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私が私であるということ
2022/06/19 22:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「書くことは大事だ」

まえがき

 マンガは結構読んでいる気がするが、アニメも、映画も、本も、全然読んでいない最近。
(全部書き終わってからふと思い出したけど、「パリピ孔明」を数話だけアニメ見た気がする。割と面白い気がした。けど、続かない)

 マンガは、「ピッコマ」というサイトを使っている。この仕組みは優れていると思った。ある程度のボリュームが「無料」で読めるのだ。
 そのボリュームは、「お試し」レベルではなく、1巻とか2巻とか、もっとかな、結構な量が読める。そして、極めつけに優れたシステムと思ったのは、「1日まてば無料」という仕組みだ。
 これは、一気読みを防げる。
 繰り返し、サイトにアクセスすることが必要だ。
 そして、読み過ぎ、ということを防げるから、生活リズム的な意味でも悪くない。
 企業側としても、毎日一定数アクセスしてもらえるという効果がある。お互いにメリットがあるから、優れている、と思うわけだ。

あずみ

 あずみ、という漫画は古い漫画なのだけれども、これは面白くて、課金(購入)もして読み進めた。
 何がどうすごいのか、もう、読んで感動した日からしばらくして、よく分からなくなった。この感動の維持というのが、きわめて難しくなっている感覚がある。
 その理由は、「書いていない」からだ。前からそうだった。年を取って記憶が弱くなったという理由だけでない。「もとから」そうだった。
 書いてないと、感情は穴の開いたコップに入れる水のように流れ出てしまう。

 とにかく、すごくて面白くて感動して、夜更かししてでも読むのをやめられなくなった日があったという記憶だけは残っている。

私が私であるということ

 中学や、高校のころの私と、今の私は、同じ私なのだろうか。
 住民票上? 法律上? 一般的に? 私は私だ。

 そこに連続性はある。

「私」

 というのは、意識なのか、記憶なのか、信念なのか、価値観なのか。

 デカルトは、心身二元論を説いたと、聞いたことがある。魂と身体は別の存在ということだ。

 でも、この説は現代ではあまり受け入れられなくなってきている気がする。完全に否定するのは難しいようなので、なくなることはないだろう。
 ただ、僕は、「物理主義」という説の方がしっくりくる。

 物理主義とは、驚くべき身体が、驚くべき意識を生じさせているというもの。身体がなくなれば、意識もなくなる。
 なんの夢もロマンもない考えである。

 魂があって、それが生まれ変わっていくという物語の方が楽しい気がする。

 でも、「魂」とは何かといったときに、意識だったり価値観だったり、その他、「私」というものを成り立たせる何か、であるといえる。

 ところが、その「私」とは何なのか、というのはとても難しいことに気づく。こんなに身近なはずなのに。

過去の自分と未来の自分

 10代の自分は、就職して結婚して子供を育てておじいちゃんになって死ぬ、ということを思い描いていた気がする。周りにそういうモデル(親とか)が多かったからだ。

 それが自分で本当に望んだことなのか良く分からない。でも、「そういうもの」だと思っていた。

 今は、そこまで強く求める気持ちはない。

 ……というよりも、驚くことに、そういうことを「考え」もしなくなっている。

 一時期、親しい関係だった人と別れたときとかは、「今後どうしようか(結婚した方が良いのか)」など考えていた。正直もうあまり望んでいなかったという意味では、今と同じだったかもしれない。でも、違う点として、「考えて」はいたのである。

 ほんとうにどうでもいい場合や、どうでもいいものというのは、「考えもしない」ものである。

 ある程度意識を占有する場合、それが「嫌い」でも「好き」でも、どちらでも、何らかの感情やら未練やらがあるのである。

自分の変化

 それで、そういったライフステージのことをどうこう考えること自体がどうでもよくなっており、そのことについて書きたい、ということですらない。

 主旨としては、そういった「変化」があった自分は、果たして「自分」なのだろうか、ということだ。

 例えば、ロボトミー手術(脳の神経を切除する)で、性格が全く変わってしまう場合があるという。
 そうしたとき、その人の性格の劇的な変化は、その人を同じ人だといってよいものなのか。

 外科的な手術がなくても、「神の啓示」みたいな感じで、大きく価値観が変更されてしまう人もいるだろう。それは洗脳という場合とか、不健全な場合だけでなく、良い意味の刺激、という場合もあるだろう。

 果たして、そうした場合も、同じ「自分」としての連続性はあるといっていいのだろうか。


 一般的に、「ある」といえるだろう。
 僕もそう思う。ただそこに、具体的な境界というのを引くのは難しいと思う。


 とはいえ、一般的には、せいぜい80年程度のでの変化があったとしても、「私」は私だ。

何をもって幸せとなすか

 昔のメールというか、文章というかを見る機会があった。たまたま。
 んー、まぁ、言ってることは分からんでもないかな、という感じ。自分の文章に対しても、である。
 ただ、「感情」がないというか、「ああ、そういうことを「感じて」いたのだろうな」という記憶レベルの感想。
 いや、記憶、ですらもなくて、歴史の教科書みたいな。「事実」があるだけ、みたいな感じ。

 私、や、自分、というものに拘らなくても良い、良くなったということは、とてもよいことだと思った。

 執着をしない、これを一時期、目標としていた。仏教的だ。

 執着しない、ことにも執着しない、ということを目指して、今は、「執着している」ということすら考えもしないので、良かった気がする。

 いやむしろ、最近思うのは、「これが普通の人」なのだということだ。

 僕は、普通の人になりたかったのだろう。

 将来への漠然とした不安など感じず、ただ、毎日をふつーに過ごす。

 何も成せずに死ぬだけかもしれない。ただ、そのことに恐怖も焦りもなく。ただ日々を過ごす。それだけでいい。そういう普通がよい。

あとがき

(かっこ書きである。「コロナ」ということが、免罪符のようになったかもしれないが、「リア友」と殆ど連絡をここ数年とっていない。リアルの友達の存在を維持しなければいけない(ちょくちょく連絡を取ったりメンテナンスする)ということが必要だと、ある種強迫観念がずっとあったのだ。しかし、なくても、こう、2、3年? ぐらい経って、むしろ、心が平穏な日々が多くなった気がする。仕事は忙しかったが、それだけでよかったので楽だったともいえる。仕事して、返ったらゲームして遊んで、の繰り返し。それで十分楽しかった。……いや、それどころか、今までで一番楽しかった気すらする。社会的なしがらみというのが、どれだけ僕の心の負担だったかが分かった気がした。そして、いざなくても、別に困らない社会だったのだ。すばらしいことだ。お金があれば、権力者への顔色を窺わなくても、スーパーマーケットやコンビニで、美味しいご飯を買うことができるのだ。お金があっても、楽しいことがなければ、無味乾燥な人生だろう。でも、それこそ、漫画や、ネット、ゲームなどあれば、「普通に」楽しいのである。リアルな友達とスポーツで汗を流さなくても、自己啓発本を読んで更に資産を増やすための努力をしなくても、普通に楽しい一日が送れるのである。これ以上、特に僕は何も望まない。もっとも、何度も書いてきているように「現状維持」をするためには、プラスアルファの努力が必要である。まったく100%同じ繰り返しでは、現状維持はできないのだ。だが、150%を目指すと、疲れる。105%ぐらいを目指すのが、ちょうどよいと、思う。漸近的な成長をしていけるというのが、幸せということだと思うし、「私」という自我同一性の安定にもよいと思う)

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