があるブログさんをすごいと思う。

 では、次の、続けられている、ということを考えてみる。

肯定ポイント2:続けられること

 2点目は、長らく、続けられているということである。
 確かに、始めたばかりのころは、「さぁ書こう!」という気概もあいまって、非常に良質な記事を量産できることだろう。

 しかしながら、「すげーっ!」って記事が多くても、多くの人は、1~2年……いやはや、もっと短いスパンで辞めてしまうことが多い。

 まぁ、これは当たり前と言ったら当たり前である。理由は二つ。

一つは、生活の変化。

 10年も20年も、同じような生活を続ける人ってのはまれである。特に、激動の10代、20代なんて、付き合う人も変われば環境も変わり、住むところも変われば、好きな食べ物や鑑賞対象だって変わるかもしれない。
 そんな中で、変わらず、文章を書き続けるってことは、よほどの動機がないと難しいことだろう。

二つ目は、その人自身の変化のなさ

 一つ目の理由は、変化があることを挙げたが、二つ目は、逆に変化をしないことが理由となる。すなわち、人は、実のところ、そんなに大きくは変われないのである。
 変われないというのは、身体的特徴……例えばダイエットの成果だとかそんなところから、思想信条、価値観といったものまで。様々な人や環境からの影響で、ターニングポイント(ある契機で方向転換すること)になることはあっても、パラダイムシフト(既存の価値観自体が変化すること)することは少ないのだ。

 なので、1年や2年ではなく、もう何年も前から続けられているようなブログさんは、それだけで価値があると思っている。


 そういう意味だと、僕は、10代半ばから書き始めて、もう10年以上は続けているということになる。
「おめー、そんな長くやっていて、この程度の文章しか書けないのかよ(かっこわら)」
 と、思われることも仕方がなかろう……。確かに、クオリティは低いだろう。
 しかしだ、冒頭の目的の通り、敢えて肯定すれば、ある程度の文章量を担保しつつ長らく書き続けられているというのは、それは一つの肯定ポイントだ。

 

まとめ

 なので、皆さんも、あまり内容のことは気にせずに、できるだけ長い文章を、そして、できるだけ長い間続けられることを目指して、日々努力していってください! 以上!

裏のまとめ

 というような、今回の記事になった理由の一つは、「わかりやすい文章を書く技術」といった系統の本を流し読みしたからである。
 有益な情報もありながら、概略は殆ど知っている……と書くと傲岸不遜になってしまうが、辞書的な使い方が適しているとは思った。

 いやそれよりも、つまり、「わかりやすい文章」というのは、相手に理解してもらえる文章ということであり、じゃあそれって結局のところ、「わかりやすいテーマ」であることが最重要である。

 いや確かに、文章技術の体系としては、よくまとまっている本だと思った。
 確かに確かに、その内容をしっかり身に着けて、使えるようになるのは、遊びでも仕事でもいろんな面で大切なんだろうと思った。

 でも僕は、「そこじゃない感」があった。それをそもそも、上手に説明できないのだが、なんというか、求めている技術は、――今がそうであるだけかもしれないが、それではないのだと。

 いやさ、わかりやすい単語選びをして、わかりやすい表現にして、わかりやすい構成にして、わかりやすいテーマにしていくというのは、そりゃあ、相手に理解してもらうって意味で、非常に重要だと思う。そもそも、いっくら簡単な英文法と英単語で表現したところで、英語をちっとも分からない人には伝えられないのと同じで、専門用語がガリガリちりばめられた文章なんて、ちょっと見ただけでKOされてしまいそうである。


 しかし、僕が表現したいこと、明らかにしていきたいことというのは、そもそも「伝えたいこと」というのが明確になっていないのである。

 わかりやすい表現にすると、「生きる意味」とかいうことにもなるっちゃあなるが、先般、コメントいただいた通り、「人生の意義を知りたいのか」「一生で成し遂げたいことを知りたいのか」といった、そもそもの定義がしっかりしていないと、意味がないのではないか、ということもある。

 僕はそのコメントに対して、「うーん、そうですねぇ、それら全体ですかねぇ」と答えた気がする。
 つまり、曖昧で、つかみどころがないものなのである。


「そんな、よくわからないことに関しての文章になんか、付き合いきれんわ!」

 と思われる方が大半であろう。まぁ仕方がない。
 そういう思いが強いので、先日の記事でも、「基本、読者想定は未来の自分ッス」とか書いたのである(書いた、というよりも、自動筆記(思うがままに書いている)ので、頭に浮かんだ、といった表現のほうが正しそうだが)。

 とはいえ、別に、四六時中そんなことを考えているわけでもない。
 仕事もあれば、遊びもある。生活はバランスが大事だ。さらには、その仕事の中にも集中と散漫があったり、遊びの中に真剣があったりもする。結局、仕事とか遊びとか、それらは人間の感覚(便宜上の分類・区分)であって、24時間という普遍的な時間単位は、明確に区分できるものではないのだ。



 で、なんだ、その。短い記事にしようと思って、結局だらだら続いているわけである。
 やっぱり、僕は短い記事をかけないのだろう……、というか、全然面白みを感じないのだ。書いていてもそうだし、後から読んでも。

 とにもかくにも、だ。長い記事が書けるということと、長く続けられているということを、敢えて肯定的に書いてみた。自画自賛と言われてしまうだろう。
 しかし、こう、あんまり、「わかりやすい文章を書こう!」ということに気を取られすぎても仕方がないと思う。そりゃあ、あれだ、何か「答え」があって、それを適切に伝えるべき場合であれば、当然、わかりやすく、丁寧に文章を書くべきだ。
 僕のブログは、違うのだ。答えがないのである。伝えたいことはきっとある。しかし、その伝えたいことが、自分自身もよく分かっていないのである。


 そして、厚顔無恥であるが、それでよいのである。

 このブログは、いまだ、進歩の途中、なのである。変化を繰り返しているのである。

 だから、読み手に、誤解を生じさせてもよいのである。いやむしろ、その誤解から生じた言葉が、僕自身に、新たなる変化を生じさせる可能性だってあるのだ。



 まとめよう。
 わかりやすい文章を書く技術とは、「伝えたいこと」が明確な場合に役に立つ技術である。
「伝えたいこと」が明確ではない、考えることそのもの、またはそのプロセスを表現する場合は、その技術は時に、反転して「わかりにくさ」を生じさせる可能性がある。
 その「わかりにくさ」とは、わかりやすい文章にするための技術によって取り払われた文章の機微、冗長性といった、余分なものそれ自体が、実のところ、考えるべき、伝えたいことの一片である可能性である。

 上の下線部を、わかりやすい文章技術によって、改変してみて、この記事を終わらせる。

(元)余分なものそれ自体が、実のところ、考えるべき、伝えたいことの一片である可能性である。

(修正)本当に考えるべきことや伝えたいことは、余分であると捨ててしまった文章自体に、実は含まれている可能性がある。


(本当は、スマホの調子やPCの調子や、最近遭ったよくない事のメモをしたかったが……。いやはや、人生とはままならぬものである、とか、大げさか)

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