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センシティブな人について
2019/01/16 21:14 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「臨時の記事だ」

前書き

 土曜日毎週更新と決定している。しかし、別にそれ以外に書いてもいい。書く。

 HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)という言葉があるのを最近知った。
 病気ではないけれども、外界の刺激に敏感な傾向がある人のことを言うそうだ。
 
参考リンク

 でまぁ、診断基準的なのもあって、5人に1人の割合でHSPはいるということだ。
 ――という言葉で、「結構多いな」と思えるかというと、その1/5というのが、国や社会や集団によるのかとか、諸条件が気になるし、個別具体的にどう当てはまるのかというのは納得感をもてない(男女の差に優位はないらしい)。

 ただ、「鬱」とか「LGBT」じゃあないけれども、そういった概念があるということは、覚えておいて損はないと思う。

 HSPの人は、車の走るスピードが(ふつーの人より)速く感じたり、電話の音とか(ふつーの人より)うるさく感じたりするということだ。
 ただ、HSPという言葉は、「個性」というか、才能だという肯定的な意味で用いられているということである。細かいことによく気づいたり、抽象的思考に優れていたりするということだ。

役立つことを一つぐらい散りばめたい

 ぐだぐだ書くのもいいが、一つぐらい、常に役立つことを含めたいと思った。
 例えば、「内奥(ないおう)」という言葉は、「心の内奥」などと用いて、内部の奥深いところを示すという、まぁ読んで字の通りのものだけれども、実際用法として自分が使えるか、というと使えない。

 読んで理解できるものと、自分が思考言語、ないしは口頭言語として使えるものは別だ。(対義を「理解可能言語」と表現したところであまり意味はない)

 ということで、何かこう外部から、言葉をメモして、思考言語をもっと豊かにできたらどうかと思いついたことを、まず今回の記事としてメモしたい。
「通奏低音」――これも読んで字のごとく、音楽で流れる低音パートのことや、物事や考えの底部に流れていることを示すわけだが、意識的に使おうと思わなければ、理解可能言語のまま終わる。


 しかし果たして――言葉の豊かさは、思考の豊かさになるのか。
 むしろ、物理などは、自然のカオスを、より単純な一つの法則によって描こうと試みるのである。冗長な表現をしたところで、理解が深まったとは言えないのではないか。

 両方必要である。(つまらない回答だ)
 僕は、理系とか文系とか、そういった考えもつまらないと思う。両方大切だ。
 自然に対してのアプローチが違うだけなのだ。専門家になるのでなければ、両方のアプローチを知っておいて損はない。

雑記的部分

 といったことを思ったのと、「毎週土曜日更新」という目標のインプットのために、今日ぐらいは、書いておかねばなるまいと思ったのだ。
 目標、立てた瞬間は、「やれる(実行できる)」と思うものだ。
 それを、いろいろな「障害」があった後、数日後に同じモチベーションを保ってられるのか、その確認作業をできるだけ、最初は頻繁に行う。そのうち、感覚を広げていって、定着感を確かめる、そんな風な作業が必要なのだ。


 ということと、休日について、だ。
生きてるだけでしんどい
 という記事というか、タイトルを読んで、「ああ、なるほど」と思った。

「休日誘われると嬉しいちゃ嬉しいけど、生きているだけで負債がたまっていくから、休日はそれを回復するのに使わないといけないのだ」
 という。

 先日、かっこ書きで、「知人等に誘われて、実際行ってみると楽しかったりするけれどもリソース消費が激しい」ということを書いたが、その、「何もしないこと」に忙しいのである。

 予定が特にないと、「暇でしょ」と言われるけれども、そうじゃないんだ、ということだ。
 なんかどっかにでかけないと「休日がもったいない」とか、そんなん、全然違うんだ、ということだ。



 で、まぁ、そういう感覚と、HSP(ハイリーセンシティブパーソン)とが密接に結びつくのかとか、まぁ疑問は多く発生するけれども、そんなことはどうでもいいのである。
 大事なのは、そうした「思考表現」によって自己理解が可能になる、ということだ。

 流行りの言葉を使えば、「自己肯定感」でも「承認欲求」でもいい。
 ま、とにかく、普遍的に大切なのは、誰しも、「いい感じの状態」でいることだろう。


(かっこ書きである。飲み会と仕事が上手くいかないのとで、非常に疲れている。仕事の方は、自分が悪いというわけではないけれども、まぁその、問題が発生したという結果に対しては、責任がないとは言えないだろう。堤防を越える津波が来ることを予見できなかったら犯罪なのだ。しかし、責任というのは曖昧なものだなと思う。いやまぁ実際、上司の裁量とか、会社の規約とか、日本国法とか、ちゃんとした基準はあるんだろう。しかし、科学でさえも自然のすべてを解明できていないのに、所詮人間の作ったルールが完ぺきなものであるはずはないのだ。そして、ルールを運用するのもまた人間に過ぎないのだ。科学的思考や資本主義的思考は、普遍的なものが絶対的にあるかのように振舞ってきた。――的な書き出しすると、神やスピリチュアル的なものがあって、それらを信じてるのか、とか疑われそうだけれども、結局、そういったものの信仰もまた、絶対性の誤謬である。かといって、相対主義論に拠ってしまうのも間違っている――何故なら、実際に運動量保存則が成り立つケースは存在するのだ。窃盗罪は「10年以下の懲役または50万円以下の罰金」であって、ちゃんと基準をもって量刑が言い渡されるのである。事実は、事実として存在する。しかし、毎日ふつーに生きていくにしたって、その判断は、いつも流動的であり、不確定要素があり、時間的制約もあり、大変だ。お昼に今日何を食べようかという思考も面倒だ、大変なリソース消費だ(大げさ)。ちなみに、量刑の懲役か罰金かというのは、数か月前ぐらいに何かで調べるまで、被告人が選べるのかと思っていたら、そうじゃなかった。大の大人がお恥ずかしい。しかし、「知らないこと」というのは、もうそりゃ沢山ある。きりがない。だから、無知の知的態度が大事なのは言うまでもなくて、逆にそうだからこそ、そのきりのない中で「ストーリー」を構築できる人が、作家としてだけじゃあなくて、どんな分野でも成功できる。何故ならば、一般ピーポーは、ストーリーを構築できない。誰かのストーリーに寄り添って生きるしかない。さらに悲劇的には、自分自身のストーリーさえ構築できない。「自分の人生は自分のものだ!」とか掛け声は立派だが、その実は惨憺たるものだ――と書くと言い過ぎなのは承知の上だが、まぁその、思ったほど簡単なことじゃあない。まだ学校の勉強していた方が楽なもんである。にもかかわらず、子供たちに、「将来の夢は」なんてのは、酷な話である。いやまぁ大事なことで、やめるべきだという主張ではない。でも、「お父さんのようなお医者さんになりたいです!」とかいうのが、本当に「自分のストーリー」なのか、ということの疑義だ。ということを書くとスグサマ逆に、「別に自分のストーリーいらないんじゃない?」というのも思い浮かぶけれども、まぁその、あった方がいいと思う――というかかっこ書き長い。本文とどっちが長いのかと思うくらいだ。やめよう)

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