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日々是好日:ペルソナ4の精神攻撃
2017/07/16 21:02 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「精神攻撃に耐えられなくなって文章を書く」「ペルソナ4面白い」
※拍手コメント下さった方へ。前記事のPBRの式の誤りに関するご指摘ありがとうございます。修正いたしました。――いやぁ、しっかり細かいところまで読んで頂けているとは、特に学習カテゴリでは思っておりませなんだ……お恥ずかしい。

特に理由もなく離れていく

 最近、僕がペルソナ4のアニメを、アマゾンプライムで見始めたのは、ある方のレビューというか感想が、理由の90%以上である。

(注釈:ラスボス(?)との戦いにおいて)主人公に幻覚? 的な? サムシングを見せて精神攻撃してくるわけですよ。これが、原作ゲームにはない演出だった。そらまぁ、RPGで戦闘中にんなクソ長いイベントシーンなんかできるわけがないから当然なわけだが、
(中略)
で、その幻覚の内容が非常に、非常にエグい。いや残虐描写があるわけではないのだが、そんなものよりもっと心に来る。まぁその、なぜか唐突に時間が飛んで、
(中略)
主人公と仲間たちの絆が特に理由もなく徐々に薄れ、なんだかよそよそしくなってゆく。一人また一人と主人公のそばから姿を消してゆくが、別に失踪したわけでもなく、単につるまなくなってゆくだけだ。
(中略)
何がアレって、「特に理由がない」という点が実にアレである。なんか劇的なイベントによって絆が壊れてしまう、というのなら、まぁそれさえなければうまくいっていたと思うことはできるし、原因があるということはそれを取り除けばまた絆が戻ってくる可能性もありうると思うことができるのだ。だが、理由などない。何も起こらず、自然消滅である。救いがない。
(中略)
(注釈:ゲームでは絆を構築するのも努力が必要なため、プレイ済の人にとって)このアニメのイベントは特に何の理由もなくこれらの努力をすべて無へ帰す所業であり、なんかもう見てて叫びたくなること甚だしかった。恐ろしい。恐ろしいアニメやで……!
――螺旋のモノリス
 僕が見たかったのは、その精神攻撃パートであった(やはり俺はマゾなのか?)。
 ゲームはやったことないけれども、その、上のレビューを読んだだけで、もう何というか、身の毛がよだつというか、恐ろしさが伝わってくるではあるまいか。

特に理由がないことの恐怖

 とまぁ、そのシーンみたさに、ちょくちょく、6月下旬ぐらいから見ていったわけですが、いつ、そのシーンが来るのかも分からなかったので、ついつい、上のレビュー的サムシングも忘れて、普通に作品を楽しんでいた。
 作画的な綺麗さだと、RE:クリエイターとか、正解するカドとかの方が、やっぱり綺麗だなと思うけれども、もちろん及第点ではあって(上から目線的な書き方だけど、よい表現が浮かばなかった)、そもそも単純にストーリーを楽しんでいた。

 そんな中、――もちろん、犯人的サムシングと対峙したので当たり前だが、僕にとっては突然、その精神攻撃が始まった。

 いやぁ、僕の貧弱な表現では、僕の感じたことを上手く表現できないのだけれども、何というか、その「自然さ」が怖かった。

 確かに、なんかよそよそしくなっていくのである。

 でも、そのよそよそしさが、まったくもって、「自然」なのである。

 ――友達なんて、――絆なんて、――結局、空っぽなんだ。無(む)、なんだと。

 状況や環境が変われば、物理的な距離がひらけば、途端にほころびをみせ、瓦解してしまうようなもの。

文章整理

 また上の章の話に戻ってくると思うが、ちょっと話を変える。

 まとまった時間が取れているので、ペルソナ4を見るのと、読書をするのとプラスして、過去記事の整理などを行っている。

 今まで非公開としていた記事も、できるだけこのブログに収れんさせようと思っている。
 さらに、短くて読むに値しない記事は削除するか、まとめて一つの記事にしようと思っている。
 あと、映画カテゴリは削除した。前からやろうと思っていたけれど、思い切って実施。いや、映画とか見て感想を書くのはいいんだ。ただ、その作品に対する批評のみで終わってしまっている記事は、後から読んでも面白くないことが分かった。

 先日書いた、「君の名は。」を見たときの記事は、まぁ、それなりに読み返す価値もあると思った。それは、その作品を見た結果としての、自分の「変化」を記載しているからである。「この作品を見た。まぁまぁだった。以上」――こんなんで終わっている記事は、正直、なんも面白くない。いや、先日読んだ、「日記の書き方」的な本では、むしろ、「思ったこと」など書かないで、「ただ事実だけを書きましょう」とか書かれていた。僕は真逆のことを今書いている。

 でも、「短い記事」(100字に満たない程度)も、やっぱり価値を感じなかった。と、いうよりも、ブログという媒体では特にダメだと思った(他のブログさんへの批判ではない。「僕は」、「僕の」ブログではそうだ、ということだ。しかし、100字程度だと、ツイッターでもやってた方がよいのではなかろうか。まぁそもそも、僕はツイッターへの価値をあまり見いだせていない)。

 まぁ、それで、その記事を整理していて、いろいろ、出てきた。

似た経験がある

 精神攻撃の話に戻る。
 その、親しかった人が、特に理由もなく離れていくということ。この経験が僕もあって、それも相まって、このペルソナ4のアニメーションにおける精神攻撃シーンが、僕に多大な揺さぶりを与えたのだろうと思った。

 いやー、今日は、作曲と家計簿のアプリを作ろうと思っていたのだけれども、――今はもうこの精神攻撃のことを記事にするのがMAXプライオリティである!

 でもさーでもさー、俺、思うんだけど、そのラスボス(?)のシャドウを、完全に否定できるんか、って思うんだよな。

 ――すべては無、空っぽなのだ。

「俺は、空っぽなんかじゃない!」

 と、主人公は、仲間に助け出されて、自分のペルソナをフル稼働させてラスボス(?)のシャドウを倒しますよ。
 そして、精神攻撃のときとデジャブりながらも、それとは違う、仲間との新たな絆を彷彿させるシーンでエンディングを迎えますよ。「これからもよろしくな!」的な。


 いやぁ、よかったよかった。
 友達だなんて思っていたのは自分だけ、なんて、そんなことはなかったんだ。一度生じた絆は、尊いものなんだ、固いものなんだ、大切なものなんだ。


 ――なんて、そんな風に思って、仲間との絆の中に生きようとする人は、この三連休に、きっとBBQとか川や海にいってパーティーピーポーしてますよ! きっと!!

根暗なラスボス少年

 完全に擦れた大人になっちまったんだなぁ、俺、と思わざるを得ない。

 仮に、ペルソナ4のゆかいな仲間たちは、いわゆる「リア充」であるとしよう。
 そして、僕は、「リア充」ではないとしよう。

 そうするとだ。ペルソナ4は非常に面白かったのだが、それを「面白かった」と言う場合、現時点性の僕自身を否定することになるのではなかろうか。

 つまりだ。
 僕の本心(ペルソナ・シャドウ)は、「いえーい! ノリノリだっぜぃ! みんな一緒に楽しもうぜぇ!☆」的な奴なのではなかろうか。アマギさんが「逆ナンよッ!」とかいったり、カンジくんが「あっはーん☆」とか言っちゃうアレだ!

 そしてだ、ペルソナ4を面白いと言っちゃうってことは、「リア充」的なノリに憧れているということであり、「そんなことない、俺は、今の生活に満足しているんだ! お前なんて、俺じゃない!!!」とか言っちゃうと、「あはーん? そう。自分を認めないってことね~!(闇覚醒)」的になって、俺はシャドウに喰い殺されてしまうのではなかろうか!! 怖い!



 でもさー。ふつーに考えて、もう高校生には戻れないわけじゃん?
 んで、そんな、新しく絆芽生えさせるとか、そんなん難しいわけじゃん?

 そしたらさ、もう戻れない過去を嘆いて、悔やんで悔やんで人生送るしかなくなるわけじゃん?

 どうなの? それ?

 主人公陣営に憧れたり、感情移入したりするのはいいよ、それはそれで作品を楽しむってことだ。

 でもさ、お前(自分)は、どっちかというと、その根暗なゲームばっかやって、他者を認められず、自分の殻に引きこもって、誰も自分を認めてくれないと妬み、目立ちたいと事件を起こすような、ラスボス(?)側なのでは??

過去の発掘

 で、まぁ、この記事のオチはなさそうだ。とにかく、精神ダメージが与えられて、そのまま落としどころなく彷徨い、果てることとなるだろう。

 先日、古い携帯とか、人間は総合力だ、とか、リア充的なサムシングを書いたりしてたけど、まぁ、俺にはシャドウさんが、たくさんいそうだ。

 過去記事の整理をしていて、これはこれで、精神がえぐられるようなものもあったりする。
 ちょっち、冷静な判断ができなくなるものもありそうだ。が、しかし、今年は整理の年だ。思考も、生活環境も、そして文章も整理していこう。



 ペルソナの面白いところは、敵の「シャドウ」が、自分自身だってことだ。見たくない自分。見せたくない自分。それを「お前なんて、俺じゃない!」と否定してしまうと、シャドウは力を増して、本人を喰い殺そうとする。
 それを乗り越えて、「そうだな、そんな俺も、俺の一部なんだな」と認めることができると、シャドウは、新しく「ペルソナ」(≒スタンド)として、自分の新たな力となるのである。
(この葛藤みたいなものが、後半、かなり「暴力的」になってしまっているのが、少し「あ゙ー」と思ったが。いや、仲間のみんなのペルソナが強くなっちゃったので、取りあえずシャドウをボコって、弱まったところで「自身を認める」プロセスに入るってのは、物語的に仕方がないのだろうが)


 でさ、まぁ、何んだろう。
 とりあえず絆(ベルベットルームで、「新たなアルカナを~」って別嬪さんがいっつもいうんだけど、アルカナって、キズナって意味なんだよね?)って、別に、外でバーベキューやらないとダメなもんじゃないと思うんだよね。

 俺は昔(いや、今もかもしれんが)、なんだか、「溝」というか、「理解のされなさ」というか、そんな人との間に違和感をずっともっていた。

 で、かなり滅入っていたのが、2008年~2010年あたりだと思うけれど、そんなとき、ある人に出会った。出会った、といっても、それはネット上でのことだった。
 でも、その人は、常人を超えた観察眼で、僕の悩みというか、懊悩をすぐさま看破し、コメントくれたり、相談にのってくれたりした。ああ、こんなすごい人もいるんだなと。

 生きづらさに耐えられなくなっていったとき、その方の存在は、まだ世界にあきらめるのは早すぎると、強くそう思わせてくれた。


 離婚って、もう珍しいことではないが、それでも、結構落ち込んでいた時に、ある二人の方がメッセージをくださった。それでどんなに救われたことか。そのメッセージの内容とタイミング性は、かけがえのないものであった。


 だから、だ。

 別に、三連休、友人や恋人と一緒に出掛ける予定が何もなくても、それが、「絆」を否定するものでもないし、ペルソナ4の主人公たちを「ケッ、リア充どもが!」とか思う必要もないのだ。
 いろんな絆の在り方がある。いろんな関係性がある。いろんな生き方がある。

 たまたま、その表現が、イオンモールみたいな大型ショッピング施設のイートインコーナーに複数人で集まって、一緒に事件を解決するためにワイワイがやがややったり、事件の解決の打ち上げに自宅に集まってパーティするとか、そういったものであっただけだ。

 切り取られた日常は、特別視されやすい。
 しかし普通は、多くの何もない、退屈な日常が、ただ過ぎていくだけなのだ。

 そうした生活・人生のなかで、何を正解として生きていくのか。
 何を「楽しい」と感じるのか。


 幸せの「モデル」はあったとしても、自分の幸せは、自分で創り上げていくものなのだ。


(くっそぅ……。精神攻撃のせいで、何とかポジティブなまとめにしようと思ったが、空虚な言葉の列挙になった気がするぜ。いや、ただなぁ。全国アイドルの女の子といい感じになったりとか、主人公、ちょっと恵まれ過ぎてやがりますな!(嫉妬血涙) ……いやぁなんだろ、この女の子の取り扱いって、物語的にどうしたらいいんだろう。ちょっとこれは、別の記事でここ何年かで思ってることまとめてみようか。いやつまり、理想の女の子を登場させることってのは、そこに何の意味があるのか、ってことである。いやこれは、AKBとか、綺麗な女子アナとか、可愛い女優にドキドキするってのと同じ問題を抱えている。つまり、かわいい女の子とイチャイチャしたいという男なら誰でも持っているであろう感情……というか本能的な奴。しかし、その欲求は、一握りの恵まれた身体・ステータス・環境を持った人に限られる。だから、二次元(テレビなど実写も含む。2.5次元とかメイドカフェ的なものや、女の子が接待するお店とかも含む)によって満たそうとするのである。逆に女性は男性にどういったものを求めるのか、というのも興味深いが、まぁ僕が男性だからその疑問の優先度は低い。いやはや、3次元も実は物語が重要であって、例えば「優しい彼女(彼)」「かわいい(かっこいい)彼女(彼)」とか、「自分を一番大切に思ってくれている」とか、そういった物語(信仰)。「貴方の人となりが大好きよ」と言ってくれたとしても、実は、目が「¥(円マーク)」になっているかもしれない。けれども、そんなこと考える必要もなく、ただ、「優しく可愛い彼女(妻)」を信じればいいだけだ。そうしたら幸せになれる。あー、こんなこと言ってるからダメなんだろうなぁ(かっこ乾いた笑い)。だからね、このあたりのことを考えるにあたって、最近あるブログで、「愛について」の定義を書いていた方がいたんだけどね、この定義が非常にしっくりきたんだよな。あー、この辺りも整理して記事に書いておきたかったんだけど、忘れてた。あーそれと、……って、なんかおわんねーから強制終了。精神攻撃ほんと怖いな!)

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