今日の一言「月4回ルーチンとはどんなものか」
しかし、効率化を考えれば、ある程度定型文、テンプレートにのっとったほうが、確実に早く書くことができる。
それで、今回の記事は、前回の記事のかっこ書きで書いた、「月4回は書く。で、一週間の振り返りをする。良かったか悪かったか、そしてその理由を書く」とのことの練習をしてみたい。
時間制限を設ける。今回は20分だ。タイトルの記入や、その他もろもろ含めて20分とする。実質、文字を書くのは15分ぐらいになるだろう。
そうしたとき、どのぐらいまで書けるのか。本当はこういった、時間に追われて書くというのはあまり好きではないのだ。追われて書く意識がなくても、おおかた、1時間ぐらいで「投稿しよう」という勢いにはなるのだけれども、15~20分という時間ではどうなのか、というのが今回の目的だ。
――というか、その、よいわるいの基準って何なのか。それがないと、毎回そこに悩む気がする。
気分だよ、気分。
良い気分でいられたか、悪い気分だったか、ということだ。
しかしだ、1分、1時間、1日、1週間と、時間区切りにはなるものの、気分ってのは、そんな区切られるもんなのか。もちろんそんなわけはない。
良い悪いも、言ってしまえば、1秒単位で変わってしまう可能性がある、不確かなものだ。
そんな不確かなものを、そもそも、実際の気分発生タイミングと、「書く」というタイミングがズレている状態で、その良しあしを書き残すことに意味はあるのか。
あるかどうかじゃねえ、とりあえずやってみるって話だ。
で、「良い」と書いた。
何故よかったのか。
特に悪いことがなかったからだ。――いや、先日の記事で、「あーもっと、コミュニケーションうまくやりゃあよかったぁ……」って悩んでなかったろうか。
しかし、今日は全然そんなことはなかった。散歩というか街を歩いたり、おいしい外ご飯食べたりして、大変満足だった。気の置けない人と一緒の食事ってのはいいもんだ。
――ということは、その、単純に、今日の気分がよかったから、「良い」という判断になったということじゃあなかろうか。
これが、先日、「失敗したな」と思った日に書いたら、当然、「悪い」という判断にならないだろうか。
しかし、「基準」がないと、結局「良い悪い」もよくわからないものになり、形骸化し、習慣化しなかった。
「マジ」で、習慣づけしたいときは、逆に、「やらなくてもいい時(条件)」(=免除規定)を設けたほうがよほど良い。
もしくは、「こういったときはやる」という条件を決めて、それを丁寧に履行していくのがよいだろう。
ただし、それよりなにより大事なのは、それを心底、「やりたい」乃至は、それをやることで「達成したい」というものがあるかどうか、だ。
現状の低下(劣化)は、意識する必要はない。しかし、「現状維持」以上は、何らかの目的意識をもっていないと達成できないのである。
大事なことを書いた。現状維持以上、だ。現状維持も、意識しなければ成り立たないことを銘記すべきである。
なんというか、その、脈絡関係ないが思い出したのだけれども、おばあちゃんがいるのだけれども、体が弱っていて、もう幾ばくも無いといった状態のようだ。
しかしそれより、認知症で、もう、何も分からないようで、一日中寝ているような状態だ。
現代で老いるというのは、こういうことなのかと思った。
姥捨て山、というと、なんとも昔話で恐ろしい気がしていたが、自分のことも何もできなくなり、誰か、何かも認識できなくなったら、そういう人たちを受け入れる施設や組織がなかったら、家族という単位ではもうどうしようもなくなっていたのだろうと勝手に思う。
筋トレは続けている、と前回も書いたが、人体器官で一番大事なのは筋肉ではない。
心臓でも肺でもない。
それは脳だ。
脳があるから、自分を自分として認知できる。「わたし」というものが、そもそも相対的なもので、絶対ではないというのが仏教的な教えかもしれないが、しかし、西洋哲学的な意味での「わたし」を考えたとき、最も大切なのは「脳」である。
認知症を、「過去のことを覚えているが、新しいインプットができなくなること」と思っていたが、ひどくなると、過去のことさえも分からなくなる――いこーる、自分自身すら分からなくなるという状態だとすれば、「わたし」として「生きる」ということは、いったいどこまでが成り立つことなのか、などと思わずにはいられない。
――といったところで、20分。
(かっこ書きである。やばい、そうか、かっこ書きもあった。これも含めると、もっと早めに切り上げないと、20分というのは難しい。ただ、一つ書いておけば、「意外に長かった」という感覚。そりゃそうかもしれない、「書かなきゃ」という義務的に書くと、長く感じるのだ。いつもは、もうそりゃもう適当に……いやいやゴホンゴホン、勢いよくゼロ秒思考的に書いているから、特に負担もなかったわけである。今回もゼロ秒であるが、まぁその、「入り」が違ったから長く感じたのかなぁ。とりあえず、徐々にもう少し中身がある記事というか、しょっぱなから、何が言いたいかがもっと明確になるような記事を、(できれば短時間で)書いていきたい)
前書き
なんだ、このやる気のないタイトルは。しかし、効率化を考えれば、ある程度定型文、テンプレートにのっとったほうが、確実に早く書くことができる。
それで、今回の記事は、前回の記事のかっこ書きで書いた、「月4回は書く。で、一週間の振り返りをする。良かったか悪かったか、そしてその理由を書く」とのことの練習をしてみたい。
時間制限を設ける。今回は20分だ。タイトルの記入や、その他もろもろ含めて20分とする。実質、文字を書くのは15分ぐらいになるだろう。
そうしたとき、どのぐらいまで書けるのか。本当はこういった、時間に追われて書くというのはあまり好きではないのだ。追われて書く意識がなくても、おおかた、1時間ぐらいで「投稿しよう」という勢いにはなるのだけれども、15~20分という時間ではどうなのか、というのが今回の目的だ。
先週の振り返り
えーっと、そうだな。まぁ、良かったんじゃなかろうか。――というか、その、よいわるいの基準って何なのか。それがないと、毎回そこに悩む気がする。
気分だよ、気分。
良い気分でいられたか、悪い気分だったか、ということだ。
しかしだ、1分、1時間、1日、1週間と、時間区切りにはなるものの、気分ってのは、そんな区切られるもんなのか。もちろんそんなわけはない。
良い悪いも、言ってしまえば、1秒単位で変わってしまう可能性がある、不確かなものだ。
そんな不確かなものを、そもそも、実際の気分発生タイミングと、「書く」というタイミングがズレている状態で、その良しあしを書き残すことに意味はあるのか。
あるかどうかじゃねえ、とりあえずやってみるって話だ。
で、「良い」と書いた。
何故よかったのか。
特に悪いことがなかったからだ。――いや、先日の記事で、「あーもっと、コミュニケーションうまくやりゃあよかったぁ……」って悩んでなかったろうか。
しかし、今日は全然そんなことはなかった。散歩というか街を歩いたり、おいしい外ご飯食べたりして、大変満足だった。気の置けない人と一緒の食事ってのはいいもんだ。
――ということは、その、単純に、今日の気分がよかったから、「良い」という判断になったということじゃあなかろうか。
これが、先日、「失敗したな」と思った日に書いたら、当然、「悪い」という判断にならないだろうか。
目的が違う
――というわけで、毎週の振り返り、ということをやってみたのは、別に今回が初めてではない。月単位だったりしたかもしれないが、試していたことはあったのだ。しかし、「基準」がないと、結局「良い悪い」もよくわからないものになり、形骸化し、習慣化しなかった。
「マジ」で、習慣づけしたいときは、逆に、「やらなくてもいい時(条件)」(=免除規定)を設けたほうがよほど良い。
もしくは、「こういったときはやる」という条件を決めて、それを丁寧に履行していくのがよいだろう。
ただし、それよりなにより大事なのは、それを心底、「やりたい」乃至は、それをやることで「達成したい」というものがあるかどうか、だ。
現状の低下(劣化)は、意識する必要はない。しかし、「現状維持」以上は、何らかの目的意識をもっていないと達成できないのである。
大事なことを書いた。現状維持以上、だ。現状維持も、意識しなければ成り立たないことを銘記すべきである。
良かった理由
まぁその、お正月、実家でのんびり過ごせたことが良かった、といった理由で、初回、今回は許していただこう(自分に)。なんというか、その、脈絡関係ないが思い出したのだけれども、おばあちゃんがいるのだけれども、体が弱っていて、もう幾ばくも無いといった状態のようだ。
しかしそれより、認知症で、もう、何も分からないようで、一日中寝ているような状態だ。
現代で老いるというのは、こういうことなのかと思った。
姥捨て山、というと、なんとも昔話で恐ろしい気がしていたが、自分のことも何もできなくなり、誰か、何かも認識できなくなったら、そういう人たちを受け入れる施設や組織がなかったら、家族という単位ではもうどうしようもなくなっていたのだろうと勝手に思う。
筋トレは続けている、と前回も書いたが、人体器官で一番大事なのは筋肉ではない。
心臓でも肺でもない。
それは脳だ。
脳があるから、自分を自分として認知できる。「わたし」というものが、そもそも相対的なもので、絶対ではないというのが仏教的な教えかもしれないが、しかし、西洋哲学的な意味での「わたし」を考えたとき、最も大切なのは「脳」である。
認知症を、「過去のことを覚えているが、新しいインプットができなくなること」と思っていたが、ひどくなると、過去のことさえも分からなくなる――いこーる、自分自身すら分からなくなるという状態だとすれば、「わたし」として「生きる」ということは、いったいどこまでが成り立つことなのか、などと思わずにはいられない。
――といったところで、20分。
(かっこ書きである。やばい、そうか、かっこ書きもあった。これも含めると、もっと早めに切り上げないと、20分というのは難しい。ただ、一つ書いておけば、「意外に長かった」という感覚。そりゃそうかもしれない、「書かなきゃ」という義務的に書くと、長く感じるのだ。いつもは、もうそりゃもう適当に……いやいやゴホンゴホン、勢いよくゼロ秒思考的に書いているから、特に負担もなかったわけである。今回もゼロ秒であるが、まぁその、「入り」が違ったから長く感じたのかなぁ。とりあえず、徐々にもう少し中身がある記事というか、しょっぱなから、何が言いたいかがもっと明確になるような記事を、(できれば短時間で)書いていきたい)
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今日の一言「明けましておめでとうございます」
まぁ、それは良いとして、昨日3日に書こうと思ったら、忍者ブログがアクセス集中やらなんたらで繋がらなかった。
だから仕方がない――というわけにはいくまい。
いやいや、ブログを書いていなかったわけではない、少しずつ、スマホとか、非公開の状態で書きつむいだり、やっていたのだった。
しかし、「投稿」までには至らなかった。
なんというか、「勢い」が大事である。
なんかこう、「ひとまとまり」感がないと、投稿する気がそがれるのである。
そんなことは、まぁ、何度も書いた気がするけれども、昨年12月ぐらいから、そんな状態がずっと続いて、気づいたら2019年である。
さらに、今すでに4日になっているのである。
これはさすがに「まずい」と思い、今こうして、取り敢えず、30分という時間は固定して、書初めに至るわけである。
不要である。――が、自分にとっては必要である、むしろ重要であるぐらいだ。
「のっている」時は、むしろ、それほど気にしなくてもよいのである。
何も書けない時こそ、注意が必要なのだ。
いやいや、そもそも全人類の大多数を占めるだろう、そもそもブログ(や日記やログやその他書くこと)をやっていない人たちに、何の注意が必要なのか。その注意というのは、俺自身にとってだけのことではないか。
YES。肯定である。
最近、ソシュールという哲学者? 言語学者? について調べている、というか、考えていたが、僕らの「思考」すら、言語の枠組みから離れられていないということは、よくよく再考の余地があると思う。
その理解というのが、シニフィエやシニフィアンやら、ラングやランガージュやパロールといった、専門用語と、日本語との訳を結びつけるという、「テスト」の点を取るためのものであってはならないだろう。
自分の、僕自身の言語活動における、そうした「概念」の理解に務めるべきだと思う。
昨年12月ぐらいから見ていったが、今年に入って全部見終わった。
面白かった。泣いた――感動した。
いやまさか、自分が、アイドル育成系の作品で感動するとは思えなかった。なんだこの感情――まさか恋!? などとふざけた混乱したことを書いてしまうくらい不思議な体験だった。
シュタイズゲート主人公のオカリンの声優さんが主要な人物(アイドル育成のマネージャー)役であったが、あの破天荒というか、ハチャメチャというか、気が狂っているというかの演技は、やはり最初は抵抗感があった。
しかしなんか、最後のほうはそれ込みでもう「やっちまえ、いっちまえ!」というレジェンドだった。
ええと、なんだ、理由として、海外では、「家族」を描いていないと「うけ」ないんだそうだ。
シンゴジラは、主人公たちの家族というか、家庭が描かれていなかったという。まぁ確かにそんな気がする。しかし、あの映画の時間内で、それらが描かれる隙間はなかった気がするし、自分としては余計なものな気がする。
ただ、海外では、家族や家庭ってのがちゃんと描かれていないと、「子供向け」として見向きされないんだそうだ。もっというと、人物が、「キャラクター」としてしか描かれていないとして、現実の人間を扱っていないもの、と見なされるということだ。
それを、無理やり関連付けようとなんて考えると、途端にブログは書けなくなるし、「投稿」もできなくなる。ええい、やめようじゃないか、とりあえず、だ、今日は、このまま時間ぎりぎりまで書き続けてやろう。
まぁその、ただし、いろいろと、感じることはあるわけである。
ただ、それを「恥ずかしいもの」と捉えがちなのがシャイな日本人である。
何かこう「場の空気」みたいなのがあって、それにぴったしな反応をするのが大事、みたいな風潮――って表現が思いついて、そう、書きたかったことを思い出してきた。
もっというと、「よく見られたい」という思いが強い気がする。
唾棄すべきだ。
と、ブログでは強気に書けるのだけれども、どうにも、対面したコミュニケーションでは、異様なまでに気になってしまっている。おそらく、というか、ほぼ確信的に、「変」には思われていない。が、もう少しスマートな、かっこよいというか、ウィットがきいた、場を和ませてさらに「こいつともっとしゃべりたいな」と思わせるような云々的なことができたのではないか、てなことを思うわけである。
――馬鹿らしいと思うだろう。俺も思う、思うけれども、どうにも、僕はそう思っているようだと、思ったのだ。
というか、「思う」という、思考言語の中だけであれば、このように、言語を上書きすることで対処できるのだが、どうにも、「身体」として、そわそわドキドキというか、落ち着かなくなるのである。
失敗した。失敗した。失敗した――。と、何度も何度も何度も、頭の中で警鐘が鳴り響くのである。悔しい思いをするのである――不思議だ、どこの誰も自分に何か言ったわけではないのに。
サイレント言語を、他者から読み取っているのだ――とも書けるし、僕の単なる妄執、とも書ける。そしておそらく、その両方が正解であり、はずれ、でもある。
※え、そうだっけ? という感情も同時に抱きながら書き切っている。先日の記事で、「コミュニケーション俺、上手くなったもんだなぁ」ってことも書いたことがあったと思う。赤面物の記事だが、そういう内容も書いておいてよかった――それはそれで、生の自分の感情である。どちらも、アンビバレンスに成り立つ感情である。
そんな、他愛のない一幕にも関わらず、僕は、「失敗した」と感じて、落ち込むのである。何故か。
それを考えてみて、思いついたことをメモしておこうと思ったのだ。本当は、それをメモできれば、この記事としては投稿に値すると、自分自身で思えるのであるが、ここに至るまで、ここまでの文量が必要なのである。「いや書いてから消せよ」と思うだろう、だが、消せないのだ。この「流れ」が必要不可欠なのである。
前置きはいいから、その思いついたことやらをメモしないと、もうそろそろ時間がない。
ええと、「僕は、小さいころに、いじめられていたことがあったので、他者の顔色を必要以上に伺ってしまうことがあるのだと思います」、以上。
あーえーその、「いじめ」的な定義がまず必要だろう、というのもあるし、それと、コミュニケーション難ありの関連性についても記載しないと、何ら説得力のある文章にはならないだろう。
しかし、正直、それはまぁあまり重要ではないのである。
結論ではなく、この思い付きに至るまでの、それこそ「日記」が大事なのだ。
昔の記事とか読んでいて、「つまらん」って思うのは、むしろ結論重視の奴である。
思考の「流れ」が書いてある記事は、まぁその行き着く先がどうであれ、尻切れトンボ、竜頭蛇尾であっても、まぁまぁ何となく最後まで読んでしまうのである。
なので、まぁその、今年も、昨年以上に、ブログは書いていきたいと思う。
あと、筋トレも、キャリステニクス(自重トレーニング)の理論を正しく学びつつ、継続していきたい。キャリス・テニクス(ギリシア語で「美」と「強靭さ」)についても書いたっけ? これも非公開埋もれした気もする。
とかなんとか、今年の抱負的なのを述べたら、今回の記事は投稿してよかだろうか?
(かっこ書きである。時間制限付きで、「絶対今日は書くぞ」と心に決めておかないと、中々書けない。書けば書けるのだけれども、「今日、書く」という心理、動機を明確に持たないと、書けない。というのは、「やればできる子」的な奴で、僕は好きではない。「やれない」「やれていない」ってこと含めて、それは才能であり、努力であり、能力であり、限界であるのだ。ということで、一週間――そうだな、曜日は決めずに、必ず月4回は書く(書いて投稿する)と決めようと思う。あと、新しい試みとして、その中に、過ごした1週間を自分で評価してみようと思う。良かった、悪かった、二択でよい。選択肢が多ければ多いほど形骸化する。良かったのなら一つその理由。悪かったなら、一つその理由。そんな単純な方がPDCAはうまくいくものである。PDCAとかってよく聞くけれども、何が一番大切か知っているか? ――「続けること」だ)
30分制限で書く
書初めって、本当は、1月2日にやるのがいいらしいと知る。まぁ、それは良いとして、昨日3日に書こうと思ったら、忍者ブログがアクセス集中やらなんたらで繋がらなかった。
だから仕方がない――というわけにはいくまい。
いやいや、ブログを書いていなかったわけではない、少しずつ、スマホとか、非公開の状態で書きつむいだり、やっていたのだった。
しかし、「投稿」までには至らなかった。
なんというか、「勢い」が大事である。
なんかこう、「ひとまとまり」感がないと、投稿する気がそがれるのである。
そんなことは、まぁ、何度も書いた気がするけれども、昨年12月ぐらいから、そんな状態がずっと続いて、気づいたら2019年である。
さらに、今すでに4日になっているのである。
これはさすがに「まずい」と思い、今こうして、取り敢えず、30分という時間は固定して、書初めに至るわけである。
そんな近況必要なのか
上のような近況報告ティックなのは、必要なのだろうか。不要である。――が、自分にとっては必要である、むしろ重要であるぐらいだ。
「のっている」時は、むしろ、それほど気にしなくてもよいのである。
何も書けない時こそ、注意が必要なのだ。
いやいや、そもそも全人類の大多数を占めるだろう、そもそもブログ(や日記やログやその他書くこと)をやっていない人たちに、何の注意が必要なのか。その注意というのは、俺自身にとってだけのことではないか。
YES。肯定である。
最近、ソシュールという哲学者? 言語学者? について調べている、というか、考えていたが、僕らの「思考」すら、言語の枠組みから離れられていないということは、よくよく再考の余地があると思う。
その理解というのが、シニフィエやシニフィアンやら、ラングやランガージュやパロールといった、専門用語と、日本語との訳を結びつけるという、「テスト」の点を取るためのものであってはならないだろう。
自分の、僕自身の言語活動における、そうした「概念」の理解に務めるべきだと思う。
言語の話しはおいておいて
この記事において、「閑話休題」といった言葉はつかえない。なぜならば、休題するべき閑話がないのである――むしろぜんぶ閑話であり、ぜんぶ主題だ。ゾンビランドサガ
アマゾンプライムで、「ゾンビランドサガ」みた。昨年12月ぐらいから見ていったが、今年に入って全部見終わった。
面白かった。泣いた――感動した。
いやまさか、自分が、アイドル育成系の作品で感動するとは思えなかった。なんだこの感情――まさか恋!? などとふざけた混乱したことを書いてしまうくらい不思議な体験だった。
シュタイズゲート主人公のオカリンの声優さんが主要な人物(アイドル育成のマネージャー)役であったが、あの破天荒というか、ハチャメチャというか、気が狂っているというかの演技は、やはり最初は抵抗感があった。
しかしなんか、最後のほうはそれ込みでもう「やっちまえ、いっちまえ!」というレジェンドだった。
シンゴジラ
シンゴジラが何故海外では流行らなかったのか、という記事は書いたっけ? それが非公開に埋もれてしまったやつだっけか。ええと、なんだ、理由として、海外では、「家族」を描いていないと「うけ」ないんだそうだ。
シンゴジラは、主人公たちの家族というか、家庭が描かれていなかったという。まぁ確かにそんな気がする。しかし、あの映画の時間内で、それらが描かれる隙間はなかった気がするし、自分としては余計なものな気がする。
ただ、海外では、家族や家庭ってのがちゃんと描かれていないと、「子供向け」として見向きされないんだそうだ。もっというと、人物が、「キャラクター」としてしか描かれていないとして、現実の人間を扱っていないもの、と見なされるということだ。
二つの作品のつながり
というわけで、ゾンビランドサガと、シンゴジラの二つの作品を挙げたわけであるが、正直、あまり関係なかろう。たまたま、情報に触れた時間軸が近かっただけだ。それを、無理やり関連付けようとなんて考えると、途端にブログは書けなくなるし、「投稿」もできなくなる。ええい、やめようじゃないか、とりあえず、だ、今日は、このまま時間ぎりぎりまで書き続けてやろう。
まぁその、ただし、いろいろと、感じることはあるわけである。
ただ、それを「恥ずかしいもの」と捉えがちなのがシャイな日本人である。
何かこう「場の空気」みたいなのがあって、それにぴったしな反応をするのが大事、みたいな風潮――って表現が思いついて、そう、書きたかったことを思い出してきた。
空気
なんで、僕が、人とのコミュニケーションを恐怖しているのかというと(※)、やっぱり、「他者に変に思われたくない」ということである。もっというと、「よく見られたい」という思いが強い気がする。
唾棄すべきだ。
と、ブログでは強気に書けるのだけれども、どうにも、対面したコミュニケーションでは、異様なまでに気になってしまっている。おそらく、というか、ほぼ確信的に、「変」には思われていない。が、もう少しスマートな、かっこよいというか、ウィットがきいた、場を和ませてさらに「こいつともっとしゃべりたいな」と思わせるような云々的なことができたのではないか、てなことを思うわけである。
――馬鹿らしいと思うだろう。俺も思う、思うけれども、どうにも、僕はそう思っているようだと、思ったのだ。
というか、「思う」という、思考言語の中だけであれば、このように、言語を上書きすることで対処できるのだが、どうにも、「身体」として、そわそわドキドキというか、落ち着かなくなるのである。
失敗した。失敗した。失敗した――。と、何度も何度も何度も、頭の中で警鐘が鳴り響くのである。悔しい思いをするのである――不思議だ、どこの誰も自分に何か言ったわけではないのに。
サイレント言語を、他者から読み取っているのだ――とも書けるし、僕の単なる妄執、とも書ける。そしておそらく、その両方が正解であり、はずれ、でもある。
※え、そうだっけ? という感情も同時に抱きながら書き切っている。先日の記事で、「コミュニケーション俺、上手くなったもんだなぁ」ってことも書いたことがあったと思う。赤面物の記事だが、そういう内容も書いておいてよかった――それはそれで、生の自分の感情である。どちらも、アンビバレンスに成り立つ感情である。
被害妄想的な解釈
要するに、「昨年はお世話になりました。今年もよろしくお願いします~」的な雑談において、もうちっとばかり機知に富んだ何かができたんじゃないか、ということである。もちろん、上に書いた話だけではないけれども、要するに概念的にメモすればそういうことだ。そんな、他愛のない一幕にも関わらず、僕は、「失敗した」と感じて、落ち込むのである。何故か。
それを考えてみて、思いついたことをメモしておこうと思ったのだ。本当は、それをメモできれば、この記事としては投稿に値すると、自分自身で思えるのであるが、ここに至るまで、ここまでの文量が必要なのである。「いや書いてから消せよ」と思うだろう、だが、消せないのだ。この「流れ」が必要不可欠なのである。
前置きはいいから、その思いついたことやらをメモしないと、もうそろそろ時間がない。
ええと、「僕は、小さいころに、いじめられていたことがあったので、他者の顔色を必要以上に伺ってしまうことがあるのだと思います」、以上。
あーえーその、「いじめ」的な定義がまず必要だろう、というのもあるし、それと、コミュニケーション難ありの関連性についても記載しないと、何ら説得力のある文章にはならないだろう。
しかし、正直、それはまぁあまり重要ではないのである。
結論ではなく、この思い付きに至るまでの、それこそ「日記」が大事なのだ。
昔の記事とか読んでいて、「つまらん」って思うのは、むしろ結論重視の奴である。
思考の「流れ」が書いてある記事は、まぁその行き着く先がどうであれ、尻切れトンボ、竜頭蛇尾であっても、まぁまぁ何となく最後まで読んでしまうのである。
なので、まぁその、今年も、昨年以上に、ブログは書いていきたいと思う。
あと、筋トレも、キャリステニクス(自重トレーニング)の理論を正しく学びつつ、継続していきたい。キャリス・テニクス(ギリシア語で「美」と「強靭さ」)についても書いたっけ? これも非公開埋もれした気もする。
とかなんとか、今年の抱負的なのを述べたら、今回の記事は投稿してよかだろうか?
(かっこ書きである。時間制限付きで、「絶対今日は書くぞ」と心に決めておかないと、中々書けない。書けば書けるのだけれども、「今日、書く」という心理、動機を明確に持たないと、書けない。というのは、「やればできる子」的な奴で、僕は好きではない。「やれない」「やれていない」ってこと含めて、それは才能であり、努力であり、能力であり、限界であるのだ。ということで、一週間――そうだな、曜日は決めずに、必ず月4回は書く(書いて投稿する)と決めようと思う。あと、新しい試みとして、その中に、過ごした1週間を自分で評価してみようと思う。良かった、悪かった、二択でよい。選択肢が多ければ多いほど形骸化する。良かったのなら一つその理由。悪かったなら、一つその理由。そんな単純な方がPDCAはうまくいくものである。PDCAとかってよく聞くけれども、何が一番大切か知っているか? ――「続けること」だ)
今日の一言「毎年来年の目標を考えるわけだが」「月単位で目標があるのもよさそう」
・CSSの勉強
・SQLの勉強
・VBAの勉強
みんなパソコン関係だな。
ニンジャスレイヤーについて、ある方がブログで触れられていたので、名前ぐらいは知っていたのだけれども、アニメーションもあることを知ってみてみた。ある方のブログで、「ギャグなのか? シリアスなのか?」と思っていたが、大真面目だった。
「どーも。ニンジャスレイヤーです」「どーも。ニンジャスレイヤー・サン。〇〇です」
が面白すぎた。
挨拶、大事だ。大変失礼だ。
さて年末である。
師走というと12月からであるが、気持ちは年末である。
先般、サイト更新(作品整理)を11月中に行うと宣言し、実行できた。おそらく、宣言をしなければ、「いつでもできる=いつまでもできない」状態になって、実施できなかったのではなかろうと思う。
あと、年内に一つ連載を完結させるという目標も宣言している。これの進捗は落ちてきている。やらねばならぬ。
2018年のブログ記事は50記事ぐらいである。2017年は150記事を超えている。
文字数の違いはあるかもしれないが、間違いなく2017年の方が文字を書いたことだろう。
じゃあ、2018年の方が活動的でなかったのかというと、そういうわけではなかろう。むしろ、書いている時間が他の何か作業に使われていたのであれば、活動的であったといえるかもしれないわけだ。
ちなみに、この記事の着地点はない。
なんとなく、年末に関しての所見をだらだらと書いて終わることだろう、そんな気がする。
そんなことに使用する時間は必要なのか。必要である。
コーヒーを飲みながら書くという時間は自分にとって貴重である。
コーヒーには、「お茶」だったり、「ビール」だったりするかもしれないが、とにかく、飲み物と書くという時間は必要なのだ。
先日、少々トラブルに巻き込まれて困ったが、そういう時のほうが、「イライラ感」によって落ち着ているのではなかろうかとふと思った。
逆説的だが、「怒っている」とか、感情が一定方向であると、他の混在した感覚にならないため、安定した状態ともいえる。
……久しぶりに書くと、何を書いていいのかよく分からなくなる。
何個かは、書いておきたいこともあったのだ。しかし、時間経過によって、感情が抜け落ちる。
すぐに「どうでもいいこと」の仲間入りだ。
そうならないように、書く、ということは、定期的、……いやもっと、日常的に行いたいのだ。
何も参照しないで書くことができなくなってきた。これは、インプット不足である。
仕方がないので、2017年12月最後の記事を読んでみる。
なるほど、2017年は「整理」の年だった。
そして、2018年、つまり今年は、「生きる意味」「創作」の2軸の追求が目標であったのだ。知っていたか? 忘れていた。正直。……自分に呆れる。
いやまぁ、明確に目標にしていたんだ、ということは忘れていたけれども、思考ベースでは忘れていなかった。でなければ、サイト更新やそれに関連する勉強などもするまい。
……やや脱線するが、「勉強」という言葉があまり適切でない気がする。しかし、知識や経験を増やす作業は、僕は「勉強」と呼称する以外に知らない。仕事=お金を稼ぐ行為と直結しないすべては「趣味」なのか? 違うと思う。
趣味は、二種類ある。いや、人間の行動は二種類しかない。生産か、消費か、だ。仕事は生産かというとそうでもない場面は実際に働いたことがある人はよくわかるだろう。ただ、仕事がどうこうだけでなく、趣味といった面でも、生産か、消費か、どちらかだ。
さらに、別ベクトルで、インプットとアウトプットに分けられる。そして、インプットを、僕は勉強と呼んでいる。
趣味の世界におけるアウトプットの場が広がったのが、現代社会の良いところだと思う。
それによるセキュリティやイジメといった問題もあるのだろうけれども、この辺りは、現代社会に拍手して良いと思う。
テレビやニュースなどで、政治や経済やら外交やら、いつも批判的な内容ばかりである。たまに良いニュース的なのは、動物ほんわかとか、紅葉がきれいですとかそんなものである。いや動物かわいいし、紅葉もきれいだけども、そうではなくて、もっとこんな良いことがありましたってニュースがあってもよいではないか。大本営発表みたいで嘘くさい? まぁそうかもしれない。要はバランスである。
「当たり前度」が高まることは悪くはない。それが民度であったり、常識だったりマナーだったり、社会レベルを向上させる。
ただ、当たり前は、当たり前であって当たり前ではない。トートロジーだが、要するに、当たり前を当たり前にするためにも努力やコストは必要だということだ。
全然よくわかっていないが、電車が毎日安全に動いているのも、様々な安全のための「努力」(それは人が汗かいているわけではないかもしれない)がなされているのであろう。
当たり前を当たり前だと思ってはいけない。その当たり前が成り立っている条件をよく考えなければいけない。
しかし、全部が全部を考えることなど、到底できないほど複雑化しているのが現代社会である。そうしたときに、できるだけ幅広い知識見識を広めていくという努力はあってしかるべきだが、果たして、そうした方向性だけで十分なのか、ということは、僕はずっと疑問である。この疑問は、こうした表現をしたことはなかったろうが、例えば、「生涯学習」という言葉に嫌悪を覚えるのと同じ構造だと思う。
同時に、繰り返しになるが、学ぶこと、勉強、成長といった概念自体は重要だと思うし、嫌いでもない。
では本題的な奴だが、来年の目標も、同じでいいと思う。
「創作」「生きる意味」
――これはある意味、画期的だ。僕史上初かもしれない。
毎年の目標というと、いつも違うものを考えていた、無意識に。
しかし、今(まぁその、12月末までにまた変わるかもしれないが。……ぐらいの感覚で目標というのは構わない)は、同じでよいだろうと素直に思った。
よく考えると、いつも違う目標を掲げてしまうのは、「こうじゃない」「本当の僕はこれじゃない」的な感覚があるからではなかろうか。もしくは、「もっと高みを目指さないといけない」とかいった、高圧的というか、焦燥感的な奴のせいではなかろうか。
根の張ったものであれば、目標は別に変える必要はないのだ。
――が、しかし。落ち着いて考えれば、「変えなくていい」=「達成できていない」ということかもしれない。
なるほど確かに。
しかし、孔子さん曰く、「生きる意味が分かったら夕方死んでもいいぐらいだわww」(朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり)ということらしいので、そんなこんなすぐに達成できるものではなかろう。
要するに、「選択」の問題なのだ。
それは、時間が有限であるという事実から発する問題である。しかし、この問題は、実に巧妙な罠が仕掛けられている。
選択するということは、未来を選ぶということである。まだ起こっていない先に対して、自分の意志を決定するのだ。同時に、その決定が「責任」という概念でもある。責任を取りなさいと言われるが、その意味するところは、自分の意志である。
犯罪を犯したときに、懲役刑に服するのが責任なのではない。事象の原因が自分に関係することを認めるというのが責任なのである。刑罰は、単なる社会契約の一つに過ぎない。罪を償うことはできない。社会契約上の責任は果たされても、何かを行ったことが事実であれば、それに対する責任は消えることはない。
消えることのない概念は、社会を形成、運営するのに不都合なので、法律という取り決めによって、事象に対しての結果(従うべきこと)が明文化されているのである。
多くの人は、犯罪に手を染めることはないだろう。
しかし、犯罪と無縁であっても、責任は常に発生している。それは幼子であってもそうだ。保護者や、少年法というものがあっても、赤ん坊がベランダを乗り越えて地面に落下し死亡したのは、赤ん坊の責任なのだ――というと、非難轟轟になるから言わないけれども、赤ん坊が「悪い」ということを言うのではない。悪くはない、不可抗力だ。だが、死亡という結果に対しての責任は赤ん坊自身にある。いやまて、他殺はどうか。道を歩いていたら暴漢に襲われ刺されて死んだ、これは、自分の責任なのだろうか。自然災害はどうか。地震で建物が崩れて圧死した、自分の責任なのか。
いったん、全部自分の責任だと考えた方がよい。
こういうと、大災害を天罰だとかいって糾弾された何某かが思い出されるが、それとは別の話である。社会的な責任という概念と、本来的な責任という概念は、分けて考えるべきだ。
生きる意味を考えるというのは、責任を考えることでもある。
身に降りかかるすべての事象を、自分の選び取ったものだとして考え、感じることである。
それができなければ、一生、運命論的な不確実性や、リスク(発生するかもしれない危険)に囚われ続けることになる。
失敗はする。間違いを犯す。後悔もする。
だって人間だもの。
プログラムはミスをしない。機械は故障するかもしれない。想定外の動作をするかもしれない。しかしそれは、プログラムに従った結果なのだ。
そもそも、プログラムで世界事象を再現させることなどできない。――できないが、できるようになればシンギュラリティである。
人間はミスをする。
それは、動作的なものもそうだが、思考エラーも起こす。
人間は、飽きる性質もある。
プログラムは繰り返しが得意だ。決まったことを何億何兆回と繰り返すことができる。人間はできない。
人間はミスをする。ミスをしたとき、その原因をどこに帰するのか。全責任が自分にあると思う必要はない。しかし、自分が介在する余地は、本当にゼロだったのか。
失敗したとき、すべて環境等、自分以外のものに責任をとらせようとしたら、人生はつまらないものになる。自分の意思が介在する余地がなくなる。
抽象論ばかりになってしまったが、一つ思い出した。
ある人を怒らせてしまって、メールでお詫びのメッセージを入れた。もちろん電話でも謝った後に、だ。しかし、一旦電話で謝って少し怒りを収めてくれていたにもかかわらず、自分が送ったお詫びメッセージによって、さらに怒りを増幅させてしまったのだ。
これは、僕のミスだったろう。結果からしたら間違いなく失敗だ。
また、僕は、メールを送るという行為と、送らないということ、両方を選択することができた。メールを送るという選択をした。相手を怒らせた。
だが。送らないという選択が仮に正しかったとして、僕はそれを知ることはできなかった。
時間は過去から未来へと進む。不可逆だ。
長くなったので中断。
(かっこ書きである。……と、この記事に書いたことも、30代おじさんの戯言に過ぎない、かもしれない。来年には一笑に付しているかもしれない。だからこそ、選択なのである。書くのも自由。書かないのも自由。だが俺は選択した。それで十分なのだ。筋トレや音読を続けたところで、誰かに褒められるものでもない。成果が数字にあらわれるものでもない。だが行う。それでいいのだ。――そして、ずっと内心みとめたくなかったことで、これからもそうかもしれないが、やっぱり、過去に比べたら今がよほど楽である。10代ぐらいのときから、今ぐらいの心持でいられたら、もしかしたらそんなに性格がひんまがらなかったかもしれない。だが、それもまた然り。自己の責任の下でなされてきたことに過ぎない。――そして、何故ラクなのかといえば、やはり、「自由」の幅が広がったからだと思う)
近況メモ
・サイト更新・CSSの勉強
・SQLの勉強
・VBAの勉強
みんなパソコン関係だな。
ニンジャスレイヤーについて、ある方がブログで触れられていたので、名前ぐらいは知っていたのだけれども、アニメーションもあることを知ってみてみた。ある方のブログで、「ギャグなのか? シリアスなのか?」と思っていたが、大真面目だった。
「どーも。ニンジャスレイヤーです」「どーも。ニンジャスレイヤー・サン。〇〇です」
が面白すぎた。
挨拶、大事だ。大変失礼だ。
さて年末である。
師走というと12月からであるが、気持ちは年末である。
先般、サイト更新(作品整理)を11月中に行うと宣言し、実行できた。おそらく、宣言をしなければ、「いつでもできる=いつまでもできない」状態になって、実施できなかったのではなかろうと思う。
あと、年内に一つ連載を完結させるという目標も宣言している。これの進捗は落ちてきている。やらねばならぬ。
モチベーション
振り返ってみる。2018年のブログ記事は50記事ぐらいである。2017年は150記事を超えている。
文字数の違いはあるかもしれないが、間違いなく2017年の方が文字を書いたことだろう。
じゃあ、2018年の方が活動的でなかったのかというと、そういうわけではなかろう。むしろ、書いている時間が他の何か作業に使われていたのであれば、活動的であったといえるかもしれないわけだ。
ちなみに、この記事の着地点はない。
なんとなく、年末に関しての所見をだらだらと書いて終わることだろう、そんな気がする。
そんなことに使用する時間は必要なのか。必要である。
コーヒーを飲みながら書くという時間は自分にとって貴重である。
コーヒーには、「お茶」だったり、「ビール」だったりするかもしれないが、とにかく、飲み物と書くという時間は必要なのだ。
先日、少々トラブルに巻き込まれて困ったが、そういう時のほうが、「イライラ感」によって落ち着ているのではなかろうかとふと思った。
逆説的だが、「怒っている」とか、感情が一定方向であると、他の混在した感覚にならないため、安定した状態ともいえる。
……久しぶりに書くと、何を書いていいのかよく分からなくなる。
何個かは、書いておきたいこともあったのだ。しかし、時間経過によって、感情が抜け落ちる。
すぐに「どうでもいいこと」の仲間入りだ。
そうならないように、書く、ということは、定期的、……いやもっと、日常的に行いたいのだ。
目標
さて。何も参照しないで書くことができなくなってきた。これは、インプット不足である。
仕方がないので、2017年12月最後の記事を読んでみる。
なるほど、2017年は「整理」の年だった。
そして、2018年、つまり今年は、「生きる意味」「創作」の2軸の追求が目標であったのだ。知っていたか? 忘れていた。正直。……自分に呆れる。
いやまぁ、明確に目標にしていたんだ、ということは忘れていたけれども、思考ベースでは忘れていなかった。でなければ、サイト更新やそれに関連する勉強などもするまい。
……やや脱線するが、「勉強」という言葉があまり適切でない気がする。しかし、知識や経験を増やす作業は、僕は「勉強」と呼称する以外に知らない。仕事=お金を稼ぐ行為と直結しないすべては「趣味」なのか? 違うと思う。
趣味は、二種類ある。いや、人間の行動は二種類しかない。生産か、消費か、だ。仕事は生産かというとそうでもない場面は実際に働いたことがある人はよくわかるだろう。ただ、仕事がどうこうだけでなく、趣味といった面でも、生産か、消費か、どちらかだ。
さらに、別ベクトルで、インプットとアウトプットに分けられる。そして、インプットを、僕は勉強と呼んでいる。
趣味の世界におけるアウトプットの場が広がったのが、現代社会の良いところだと思う。
それによるセキュリティやイジメといった問題もあるのだろうけれども、この辺りは、現代社会に拍手して良いと思う。
テレビやニュースなどで、政治や経済やら外交やら、いつも批判的な内容ばかりである。たまに良いニュース的なのは、動物ほんわかとか、紅葉がきれいですとかそんなものである。いや動物かわいいし、紅葉もきれいだけども、そうではなくて、もっとこんな良いことがありましたってニュースがあってもよいではないか。大本営発表みたいで嘘くさい? まぁそうかもしれない。要はバランスである。
「当たり前度」が高まることは悪くはない。それが民度であったり、常識だったりマナーだったり、社会レベルを向上させる。
ただ、当たり前は、当たり前であって当たり前ではない。トートロジーだが、要するに、当たり前を当たり前にするためにも努力やコストは必要だということだ。
全然よくわかっていないが、電車が毎日安全に動いているのも、様々な安全のための「努力」(それは人が汗かいているわけではないかもしれない)がなされているのであろう。
当たり前を当たり前だと思ってはいけない。その当たり前が成り立っている条件をよく考えなければいけない。
しかし、全部が全部を考えることなど、到底できないほど複雑化しているのが現代社会である。そうしたときに、できるだけ幅広い知識見識を広めていくという努力はあってしかるべきだが、果たして、そうした方向性だけで十分なのか、ということは、僕はずっと疑問である。この疑問は、こうした表現をしたことはなかったろうが、例えば、「生涯学習」という言葉に嫌悪を覚えるのと同じ構造だと思う。
同時に、繰り返しになるが、学ぶこと、勉強、成長といった概念自体は重要だと思うし、嫌いでもない。
来年の目標
脱線したけれども、いつもの書いている感覚を思い出してきた。ここまで30分ぐらいか。では本題的な奴だが、来年の目標も、同じでいいと思う。
「創作」「生きる意味」
――これはある意味、画期的だ。僕史上初かもしれない。
毎年の目標というと、いつも違うものを考えていた、無意識に。
しかし、今(まぁその、12月末までにまた変わるかもしれないが。……ぐらいの感覚で目標というのは構わない)は、同じでよいだろうと素直に思った。
よく考えると、いつも違う目標を掲げてしまうのは、「こうじゃない」「本当の僕はこれじゃない」的な感覚があるからではなかろうか。もしくは、「もっと高みを目指さないといけない」とかいった、高圧的というか、焦燥感的な奴のせいではなかろうか。
根の張ったものであれば、目標は別に変える必要はないのだ。
――が、しかし。落ち着いて考えれば、「変えなくていい」=「達成できていない」ということかもしれない。
なるほど確かに。
しかし、孔子さん曰く、「生きる意味が分かったら夕方死んでもいいぐらいだわww」(朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり)ということらしいので、そんなこんなすぐに達成できるものではなかろう。
生きる意味を考えるとは
もう少し、具体化する必要があるだろう。要するに、「選択」の問題なのだ。
それは、時間が有限であるという事実から発する問題である。しかし、この問題は、実に巧妙な罠が仕掛けられている。
選択するということは、未来を選ぶということである。まだ起こっていない先に対して、自分の意志を決定するのだ。同時に、その決定が「責任」という概念でもある。責任を取りなさいと言われるが、その意味するところは、自分の意志である。
犯罪を犯したときに、懲役刑に服するのが責任なのではない。事象の原因が自分に関係することを認めるというのが責任なのである。刑罰は、単なる社会契約の一つに過ぎない。罪を償うことはできない。社会契約上の責任は果たされても、何かを行ったことが事実であれば、それに対する責任は消えることはない。
消えることのない概念は、社会を形成、運営するのに不都合なので、法律という取り決めによって、事象に対しての結果(従うべきこと)が明文化されているのである。
多くの人は、犯罪に手を染めることはないだろう。
しかし、犯罪と無縁であっても、責任は常に発生している。それは幼子であってもそうだ。保護者や、少年法というものがあっても、赤ん坊がベランダを乗り越えて地面に落下し死亡したのは、赤ん坊の責任なのだ――というと、非難轟轟になるから言わないけれども、赤ん坊が「悪い」ということを言うのではない。悪くはない、不可抗力だ。だが、死亡という結果に対しての責任は赤ん坊自身にある。いやまて、他殺はどうか。道を歩いていたら暴漢に襲われ刺されて死んだ、これは、自分の責任なのだろうか。自然災害はどうか。地震で建物が崩れて圧死した、自分の責任なのか。
いったん、全部自分の責任だと考えた方がよい。
こういうと、大災害を天罰だとかいって糾弾された何某かが思い出されるが、それとは別の話である。社会的な責任という概念と、本来的な責任という概念は、分けて考えるべきだ。
生きる意味を考えるというのは、責任を考えることでもある。
身に降りかかるすべての事象を、自分の選び取ったものだとして考え、感じることである。
それができなければ、一生、運命論的な不確実性や、リスク(発生するかもしれない危険)に囚われ続けることになる。
責任と失敗
これは、ミスをゼロにするということではない。失敗はする。間違いを犯す。後悔もする。
だって人間だもの。
プログラムはミスをしない。機械は故障するかもしれない。想定外の動作をするかもしれない。しかしそれは、プログラムに従った結果なのだ。
そもそも、プログラムで世界事象を再現させることなどできない。――できないが、できるようになればシンギュラリティである。
人間はミスをする。
それは、動作的なものもそうだが、思考エラーも起こす。
人間は、飽きる性質もある。
プログラムは繰り返しが得意だ。決まったことを何億何兆回と繰り返すことができる。人間はできない。
人間はミスをする。ミスをしたとき、その原因をどこに帰するのか。全責任が自分にあると思う必要はない。しかし、自分が介在する余地は、本当にゼロだったのか。
失敗したとき、すべて環境等、自分以外のものに責任をとらせようとしたら、人生はつまらないものになる。自分の意思が介在する余地がなくなる。
抽象論ばかりになってしまったが、一つ思い出した。
ある人を怒らせてしまって、メールでお詫びのメッセージを入れた。もちろん電話でも謝った後に、だ。しかし、一旦電話で謝って少し怒りを収めてくれていたにもかかわらず、自分が送ったお詫びメッセージによって、さらに怒りを増幅させてしまったのだ。
これは、僕のミスだったろう。結果からしたら間違いなく失敗だ。
また、僕は、メールを送るという行為と、送らないということ、両方を選択することができた。メールを送るという選択をした。相手を怒らせた。
だが。送らないという選択が仮に正しかったとして、僕はそれを知ることはできなかった。
時間は過去から未来へと進む。不可逆だ。
長くなったので中断。
(かっこ書きである。……と、この記事に書いたことも、30代おじさんの戯言に過ぎない、かもしれない。来年には一笑に付しているかもしれない。だからこそ、選択なのである。書くのも自由。書かないのも自由。だが俺は選択した。それで十分なのだ。筋トレや音読を続けたところで、誰かに褒められるものでもない。成果が数字にあらわれるものでもない。だが行う。それでいいのだ。――そして、ずっと内心みとめたくなかったことで、これからもそうかもしれないが、やっぱり、過去に比べたら今がよほど楽である。10代ぐらいのときから、今ぐらいの心持でいられたら、もしかしたらそんなに性格がひんまがらなかったかもしれない。だが、それもまた然り。自己の責任の下でなされてきたことに過ぎない。――そして、何故ラクなのかといえば、やはり、「自由」の幅が広がったからだと思う)
今日の一言「優柔不断」
生活環境が、また変わろうとしている。
簡単に書けば、今年の最初の方に元に戻るわけだ。
もうちょっと自分を考える時間を作ろう。
何が大切で、何が譲れないか、ちゃんと言葉にできるようになろう。
決められなかった。大事なことを。
別に、自分をよく見せたいとか思わないけれど、誤解されるのは非常に怖い。
他者への信頼感ってのがあんまないのか。
どうして決められなかったのか。
でも、流されたくなかった。感情を信じられなかった。
感情じゃないんだ。
理性的に、論理的に、という表現は気持ち悪いが。
でも、感情は、儚いんだ。
ハードルがあるんだ。
感覚的に生きることは、悪くない、というか、畢竟すれば、極端に言えば、感覚的にしか人は生きれない。
論理やルールというのは、人が心地よく過ごすために編み出した技術なんだから。
人が幸せになれないルールなんて、何の意味があるのか、ない、けれども、ルールがあるという事実だけがルールたらしめる場合があるから複雑なんだが、まぁ、単純に考えるなら、人は感情的に、感覚的に生きたって何ら問題はない。
それを前提において、書けば、その感覚なんてものは、あまりにも儚くて、信頼性がおけないものである。
そういう意味では、お金とか、物的なものは安全だ。しかし、それは単なる道具に過ぎないというアンビバレンス。
好きだという現時点の気持ちがいくら本当で、真実でも、それは、僕は……。
僕の思考の師匠が言っていた。「信じるしかない」のだと。
でも、僕は、師匠ほどの人間じゃない。師匠は、「神になれ」といっていた。僕は……。
こんなポエムみたいな記事、数年後には、僕は、黒歴史だと頭を抱えるのだろうか。
ヤフージオシティーズが閉鎖されるというニュースを見た。
賛否あったけれども、パスワードを忘れてそもそもログインできない人が、むしろ黒歴史だから消えてくれてよかった、とコメントしたりしていた。
僕も、高校生ぐらいの日記、ログは、きっと、赤面する表現があるかもしれない、が。
それでも、「なかったことにしてはいけない」と思うんだけど、違うかな。
過去の、つらかった経験も、かなしかったことも、苦しかったことも、全部、引き受けないと、「人生」の意味はあるんだろうか、と思う。僕は。
シロクマさんもブログで言ってた。懐古主義、と揶揄されるかもしれない。
でも、その黒歴史って、何故生まれたんだろうか。
何故恥ずかしいと、今なら思うような、「熱い」ポエムを、わざわざホームページにつづるような熱量が生じたんだろうか。
その表現は稚拙かもしれない。
でも、そこに表現したかった「思い」ってのは、きっと大事なものなんじゃないかって、そう思うのだ。
書くこと、を大事にしたい。
生活環境の変化は、大きな変化は、そもそも、高校生ぐらいからホームページを運営してきたことからすれば、何度もあった。
そのうちで、こんな「思考」を捨て去ろうとしたことも、2回はある。
1回目は、大学生のとき。それは、社会人になって働き始めて数か月でやめた。
2回目は、結婚したとき。それも、数年してやめた。
人は、忘れる生き物だ。
それは感情も。記憶も。
でも、過日、やっぱり、「決めることができなかった」ことで、感情も記憶も、「引き出せなくなっている」だけで、自分を構成する要素としては、なくなってなどいない、ということを強く感じた。涙と一緒に、やっぱり、そうだって感じた。
なくなってなどいない。
なくなっていない、のではない。むしろ、なかったことにしてはいけないのだ。
繰り返し書くけれども、僕は、高校生ぐらいからインターネットを使っている。
そこで出会った人たちで、実際にあったことがある人も、多くはないけれどもいる。その中で、連絡がつかなくなった人もいれば、今でも交流がある人がいる。
それらの出会った人々と、会社の同僚と、どちらが大事か、なんて、「私と仕事どっちが大事なの!」という愚問と同様だ。――どっちも重要だ。
よくある批判的言動において、ネットの人たちは、いざというときに助けてくれない、という。
くだらん。
現実の人たちがどれほど役に立つのか、という問題が一つと、僕が本当に精神的に参ってしまった数年前のある時、二人の方からEメールを頂いたことを僕は忘れない。
ネットゲーで出会った人と結婚したとか、オフ会で云々とか、そんな事例を持ち出すまでもなく、「人は、人」である。そのツールが何であろうが。
ビールが進むせいで余計なことをさらに書けば、だ、昔の話で、文通的な文字的交流において関係が発展した、とかいうこともあったろう。コミュニケーションの本質と、ツールとの違いをはき違えてはならない。
あー、くだらないが、補足して置けば、別に、対面コミュニケーションの重要性を否定するわけでもないのである。
そういう意味で、前掲のシロクマさんは、奥さんもお子さんもいるとのことだが、ご自身のブログとの関係性はどうなんだろうか。要するに、知られているのだろうか。その辺がよく分からないし、興味がある。
もっといえば、他の私と交流してくださっている方々はどうなんだろうか。様々な立場の方がおられると思う、が、リアルの人たちにも教えているのだろうか、どうなんだろう。
いやまぁそれを知ったところで僕がどうこうするわけではないが、付き合い方というか、距離の取り方というか、なんというか、上手く表現できないけれども、参考にしたいという思いはある。
思う、が、僕はやっぱり、知られたくはないし、積極的に開示する気にもなれない。
何故なら、「思考のプロセス」のメモなのである。
ゆえに、結論ではないのだ。
ああ、なんというか。
その、「ゼロ秒」なのである、本当である。僕は、これだけの長さの文章を、考えて書いているのではないのだ。いやまぁ、当たり前か、考えたらこんな冗長な文章は書けなかろう。
だがそれゆえに、思考スピードも、あとから読んでも分かるし、何故そう考えたかも分かる。そういうことは意識しているつもりである。つまり、思考トレースだ。追跡。追いかけている、復元できるように。なぜ? 人は忘れるからだ。
センター試験前の、冬の、寒い部屋で石油ストーブの燃える音と、結露が生じる窓。机に向かって勉強する自分……いや勉強じゃない、日記だ。文字を書いていた。不安や不満を。
そんな感情や感覚は、決して、きれいな文章では分からないのだ。
文字の乱れや、無駄な表現、改行、改ページ、ああ、そんな無駄を含めて、思考なのだ。
(かっこ書きである。あのさー、このブログに甘えるの、やめようって、先日書いてなかったっけ。ブログ、何だぜ? クローズドなSNSではないんだよ? その辺分かってる? 分かってる。と思う。先日も書いたけど、東京で暮らしていると、ほんと、めっちゃ人多いで。なんでこんなに人がいるんだろうと思う。そして、こんなに大勢の人がいて、みんな孤独なんだ。いや、嘘ごめん。「孤独な人もいる」程度だろう。みんな、多くは友達やら恋人やら親や家族やらで囲まれているんだろう。でもさ、孤独な人も、いるよね、って、思う。で、さらに、「生きる意味」に疑問もったり、目の前に立ちはだかる障害に困ってる人も大勢いると思うんだ。俺も仕事で一個非常に困ってる案件があるよ。それでも、「生きる」って選択を、多くの人はしているわけだ。それは尊い。尊いがゆえに、つらいことでもある。だから、そんな直面した問題や課題に対して、「思考」という方法で検討する術を、僕は表現できたらいいなと思う。まーその、現実、使ってみると全く役に立たないわけだが(かっこわらい)。でもそりゃそうなのだ、これは、非常に限定的な個人主義というか、実存主義なのである。普遍的に適用できる思考など、ありゃせんのだ。だから、故に、価値がある。文字を書く人、創作をする人は、その意志だけで価値があるのだ(明日か、それ以降で、もうちょっとまともな精神状態で冷静に考えて書きたいものだ))
生活環境が、また変わろうとしている。
簡単に書けば、今年の最初の方に元に戻るわけだ。
もうちょっと自分を考える時間を作ろう。
何が大切で、何が譲れないか、ちゃんと言葉にできるようになろう。
決められなかった。大事なことを。
別に、自分をよく見せたいとか思わないけれど、誤解されるのは非常に怖い。
他者への信頼感ってのがあんまないのか。
どうして決められなかったのか。
でも、流されたくなかった。感情を信じられなかった。
感情じゃないんだ。
理性的に、論理的に、という表現は気持ち悪いが。
でも、感情は、儚いんだ。
ハードルがあるんだ。
感覚的に生きることは、悪くない、というか、畢竟すれば、極端に言えば、感覚的にしか人は生きれない。
論理やルールというのは、人が心地よく過ごすために編み出した技術なんだから。
人が幸せになれないルールなんて、何の意味があるのか、ない、けれども、ルールがあるという事実だけがルールたらしめる場合があるから複雑なんだが、まぁ、単純に考えるなら、人は感情的に、感覚的に生きたって何ら問題はない。
それを前提において、書けば、その感覚なんてものは、あまりにも儚くて、信頼性がおけないものである。
そういう意味では、お金とか、物的なものは安全だ。しかし、それは単なる道具に過ぎないというアンビバレンス。
好きだという現時点の気持ちがいくら本当で、真実でも、それは、僕は……。
僕の思考の師匠が言っていた。「信じるしかない」のだと。
でも、僕は、師匠ほどの人間じゃない。師匠は、「神になれ」といっていた。僕は……。
こんなポエムみたいな記事、数年後には、僕は、黒歴史だと頭を抱えるのだろうか。
ヤフージオシティーズが閉鎖されるというニュースを見た。
賛否あったけれども、パスワードを忘れてそもそもログインできない人が、むしろ黒歴史だから消えてくれてよかった、とコメントしたりしていた。
僕も、高校生ぐらいの日記、ログは、きっと、赤面する表現があるかもしれない、が。
それでも、「なかったことにしてはいけない」と思うんだけど、違うかな。
過去の、つらかった経験も、かなしかったことも、苦しかったことも、全部、引き受けないと、「人生」の意味はあるんだろうか、と思う。僕は。
シロクマさんもブログで言ってた。懐古主義、と揶揄されるかもしれない。
でも、その黒歴史って、何故生まれたんだろうか。
何故恥ずかしいと、今なら思うような、「熱い」ポエムを、わざわざホームページにつづるような熱量が生じたんだろうか。
その表現は稚拙かもしれない。
でも、そこに表現したかった「思い」ってのは、きっと大事なものなんじゃないかって、そう思うのだ。
大事にするもの
なんの話だって。読む人を考えない独善さは、まったく許しがたいものだろう、そしてそれは、未来の自分にとっても同様である。書くこと、を大事にしたい。
生活環境の変化は、大きな変化は、そもそも、高校生ぐらいからホームページを運営してきたことからすれば、何度もあった。
そのうちで、こんな「思考」を捨て去ろうとしたことも、2回はある。
1回目は、大学生のとき。それは、社会人になって働き始めて数か月でやめた。
2回目は、結婚したとき。それも、数年してやめた。
人は、忘れる生き物だ。
それは感情も。記憶も。
でも、過日、やっぱり、「決めることができなかった」ことで、感情も記憶も、「引き出せなくなっている」だけで、自分を構成する要素としては、なくなってなどいない、ということを強く感じた。涙と一緒に、やっぱり、そうだって感じた。
なくなってなどいない。
なくなっていない、のではない。むしろ、なかったことにしてはいけないのだ。
匿名性
多分、多くの人に理解されないことだろうけれども、対面的なコミュニケーションだけが重要なんじゃないと、僕は思うのである。繰り返し書くけれども、僕は、高校生ぐらいからインターネットを使っている。
そこで出会った人たちで、実際にあったことがある人も、多くはないけれどもいる。その中で、連絡がつかなくなった人もいれば、今でも交流がある人がいる。
それらの出会った人々と、会社の同僚と、どちらが大事か、なんて、「私と仕事どっちが大事なの!」という愚問と同様だ。――どっちも重要だ。
よくある批判的言動において、ネットの人たちは、いざというときに助けてくれない、という。
くだらん。
現実の人たちがどれほど役に立つのか、という問題が一つと、僕が本当に精神的に参ってしまった数年前のある時、二人の方からEメールを頂いたことを僕は忘れない。
ネットゲーで出会った人と結婚したとか、オフ会で云々とか、そんな事例を持ち出すまでもなく、「人は、人」である。そのツールが何であろうが。
ビールが進むせいで余計なことをさらに書けば、だ、昔の話で、文通的な文字的交流において関係が発展した、とかいうこともあったろう。コミュニケーションの本質と、ツールとの違いをはき違えてはならない。
あー、くだらないが、補足して置けば、別に、対面コミュニケーションの重要性を否定するわけでもないのである。
そういう意味で、前掲のシロクマさんは、奥さんもお子さんもいるとのことだが、ご自身のブログとの関係性はどうなんだろうか。要するに、知られているのだろうか。その辺がよく分からないし、興味がある。
もっといえば、他の私と交流してくださっている方々はどうなんだろうか。様々な立場の方がおられると思う、が、リアルの人たちにも教えているのだろうか、どうなんだろう。
いやまぁそれを知ったところで僕がどうこうするわけではないが、付き合い方というか、距離の取り方というか、なんというか、上手く表現できないけれども、参考にしたいという思いはある。
思う、が、僕はやっぱり、知られたくはないし、積極的に開示する気にもなれない。
何故なら、「思考のプロセス」のメモなのである。
ゆえに、結論ではないのだ。
ああ、なんというか。
その、「ゼロ秒」なのである、本当である。僕は、これだけの長さの文章を、考えて書いているのではないのだ。いやまぁ、当たり前か、考えたらこんな冗長な文章は書けなかろう。
だがそれゆえに、思考スピードも、あとから読んでも分かるし、何故そう考えたかも分かる。そういうことは意識しているつもりである。つまり、思考トレースだ。追跡。追いかけている、復元できるように。なぜ? 人は忘れるからだ。
センター試験前の、冬の、寒い部屋で石油ストーブの燃える音と、結露が生じる窓。机に向かって勉強する自分……いや勉強じゃない、日記だ。文字を書いていた。不安や不満を。
そんな感情や感覚は、決して、きれいな文章では分からないのだ。
文字の乱れや、無駄な表現、改行、改ページ、ああ、そんな無駄を含めて、思考なのだ。
(かっこ書きである。あのさー、このブログに甘えるの、やめようって、先日書いてなかったっけ。ブログ、何だぜ? クローズドなSNSではないんだよ? その辺分かってる? 分かってる。と思う。先日も書いたけど、東京で暮らしていると、ほんと、めっちゃ人多いで。なんでこんなに人がいるんだろうと思う。そして、こんなに大勢の人がいて、みんな孤独なんだ。いや、嘘ごめん。「孤独な人もいる」程度だろう。みんな、多くは友達やら恋人やら親や家族やらで囲まれているんだろう。でもさ、孤独な人も、いるよね、って、思う。で、さらに、「生きる意味」に疑問もったり、目の前に立ちはだかる障害に困ってる人も大勢いると思うんだ。俺も仕事で一個非常に困ってる案件があるよ。それでも、「生きる」って選択を、多くの人はしているわけだ。それは尊い。尊いがゆえに、つらいことでもある。だから、そんな直面した問題や課題に対して、「思考」という方法で検討する術を、僕は表現できたらいいなと思う。まーその、現実、使ってみると全く役に立たないわけだが(かっこわらい)。でもそりゃそうなのだ、これは、非常に限定的な個人主義というか、実存主義なのである。普遍的に適用できる思考など、ありゃせんのだ。だから、故に、価値がある。文字を書く人、創作をする人は、その意志だけで価値があるのだ(明日か、それ以降で、もうちょっとまともな精神状態で冷静に考えて書きたいものだ))
あーその、二つのことをメモしようと思う。
ひとつは、合コンの誘いをして頂いたということ。
ひとつは、とある尊敬する友人が、セミプロとして活動を始めようとしていること。
一つ目は、読んで字のごとく。
だがポイントは、合コンの誘いというよりも、飲み会という雑然としたコミュニケーションの場で、初対面の人に、好印象をもってもらえたということだ。
よりよく考えて会話したというより、これまで以上に、自然な形で会話ができたことがよかったと思う。
そういう意味で、コミュニケーション力、自分にとって苦手な奴を、上手くこなせたと思う。
もちろん、相手がもっとコミュニケーションの達人だったことが原因の一つである。
ただ、自分の行動や発言の方向性も上手くできたと思う。
要は、苦手なことも頑張れたことの達成感についてである。
これは、正直、ブログのおかげでもあると思う。
普段僕が、率直に、飾り気なく、気持ち悪いくらい素直に感じたりかんがえたことを、ゼロ秒にアウトプットできるこの場は、いまも、これまでも、これからと、きっと大切な場であることは変わらないと思う。
そんな場を維持することに寄与してくれた友人の一人のことが、二つ目の内容だ。
ある方が、自身の作品をプロモートし、販売していくことを決められたと、重大な発表があった。
その方とは、どれくらいのお付き合いになるだろうか。正直よく覚えていない。とある投稿サイトで読んだその方の作品に衝撃をうけ、連絡をとったのが始まりと思っている。
僕が数年行方をくらました期間を含めれば、長い付き合いに思う。
さて、このブログは、僕の思ったことを、できるだけ素直に、率直に、シンプルに、飾らずに表現することが、目的であるし、誠実である。
僕が、その重大なニュースを読んだとき思ったことは何だったのか。
応援したい、頑張ってほしい。
確かに思った、これは嘘じゃない。
しかし、僕の感情の多くを占めたのは、
寂しい、というものでなかったろうか。
何故そんな、器の狭い、みみっちい、女々しい、つまらない感情を抱いてしまったのか。
それを分析する必要がある。
簡単に考えるに、その人が、どこか遠くに行ってしまったように感じられたのだ。
しかし、これは、僕が別に運営しているサイトの理想と矛盾している。そのサイトでは、作品を作るということのきっかけを提供し、いつか大きな舞台で活躍する人の一助となることをうたっているのだ。
そう考えれば、その方の活躍は、僕の理想にも寄与し、とても素晴らしいことであると思う。
が。僕の感情は違ったのだ。
いや、違ったと書いたが、素直に、うれしいなぁ、すごいなぁ、がんばってほしいなあというのが、半分ぐらいは占めていたと思う。一方で、寂しい、という感情も起こったことを記述しているのである。
しかし。悲しいかな、昨日その重大事項に触れて、僕は久方ぶりに感情の渦にのまれ、奔流に押し流されていったわけであるが、昨今の状態として、寝たり、半日以上が過ぎると、感情に断裂が走るのである。
要するに、感情から、記憶へと移ってしまうということだ。
そんなことはもう分かっているので、ある程度可能な限りメモしたり、思考の反芻をしたりと試みたので、まぁここまで記述できるけれども、正直もう、当初の感情をもってして、今この文章は書けていないのだ。
ああ、本当に、文章のリアルタイム性を思う。
しかしだ、この問題は非常に面白くて、要するに、思考と、言語表現とのギャップ、というのは、アウトプットのデバイス……ここでは、口頭といった手段も含めて、どのようにしてアウトプットするのかによって、思考も変遷しているということが、面白い。
スマホという、アウトプットには不便極まりないデバイスを、僕はいつも否定したくなるけれども、スマホだから書けるって内容もあったりする。これが面白い。
頭の中の言葉、思考が、どのようにして日本語となり、文章になるのか。不思議だ。
そういう意味で、やっぱり語彙力がある人は、思考も豊かなんじゃあないかと思ったりする。
……話がそれた。
ええと、何故僕は寂しかったのか、ということだ。
甘えていた、のかもしれない。
何に? というのもよく分からないが、なんか、大切なものを奪われるような、そんな感覚。ええと、こっぱずかしいが、自分だけの宝物を、みんなに知られてしまったかのような。
というのを、トーベヤンソンのムーミンという作品が、巧みに描いていた。ユーチューブで見れたアニメーションがあったのだけれど、ムーミンには、スナフキンという友人がいた。
ある日、スナフキンのテントに勝手に入ったムーミンは、スナフキンが大事にしているギターに触れる。そこにスナフキン登場。ムーミンは別にギターを壊したりしたわけではないが、いつも優しいスナフキンは、あからさまに不機嫌な態度をとる。ムーミンは理解できない。ムーミンは逆に怒って、スナフキンのテントから飛び出していく。
別の日。スナフキンとの関係がこじれたまま、ムーミンは、とある秘密基地のような場所を不意に見つける。ムーミンは、閉鎖的だけれど、明るくて、居心地のいいその空間をすっかり気に入る。
別の日、ムーミンの友達の、ノンノンやミイ、スニフなどが、そのムーミンの秘密基地を偶然見つける。ムーミンは、ノンノンたちが自分と同じようにその場所を気に入って、遊び始めることにいら立ち始める。
「君たち! 何をしてるんだ!」
ムーミンは大声で怒鳴る。
しかし、その時気づく。
あのとき。
スナフキンが、テントの中でいきなり不機嫌になったのは、もしかして、自分の大切なものや場所にずけずけと入ってきたことに機嫌を悪くしたのではないか。
ムーミンは、スナフキンに謝りにいく。
スナフキンは、そんなムーミンを、これまでのようにやさしく迎えたのであった。
……。
と、ええと、数か月前に見たので、あいまいだが、確かこんな話だった。
要は、親しき中にも礼儀ありとか、プライベート、といったことの表現なんかではないかと思う。
要は、僕が、ある方の発表をみて感じたのも、秘密基地を他の友達に見つけられた、幼いムーミンのような感情だったのではないか、ということだ。
あー、だから、まぁ、なんだ。
寂しいってのはたぶん間違いないけれど、でもそれ以上に、やっぱり、素晴らしい作品は、多くの人が見るべきである。
それに、僕も、末端外縁微小ながら創作に携わる身であるから、自分の作品が多くの人に触れてもらえるってのは、やっぱり、単純にうれしいことであることを知っている。
だから
これからも応援しています。頑張ってください!
である。
さて、珍しくまとまった、というか、結論的なのがある記事である。うんこれは珍しい。
それはそうと、俺は、どうしようか、と思う。
創作って、大変である。
筋トレルーチンの比ではない。
ときに、日々の仕事なんかより大変だ。
面白い作品を創りたいのである。
面白いというのは、魂魄を揺るがすような、価値観の変化、パラダイムシフトが起こるような作品を、僕は面白いと思う。
もしくは、時折、または常に薄く淡くまとわりついている、「生きづらさ」ってのを可視化するような作品も面白いと思う。
もしくは、狂気といわれようとも徹底した人としての生きざま、生きる意味、人の存在意義を問うたり、表現するような作品も面白いと思う。
それって、自分で作らなきゃダメなの?
その友人さんのような、君が「心底面白い!」って思えるような作品や、そういった作品を描く人を探すほうがコスパよくない?
上の疑問はもっともである。
だが、物語は、唯一性と、一回性があることが、重要である。
つまり、どんな物凄く面白かった作品でも、二度目は、同じだけのカタルシスが得られるとは限らないということだ。
物語に触れるってのは、遊びじゃねーんだよ!!!(かっこわらい)
かっこ笑い、を付けたが、わりかし、マジに思っている。が、これは、飲み会とかでは言わないほうがいいレベルの内容だ。僕、分かってる。
でもさ、もうおじさんになってくるとね、物語に触れるのも、結構、精神・体力使うのよ。
そうしたときに、……うーん、理屈が自分でもよく分からないけれど、やっぱり、「自分だったらどんな作品を創るのか」って視点が大事に思うのである。
なんだろ。僕は、代案なく、ただ批判ばっかりする人が嫌いである。
専門分化した社会で、何でもかんでも自分一人で行うってことは不可能だし非効率だ。
けれども、「どうしたらよい」がないまま、ただ不満や愚痴、文句や批判、失敗のリスクだのなんだのばっかり言ってる人が、ほんと多い。いや、多くはないのかもしれない。けれども、少なからずいるし、何故か、そういう人が上の立場だったりする。
いやまぁ、「管理」ってのは、保守的な面があるわけだし、新しいことが必ずよいことなわけでも当然ない。
もっといえば、僕がいま上に書いているようなことも、「くそったれな人ばっかりだと思うなら、そういう人たちを駆逐するための代案を示したらどうだ」ということになる。そういうこと言われたら、悲しいけど、確かにその通り、ブーメランだったなぁって思うわけだが。
でもまぁその、手放しで面白いって言えたり感じられたりする作品って、少ないのだ。
ベニー松山氏の、風よ。竜に届いているか。はめちゃくちゃ面白かった。けれども、もう、今は思い出せないし、もう一度読んだところで感情は復活できないけれども、自分の中での100%ではなかった。
てことはだ。
ということは、まだ、自分を究極に満足させられる方法は、きっと他にあるってことなのだ。
それを、模索していきたい。もちろん、多くの作品に触れてインプットすることも大事だけれども、「自分ならどういった作品を紡ぐか」という視点は、常に持ち続けたいと思うのだ。
で、あるからにして、結局、どうするんだよ、お前は!!!
(かっこ書きである。うん。やはり、よくまとまらなくなった。俺のブログらしいといえばらしいのであるが、こんな甘えたこと書いていられるのも、今のうちなのかなぁ。……。よし、決めた。年内中に何か仕上げる。何かは決めてない。だが、何か、仕上げる! いやお前それ、結局何も決めてないのと同じじゃねえか。何かって、仕事の納品物だって何かに含まれるだろうよ。あーん? いやいや、創作関係で、「何か」する。何かは、何かだ!! ああ、なんか焦ってるな、俺。それにしても、この前8月が終わったと思ったら、もう一週間がたつのだぜ。時間、早いよなぁ。明日も早い。今日はもう寝よう)
ひとつは、合コンの誘いをして頂いたということ。
ひとつは、とある尊敬する友人が、セミプロとして活動を始めようとしていること。
一つ目は、読んで字のごとく。
だがポイントは、合コンの誘いというよりも、飲み会という雑然としたコミュニケーションの場で、初対面の人に、好印象をもってもらえたということだ。
よりよく考えて会話したというより、これまで以上に、自然な形で会話ができたことがよかったと思う。
そういう意味で、コミュニケーション力、自分にとって苦手な奴を、上手くこなせたと思う。
もちろん、相手がもっとコミュニケーションの達人だったことが原因の一つである。
ただ、自分の行動や発言の方向性も上手くできたと思う。
要は、苦手なことも頑張れたことの達成感についてである。
これは、正直、ブログのおかげでもあると思う。
普段僕が、率直に、飾り気なく、気持ち悪いくらい素直に感じたりかんがえたことを、ゼロ秒にアウトプットできるこの場は、いまも、これまでも、これからと、きっと大切な場であることは変わらないと思う。
そんな場を維持することに寄与してくれた友人の一人のことが、二つ目の内容だ。
ある方が、自身の作品をプロモートし、販売していくことを決められたと、重大な発表があった。
その方とは、どれくらいのお付き合いになるだろうか。正直よく覚えていない。とある投稿サイトで読んだその方の作品に衝撃をうけ、連絡をとったのが始まりと思っている。
僕が数年行方をくらました期間を含めれば、長い付き合いに思う。
さて、このブログは、僕の思ったことを、できるだけ素直に、率直に、シンプルに、飾らずに表現することが、目的であるし、誠実である。
僕が、その重大なニュースを読んだとき思ったことは何だったのか。
応援したい、頑張ってほしい。
確かに思った、これは嘘じゃない。
しかし、僕の感情の多くを占めたのは、
寂しい、というものでなかったろうか。
何故そんな、器の狭い、みみっちい、女々しい、つまらない感情を抱いてしまったのか。
それを分析する必要がある。
簡単に考えるに、その人が、どこか遠くに行ってしまったように感じられたのだ。
しかし、これは、僕が別に運営しているサイトの理想と矛盾している。そのサイトでは、作品を作るということのきっかけを提供し、いつか大きな舞台で活躍する人の一助となることをうたっているのだ。
そう考えれば、その方の活躍は、僕の理想にも寄与し、とても素晴らしいことであると思う。
が。僕の感情は違ったのだ。
いや、違ったと書いたが、素直に、うれしいなぁ、すごいなぁ、がんばってほしいなあというのが、半分ぐらいは占めていたと思う。一方で、寂しい、という感情も起こったことを記述しているのである。
しかし。悲しいかな、昨日その重大事項に触れて、僕は久方ぶりに感情の渦にのまれ、奔流に押し流されていったわけであるが、昨今の状態として、寝たり、半日以上が過ぎると、感情に断裂が走るのである。
要するに、感情から、記憶へと移ってしまうということだ。
そんなことはもう分かっているので、ある程度可能な限りメモしたり、思考の反芻をしたりと試みたので、まぁここまで記述できるけれども、正直もう、当初の感情をもってして、今この文章は書けていないのだ。
ああ、本当に、文章のリアルタイム性を思う。
しかしだ、この問題は非常に面白くて、要するに、思考と、言語表現とのギャップ、というのは、アウトプットのデバイス……ここでは、口頭といった手段も含めて、どのようにしてアウトプットするのかによって、思考も変遷しているということが、面白い。
スマホという、アウトプットには不便極まりないデバイスを、僕はいつも否定したくなるけれども、スマホだから書けるって内容もあったりする。これが面白い。
頭の中の言葉、思考が、どのようにして日本語となり、文章になるのか。不思議だ。
そういう意味で、やっぱり語彙力がある人は、思考も豊かなんじゃあないかと思ったりする。
……話がそれた。
ええと、何故僕は寂しかったのか、ということだ。
甘えていた、のかもしれない。
何に? というのもよく分からないが、なんか、大切なものを奪われるような、そんな感覚。ええと、こっぱずかしいが、自分だけの宝物を、みんなに知られてしまったかのような。
というのを、トーベヤンソンのムーミンという作品が、巧みに描いていた。ユーチューブで見れたアニメーションがあったのだけれど、ムーミンには、スナフキンという友人がいた。
ある日、スナフキンのテントに勝手に入ったムーミンは、スナフキンが大事にしているギターに触れる。そこにスナフキン登場。ムーミンは別にギターを壊したりしたわけではないが、いつも優しいスナフキンは、あからさまに不機嫌な態度をとる。ムーミンは理解できない。ムーミンは逆に怒って、スナフキンのテントから飛び出していく。
別の日。スナフキンとの関係がこじれたまま、ムーミンは、とある秘密基地のような場所を不意に見つける。ムーミンは、閉鎖的だけれど、明るくて、居心地のいいその空間をすっかり気に入る。
別の日、ムーミンの友達の、ノンノンやミイ、スニフなどが、そのムーミンの秘密基地を偶然見つける。ムーミンは、ノンノンたちが自分と同じようにその場所を気に入って、遊び始めることにいら立ち始める。
「君たち! 何をしてるんだ!」
ムーミンは大声で怒鳴る。
しかし、その時気づく。
あのとき。
スナフキンが、テントの中でいきなり不機嫌になったのは、もしかして、自分の大切なものや場所にずけずけと入ってきたことに機嫌を悪くしたのではないか。
ムーミンは、スナフキンに謝りにいく。
スナフキンは、そんなムーミンを、これまでのようにやさしく迎えたのであった。
……。
と、ええと、数か月前に見たので、あいまいだが、確かこんな話だった。
要は、親しき中にも礼儀ありとか、プライベート、といったことの表現なんかではないかと思う。
要は、僕が、ある方の発表をみて感じたのも、秘密基地を他の友達に見つけられた、幼いムーミンのような感情だったのではないか、ということだ。
あー、だから、まぁ、なんだ。
寂しいってのはたぶん間違いないけれど、でもそれ以上に、やっぱり、素晴らしい作品は、多くの人が見るべきである。
それに、僕も、末端外縁微小ながら創作に携わる身であるから、自分の作品が多くの人に触れてもらえるってのは、やっぱり、単純にうれしいことであることを知っている。
だから
これからも応援しています。頑張ってください!
である。
さて、珍しくまとまった、というか、結論的なのがある記事である。うんこれは珍しい。
それはそうと、俺は、どうしようか、と思う。
創作って、大変である。
筋トレルーチンの比ではない。
ときに、日々の仕事なんかより大変だ。
面白い作品を創りたいのである。
面白いというのは、魂魄を揺るがすような、価値観の変化、パラダイムシフトが起こるような作品を、僕は面白いと思う。
もしくは、時折、または常に薄く淡くまとわりついている、「生きづらさ」ってのを可視化するような作品も面白いと思う。
もしくは、狂気といわれようとも徹底した人としての生きざま、生きる意味、人の存在意義を問うたり、表現するような作品も面白いと思う。
それって、自分で作らなきゃダメなの?
その友人さんのような、君が「心底面白い!」って思えるような作品や、そういった作品を描く人を探すほうがコスパよくない?
上の疑問はもっともである。
だが、物語は、唯一性と、一回性があることが、重要である。
つまり、どんな物凄く面白かった作品でも、二度目は、同じだけのカタルシスが得られるとは限らないということだ。
物語に触れるってのは、遊びじゃねーんだよ!!!(かっこわらい)
かっこ笑い、を付けたが、わりかし、マジに思っている。が、これは、飲み会とかでは言わないほうがいいレベルの内容だ。僕、分かってる。
でもさ、もうおじさんになってくるとね、物語に触れるのも、結構、精神・体力使うのよ。
そうしたときに、……うーん、理屈が自分でもよく分からないけれど、やっぱり、「自分だったらどんな作品を創るのか」って視点が大事に思うのである。
なんだろ。僕は、代案なく、ただ批判ばっかりする人が嫌いである。
専門分化した社会で、何でもかんでも自分一人で行うってことは不可能だし非効率だ。
けれども、「どうしたらよい」がないまま、ただ不満や愚痴、文句や批判、失敗のリスクだのなんだのばっかり言ってる人が、ほんと多い。いや、多くはないのかもしれない。けれども、少なからずいるし、何故か、そういう人が上の立場だったりする。
いやまぁ、「管理」ってのは、保守的な面があるわけだし、新しいことが必ずよいことなわけでも当然ない。
もっといえば、僕がいま上に書いているようなことも、「くそったれな人ばっかりだと思うなら、そういう人たちを駆逐するための代案を示したらどうだ」ということになる。そういうこと言われたら、悲しいけど、確かにその通り、ブーメランだったなぁって思うわけだが。
でもまぁその、手放しで面白いって言えたり感じられたりする作品って、少ないのだ。
ベニー松山氏の、風よ。竜に届いているか。はめちゃくちゃ面白かった。けれども、もう、今は思い出せないし、もう一度読んだところで感情は復活できないけれども、自分の中での100%ではなかった。
てことはだ。
ということは、まだ、自分を究極に満足させられる方法は、きっと他にあるってことなのだ。
それを、模索していきたい。もちろん、多くの作品に触れてインプットすることも大事だけれども、「自分ならどういった作品を紡ぐか」という視点は、常に持ち続けたいと思うのだ。
で、あるからにして、結局、どうするんだよ、お前は!!!
(かっこ書きである。うん。やはり、よくまとまらなくなった。俺のブログらしいといえばらしいのであるが、こんな甘えたこと書いていられるのも、今のうちなのかなぁ。……。よし、決めた。年内中に何か仕上げる。何かは決めてない。だが、何か、仕上げる! いやお前それ、結局何も決めてないのと同じじゃねえか。何かって、仕事の納品物だって何かに含まれるだろうよ。あーん? いやいや、創作関係で、「何か」する。何かは、何かだ!! ああ、なんか焦ってるな、俺。それにしても、この前8月が終わったと思ったら、もう一週間がたつのだぜ。時間、早いよなぁ。明日も早い。今日はもう寝よう)