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ジョルジュバタイユの内的体験
2016/09/16 00:14 | Comments(3) | 思考及び書くこと
無意識、夢の中で、「生きるのであれば、こんな生活変えてやる!」と言った(想像)。

未来、未来がないのだ。だから今が幸せだろうが、不満や不安でしかないのだ、と言った。


――ならば、未来を、創ればいい。


ジョルジュ・バタイユの内的体験を読んで

別に、新しく買った本ではない。かなり前に購入し、読み始め、「うわ、なんだこれ、分かりづらい、難しい、やめよう」と、本棚に埋まっていた。

で、恒例の本棚整理の日に、当然、売却対象候補になった。

しかし、意外やに、今の現時点においても、かなり高評価であり、アマゾンのUSEDも下落していない(1円になっていない)。

難解なのが面白いというわけではない、ただ、何か人を惹きつける何かはあるのだろう、そう思って、残しておいた。


最近になって、ちょっと開いてみた。特に、理由はなかった。ただ、息をするとか、鼻水をかむとか、そんな程度に、手に取った。

なんか、ちょっと「わかる」って感じになった。

もし私が思いきって「神を見た」と言うとしよう。すると、私の見るものは質を変えてしまうだろう。想像もできない未知のものの代わりに死んだ客体が、神学者の持ち物が顔を出すことになる。そして未知のものはそうした客体に従属させられてしまうだろう。なぜなら、神ということになれば、恍惚が啓いてくれるおぼろな未知のものは、私を隷属させるべく隷属させられてしまうからだ。

例えば、上のような表現が、なんとなく、わかるのだ。

この本、そもそも、何について書かれたものなのか、実は未だに分からない。

ただ、「内的体験」というタイトルの通り、人間の内面の存在を表現する試みなのだろうと推測する。
それはおそらく、心理学的なものではなく、まさに、瞑想したような状態、法悦の、恍惚の、感動の状態を表そうとしたものなのだろう。


解説のあとがきにあるように、きっと、全部の文章、一文一文を理解する必要がないのだと思う。
つまり、神をも恐れず言いのければ、僕のブログのようなものなのだと。(天罰がくだるぞ!)



もっというと、自己啓発的な奴とは違い、きっと、結論だけ読んでも、何も分からないだろう。
いやむしろ、結論めいたものが書かれているのかどうかすら怪しい(フランス思想書の研究者たちに石を投げられる!)。

ただ、表現として、面白そうだと、今は思う。

昔は思えなかった。これは、読書力があがったとか、そういう問題ではないと思う。
おそらく、「思考」がかわったのだ。そして、「文字」に対しての考え方が変わったのだ。


無気力さの取り扱い

「何もしたくねぇ」
と、本気で思う。
最近特にその傾向が高い。

その、何もしたくないというのが意味するのが、非常に曖昧模糊であり、ただ単に、何かに集中できないような状況であるともいえる。「こんなことして、なんになるのか」とか。これら、なんでも「意味」を求めようとする呪い、というか悪癖というか。ただ、意味を捨て、家畜のように生きることは、おそらく、一度呪いにかかったものは、することができないだろう。それが、このブログタイトルへの決意である、「徹底して考える」という点にあらわれているのだろう。(推測、の文末表現になるのは、過去の自分は他人、という考えによるものだが、それより、単に記憶の曖昧さに起因する)

しかし、よくよく、休んで時間をつくってみれば、
・ゲームオブスローンズは面白い。ストーリー、セリフまわし、映像、たまに入るエロシズム、よく入るグロスティック。良い作品である。DVD1巻が、2時間で、5章の4巻目までみたから、少なく見積もっても、48時間費やしていることになる。え、まじか、そりゃすげぇな。数字にすると驚く。

・進撃の巨人は面白い。今20巻だが、面白さが衰えない。

・アイアムアヒーローは面白い。今20巻だが、面白さが衰えない。スピンオフ作品? オメーはダメだ(いや、そんなダメじゃないかもしれない。でも、1話だけ読んでみて、あまり読もうとは思わなかった)。

・モノガタリを創るのは面白い。


そう、意外やに、やりたいことは、あるのだ。
ただ、無気力の野郎は、本当に身近になっている。いや、これは冗談ではなく、本当にお友達になった方がいいのかもしれない。本当に無気力だと、自殺する元気もないと言うしなハハハ。


未来がないなら創ればよい

「僕」
という存在に、未来はないのかもしれない。

でも、モノガタリは、創ることはできる。

自己を投影した主人公は、きっと面白くないだろう。

ただ、想像しうる、人間存在や、自然、科学、事象、因果、宇宙、物理法則、社会、集団、思想、価値観……それら諸々について創造することにより、本来的自己の「何か」片鱗をみることができるのかもしれない。


先日、書いたかどうか忘れてしまったから、もう一度書いておくと、

「生きる意味を考える」

というと、「キモーイ」と言われるが、

「自分の価値観の軸をつくり磨いていく」

といえば、なんか「できる男」みたいでかっこいいと思われるかもしれない。


そう、所詮、「表現」でしかない。


表現という世界

最近、新しい書物にあたるのが億劫になったのは、歳をとったから、というよりも、
「表現性」の問題に気づいたことによることが、大きいかもしれない。


いくら回りくどく、小難しく、難解なテクニカルタームを用いたとしても、「平易な言葉で理解できる範囲に展開すること」ができなければ、所詮それは「理解」ではなく「暗記」である。

いやもちろん、暗記が悪いことではなく、むしろ、暗記というか、記憶の積み上げが、人格を形作っている、という現在の僕の立場である。

先般、「残酷な世界で生き延びる方法」(タイトルが違うかも)において、「こころ」とは、他者のこころをシミュレートする機能である、という表現があったけれども、というよりも、こころ=人=人格=自己=とは、「記憶である」と言った方が、僕は今のところすっきりする。


だから、固有名詞の記憶というのは重要なのだけれど(たとえそれが、因果を知らない暗記であったとしても)、記憶力の程度は、その人の頭の良さによるし、反復がなければ忘却は避けられないし、老いは必ずやってくる。


であれば、僕が思うに、重要なのは、「概念記憶」だと思うのだ。

概念記憶

概念記憶とは、そうさな、固有名詞を一切用いずに、事象を説明できること(アウトプットできる記憶)、である。

何だろう、ここで、かっこいい例えが言えたらいいけれども、いえなくて、例えば、「重力」といったとき、英語でグラビティとか他の言語による表現などたくさんあるのだろうけれども、

重さをもった物同士が引き付けあう力

とアウトプットすれば、それは概念記憶といえる。
いや単に、高いところから物を落とすと、下に向かって落ちる現象を引き起こす力、といってもいいし、いろんな表現がある。

上に書いた表現、それって「万有引力」では? という疑問もあるが、厳密な違いの記憶が今はない。ただ、調べれば、なんとなく思い出すだろう。

とにかく、概念記憶とは、限りなく平易な言葉で表現するために必要な記憶(情報構成能力)のことである。



で、ここで僕が気になるのは、その「限りなく平易な言葉」ってなんだよ、となる。

これが、養老さんの仰る、「バカの壁」の話につながる。

つまり、人のインプット能力(記憶の多寡)によるコミュニケーションの限界性である。
(「つまり」とかいって、全然要約できていない。)

ええと、なので、「限りなく平易な言葉」が、人によって異なるというわけだ。


またしても、バカげた例えをすれば、「異なる」といっても通じない人がいるかもしれない。「違う」と言ってあげなきゃいけないかもしれない。

でも、でも、だ。違うと異なるの、違いを、残念ながら、以前調べた気もするが、今は覚えていない。が、そのほとんどの人が、特に差異を気にせず用いている表現、それを記憶して、なんになるというのか、という疑念、それが、「通常記憶よりも概念記憶の方が重要なんじゃないか」と、先に書きたかったことである。


では、そういった、概念記憶は、どうやってつくっていけばいいのか。

体験・経験・感動

心に刻まれること。
潜在的な意識に刻み込まれ、無意識下で行動の源泉となるもの。

それが、概念記憶を作り出す。


だから、先の、ジョルジュ・バタイユの、内的体験の、その「体験」とは何かを表現する試み、今僕はとても興味がある。


この「興味」。

これは大事だ。

これは、言い換えれば、「未来」だ。

良い作品の、続きを「読みたい」。これは「欲求」という。欲求も非常に重要だ。


そして、僕は、そんな良い作品を創りたいと、今はそう思う。
これは、もしかして、無味乾燥な僕の人生に、少しばかり潤いを、「未来」を、もたらしてくれるのではないだろうか。




――と、前向きに書いておいて、興味深いのは、明日の自分の感想だ。


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コメント

>内的体験

 「なんかよくわからんもの」に名前をつけることで、「なんかよくわからんもの」が本来持っていた「意味量」というか「感動量」みたいなものが見る影もなく目減りしてしまう現象のことかな?
 『ノスタルギガンテス』でも似たようなテーマを扱ってましたが、いやぁ、しかし、そうは言っても名前のないものを人は認識できないし扱えもしないんだからしょうがないじゃないかと思ったりもします。
 とはいえこれはやはり妥協なのか。
 文章は「最高」の表現媒体であると今も昔も思っていますが、理論上これ以上のものが存在しえない「完璧」な表現媒体かと言えば、たぶん否なんだろうなと最近は思うようになりました。
posted by バールat 2016/09/16 22:17 [ コメントを修正する ]
>内的体験

 「なんかよくわからんもの」に名前をつけることで、「なんかよくわからんもの」が本来持っていた「意味量」というか「感動量」みたいなものが見る影もなく目減りしてしまう現象のことかな?
 『ノスタルギガンテス』でも似たようなテーマを扱ってましたが、いやぁ、しかし、そうは言っても名前のないものを人は認識できないし扱えもしないんだからしょうがないじゃないかと思ったりもします。
 とはいえこれはやはり妥協なのか。
 文章は「最高」の表現媒体であると今も昔も思っていますが、理論上これ以上のものが存在しえない「完璧」な表現媒体かと言えば、たぶん否なんだろうなと最近は思うようになりました。
posted by バールat 2016/09/16 23:01 [ コメントを修正する ]
私も、かなり最近まで、言語表現できるものが全てと思っておりました。
表現できないものは認知もできないし存在しない、とまで言うと違和がありますが、それでも、取り扱えないものは仕方がないという考えもありだと思います。

一方で、その語り得ぬものというのが、存在しないからというよりも、他者との相互作用において、完全な伝達は不可能なのだという認識が自分の中では問題意識が高い気がします。
いくら表現を尽くしても、自分というものは表現しきれない。であればむしろ、恍惚の、トリップした中に表現できない要素を、感じることができるのではないかと思ったりもします。

と、思い付いたことは置いておいて、意味量や感動量が名前をつけることで目減りするというのは、私がわかる、と表現したことに近いと思いました。
もう少し自分の感覚を厳密に考えると、名前をつける、というよりも、「認識する」状態になったとき、それは自分の言語表現力や認識力が、枷や檻として、なにやらよくわからないものを規定してしまう、という感じでした。
posted by 遠藤at 2016/09/16 23:40 [ コメントを修正する ]

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