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はてなブログに移行しようかと思ってやめた
2019/02/27 19:00 | Comments(0) | 生きる意味
今日の一言「臨時の記事だ」「初心は忘れてはならない」

前書き

 眠れない夜に書く記事。
 体調が良くないのもあり、少し早めに寝たら、午前3時に起きた。そして眠れないので、こういうときはせっかくなので、書こう。

 ふと、イヌジン氏という方のブログを見つけた。

幸せの、ありか。
「書くこと」なんて、手段でしかない。

 面白かった。そうそう、(上から目線をいつものごとく承知で書けば)こういうブログ氏を求めていたのである。
 中々こういった面白い語り口で面白いことを(続けて)書き綴っている人に出会えないものだが、これはブクマ決定だな。

 先日、面白そうだけど、ちょっと惜しいな、というのは、1行目で大体わかる、と書いたけれども、やっぱり、「分かる」。
 で、2、3記事読んでみれば、確信へと変わるもんだなと、そう思った。

はてなブログ面白そうだ

 そいで、はてなブログというものを、僕も登録したことはあるけれども、やっぱり、ブックマーク機能というのは面白いなと思った。
 広い意味でのきっと「トラックバック」的な機能があるんだと思う。

 僕は今、上のように「リンク」を貼ったわけだけれども、トラックバックは、「強制的に相互リンク」的な感じだ。要は相手の記事にも、自分が関連する記事を書いたことが通知されるのだ。
 この機能によって、関連した人の輪が広がっていく、そんな感じ。

 イヌジン氏は結婚されており、お子さんもいて、40代ぐらいということで、自分とは全然環境が違うけれども、でも、(上から目線(以下ry))「参考になる」気がするのである。

 だったら、そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていくというのも、僕の欲求ベースで面白そうだな、と、そう思ったのである。

でもやめた、という記事

 でも、ある機能というか、内容を見て、僕はやっぱりやめようと思った。

 コメントだ。

 上にあげた二つの記事ではないが、「バズッた」(いっぱいブックマークとかイイネされている)記事において、「つまらないコメント」がたくさんついていたのを見て、僕は、今のこの忍者ブログでいいなと思った。

 もちろん、機能的に忍者ブログだってコメントぐらいはあるので、同じような、「つまらないコメント」が大量になることだってありえるだろう。

 だから、要は、「そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていく」ということをやめようと思った、ということだ。


 面白そうな試みだ。
 いま、未来(ここ数年だろう)に不安要素を感じて身の振り方を考えている僕にとって、一つ、「楽しいと思える場づくり」に寄与するんじゃないかと、思った。

 でも、それは、きっと眠れない夜の、寝ぼけた考えなのである。

 忍者ブログは忍者ブログ的に、お忍びでよいのだ。


 批判コメントを恐れている気持ちの小さい人間だって?

 うん、それはそうだと思う。
 ただ、それだけじゃない。そもそも、「マイナー」である人間だってことは、先日――いつだっけなぁの記事から、もう認めていいんじゃないかと、いくつか書いていた気がする。
 多くの人に共感的なことを、僕はたぶん書けないんだろうから、多くの人に読まれるようになれば、批判的なコメントも多くなるだろうことは分かっているのである。

 だが、そんなことの確認をするために、わざわざ多くの人に読んでもらう必要があるのか。

 僕は今はないと思っている。

 40代になれば変わるかもしれない。それは分からない、普遍ではなかろう。
 でも今は、ない。

「現実」との輪郭

 むしろ、だからこそ、良い。

 そうだ、僕が「書く」ことを必要としているのは、「あるべき人間像」的なサムシングと、僕の「自己」との境界を明確にする必要があるからなのだ。

 このブログを読んだ人たちは、おそらく、僕のことを変人だと疑わないだろうが、自分で言うと嘘くさいが、でも、「社会的」には、意外とまともに思われているのである。これは、自尊でも傲慢でもないし、そのことが嬉しいかといわれると、別にそうでもない。当然だ、誰しも「自己」として生きたいし、生きるべきだ。


 でもそれは、ある意味、「意識的に」やっていることである。――もちろん、この意識的というのは、毎回毎秒考えて行動しているという意味ではない。
 それと、ある精神科医氏のブログでも述べられていて、僕もそう思うが、道徳、様式、マナーなんてものはくだらないが、しかし、それすら一定の基準を満たせない人は損をする、ということだ。――ここで、「くだらない」と書いたが、当然「価値」はあるのであって、でも僕の本心的なサムシングにおいては、「くだらない」という表現が適切だと思ったから、そう書いただけだ。だが、「バズった」状態になると、そういう一つ一つの表現に対しての不快感を抑えられなくて、攻撃的になる人が必ずいる。これはインターネットだけでなく、現実でも当然そうであり、だからこそ、マナー的なのが大事なのだ。

 という、上の段落のような感覚が僕にはあるので、だからブログ(書くこと)が必要なのである。
 上の段落のようなことは、真綿で首を絞められるようにじわじわと、でも確実に心が蝕まれていく。自己が侵食されていくようである。エヴァの使途の精神攻撃的な奴だ。


 まぁだから結論として、このまま現状維持しますよ、という記事となる。
 ただ、「そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていく」というのも悪いことではないと思っているので、それはそれで、カクヨムとかNOTEとか、別の方向で模索していくとしよう。



(かっこ書きである。イヌジン氏の記事、ほとんど関係ないやん、という記事になった。いや、書かれて述べられていることは、もちろん100%ではないが、納得したり感心したりを多くしたのである。ただ、それは特に、僕が書こうという気にはならないだけだ。コメントってそういう性質かもしれない。つまり、「違う」と思ったことを人は書きたいと思うということだ。ただ、僕はそれとはちょっと違う。「違う」ことはとても多くあるので、いちいち目くじらを立てたくならない。むしろ「共感」したことを書きたい。これには表現が難しいところがあって、以前とある友人との会話の中で、「会話に共感しか求めてないなんてつまらねえな」と友人がおっしゃっていたが、僕はそれに「いや、大半の人は共感を欲しているはずだ」といって議論になった。そこで僕がいった「共感」と、僕が前に書いた「共感」は違うのだ。難しい。分かりづらい。カタルシス、という意味ではないのだ。いや、その意味もあるんだろうけれども、「そう! そうだよ! だからね、僕はこう思うんだ」的な感じなのである(あいまい)。ああ、そんなことを書いていて少し思った。未来が不安だなぁと書いたのは、それが、当然新しいプロジェクトだということはあるが、まぁそれは今までもそうだったし、まぁそんなものだろうなという気もするが、それだけじゃなくて、「多くの人を説得する必要がある」という内容が多く含まれている、ということが気を病んでいる面がある。僕は新しく資料なりツールなりフローなり作ることは好きであり、それを説明したり使ってもらったりするのも好きである。ただそれは、人の「欲求」がある程度方向づけられている場合においてである。興味のない人に興味をもたせるとか、反対意見の人を説得するとかは、好きじゃないのである。反対意見というのがそもそも大嫌いだ。反対するんじゃなくて、「じゃあどうすべきか」をもってもらいたい。原発も、辺野古移設も反対したほうがいいのかもしれない(すぐさま書いておけば、僕はそれらを述べるだけの知識も見解もない)。だが、事実、そうした「問題」「課題」は発生しているのだから、単に「反対」しただけでは、問題等は何も解決しないはずなのだ。もちろん、既得権益的なサムシングにおいて、実はその問題自体がねつ造された可能性を疑い続ける必要は大事だが、それはそれで、そういった「指摘」でなければいけない。――ということは、まぁみんなきっと分かっているんだろう。本当に感情的に「反対」する人なんて、実は少数なんじゃないかっても思う。野党が与党に対して攻勢を強めているのに支持率が下がらないことで攻めあぐねているといったニュースをみたが、そりゃあ、野党側が明確な代案を示していないからじゃあなかろうか。やれ責任だ、辞めろ、とかしか言ってない気がする(ニュース的な印象だけだ。きっとちゃんと調べれば、いいことたくさん言ってるんだろうと思う。だが、問題はそこじゃなくて、要は、多くのお忙しい方々は、政治のそういったなんちゃらに時間を十分に避けないということである。だからこそ、そこでこそ、マスメディアがしっかり頑張らなくてはいけなくて、それは、偏向報道せよということではなくて、問題の本質と、それに関する解決策が与党側はこうしようとしていて、野党側はこうしようとしていて、それぞれの支持母体はこういう人たちで、それぞれの案を採用した時のメリットはこうで、デメリットはこうあって――ということの整理である。そういった整理をもとに、国民が判断していく、それが間接民主政治(ちょっと使い方違うだろう)だ。当たり前のことだと思う。まぁもっとも、今の書いたことはきれいごとであって、森羅万象全部整理なんかしきれないし、そこに偏向的な何かが含まれる可能性だって永遠に否定できない。だからこそ、いずれは絶対に「信頼」という概念が立ち現れてくる。であるからにして、その「信頼」を崩すようなこと(例えば統計の不正)は許されない、ということは分かる。そういう意味で、批判はいったんはすべきであるが、要は「行動」であって、どう改善すべきかという点だ――って、かっこ書きの方が長くなる場合があるのは、これは何故なのか)

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