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30代男が生きる意味を徹底して考えるブログ。

   
セーレン・キェルケゴール

 いずれ、このブログのタイトルを決めたとき、書くことになるだろうことは予想していました。

 それが、今になることに、特に意味はないでしょう。

 彼は、わたしがコミットするに、値する人物でしょうか。

 

 某氏は、確かに興味深い人です。

 しかしながら、某氏が、今を生物的な意味で生きている、という点において、わたしは信じることができないでしょう。

 某氏が、類まれな才能と、「絶望」を得た人とはいえない存在だったとしても、現在進行形で語ることができる以上、それが某氏の限界であるのです。

 

  彼は、生前、多くの仮名で著作を残したといいます。

 そのわけを想像してみると、それだけで面白いのですが、取り敢えず、地道な作業に入りましょう。

 

 



 

三 この病(絶望)の諸形態。

A、絶望が意識されているかいないかという点を問題とせずに考察せられた場合の絶望。したがってここでは綜合の諸契機のみが問題となる。

a、有限性と無限性との規定のもとに見られたる絶望。

α、無限性の絶望は有限性の欠乏に存ずる。

 

 文献学を踏襲しようとは思いません。引用に関しての誤字脱字は気にしません。個人的には気になるのですが、瑣末事ですし、直そうと思えばいつでも直せることです。問題は、それに気をとられるあまり、進めるべき思考が中断されることです。

 基本的に書籍に目を置いて打ちますので誤変換が目立ちますが、意味の取り違いの可能性が高いもののみ訂正しようと思います。

 そもそも、訳文なわけですから、正確性や描写の感覚を望むのはナンセンスといえます。わたしの主張したいことの一つに、「理解可能性」がありまして、であれば、他言語による相違性から逃れるすべはありません。

 

a、有限性と無限性との規定のもとに見られたる絶望。

 自己は無限性と有限性との意識的な綜合であり、自己自身に関係するところの綜合である。自己の過大は自己自身となるにある、――これは神への関係を通じてのみ実現せられうるのである。ところで自己自身となるというのは具体的になるということの謂いである。だが具体的になるというのは「有限的になる」ことでも「無限的になる」ことでもない、――なぜなら具体的となるべきものは実に綜合なのであるから。そこで発展は次の点に存じなければならない、――自己を無限化することによって自己を無限に自己自身から解放すると同時に、自己を有限化することによって自己を無限に自己自身へと還帰せしめること。自己がそういう仕方で自己自身とならない限り、自己は絶望状態にある、――自己がそのことを知っていると否とにかかわらず。ところで自己は、それが現存しているおのおのの瞬間において、生成の途上にある。なぜというに「可能的なるものとしての」自己は現実的にそこにあるのではなく、どこまでも現実化すべきものとしてあるに過ぎないのだから。そこで自己がそれ自身にならない限り、自己はそれ自身であるのではない、そして自己がそれ自身で無いということが絶望にほかならないのである。

 

 ところで、非常に分かりにくい文章であるのは、わたしの書く文章と同じで、前提の上にさらに前提を構築していくからです。もしくは、前提を提示した瞬間にそれを否定しようとします。こういった文章には、言葉を追っていくと、見失います。

 

 ポイントとなるのは、「自己を無限化することによって自己を無限に自己自身から解放すると同時に、自己を有限化することによって自己を無限に自己自身へと還帰せしめること。」この文章。

 この後の、「α、無限性の絶望は有限性の欠乏に存ずる」、「β、有限性の絶望は無限性の欠乏に存ずる」、は、その章立ての構成からも読み取れるように、その具体例と考えられます。 

 

 正直に書いていけば、わたしはしばらく、このことに気付いていませんでした。

 夢や希望をもてという教育の賜物かもしれません。しかしながら、その価値観がゆえに、現実的な自己との乖離が生じ、いわゆる「悩み苦しみ」が発生しました。

 

 この後に触れられることでありますが、

b、可能性と必然性の規定のもとに見られたる絶望。

α、可能性の絶望は必然性の欠乏に存する。

β、必然性の絶望は可能性の欠乏に存する。

 

 ということになります。

 

誰かが絶望せんとしている場合には、「可能性を創れ! 可能性を創れ!」と我々は叫ぶであろう。可能性が唯一の救済者なのである。可能性! それによって絶望者は息を吹き返し、蘇生する。可能性なしには人間はいわば呼吸することができないのである。時には人間の創造の発明力だけで可能性が創り出されることもありうる、――だが結局は、神にとっては一切が可能であるということのみが救いとなるのである。すなわち結局は信仰が問題なのである。

P.62

 

 関係ないことを書けば、「神」ときくと、日本人はどうも、胡散臭さが先行するようです。

 オウム真理教の事件などが原因の一つでしょうか。

 

 しかしわたしは、「神」という概念は、非常に身近なものだと感じ、またそれを客観的に示してもいます。

 例えば「価値観」といったものは、「神」になりうるものです。

 現代日本社会は、「資本」という神に支配されているともいえます。もしくはコンプライアンスなんてどうでしょう。

 

 即ち、神というのは、絶対者なわけです。我々が意識せず服従し、しかしその存在を無条件に認めているもの、それが神(という概念)なのです。ニーチェの「神は死んだ」という言葉を、表面だけとらえれば、間違いだといえるわけです。

 

 

 本題に戻しますと、現実レベルで自己を規定しつつ、なお無限の可能性を受け入れるとは、そんな、無茶な、という気持ちになるでしょう。

 しかしそれに気付きも、実践もしていない者たちを、彼は、「絶望者だ」と言い切ります。

 

 それは何故なのでしょうか。

 

 物理的時間上今日はここまでです。

 

 

 

 

 

 現在あたっているのは上記の書籍。↑ 

 

                         ↑

  こちらの方は、注が豊富のようで、今度買ってみようと思います。また、あまり拘りませんが、上記の岩波とは違い、原典(デンマーク語)からの訳のようです。

 

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