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小説を書くということ
2009/10/23 23:36 | Comments(0) | 思考及び書くこと

 いまのわたしには、明らかにしたいことがあります。

 それを表現するために、小説はひとつの手段だと思ったのです。

 しかしながら、小説に大切なことは、「共感」です。わたしはそれを求めてはいません。ということは、小説という手段に興味が失われる原因となります。

 

 ところで、わたしには、明らかにしたいことがあるのですが、それが何なのか分からないのです。

 分からないがゆえに、小説という「仮定」を用いて、実験してみようという試みであります。

 

 


 

 さて、できるだけ、考えないようにしたいと思います。今日は、その練習です。練習と同時に、実験です。

 何故そんなことを思いついたのかというと、ある人が、非常に高速な思考の持ち主だからです。その人は、「脊髄反射的に」コメントや記事を書きます。最初は、ある暇な時間に書いているのだ、程度にしか思っていませんでしたが、よくよくその人の周辺をさぐってみると、物理的に、高速だということが示されていました。コメントなどというのは、書き込んだ時間が分かるため、こういった見方も可能です。そういえば、mixiというツールで、「この人はいつアクセスしても「前回ログイン5分前」で、ドン引きする」、という話を聞いたことがあります。アクセス時間まで分かられるというのは、何ともイヤな気持ちがありますね。例えば、日中にコメントしていたら、「あ、この人仕事していないのかな」なんて。

 取り敢えず、わたしは四六時中インできるわけではありませんので、とにかく、書くときは考えない、ということをやってみようと思ったのです。例えば、ここまで書いていることは、ほとんど考えていません。ここで、「考えていない」ということを考えてみたいと思います。例えば、対面的コミュニケーションを行っている場合、ほとんど、考えることはできません。もちろん、或る程度思考を働かせる余裕がある場合はありますが、気の置けない知己の間では、瞬間的に言葉が出てくると思います。この「気をつかわない」というのが、考えないというのとほぼ同義と考えてよいでしょう。

 例えば、文章を書くというのは、どうしても、その形式上、気をつかわなければいけません。残りますし、文章というのは、会話のように、「あー」とか「うーん」とか、間投詞ではまったく伝わらないからです。対面的コミュニケーションでは、基本、言葉よりもイントネーションとか、ボディランゲージとか、表情とか、そういった外面的要素に影響を強く受けます。言葉なんて大したことがないというのは、「敬語の重要性」なんかを知っている人は、おかしいな、と感じられるかもしれませんが、瑣末なことなのです。

 変わって文章は、文字それ自体からしか読み取ることはできません。今回の試みなど、例外的な文章の楽しみ方なわけです。わたしがこういったことを書いていても、実は、わたしがじっくりと言葉を選んで、時間をかけて文章の構成を考えて、その上で書いている可能性はぬぐえません。わたしも、本当に何も考えていないのか、というのには、疑問があります。ただ、思いつくままに文章を綴っていることは確かです。

 しかしながら、テーマも何もなしに、書き続けるというのは、やはり難しいことです。自分の文章から、さらに新しいことをつなげていくというのは、相当頭がよくないと難しいかもしれません。他人の言葉に対してコメントしていくという方法は、実は簡単で、というのは、新しい刺激があるからです。結局、人の言葉というのは、自分の想定が否ことが起こりえます。もちろん、その「想定外」の出来事でさえも、自分の言葉の世界の再構成ということしかできません。全く新しい風を吹き込むというイメージは間違いで、今あるパーツの組み換えだということです。

 それでも、自分のもっているパーツだとしても、その特定のパーツを使うというのは、全くの偶然になります。それゆえに、自分の世界がごちゃごちゃになって、崩れると、修正しようという動きが自然に起きますので、他者のコメントを利用するというのは、楽な手法なのです。

 だんだん苦しくなってきます。何故なら、こんなことをしていても、面白くないからです。とくに興味の無い話題をつなげていくことになります。この方法は、実は、言葉のキャッチボールに他なりません。つまり、会話において必要な手段ということになります。相手の話したことを受け止めて、疑問に思ったことを投げ返す。相手はそれを受け取って、また投げてくれる。これが、会話の大きな流れといえます。

 たまに、あらぬ方向に球を投げ返してくる人がいます。例えば、女子高生の会話というのは、ノーコンで、様々な話題が切り替わっていきます。しかしながら、女子高生は、類まれな運動神経を有していて、暴投球を、ファインプレーでキャッチし、ジャンピングスローで返してきます。わたしは運動神経がないので、そういったことは苦手なわけです。なので、今やっている、考えない文章作成、というのは、ある意味、苦痛なわけです。

 というわけで、わたしは、会話があまり好きではありません。自分の話したいことを話すのは、まぁよしとします。しかし、基本的に、会話というのは、相手を受け止めることが大前提です。自分は二の次です。とすれば、相手は、自分を思いのままに出せているのか、という疑問がわきますが、そうではないのです。相手もまた、同じように、自分を押しとどめて、言葉のキャッチボールを行います。

 ここで、ものすごい奇妙なことに気付くわけです。では、「自分」というものは、一体どこにいってしまったのか、と。何故なら、わたしにも「自分」はいなくなるわけですし、相手にも「自分」はいないのです。どちらも、自分をわきにおいて、ボールを投げているわけですから。

 これが、よくいわれるところの、「空気」ということです。空気は、個人を消し去ります。消すというのはイマイチな表現で、個人をうやむやにしてしまう、とでもいいましょうか。もちろん、リーダー的人が、会話の流れの主導をするというのは、よくある話です。ところが、その人でさえも、実は空気には逆らえていないのです。リーダーもまた、空気の支配下において、自由にふるまっているに過ぎません。例えば会社の社長は、確かに大きな権限をもっているかもしれませんが、だからといって、好き勝手できるわけではありません。絶対王政の王様でさえ、厳しい日課をこなさなければなりませんでした。

 即ち空気は、人と人の関係が生じると、必ず表れてくるものです。そして、一度表れた空気には、誰もさからえなくなります。特に現代は、空気を読めない人は、異端として排除されます。

 少しここで、補足すると、一匹狼もまた、空気の中にいます。彼はおそらく、自分は、自分として生きていると感じていることでしょう。しかしながら、一匹狼だと周囲に判断されるというそのことによって、彼は、より広い範囲を覆う空気の中の一員に他ならないのです。

 本当に空気から逃れることができる人は、いません。引きこもりでさえも、引きこもりという名をもらっている時点で、逃れられていません。本当に逃れることができるとすれば、存在そのものを知られていないことが必須です。

 そんな空気を、うざったいと感じ、なんとか退けようとする人たちは、段々と増えてきました。しかしながら、全く無駄な作業なのです。哀れなことに。例えば、思考が高速な彼でさえも、自分で思っているほど自由ではありません。もちろん、彼の世界の中では、常人とは比べ物にならないくらい自由なのです。

 ところが、そんな彼を周囲は、「変わった人」「面白い人」と見なします。この時点で、彼は空気の中に取り込まれてしまっています。彼がその後、いくら奇抜なことを言おうとも、「変わった彼の発言」として人は判断を下します。簡単に言えば、慣れてしまうのです。

 多重人格は、少しばかり自由です。違った人格に切り替わることは、その空気を一新することを意味します。ところが、その人が多重人格であるとされてしまった時点で、その人の周りには、「多重人格者」という空気が流れ始めます。

 おそろしいことにこの空気とといったものは、外界から規定されるものであると同時に、自らも規定し出すのです。よく聞くことに、自分を明るい人間だと思っているものは、明るい人間になる、というのがあります。自分で明るい人間だと思うことで、周囲にも明るい人間だと認められ、結局その相互作用によって、より普遍的な明るさを手に入れることができるのです。逆に、自分をひねくれた人間だと思う人は、ひねくれた行動を自然に取ってしまい、結果として周囲の人にもひねくれた者だと感じられ、その循環によって、より普遍的なひねくれた人になるのです。

 取り敢えず、空気から逃れられてはいませんが、この方法を使えば、実は、空気をコントロールすることはできるのではないか、と思うわけです。で、あれば、です。何も難しいことはありません。自分を、「幸せな人間」だと思えば、上記のような循環によって、より普遍的な「幸せな人間」になることができるのです。

 さてここで問題になります。「幸せって何?」と。

 これが大問題です。今も、昔も、常にわたしは考えていました。というのは、おそらく、現実と「幸せ」の感覚とがかけ離れていたからでしょう。わたしは、不幸でした。そのため、幸せをえようと、いままで、いえ、今も、ずっと努力をしているのです。わたしは、本当は、実に努力家なのです。ただ、外在化される事柄としては、凡人以下レベルですので、大した努力をしているようには、誰も思いません。ゆえに、わたしは、孤独を深めるわけです。

 ところで、一般的な幸せの定義が、わたしの感覚を癒してくれないばかりか、余計苦しめる結果となると知ったとき、わたしは、現実を変えることよりも、自分を変えることを選びました。ここに、わたしの謙虚さがあります。しかしこれも、「自分の殻に閉じこもる」という、ネガティブな言葉で表されることです。そしてわたしは、社会から爪弾きにされるのです。

 しかし死にます。わたしは、考えがつまると、いつも死から始めるようにしています。如何に死ぬか、何故死ぬか。いつも、単なる仮定にしかなりません。しかし、仮定でも、その仮定に基づいて実行することはできるのです。

 常に徹底的に肯定するという、ナイフを首に突きつけられたような感覚でいることが、必要です。油断はいけません。常に全力で、自分を追い詰めていきます。時に、自分を口汚く罵ります。「キモいんだよ、テメー。死んじゃえよ」。わたしは、悔しさに涙をこぼしながら、言い返します。「死ねないんだよ、ばか……」。そもそも最近では、死にたいのか生きたいのかもはっきりしません。ただただ、全力で苛々しています。そう、苛々。最近、とても苛々するのです。何に対してかというのは、あまり重要ではありませんが、自分に対して、です。

 わたしは、他者を憎めません。イライラするのは、基本的に、自分に対してです。仕事でミスをして、上司に怒られたとします。単純にいえば、ミスをしてしまった自分が腹立たしいのです。しかしそれだけではなくて、ミスをしてしまい上司に怒られている自分に腹が立つのです。

 これは、簡単に、完璧の病にかかっています。ミスをしない自分、というのが至上価値として念頭に置かれているので、現実の自分がそれを満たせないときに、苛々が生じるわけです。しかし、それだけではありません。

 例えば、これは実話ですが、知人がわたしのネクタイを見て、「お、それ、買ったの?」と言ってくれました。「買ったに決まってるジャン」とわたしは答えました。「……」と友人。「あ、最近買ったか、ってことね。いや、前から持ってるし」とわたし。

 わたしはこの出来事によって、数時間苦悩していました。

 知人に不快な思いをさせてしまったからか。いえ、そうではありません。わたしは、知人に不快な思いをさせてしまった自分が苛立たしかったのです。

 これは、言葉の捉え方の問題でありますが、実は、コミュニケーションにおいては、実に重要な意味をもつことです。前者の理由であれば、思いやりの或るやさしい人、であり、後者であれば、自己中心的な人、となります。

 実は、その両方は、何ら変わりはありません。表現上の些細な違いです。であれば、前者を選択した方が、身のため、というか、絶対に正しいはずなのです。

 しかしながら、わたしは、わたしの価値観において、後者を選択せざるをえないのです。某氏は、人を信じることしかできない、といいます。某氏にとって、騙されるということはありません。すべて、想定の範囲内の出来事なのです。何故ならば、そもそも、想定といった概念が存在しないからです。自分の身に降りかかったすべてのことが「事実」なのです。

 わたしは、可能性の無限遡及に嵌っています。この世界は、すべて可能性で構築されているといえます。例えば、明日生きる可能性と、明日死ぬ可能性。その可能性は、どちらも等しいのです。通常の感覚としては、ありえないことだと思います。そんな、癌末期でもあるまいし、明日死ぬなんてありえないでしょう、と。しかし、可能性としては十分にあります。しかし多くの人は、そんな可能性は、可能性のうちに含めません。基本、一般的には、人は、蓋然性の中で生きているといえます。蓋然性というのは、可能性よりも確率が高いもの、とここでは考えて欲しいと思います。可能性は、起きるかも起きないかも分からないものですが、蓋然性は、起きないことはあるかもしれないが、起きるだろう、ということを意味します。分かりません、実は意味が逆かもしれませんが、思考を止めないためにも調べるなんてしません。取り敢えずそういう意味で使います。

 しかしながら、わたしの感覚では、可能性から抜け切れないのです。だから、もしかしたら幸せな結婚ができるかもしれないと、無批判に思い描いてみたりもします。同時に思考の中で浮かぶのは、一生独身で寂しく暮らすんだ、といったイメージ。どちらを採用するかといえば、確実に「不快」な方です。で、この二択は実は、非常に欺瞞に満ちていて、この中で選ぶとしたら前者しかないわけです。実際は、独身で楽しく充実して暮らす可能性だって、「テメーくせーんだよ。パチンコでも行ってろよ」と300円投げつけられる結婚生活だって可能性としてあるわけです。

 何故、では、幸せな結婚と、寂しい独身生活、というのが、二択として取り上げられるのか。これまた同じ理由で、不快だからに他なりません。

 つまるところ、わたしの思考というのは、マイナス、マイナス、不快へ、不快へ、と向かうようにできているわけです。

 何故か。

 長らく考えてきたことではありましたが、わたしが、繊細だからです。例えば、葬式に行って、それほど親しくない人でも、非常につらい気持ちになって、涙をこらえるので精一杯だったというのは、誰も分からないでしょう。わたしが何が哀しかったかといえば、そうしきという雰囲気であるわけですが、家族の人たちの気持ちが想像されることによって、いたたまれなくなったからです。

 わたしは非常にデリケートです。そして、思い描いた想像通りにならないと、発狂する習性があります。

 ゆえに、常に、最悪の状況を思考しなければならないのです。そう、これは、自分を守るために絶対必要な防衛策なのです。

 だからこそ、わたしは、絶対に人を信じることができないのです。

 逆に、これを実行すると、ありとあらゆる現実が、わたしに快を与えてくれます。当たり前です。思考上では、最低最悪の地獄にいるわけですから。

 もっとも、概念上の話で、実践的には不備が多くあります。現実、すべてのことを予測するなんてことは、不可能です。某氏は、起こったことすべてを想定済みと感じることができるため、人を信じることしかできません。確かに、人を疑うことしかできないという思考よりは、信じることしかできないという思考の方が、堅強です。柔軟ゆえに、壊れない。高く堅い城壁を作っても、いずれ壊されます。しかし、スポンジのように柔らかければ壊されにくいし、そもそもなければ壊される可能性はゼロです。

 最悪の状況を想定する、というよりは、起こってしまった後に、それは最初から自分のものだった、と解釈しなおす方が、柔軟で有効性があります。

 ところで、この話ももう興味がありません。

 そろそろ飽きてきました。第一、わたしは、

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