今日の一言「実体のある言葉と修辞的な言葉の違いに注意」「言葉で表現される世界と実感の世界との違いにも注意」
さて、そもそも、不安とは何かということであるが、
「不安とは、原罪の根源である。同時に原罪を解明する方向にも働く」
と、キルケゴール(1813-1855)さんは、著書『不安の概念』で述べている。
何のこっちゃ、だろう。それよりも、広辞苑さんの定義を先に参考にしようか。
1「安心のできないこと。気がかりなさま。心配」
2「実存主義哲学の重要概念の一つ。キルケゴールでは実存の持つ本質的矛盾に、ハイデッガーでは根源的無に根差し、両者とも特定の対象への恐怖とは異なる」
うーむ、1の定義はトートロジー。結局、「安心」ってなんだよ、となる。「心配」という言葉で言い換えたところで、それはレトリック(修辞)的な価値しかなかろう。実体をもった言葉で、一体全体、不安とは何なのか。または、「僕」にとって、不安とは、どういった状態を指すのか。
僕は、タイトルにもあるように、まずは、不安≒焦燥、として取り扱おうと考えている。そんなこと、広辞苑には書いていない。何故そう思うのか、と問われたところで、その根拠は明確に示すことはできない。この時点で、この記事が身に合わないと思われた方は、そっとブラウザを閉じていただくことになるだろう。
さてでは、「焦燥」とは何か。感覚的な表現をすれば、「何かに追われて落ち着いていられないこと」である。
「落ち着いていられない」という表現を換言すれば、「不安」となる。そう考えると、不安≒焦燥というのも、納得されるのではなかろうか。
では、その焦燥という語に秘めたる実感的な意味を少し考えてみれば、それは、「何かに追われていること」というのが際立っている。具体例を挙げてみよう。
(重複した表現のものも敢えてあげていこう。以下の例の後ろに、「に追われている」と加えて成り立つ点に注意)
・計画
・スケジュール
・敵
・はやる気持ち
・希望
・目標
・仕事
・時間
色々と挙げられるだろう。事例の精査については特に重要ではない。抽象化すると、モノ・コト・ジカンの、どれかに、僕らは追われることになるのだ。
不安≒焦燥 ⇒ モノ・コト・ジカンに追われて落ち着かないこと
ということだ。
次に、その定義を、より、自分自身に引き付けて考える必要がある。そもそも、不安や焦燥は、よいことなのか、悪いことなのか?
単純に二分した考えをするというのは、時に危険なことであるが、脳科学的なうんちゃらとして、僕らは、入ってきた情報に対して、まずは「レッテル」(役に立つか立たないか・好きか嫌いか)をはりつける。そのうえで、判断などを司る前頭前野に情報が送られ、有用な情報は自己報酬神経群に送られ、長期記憶になりやすくなる。
なので、より実感を伴った記憶として考えていくには、不安と焦燥という状態について、好きか嫌いかをはっきりさせるべきだ。
さぁどうだ。不安は、よいことか、わるいことか?
結論:悪いこと
この結論について、真剣に反論する人は少ないように思われる。安心できるのと、不安なのと、どっちがいいですか? と聞かれたら、たいていの人は、安心と答えるはずだ。
何をいまさら。当たり前だろうと思うかもしれない。しかし、実際に不安への対応を検討するためには、何故、その不安が悪いことであると、そうした感覚が生じるのか、その点を考える必要がある。
それは、広く考えていけば、「欲求」のためである。
例えば、上司から、いついつまでに終わらせておけと仕事を命じられたとしよう。その期日が、だんだん迫ってきた。しかし、進捗は芳しくない。こうした状況で、僕らは、不安を感じ始める。
これは、不安の先に起こるだろう事象について、恐れているのである。
この事例では、「命じられた仕事をこなすことができないこと」が、発生するだろう事象である。しかし、これだけでは不安は生じない。僕らはこの時同時に、(仕事をこなせないことによる)上司からの叱責や、周囲からの評価の低下について恐れているのである。
その好ましくない事象が発生する「恐れ」が、不安の原因である。
ここまで書いてくることによって、不安という概念が、少し変化してきている。
不安≒焦燥 ←(原因)恐れ
という図式が発生しているのだ。
つまり、原因と結果を同一視することが可能であれば、不安≒恐れ とも換言できる。
そして、その「恐れ」が何故起きるかというと、「欲求」のためである。厳密に書けば、満たされている(現在進行)又は満たされるだろう(未来形)欲求が損なわれる可能性を、僕らは恐れるのである。
「ああ、明日のプレゼンで、失敗するかもしれない……」
こんなことを思った人は、「不安を抱えている」と表現して構わないだろう。
その人が、そのプレゼン資料のため、えっさほいさと仕事を頑張っているのなら、「焦燥感を覚えている」と言っても差し支えないだろう。
では、先ほどからの不安の定義によって、それは、何か失敗するかもしれない(欲求が損なわれるかもしれない)「恐れ」であるとして、その「恐れ」とは何かを突き詰めていこう。
おそらく、その恐れとは、「プレゼンの失敗」である。
では、何故プレゼンを失敗すると怖いのか、恐れなければならないのか。
失敗すると、上司から怒られるかもしれない、顧客からクレームがくるかもしれない、同僚から迷惑の目でみられるかもしれないからだ。
そして、給料が下がるかもしれない、いじめにあうかもしれない、解雇になるかもしれないからだ。
そして、定期収入がなくなり、資産が底をつくかもしれないからだ。
食事ができなくなるかもしれないからだ、住居が維持できなくなるかもしれないからだ、着るものがなくなるかもしれないからだ、頼る人も誰もいなくなるかもしれないからだ。
死ぬ、からだ。
その失敗したときの影響、すなわちリスクについて適切に考えるべきだ、ということである。
つまり、確かに、敷衍していって、遡っていって、積み重ねていって、原因と結果を追求していけば、その不安≒恐れについては、際限なく続いていくことになる。いきつくところは、大凡、簡単に考え付くのは「死」という状態である。
でも、本当にそうか?
と、問うてみるとよい。そもそも、「プレゼン失敗」が、一瞬で「死」に直結するということは、ふつう、考え付かない。思考レベルでは考えることができたとしても、「実感」レベルで、そこまで行きつくことはふつうはありえない。
ここですぐさま、「過労死」とかうつ病とか、通常とは異なる事態や状態を想定することは可能である。しかしそれは、もはや単なる「プレゼン失敗」という事象ではなく、そこに至るまで相当な(負の)積み重ねがされてきている点が問題なのであって、不安という概念で表現できるレベルではないだろう。
そのため、日常的に僕らが感じる「不安」の対処については、冷静に、落ち着いて、その発生するかもしれない「恐れ」ている事態について、よく想定してみることである。
ああ、なるほどなぁ、と少しでも思ってくださった方は優しい方である。
僕はここで、またしても、トートロジーを覚える。そもそも、「冷静に落ち着いて」ということができる状態であれば、「不安」などではないじゃないか、と。
ここで、「思考の次元」という考え方が必要になってくる。
しかもしれは、地層のように、古い地層の上に新しい地層が重なり合っているのではなく、リアルタイムに、流転するように、ある地層面が飛び出してはある面が飛び出してと、目まぐるしく移り変わっている場合がある。
つまり、「プレゼン失敗」という次元と、それを外的に「冷静に分析する」という次元は、別次元であるがゆえに、矛盾なく、一人の、一つの心の中に二律背反することなく存在可能なのである。
これについては、アクラシア(わかっちゃいるけどやめられない 又は 悪いことだと分かっていてもやってしまう)という概念の解釈において、少し書いたことがある。
試験間際になって、勉強しなきゃいけないのに、ゲームとかして遊んでしまう人は、「勉強しなきゃいけない」ことを分からないはずはなかろう。そうではなく、勉強するということもある次元においては正しくあり、同時に、遊びたいという気持ちも、ある次元においては正なのだ。
なので、葛藤(コンフリクト)というのが問題になるのは、その次元間の闘争である。
話が少し飛躍するが、僕らの生きる世界は、善悪の価値基準が曖昧になったり、そもそも見えにくくなってきている。理由は、グローバル化とか、価値多様化とか、使い古されて胡散臭い言葉でしか今は説明できないが、例えば、「男性同士で結婚するのはおかしい、駄目だ」というのが、今では、そんな生き方があってもいいんじゃあないかと思う人も少なくなかろう。結婚して男児をもうけなければ男ではない、とか、そんなこと今の若者は言われないだろう。
それがゆえに、次元間のぶつかり(葛藤)が生じる可能性が大きくなっているのだ。
ここまで、
1.不安の概念については、モノ・コト・ジカンに追われていることであると定義し、
2.その具体例を考える中で、
3.その不安の根源(=恐れていたこと)が何かを明確に見つけていくという対処をすることで、
4.不安の現実的な実現範囲(影響)を分析し、
5.その分析結果を実感を伴わせること
によって、不安を対処しよう、と述べた。
しかし、昨今僕らが心配し、恐れ、困っているのは、むしろ、原因のよく分からないような「漠然とした不安」ではなかろうか。
それを、ヴィクトール・エミール・フランクルさんは、「実存的空虚感」なんて言ったりするけれども、単純に原因を辿っていけないような不安について、僕らは、どうやって対処していったらいいのだろうか。
それは、「原罪」から来る不安なのではなかろうか。
キルケゴールさんは、アダムの原罪が、アダムその個人のもの、または人類とは切り離された神聖な(特別な)ものなどではなく、僕ら人類一人ひとりにとって関係する、実存的なものであるということについて、前出書にて結構な紙面を割いて説明しているのであるが、キリスト教の教義学に興味がない人にとっては、残念ながらあまり意味のある説明ではない。
ただし、ポイントとして抑えておくべきところは、「実存」すなわち、僕らが存在しているそのこと自体について、「不安」という概念が発生する可能性がある、という示唆である。
広辞苑の定義では、
2「実存主義哲学の重要概念の一つ。キルケゴールでは実存の持つ本質的矛盾に、ハイデッガーでは根源的無に根差し、両者とも特定の対象への恐怖とは異なる」
とあり、実存主義哲学においては、(不安とは)特定の対象への恐怖とは異なる、ということである。
僕が上で挙げた「プレゼンの失敗」は、「特定の対象への恐怖」の事例である。
それについては、葛藤(コンフリクト)が生じやすく、対策が難しくなってきてはいるとはいえ、具体的な「恐怖の対象」の分析(影響範囲の確認と、それの実感化)によって対応が可能だろう。
ゆえに、僕が、本来的に解決しなければならないのは、――ならないと感じているのは、2の「実存的不安」であるといえる。それについての解決策や対処については、今後……いや、これまでも、これからも、考えていくことにしたい。
(んー。この記事、誰かの役に立つんだろうか。というか、伝わるんだろうか? 可能な限り分かりやすく単純に書いてみたのだけれども、上手くいってるんだろうか。こういうときは、明日の自分さんに聞いてみることとしよう)
不安の概念
この記事においては、そもそも、不安(≒焦燥)とは何かを定義し、それに対しての対応策について述べることとする。さて、そもそも、不安とは何かということであるが、
「不安とは、原罪の根源である。同時に原罪を解明する方向にも働く」
と、キルケゴール(1813-1855)さんは、著書『不安の概念』で述べている。
何のこっちゃ、だろう。それよりも、広辞苑さんの定義を先に参考にしようか。
1「安心のできないこと。気がかりなさま。心配」
2「実存主義哲学の重要概念の一つ。キルケゴールでは実存の持つ本質的矛盾に、ハイデッガーでは根源的無に根差し、両者とも特定の対象への恐怖とは異なる」
うーむ、1の定義はトートロジー。結局、「安心」ってなんだよ、となる。「心配」という言葉で言い換えたところで、それはレトリック(修辞)的な価値しかなかろう。実体をもった言葉で、一体全体、不安とは何なのか。または、「僕」にとって、不安とは、どういった状態を指すのか。
僕は、タイトルにもあるように、まずは、不安≒焦燥、として取り扱おうと考えている。そんなこと、広辞苑には書いていない。何故そう思うのか、と問われたところで、その根拠は明確に示すことはできない。この時点で、この記事が身に合わないと思われた方は、そっとブラウザを閉じていただくことになるだろう。
さてでは、「焦燥」とは何か。感覚的な表現をすれば、「何かに追われて落ち着いていられないこと」である。
「落ち着いていられない」という表現を換言すれば、「不安」となる。そう考えると、不安≒焦燥というのも、納得されるのではなかろうか。
では、その焦燥という語に秘めたる実感的な意味を少し考えてみれば、それは、「何かに追われていること」というのが際立っている。具体例を挙げてみよう。
(重複した表現のものも敢えてあげていこう。以下の例の後ろに、「に追われている」と加えて成り立つ点に注意)
・計画
・スケジュール
・敵
・はやる気持ち
・希望
・目標
・仕事
・時間
色々と挙げられるだろう。事例の精査については特に重要ではない。抽象化すると、モノ・コト・ジカンの、どれかに、僕らは追われることになるのだ。
実感の表現
上の小見出し(節)において、不安と焦燥の、表層的な定義については明らかにできた。不安≒焦燥 ⇒ モノ・コト・ジカンに追われて落ち着かないこと
ということだ。
次に、その定義を、より、自分自身に引き付けて考える必要がある。そもそも、不安や焦燥は、よいことなのか、悪いことなのか?
単純に二分した考えをするというのは、時に危険なことであるが、脳科学的なうんちゃらとして、僕らは、入ってきた情報に対して、まずは「レッテル」(役に立つか立たないか・好きか嫌いか)をはりつける。そのうえで、判断などを司る前頭前野に情報が送られ、有用な情報は自己報酬神経群に送られ、長期記憶になりやすくなる。
なので、より実感を伴った記憶として考えていくには、不安と焦燥という状態について、好きか嫌いかをはっきりさせるべきだ。
さぁどうだ。不安は、よいことか、わるいことか?
結論:悪いこと
この結論について、真剣に反論する人は少ないように思われる。安心できるのと、不安なのと、どっちがいいですか? と聞かれたら、たいていの人は、安心と答えるはずだ。
何をいまさら。当たり前だろうと思うかもしれない。しかし、実際に不安への対応を検討するためには、何故、その不安が悪いことであると、そうした感覚が生じるのか、その点を考える必要がある。
不安を何故避けようと思うのか
僕らは、何故、不安を忌避するのだろうか。安心を求めるのだろうか?それは、広く考えていけば、「欲求」のためである。
例えば、上司から、いついつまでに終わらせておけと仕事を命じられたとしよう。その期日が、だんだん迫ってきた。しかし、進捗は芳しくない。こうした状況で、僕らは、不安を感じ始める。
これは、不安の先に起こるだろう事象について、恐れているのである。
この事例では、「命じられた仕事をこなすことができないこと」が、発生するだろう事象である。しかし、これだけでは不安は生じない。僕らはこの時同時に、(仕事をこなせないことによる)上司からの叱責や、周囲からの評価の低下について恐れているのである。
その好ましくない事象が発生する「恐れ」が、不安の原因である。
ここまで書いてくることによって、不安という概念が、少し変化してきている。
不安≒焦燥 ←(原因)恐れ
という図式が発生しているのだ。
つまり、原因と結果を同一視することが可能であれば、不安≒恐れ とも換言できる。
そして、その「恐れ」が何故起きるかというと、「欲求」のためである。厳密に書けば、満たされている(現在進行)又は満たされるだろう(未来形)欲求が損なわれる可能性を、僕らは恐れるのである。
恐れの根源への旅
もう一つ具体的な事例で考えてみよう。「ああ、明日のプレゼンで、失敗するかもしれない……」
こんなことを思った人は、「不安を抱えている」と表現して構わないだろう。
その人が、そのプレゼン資料のため、えっさほいさと仕事を頑張っているのなら、「焦燥感を覚えている」と言っても差し支えないだろう。
では、先ほどからの不安の定義によって、それは、何か失敗するかもしれない(欲求が損なわれるかもしれない)「恐れ」であるとして、その「恐れ」とは何かを突き詰めていこう。
おそらく、その恐れとは、「プレゼンの失敗」である。
では、何故プレゼンを失敗すると怖いのか、恐れなければならないのか。
失敗すると、上司から怒られるかもしれない、顧客からクレームがくるかもしれない、同僚から迷惑の目でみられるかもしれないからだ。
そして、給料が下がるかもしれない、いじめにあうかもしれない、解雇になるかもしれないからだ。
そして、定期収入がなくなり、資産が底をつくかもしれないからだ。
食事ができなくなるかもしれないからだ、住居が維持できなくなるかもしれないからだ、着るものがなくなるかもしれないからだ、頼る人も誰もいなくなるかもしれないからだ。
死ぬ、からだ。
不安への対処
ここまで書いてくると、不安への対処がだんだんとわかってくる。その失敗したときの影響、すなわちリスクについて適切に考えるべきだ、ということである。
つまり、確かに、敷衍していって、遡っていって、積み重ねていって、原因と結果を追求していけば、その不安≒恐れについては、際限なく続いていくことになる。いきつくところは、大凡、簡単に考え付くのは「死」という状態である。
でも、本当にそうか?
と、問うてみるとよい。そもそも、「プレゼン失敗」が、一瞬で「死」に直結するということは、ふつう、考え付かない。思考レベルでは考えることができたとしても、「実感」レベルで、そこまで行きつくことはふつうはありえない。
ここですぐさま、「過労死」とかうつ病とか、通常とは異なる事態や状態を想定することは可能である。しかしそれは、もはや単なる「プレゼン失敗」という事象ではなく、そこに至るまで相当な(負の)積み重ねがされてきている点が問題なのであって、不安という概念で表現できるレベルではないだろう。
そのため、日常的に僕らが感じる「不安」の対処については、冷静に、落ち着いて、その発生するかもしれない「恐れ」ている事態について、よく想定してみることである。
ああ、なるほどなぁ、と少しでも思ってくださった方は優しい方である。
僕はここで、またしても、トートロジーを覚える。そもそも、「冷静に落ち着いて」ということができる状態であれば、「不安」などではないじゃないか、と。
ここで、「思考の次元」という考え方が必要になってくる。
思考次元
僕らの思考は、単一のものに向いていると思いきや、実は何層もの次元が生じている場合がある。しかもしれは、地層のように、古い地層の上に新しい地層が重なり合っているのではなく、リアルタイムに、流転するように、ある地層面が飛び出してはある面が飛び出してと、目まぐるしく移り変わっている場合がある。
つまり、「プレゼン失敗」という次元と、それを外的に「冷静に分析する」という次元は、別次元であるがゆえに、矛盾なく、一人の、一つの心の中に二律背反することなく存在可能なのである。
これについては、アクラシア(わかっちゃいるけどやめられない 又は 悪いことだと分かっていてもやってしまう)という概念の解釈において、少し書いたことがある。
試験間際になって、勉強しなきゃいけないのに、ゲームとかして遊んでしまう人は、「勉強しなきゃいけない」ことを分からないはずはなかろう。そうではなく、勉強するということもある次元においては正しくあり、同時に、遊びたいという気持ちも、ある次元においては正なのだ。
なので、葛藤(コンフリクト)というのが問題になるのは、その次元間の闘争である。
話が少し飛躍するが、僕らの生きる世界は、善悪の価値基準が曖昧になったり、そもそも見えにくくなってきている。理由は、グローバル化とか、価値多様化とか、使い古されて胡散臭い言葉でしか今は説明できないが、例えば、「男性同士で結婚するのはおかしい、駄目だ」というのが、今では、そんな生き方があってもいいんじゃあないかと思う人も少なくなかろう。結婚して男児をもうけなければ男ではない、とか、そんなこと今の若者は言われないだろう。
それがゆえに、次元間のぶつかり(葛藤)が生じる可能性が大きくなっているのだ。
漠然とした不安
今日は、この辺で締めくくろうと思うが、最後に、話をもう一度「不安」に戻そう。ここまで、
1.不安の概念については、モノ・コト・ジカンに追われていることであると定義し、
2.その具体例を考える中で、
3.その不安の根源(=恐れていたこと)が何かを明確に見つけていくという対処をすることで、
4.不安の現実的な実現範囲(影響)を分析し、
5.その分析結果を実感を伴わせること
によって、不安を対処しよう、と述べた。
しかし、昨今僕らが心配し、恐れ、困っているのは、むしろ、原因のよく分からないような「漠然とした不安」ではなかろうか。
それを、ヴィクトール・エミール・フランクルさんは、「実存的空虚感」なんて言ったりするけれども、単純に原因を辿っていけないような不安について、僕らは、どうやって対処していったらいいのだろうか。
それは、「原罪」から来る不安なのではなかろうか。
キルケゴールさんは、アダムの原罪が、アダムその個人のもの、または人類とは切り離された神聖な(特別な)ものなどではなく、僕ら人類一人ひとりにとって関係する、実存的なものであるということについて、前出書にて結構な紙面を割いて説明しているのであるが、キリスト教の教義学に興味がない人にとっては、残念ながらあまり意味のある説明ではない。
ただし、ポイントとして抑えておくべきところは、「実存」すなわち、僕らが存在しているそのこと自体について、「不安」という概念が発生する可能性がある、という示唆である。
広辞苑の定義では、
2「実存主義哲学の重要概念の一つ。キルケゴールでは実存の持つ本質的矛盾に、ハイデッガーでは根源的無に根差し、両者とも特定の対象への恐怖とは異なる」
とあり、実存主義哲学においては、(不安とは)特定の対象への恐怖とは異なる、ということである。
僕が上で挙げた「プレゼンの失敗」は、「特定の対象への恐怖」の事例である。
それについては、葛藤(コンフリクト)が生じやすく、対策が難しくなってきてはいるとはいえ、具体的な「恐怖の対象」の分析(影響範囲の確認と、それの実感化)によって対応が可能だろう。
ゆえに、僕が、本来的に解決しなければならないのは、――ならないと感じているのは、2の「実存的不安」であるといえる。それについての解決策や対処については、今後……いや、これまでも、これからも、考えていくことにしたい。
(んー。この記事、誰かの役に立つんだろうか。というか、伝わるんだろうか? 可能な限り分かりやすく単純に書いてみたのだけれども、上手くいってるんだろうか。こういうときは、明日の自分さんに聞いてみることとしよう)
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今日の一言「なんか面白いことないかなぁ」「そんな発言する時点で人生オワットル」
集めていたアイアムアヒーローの22巻、最終巻を買って読んだのである。
これで、買って読んでいる作品は、キングダムやゴキブリの話しとかが脱落していく中、進撃の巨人のみとなってしまった。
ああ、いい作品が終わるというのは、寂愁を感じさせるなぁ、でも、それはまた、一つの感動を与えてくれるのだから、悪いことではないのだ。さぁ、アイアムアヒーローは、僕にどんな感動を与えてくれるのだろうか……!
とか思っていたら、「なんじゃこりゃあああ!」となった。
というか、22巻で最終巻とは全く予想していなかったのだ。何故なら、まだまだ、謎が深まっていったような段階で、これから問題が一つ一つ解決していくような、そんな内容であったのである。
それが、ゆうてみれば、全部伏線は伏線のまま、そのまま終わってしまったのだ!
これ、打ち切り? 打ち切りなの? でも、映画化もしたり、まだまだ人気がでてきそうだったのに、え、マジでこれで終わりなの!? と。
信頼する方がお勧めしたり触れている作品は、興味が出たら手を出してみるけれども、必要以上に他の人の意見などは見ないようにしている。それは、先入観を排するためだ。まずは、おのれの感性にどう影響させるか、その点を重要視するのである。そうでなければ、エンターテイメント作品なんて、価値は半減する。みんな見たり知ってるから、話題づくりのために見るだとか、そんなふざけた態度でみるつもりなどない。「君の名は。」は流行っていたが、それは、多くの人を感動させているだろう作品なので、自分自身はどう思うのだろうか、という観点で見に行ったのだ。決して、流行にのってみようとか、そんなちゃちい理由じゃあない。
(とか、自分語り乙。上のような内容は、きっと面白くないだろう)
まぁ、そんな自分ではあるが、この、アイアムアヒーローの最終巻については、否定的レビューに全く同意見である。
ダメな人間は、結局ダメで、変われない。
そんなテーマであっても、別に何ら問題ないと思う。
そういう意味で、何の解決もされないままエンディング、というのは悪いことではないのだ。
しかし、今作のラストが良くないのは、伏線を回収する気が一切ないことである。
いやいやもちろん、現実において、パンデミックとか、不条理に理由なんてないよ、何でも解決して物語が終わるなんて思うなよ?
と言いたいのかもしれない。それはそれでいい。何の解決も救いもないまま、陰鬱な気持ちにさせて終わらせるのもアリだ。
そうじゃないんだ、アイアムアヒーローの場合は、全く終わってないんだ。「ダメな男が、ひとり生き残って、東京を寂しくサバイバルして生きていく」それをテーマにしたいのだったら、海外で巨大なZQNが登場し一人の少女を宿主として、意識をもったZQNとそれを狩る新ZQN的な存在の描写は一切するべきでなかった。
韓国で、漫画編集者が女性漫画家と不倫旅行に出かけて、ZQNに冒されてしまうとかそんなシーンエピソードは不要だった。
全部、主人公英雄さんの視点だけを描いているのであれば良かった。それなら、まぁ、僕も納得しただろう。一人の人間が、人生において知り得ることなどたかが知れている。世界の真理(ここでは、ZQNの発生原因とか、宇宙人のテラフォーミング説とかクルスとは何かとかモロモロ)など分からず必死に生きて、そして死ぬってのも、またそれは人生である、人間である、物語である。
それが、いろいろ風呂敷を広げて、ネタを広げて、伏線を張り巡らせて、「はい、やーめた」みたいな。これじゃあ、打ち切りなったの? 投げ出したの? 金儲け主義なの? ネタ切れなの? と言われても仕方がない。
21巻まで、ずっと面白かったのだ。映画も見にいこうかなと思ってたくらいなのだ。
そんな思いの人が、きっと多かったのだろう。だから、アマゾンレビューも、☆1が非常に多い。
まぁ、批判だけならだれでもできる。
んじゃあ、自分なら、どういった終わりを描けるのか、そんな風に考えた方が、よほど有意義である。
他にも、ダメな物語のつくりかたの反面教師にしてもよい。せっかくだから、役に立つ方向に頭を使いたいものだ。
んでもって、だ。
何か、面白いこと、ないかなぁと、つくづく思う。仕事で嫌なことがあったり、人間関係で疲れたり、お金を失ったり、ミスしたりと、そんなことが重なると余計思う。
めんどくせーなぁー。
いろいろと、面倒くさくなる。面倒くさいとは何か? それは、「興味」をもてることがなくなっている状態だ。興味とは何か? おもしれーことだ!
人生が暇つぶしだろうが、生きる意味があろうがなかろうが、そんなことはどうでもいいのだ。
とにかく、俺の心を沸き立たせる、すげー面白いことが欲しいのだ。
それってどこに転がってるのか?
そんな思考になる状態が、既に大間違いである。面白いことなど、探すのではない! つくるのだ! 知るのだ! 感じるのだ! 人のせいにするな! 他人任せにするな! 生きろ! 生きるのは、自分自身として生きろ!
習い事でも始めるか?
婚活パーティーでも行ってみるか?
うーむ、やる気が起きない、興味がひかれない。
2.寝ること。
3.遊ぶこと→趣味。
4.仕事。
5.家事→子供を育てる。
6.セックス
3番の、趣味というのは、分解すればたくさん種類はあるだろう。
そん中で、自分が本気になれるものを探すってのも手である。
しかし、現代日本人において、生きる目的的には、大体6つぐらいしかない。
裏返しに、宮台先生の「終わりなき日常を生きろ」的な方策も残っているが、それは諸所の事情で却下しておく。取りあえず、物理現実的な意味をおさえておきたい。
そうすると、だいたいは、上の6つのいくつか、もしくは全部の総合が、人間の行動目的となっている。
自分からは何もせずに、批判ばっかで、つまんねーなーとか言いながら生きてるような人間にはなりたくない。
思いっきり生きろよ! 愉しめよ! やってやれよ! と、思う。
思うのに、俺自身が、何をしていいか分からず、悶々とする。
取りあえず、暴飲暴食をする。
何の解決にもなりゃしない。
こんなこと書いていると、「今すぐ死ねよ」と思う気持ちもよく分かる。グチグチいってるんなら、とにかく行動だ! と思うのも分かる。
だが、しかし。
何をしていいか、ほんとに、よく分からん。
ある意味、非常に、自由で、幸せなのだ。
そもそも、ひとり暮らしというのが、高級なのである。
お金も時間もなければ、独り暮らしなどできないのだ。独り暮らしは寂しいとか、そんな風に言われることもある。とんでもない! これからの時代、シェアハウスとか、そもそも単独収入で暮らせない貧困層が増えていけば、ワンルームアパートが憧れの時代になるかもしれない。
大学生の多くも、都会での一人暮らしなど夢のまた夢で、実家から通える大学にしかいかなくなるかもしれない。
……とか、そんな一般論的なのはいいんだよ。とにかく、俺を何か、楽しませるものがないだろうか。愉しませなくてもいい、満足させてくれる美味しいごはんでも何でもいいから、何かくれ……。助けてくれ……。
(比較的、こうやって書いていることが楽しいのだけれども、このまま、40代、50代、と続けていく未来が見えない)
アイアムアヒーローの最終巻
昨日、書こうと思ったことがあったけれども、忘れてしまった、と書いたが、一つ思い出した。集めていたアイアムアヒーローの22巻、最終巻を買って読んだのである。
これで、買って読んでいる作品は、キングダムやゴキブリの話しとかが脱落していく中、進撃の巨人のみとなってしまった。
ああ、いい作品が終わるというのは、寂愁を感じさせるなぁ、でも、それはまた、一つの感動を与えてくれるのだから、悪いことではないのだ。さぁ、アイアムアヒーローは、僕にどんな感動を与えてくれるのだろうか……!
とか思っていたら、「なんじゃこりゃあああ!」となった。
というか、22巻で最終巻とは全く予想していなかったのだ。何故なら、まだまだ、謎が深まっていったような段階で、これから問題が一つ一つ解決していくような、そんな内容であったのである。
それが、ゆうてみれば、全部伏線は伏線のまま、そのまま終わってしまったのだ!
これ、打ち切り? 打ち切りなの? でも、映画化もしたり、まだまだ人気がでてきそうだったのに、え、マジでこれで終わりなの!? と。
アマゾンレビューさんにも納得
僕はあまり、他者の評価を、作品を読んだり見たりするときに気にしない。信頼する方がお勧めしたり触れている作品は、興味が出たら手を出してみるけれども、必要以上に他の人の意見などは見ないようにしている。それは、先入観を排するためだ。まずは、おのれの感性にどう影響させるか、その点を重要視するのである。そうでなければ、エンターテイメント作品なんて、価値は半減する。みんな見たり知ってるから、話題づくりのために見るだとか、そんなふざけた態度でみるつもりなどない。「君の名は。」は流行っていたが、それは、多くの人を感動させているだろう作品なので、自分自身はどう思うのだろうか、という観点で見に行ったのだ。決して、流行にのってみようとか、そんなちゃちい理由じゃあない。
(とか、自分語り乙。上のような内容は、きっと面白くないだろう)
まぁ、そんな自分ではあるが、この、アイアムアヒーローの最終巻については、否定的レビューに全く同意見である。
バッドエンドが悪いのではない
強調したいのは、僕は別に、ハッピーエンドが読みたいとか、救いのある話が読みたいとか、そういうんじゃないのである。ダメな人間は、結局ダメで、変われない。
そんなテーマであっても、別に何ら問題ないと思う。
そういう意味で、何の解決もされないままエンディング、というのは悪いことではないのだ。
しかし、今作のラストが良くないのは、伏線を回収する気が一切ないことである。
いやいやもちろん、現実において、パンデミックとか、不条理に理由なんてないよ、何でも解決して物語が終わるなんて思うなよ?
と言いたいのかもしれない。それはそれでいい。何の解決も救いもないまま、陰鬱な気持ちにさせて終わらせるのもアリだ。
そうじゃないんだ、アイアムアヒーローの場合は、全く終わってないんだ。「ダメな男が、ひとり生き残って、東京を寂しくサバイバルして生きていく」それをテーマにしたいのだったら、海外で巨大なZQNが登場し一人の少女を宿主として、意識をもったZQNとそれを狩る新ZQN的な存在の描写は一切するべきでなかった。
韓国で、漫画編集者が女性漫画家と不倫旅行に出かけて、ZQNに冒されてしまうとかそんなシーンエピソードは不要だった。
全部、主人公英雄さんの視点だけを描いているのであれば良かった。それなら、まぁ、僕も納得しただろう。一人の人間が、人生において知り得ることなどたかが知れている。世界の真理(ここでは、ZQNの発生原因とか、宇宙人のテラフォーミング説とかクルスとは何かとかモロモロ)など分からず必死に生きて、そして死ぬってのも、またそれは人生である、人間である、物語である。
それが、いろいろ風呂敷を広げて、ネタを広げて、伏線を張り巡らせて、「はい、やーめた」みたいな。これじゃあ、打ち切りなったの? 投げ出したの? 金儲け主義なの? ネタ切れなの? と言われても仕方がない。
期待していたことからの裏切り
と、まぁ、酷評したけれども、これは、愛情の裏返しでもあるのかもしれない。なんやかんや、期待していた作品であったのだ。21巻まで、ずっと面白かったのだ。映画も見にいこうかなと思ってたくらいなのだ。
そんな思いの人が、きっと多かったのだろう。だから、アマゾンレビューも、☆1が非常に多い。
まぁ、批判だけならだれでもできる。
んじゃあ、自分なら、どういった終わりを描けるのか、そんな風に考えた方が、よほど有意義である。
他にも、ダメな物語のつくりかたの反面教師にしてもよい。せっかくだから、役に立つ方向に頭を使いたいものだ。
面白いこと無いかなぁ
ふぅ。んでもって、だ。
何か、面白いこと、ないかなぁと、つくづく思う。仕事で嫌なことがあったり、人間関係で疲れたり、お金を失ったり、ミスしたりと、そんなことが重なると余計思う。
めんどくせーなぁー。
いろいろと、面倒くさくなる。面倒くさいとは何か? それは、「興味」をもてることがなくなっている状態だ。興味とは何か? おもしれーことだ!
人生が暇つぶしだろうが、生きる意味があろうがなかろうが、そんなことはどうでもいいのだ。
とにかく、俺の心を沸き立たせる、すげー面白いことが欲しいのだ。
それってどこに転がってるのか?
そんな思考になる状態が、既に大間違いである。面白いことなど、探すのではない! つくるのだ! 知るのだ! 感じるのだ! 人のせいにするな! 他人任せにするな! 生きろ! 生きるのは、自分自身として生きろ!
習い事でも始めるか?
婚活パーティーでも行ってみるか?
うーむ、やる気が起きない、興味がひかれない。
そもそもやることって何だ
1.食べること・飲むこと。2.寝ること。
3.遊ぶこと→趣味。
4.仕事。
5.家事→子供を育てる。
6.セックス
3番の、趣味というのは、分解すればたくさん種類はあるだろう。
そん中で、自分が本気になれるものを探すってのも手である。
しかし、現代日本人において、生きる目的的には、大体6つぐらいしかない。
裏返しに、宮台先生の「終わりなき日常を生きろ」的な方策も残っているが、それは諸所の事情で却下しておく。取りあえず、物理現実的な意味をおさえておきたい。
そうすると、だいたいは、上の6つのいくつか、もしくは全部の総合が、人間の行動目的となっている。
自分からは何もせずに、批判ばっかで、つまんねーなーとか言いながら生きてるような人間にはなりたくない。
思いっきり生きろよ! 愉しめよ! やってやれよ! と、思う。
思うのに、俺自身が、何をしていいか分からず、悶々とする。
取りあえず、暴飲暴食をする。
何の解決にもなりゃしない。
こんなこと書いていると、「今すぐ死ねよ」と思う気持ちもよく分かる。グチグチいってるんなら、とにかく行動だ! と思うのも分かる。
だが、しかし。
何をしていいか、ほんとに、よく分からん。
ある意味、非常に、自由で、幸せなのだ。
そもそも、ひとり暮らしというのが、高級なのである。
お金も時間もなければ、独り暮らしなどできないのだ。独り暮らしは寂しいとか、そんな風に言われることもある。とんでもない! これからの時代、シェアハウスとか、そもそも単独収入で暮らせない貧困層が増えていけば、ワンルームアパートが憧れの時代になるかもしれない。
大学生の多くも、都会での一人暮らしなど夢のまた夢で、実家から通える大学にしかいかなくなるかもしれない。
……とか、そんな一般論的なのはいいんだよ。とにかく、俺を何か、楽しませるものがないだろうか。愉しませなくてもいい、満足させてくれる美味しいごはんでも何でもいいから、何かくれ……。助けてくれ……。
(比較的、こうやって書いていることが楽しいのだけれども、このまま、40代、50代、と続けていく未来が見えない)
今日の一言「いろいろ!」「借金しない程度の金で解決できる失敗はいろいろした方が良かろう」
原因は、判断ミス! ……なのか?
うーん、そうなんだろうなぁ、結局は。「あそこで、ああしておけば……」というのは、判断ミスに他ならない。だが、今回は、結構前から「やばいかも」と思っていたが、足を踏み入れた時点で、引き返すことができなかった。引き返すこともまた、既にリスクと化していた。そうであれば、進む! 戦うしかなかろう!(※)
ただ、命を失わなかっただけ良かった。下手したら、まぁ死にはしなくても大けが的な……ああ、いや、ホントに下手したら死んでたかもしれんな。死にゃあせん、という思いは、まだまだ慢心である。
だがそれでも、過ぎ去ってしまったことは、どうにもならない。過ちをしないのにこしたことはないが、その過ちをどう対処するかというのが、人間としての真価を試されるだろう! ……とか、空虚な言葉は嫌いだ。
ただな、まぁ、終わったことをくよくよ後悔しても仕方が無いだろう。発生している苛立ちや哀しさを抑え込む必要はないが、かといってそれに囚われても仕方がない。
※追い詰められたときの行動が自分というものなのかもしれない。そうすると、僕は、「進も危険、引き返すも危険」とか「戦うもリスク、逃げるもリスク」とかいった状況になったときは、戦略的撤退をするよりは、失敗覚悟で突撃するタイプなのかもしれない。いっつも、文章的には、口語的には、対人的には冷静ぶっているが、実際は猪突猛進、いい言葉であれば勇猛果敢、悪い言葉では匹夫の勇タイプなのかもしれない。
これは久方ぶりに面白かった! アマゾンのレビューみたくなってしまってカッコ悪い気がしてしまうが、「絵柄で倦厭してたけど、見てみたらストーリーが深くて面白かった」となる。うーん、小並感(初めて使ってみる)である。。。
多分、今更、2011年の作品だから、きっと多くの方が述べているだろうが、まどマギは、非常に仏教的に感じた。
何故か。
因果応報という言葉の意味を深く表現していたからだ。希望は、絶望の相対であるという「インキュベーター」のキュウベエさん。過去や未来の少女たちは、叶えたい願いをかなえられるのと引き換えに、呪いや絶望を背負わせられていく。
んでまーその目的が、「感情エネルギー」の蒐集により、宇宙のエントロピー増大による破滅を回避しようということ。当然、そんな高次元の目的なんて、「そんな訳の分からない理由で、私たちを戦わせてきたのね!」と少女たちはキレる。あたりめーだ。しかし、崇高な次元で生存するキュウベエさんたちは、逆に、そんな低次な「感情」に振り回される人間たちを理解できない。
作品中「サイコパス」という言葉すらでてこなかったが、キュウベエさんは完全にサイコパスである。人間なら当たり前にもっているはずの「感情」が理解できないのだ。(もちろん、サイコパスは、生物学的な人間に対して使う言葉であるのだから、宇宙生命体であるキュウベエさんに当てはめるのは適切では無かろう。)
愛くるしい見た目と、耳障りのよいもの言いから、初回登場時点で怪しい奴だと思っていたが、まぁその通りだった(笑)。
だが、キュウベエさんも、「悪」というわけではない。いやまぁ、少女たちからしたら「悪」なのだけれども、彼(そして彼らの類)は、悪を成そうとして悪たらんとするのではないのである。それゆえに、人類との相容れなさ、理解のできなさが、余計に不気味さを掻き立てているのがまた面白いポイントである。
うん、ともかく、面白かった。上から目線だけれども、久々によい作品をみることができた。この「よい」というのが、非常に難しいのである、とくに昨今。
少なくても、「君の名は。」とか、「ソードアートオンライン・オーディナルスケール」よりも面白かった。
やっぱり、作品は、絵柄だけじゃないな。こうして、絵柄で倦厭していて、見てみたら面白かった作品は、JOJOシリーズに引き続き二作目となったのであった。
が、思い出せない。
そう、リアル世界(ブログ世界との比較)でいろいろあると、何だかよく分からないまま過ぎ去るのである。
だが。
そういうもんなのか?
もしかして、「ふつーのひと」的には、こうやって、日記的に、振り返ったりしないものなのかもしれん。
ただ、人と話して、悩んで、おいしーもの食べて、笑って、一日を終えて、よーし今日も頑張るぞ的な感じで、10年、20年とやっていくのかもしれない。
まぁ、それができたら、それでもよかった。
だが、俺は、そんな風にはなれなかった。そこは、繰り返し書いているけれども、もう、こうやって考えることや、書き残すことをなくして、俺は俺で無いのではないか、ということは、刷り込んでいっても、信じても、開き直ってもいいんじゃないかと、思う。
それが例えモテなくても、理解されなくても、「サイコパスだ!」と言われようとも、仕方がない、俺は生きてきてしまった。
んー。なんて、書いていると、後から読んで、面白くないかな? カッコ悪いかな? 気持ち悪いかな? どうなんだろう。
だが先日、隙間時間にいつぞやの自分の書いた記事を読んでいたが、いい暇つぶしにはなった。
そう、やっぱり、面白い記事はあるのである。
ただ、僕が面白いと思ったのが、他者にとって面白いと思うかどうかは別問題だ。たまたま一致することもあれば、歯牙にもかからない場合もあろう。
ええと、つまり、俺が面白いと思うのは、「レーゾンデートル」(存在理由、生きる意味とか)に絡まった奴とか、縁起因縁に絡まった奴とか、そんな要素があると面白いのかもしれない。
面白い、とは。
興味があるとも言い換えられる。即ち、それは、今本当に自分が求めているものに他ならない。
イイ女を抱きたいとか美味しいものを食べたいとか皆から称賛されたいとか、そういった欲求は俺もあるに違いない。
だが、存在規定とか縁起とか空とかいった事柄は、欲望として求めているのではなかろうか。
欲求は、足りてないから欲しくなることだとすれば、後者の生きる意味といったものも、僕にとっては足りていないのだろうから、欲求に他ならないのかもしれない。ただ、後者の「欲」は、本当に満たすことができるものなのだろうか?
そもそも、「欲望」といったものは、根源的に満たされるということが無いのではなかろうか。無限遡及、充たせども充たせども、尚階下へ続く永遠の螺旋階段のようなものではなかろうか。足りていようがいまいが、兎に角求め続けてしまうもの、そうしなくてはいられないもの、それが「欲望」なのではなかろうか。
そう考えると、ちょっと身震いをするのだが、「生きる意味」というものが、「欲望」規定とされているのであれば、それは、延々と「自分とは何か?」を追い求め、終わりなき無間地獄に陥るようなものではなかろうか。
まどマギのほむらさんは、大切な友達、まどかを守るために戦い続ける、しかし、その戦いが続くほどに因果が強まり、望みは、徐々に絶望へと変わっていく……そんなようなものではなかろうか。(←無理やり、作品と関連付けて書き残そうと努力する図)
……。
うーん、しかし、結局書きなぐっても、モヤモヤした気持ちはなくならなかった。体調もよくないし、もう寝よう……。
(とはいえ、少しは気持ちも緩和したからよしとしよう。)
お金が吹っ飛んだ
詳しくは書いている時間がないから、結論だけ書こう! お金が、数万円、無意味に消失した!原因は、判断ミス! ……なのか?
うーん、そうなんだろうなぁ、結局は。「あそこで、ああしておけば……」というのは、判断ミスに他ならない。だが、今回は、結構前から「やばいかも」と思っていたが、足を踏み入れた時点で、引き返すことができなかった。引き返すこともまた、既にリスクと化していた。そうであれば、進む! 戦うしかなかろう!(※)
ただ、命を失わなかっただけ良かった。下手したら、まぁ死にはしなくても大けが的な……ああ、いや、ホントに下手したら死んでたかもしれんな。死にゃあせん、という思いは、まだまだ慢心である。
だがそれでも、過ぎ去ってしまったことは、どうにもならない。過ちをしないのにこしたことはないが、その過ちをどう対処するかというのが、人間としての真価を試されるだろう! ……とか、空虚な言葉は嫌いだ。
ただな、まぁ、終わったことをくよくよ後悔しても仕方が無いだろう。発生している苛立ちや哀しさを抑え込む必要はないが、かといってそれに囚われても仕方がない。
※追い詰められたときの行動が自分というものなのかもしれない。そうすると、僕は、「進も危険、引き返すも危険」とか「戦うもリスク、逃げるもリスク」とかいった状況になったときは、戦略的撤退をするよりは、失敗覚悟で突撃するタイプなのかもしれない。いっつも、文章的には、口語的には、対人的には冷静ぶっているが、実際は猪突猛進、いい言葉であれば勇猛果敢、悪い言葉では匹夫の勇タイプなのかもしれない。
まどかマギカは仏教的作品である
そして、そのイライラのせいか知らないが、じっくり見ていこうと思っていた魔法少女まどか☆マギカを、一気に12話まで見てしまった。これは久方ぶりに面白かった! アマゾンのレビューみたくなってしまってカッコ悪い気がしてしまうが、「絵柄で倦厭してたけど、見てみたらストーリーが深くて面白かった」となる。うーん、小並感(初めて使ってみる)である。。。
多分、今更、2011年の作品だから、きっと多くの方が述べているだろうが、まどマギは、非常に仏教的に感じた。
何故か。
因果応報という言葉の意味を深く表現していたからだ。希望は、絶望の相対であるという「インキュベーター」のキュウベエさん。過去や未来の少女たちは、叶えたい願いをかなえられるのと引き換えに、呪いや絶望を背負わせられていく。
んでまーその目的が、「感情エネルギー」の蒐集により、宇宙のエントロピー増大による破滅を回避しようということ。当然、そんな高次元の目的なんて、「そんな訳の分からない理由で、私たちを戦わせてきたのね!」と少女たちはキレる。あたりめーだ。しかし、崇高な次元で生存するキュウベエさんたちは、逆に、そんな低次な「感情」に振り回される人間たちを理解できない。
作品中「サイコパス」という言葉すらでてこなかったが、キュウベエさんは完全にサイコパスである。人間なら当たり前にもっているはずの「感情」が理解できないのだ。(もちろん、サイコパスは、生物学的な人間に対して使う言葉であるのだから、宇宙生命体であるキュウベエさんに当てはめるのは適切では無かろう。)
愛くるしい見た目と、耳障りのよいもの言いから、初回登場時点で怪しい奴だと思っていたが、まぁその通りだった(笑)。
だが、キュウベエさんも、「悪」というわけではない。いやまぁ、少女たちからしたら「悪」なのだけれども、彼(そして彼らの類)は、悪を成そうとして悪たらんとするのではないのである。それゆえに、人類との相容れなさ、理解のできなさが、余計に不気味さを掻き立てているのがまた面白いポイントである。
うん、ともかく、面白かった。上から目線だけれども、久々によい作品をみることができた。この「よい」というのが、非常に難しいのである、とくに昨今。
少なくても、「君の名は。」とか、「ソードアートオンライン・オーディナルスケール」よりも面白かった。
やっぱり、作品は、絵柄だけじゃないな。こうして、絵柄で倦厭していて、見てみたら面白かった作品は、JOJOシリーズに引き続き二作目となったのであった。
あとはもういろいろ
なんだか、あと三つぐらいは、書いておこうと思ったことがあった気がしてならない。が、思い出せない。
そう、リアル世界(ブログ世界との比較)でいろいろあると、何だかよく分からないまま過ぎ去るのである。
だが。
そういうもんなのか?
もしかして、「ふつーのひと」的には、こうやって、日記的に、振り返ったりしないものなのかもしれん。
ただ、人と話して、悩んで、おいしーもの食べて、笑って、一日を終えて、よーし今日も頑張るぞ的な感じで、10年、20年とやっていくのかもしれない。
まぁ、それができたら、それでもよかった。
だが、俺は、そんな風にはなれなかった。そこは、繰り返し書いているけれども、もう、こうやって考えることや、書き残すことをなくして、俺は俺で無いのではないか、ということは、刷り込んでいっても、信じても、開き直ってもいいんじゃないかと、思う。
それが例えモテなくても、理解されなくても、「サイコパスだ!」と言われようとも、仕方がない、俺は生きてきてしまった。
んー。なんて、書いていると、後から読んで、面白くないかな? カッコ悪いかな? 気持ち悪いかな? どうなんだろう。
だが先日、隙間時間にいつぞやの自分の書いた記事を読んでいたが、いい暇つぶしにはなった。
そう、やっぱり、面白い記事はあるのである。
ただ、僕が面白いと思ったのが、他者にとって面白いと思うかどうかは別問題だ。たまたま一致することもあれば、歯牙にもかからない場合もあろう。
面白い記事とは
そんでは、せっかくなので、この記事の序盤の内容と絡めてみよう。ええと、つまり、俺が面白いと思うのは、「レーゾンデートル」(存在理由、生きる意味とか)に絡まった奴とか、縁起因縁に絡まった奴とか、そんな要素があると面白いのかもしれない。
面白い、とは。
興味があるとも言い換えられる。即ち、それは、今本当に自分が求めているものに他ならない。
イイ女を抱きたいとか美味しいものを食べたいとか皆から称賛されたいとか、そういった欲求は俺もあるに違いない。
だが、存在規定とか縁起とか空とかいった事柄は、欲望として求めているのではなかろうか。
欲求は、足りてないから欲しくなることだとすれば、後者の生きる意味といったものも、僕にとっては足りていないのだろうから、欲求に他ならないのかもしれない。ただ、後者の「欲」は、本当に満たすことができるものなのだろうか?
そもそも、「欲望」といったものは、根源的に満たされるということが無いのではなかろうか。無限遡及、充たせども充たせども、尚階下へ続く永遠の螺旋階段のようなものではなかろうか。足りていようがいまいが、兎に角求め続けてしまうもの、そうしなくてはいられないもの、それが「欲望」なのではなかろうか。
そう考えると、ちょっと身震いをするのだが、「生きる意味」というものが、「欲望」規定とされているのであれば、それは、延々と「自分とは何か?」を追い求め、終わりなき無間地獄に陥るようなものではなかろうか。
まどマギのほむらさんは、大切な友達、まどかを守るために戦い続ける、しかし、その戦いが続くほどに因果が強まり、望みは、徐々に絶望へと変わっていく……そんなようなものではなかろうか。(←無理やり、作品と関連付けて書き残そうと努力する図)
……。
うーん、しかし、結局書きなぐっても、モヤモヤした気持ちはなくならなかった。体調もよくないし、もう寝よう……。
(とはいえ、少しは気持ちも緩和したからよしとしよう。)
今日の一言「何とか山場を乗り切った、かな」「山、だと思ってたのが、もっと大きな山の一部だったりして」
大丈夫です、生きています。
また、自暴自棄で無謀な投資などはするつもりはありません。あくまで、余剰資金で、といった感じです。
あー、しかし、ほんと、ここ、1か月ぐらいは大変だった。残業になるのは、まぁ仕方がないとして、そもそも、24時で終わらないから、翌日の朝も早く行って仕事して、みたいな生活が特にここ二週間ぐらい続いていた。
このハードさ具合は、そうだなぁ、初めてではないかな、大学の一時期と、入社3年目あたりでこんなこともあったかなぁ。その時々において、やってることも、能力値も違ったりするけれども、兎に角「修羅」状態だよね。
あー、別に、忙しい自慢をするつもりもない……といってる時点で、そういう自慢なんだろうが、まぁ、それは置いておいて、そもそも、「大変なことを経験してないとだめだよ」とかいう先輩諸氏のお言葉を間に受けるのであれば、いやぁ、私はもう十分修羅モードやってきてますよ、と、自信をもって返事をしていいのではないか、と思う。が、僕の性格上、いやいや、もっと大変な人、おりますのでね、と思ってしまうのだ。
だが、それはそうとして、取りあえず、能力値が低い自分としては、十分修羅モードでしたわ、と言ってやりたい。いや、言う! 取りあえず、誰も知らない辺境のこの地で、僕は言う! 俺は、俺は頑張ったぞー! っと。
取りあえず。成果としては、微妙かもしれないし、そもそも、まだ終わってないのだけれども、取りあえず24時帰宅25時就寝5時起き6時出社的な生活は、しばらくはやらなくて大丈夫そうだ。
ただ、もう、たまには、テキトーに、ぐだぐだ書かせて頂いていいんちゃう?
えーやろ。愚痴言ったって。
愚痴言って、それがどーした、と思っちゃうんだよな、俺自身。だから、あんまし相談のって~とか言われないのかもしれない。これもよくない。共有するのが大事なんだ。一緒に悩んでやるのが、いい上司や彼氏や友人やその他いろいろなんだ。
うわー、もうめんどくせー! いろいろ、めんどくせー、わーわーわー、いやだいやだいやだー(棒読み)
えーと。こういうときは、素直に寝るか、風呂に入るかした方がいいんだろう。グチグチ書くのは、よくないことだ。
僕自身、ずーっと、ぐちぐち書きまくってるブログさんは、最初はなんか面白そうだったが、一か月も二か月もずーっと同じことをグチグチ書きまくってるブログさんは、いい加減、いやお前、それ、愚痴愚痴書くのが楽しいんちゃうかいな?! と思ってしまう。
いやきっと、僕もそう思われてるんだろうな。考えるの好きなんでしょ、と言われたりもしたし。
そうだな、でもそれは、認めてもいいかもしれない。考えるのが好きなのかは分からないけれども、取りあえず、何らか、書いて、整理するのは好きだ……好き? 好きなのか? 好きと言うよりも、そうしなければいけないような、何かもう強迫観念的な感じな気もするが。
何も書かずに、何も整理せずに一日が終わってしまうと、何だか、「僕自身」がすり減ってしまったように思うんだよな。なんだろ、この感覚。
本当はエラー(感情エラー)なんだろうな。一生懸命に生きて、誰かに何か影響を与えることができたら、自分自身のこんな愚痴ブログなんて書かなくても、それはそれで、とても尊い価値があるって、本当はそう思わないといけないんだろうな。そうなのか?
あー、んー、何だか、上に、愚痴グチを物凄い音を立ててタイピングしていたら、今、数分の内に気持ちが落ち着いた気がする。不思議だ。うん。
うーむ……。
うーむ。
なんだろ、変な気分だ。
取りあえず、23時過ぎたら、パソコンは使わないようにしよう。朝起きる。朝の方が、何か、頑張った感があっていい。
うーむ。やっぱり、久々ぶりに書くと、こんな、テキトー感まんさいの記事でも、筆というか、指が止まってしまう。やっぱり、継続は力なり、だなぁ。
継続は力なり、は、僕のモットーでもあるんだけど、それに反して、毎日、毎週が、断絶感がすごかった。
なんだろう、毎朝起きて、えーっと、俺、誰ですか? みたいな、いやお前それ病気やで!
(離人症とは、幽体離脱みたいになって、自分を自分で外からみているような感覚になる症状。さすがに覚醒状態ではないけれども、そんな感じの夢を数回みていた気がする最近)
よしよしヾ(・ω・`) 疲れたんだねー 大変だったんだねー がんばったねー
よしよしヾ(・ω・`) いいよいいよ、ゆっくりお休み。
とでも言ってもらいたいのだろうか、俺は。まぁ、そうなんだろう。しかし、そんなことを思う自分自身を軟弱やってんじゃねー! と喝状態になり……あーほんと、めんどくせーやつだ!
(明日読むと、赤面して頭を抱え込みそうである)
いや、小説というか、創作、何だか、自分が本気で「面白い!」とか「感動した!」と思えるような作品、小説でも漫画でもイラストでも、音楽でもいいから、そんなのを創りたい。
誰からも評価されなくてもいい。ただ、自分自身が、心底面白い! って思えるものを創りたい。
ある方が、その方は、かなりもう小説にかけては上級者で、多くの読者を惹きつけるだけの十分面白い作品を描けるのであるが、「いや、これではまだ不十分だ」「この理屈なら、こうであるのはおかしい」と、自分自身に厳しく、ストイックであり、中々続編を紡げないのである。多分、妥協して書いていても、きっと、多くの人にとって、「ナニコレおもろい!」となるであろうことは間違いない。
しかし、その方は、そんなことしないのだ。いやできないのだ。自分が、面白いと思えないと、書けないのだ(※)。その方の、悪戦苦闘具合を拝見させて頂き、僕もその影響を受けているのかもしれない。
※いやもっと複雑な事態として、その、自分で「面白い」と思う感性についてもまた、永遠普遍のものではなくて、その日の気分なんかにも影響されてしまう流動的なものだ。
この点について、「自分とは何か? 私はよく分かりません。でも最近思ったのは、その自分が分からないというのは、自分自身が、常に変化しているから何じゃあないかと思いました」というコメントをされた方がいらっしゃり、いやほんと、感動させて頂いたものである。
そして、それでもなお、僕としては、なお、その「自分」というものの、定点観測できる「何か」、ジャイロスコープのようなものを、何とか、片鱗でもいいから、掴みたいなぁと思うわけであるのだけれど。ただ、そうだとしても、前出の自分自身の変化について述べた方の視点は重要であることは変わらない。
書きたいけれども、ストーリーが作れない。
断片として、描きたい部分は思い浮かぶ。しかし、いい表現が浮かばない。まぁいい、その表現は、たくさん小説を読んで、感性を高めていけば、自分が描きたい表現がいずれ創り出すことができる(時間がどれほどかかるかは別として、道筋はある)。
ただ、ストーリーが浮かばない。いや、起承転結でいけば、起承、ぐらいまでは比較的すぐに浮かぶ。今連載中のものの他に、2つほど着手はしている。
けれども、書き進められることはられるけれども、いわゆる「オチ」が浮かばない。
結局、どうなれば終わりなのかが分からない。
でもこれ、意外と、どんなプロの作品も、結構オチが曖昧だったりする……というか、そもそも、オチって、ハッピーエンドかそうじゃないか、変わらない日常が続いていく、みたいなそんな感じにならざるえない。
最近観て面白かった作品、例えばサイコパスとか、すげー面白かったけど、「シビュラシステムは実は潜在犯の集合精神でした!」的なオチで、まぁ、そうなんだけど、だから、何だ? みたいな。
んー、なんだ、違う、書き足りていない。それはそれでいいんだ。じゃあ、ソードアートオンラインはどうだ? 記憶が奪われていくプレイヤーたち。その黒幕を倒した! 記憶を取り戻した! やった、ハッピーエンド!
んー、なんだ、違う。例えば、「君の名は。」は、「彗星やべえ!」「過去に戻って助ける!」「助かった!」「君の名は?!!」――ハッピーエンド!
んー、俺は、いったい、何を、いいたい!!(かっこ白い目)
何だろうな。
俺が最近、ここ1年、2年ぐらいで、ストーリーとして本当に完成しているというか、感動したのは、実は、やっぱり、この作品(外部リンク)かもしれない。これは、映画とか、漫画とか、その他ジャンルを含めてである(※)。
なんでこんなに魂魄を揺さぶられたというか、感動したのかは、よく分からない。その、読んだときの感性状態がたまたま適合していたのかもしれない。
ただ、ストーリーというのは、「オチ」というのは、僕が求めるのは、こういうこと(どういうことだよ)なんじゃあないかと、思ったりする。
※もちろん、先に挙げたサイコパスもそうだけど、面白い作品は色々あったのだ。あったのだけれども……。
努力、という言葉が嫌いだ(※1)、と何度も書いているが、それでも、その何かにかける時間、情熱が大きければ大きいほど、それは、その人のもつ能力は別として、大きな力になっていく。
Y=aX+b
の、Yが成果で、Xがかける時間だとしたとき、その人のセンスが「a」で、今まで培ってきた能力や資産が「b」であったとき、
(1)(a,b)=(10,100) と、 (2)(a,b)=(1,10)
の人がいたとしても、(2)の人も、(1)の人の100倍時間をかけたなら、同じだけの成果をうみだすことができるのだ(※2)。
ある方が、自身のブログで、短いながら、更新の都度、小説を連載している。
新聞の漫画欄みたいで面白い。僕もやってみたいと思った。
しかし、オチが決まってないのに、書いていっていいのだろうか。書きながらオチが見つかっていくような、そんな天性の才能なんて、自分にはなさそうである。ブログで断片的に書いていくよりは、ちゃんとまとまった形で、推敲など念入りにしてから完成させていった方がいいのではないか……。
でもまぁ、ゼロとイチとでは、大きな違いがある。継続は力なり。兎に角、あまり書くことから離れないようにした方がいいのではないか。
(取りあえずこれから3か月ぐらいの間、週一に500字~1000字のペースでやってみようか)
※1:努力という言葉は、他者評価と自己評価の相対に過ぎない。あんまり意味のある言葉ではない。
※2:100倍時間かけるなんて、人生限りがあるし、物理的無理な場合がある。もちろん、成果自体も、簡単に数値化できるものではないのだけれど、結局、この似非数式をよく考えないで信じると、「努力信仰」という、頑張れば何でもできる的な発想に陥りやすい。
拍手コメント等ありがとうございました
拍手コメントくださった方々、どうもありがとうございました。大丈夫です、生きています。
また、自暴自棄で無謀な投資などはするつもりはありません。あくまで、余剰資金で、といった感じです。
あー、しかし、ほんと、ここ、1か月ぐらいは大変だった。残業になるのは、まぁ仕方がないとして、そもそも、24時で終わらないから、翌日の朝も早く行って仕事して、みたいな生活が特にここ二週間ぐらい続いていた。
このハードさ具合は、そうだなぁ、初めてではないかな、大学の一時期と、入社3年目あたりでこんなこともあったかなぁ。その時々において、やってることも、能力値も違ったりするけれども、兎に角「修羅」状態だよね。
あー、別に、忙しい自慢をするつもりもない……といってる時点で、そういう自慢なんだろうが、まぁ、それは置いておいて、そもそも、「大変なことを経験してないとだめだよ」とかいう先輩諸氏のお言葉を間に受けるのであれば、いやぁ、私はもう十分修羅モードやってきてますよ、と、自信をもって返事をしていいのではないか、と思う。が、僕の性格上、いやいや、もっと大変な人、おりますのでね、と思ってしまうのだ。
だが、それはそうとして、取りあえず、能力値が低い自分としては、十分修羅モードでしたわ、と言ってやりたい。いや、言う! 取りあえず、誰も知らない辺境のこの地で、僕は言う! 俺は、俺は頑張ったぞー! っと。
取りあえず。成果としては、微妙かもしれないし、そもそも、まだ終わってないのだけれども、取りあえず24時帰宅25時就寝5時起き6時出社的な生活は、しばらくはやらなくて大丈夫そうだ。
忙しい
いや、その、あれだね。忙しいことは全然自慢にならないぞ。どんだけ大変な経験をしたとか、そんな過去の武勇伝、もてないぞ? 問題はそこにあるのではない。ただ、もう、たまには、テキトーに、ぐだぐだ書かせて頂いていいんちゃう?
えーやろ。愚痴言ったって。
愚痴言って、それがどーした、と思っちゃうんだよな、俺自身。だから、あんまし相談のって~とか言われないのかもしれない。これもよくない。共有するのが大事なんだ。一緒に悩んでやるのが、いい上司や彼氏や友人やその他いろいろなんだ。
うわー、もうめんどくせー! いろいろ、めんどくせー、わーわーわー、いやだいやだいやだー(棒読み)
えーと。こういうときは、素直に寝るか、風呂に入るかした方がいいんだろう。グチグチ書くのは、よくないことだ。
僕自身、ずーっと、ぐちぐち書きまくってるブログさんは、最初はなんか面白そうだったが、一か月も二か月もずーっと同じことをグチグチ書きまくってるブログさんは、いい加減、いやお前、それ、愚痴愚痴書くのが楽しいんちゃうかいな?! と思ってしまう。
いやきっと、僕もそう思われてるんだろうな。考えるの好きなんでしょ、と言われたりもしたし。
そうだな、でもそれは、認めてもいいかもしれない。考えるのが好きなのかは分からないけれども、取りあえず、何らか、書いて、整理するのは好きだ……好き? 好きなのか? 好きと言うよりも、そうしなければいけないような、何かもう強迫観念的な感じな気もするが。
何も書かずに、何も整理せずに一日が終わってしまうと、何だか、「僕自身」がすり減ってしまったように思うんだよな。なんだろ、この感覚。
本当はエラー(感情エラー)なんだろうな。一生懸命に生きて、誰かに何か影響を与えることができたら、自分自身のこんな愚痴ブログなんて書かなくても、それはそれで、とても尊い価値があるって、本当はそう思わないといけないんだろうな。そうなのか?
23時PC消灯ルーチンと禁欲
まああと少しで3連休だから頑張ろう。そうだ。休みで何して楽しもうか、考えよう。そうだそうだ。いろいろ、できなかったこととか、やりたいな。できなかったこと? あー、読書、とか。ゲームとか。サイトの運営(ココナラも始めてみたい)とか、株式投資とか(キーエンスって会社はどうやろ)。あー、んー、何だか、上に、愚痴グチを物凄い音を立ててタイピングしていたら、今、数分の内に気持ちが落ち着いた気がする。不思議だ。うん。
うーむ……。
うーむ。
なんだろ、変な気分だ。
取りあえず、23時過ぎたら、パソコンは使わないようにしよう。朝起きる。朝の方が、何か、頑張った感があっていい。
うーむ。やっぱり、久々ぶりに書くと、こんな、テキトー感まんさいの記事でも、筆というか、指が止まってしまう。やっぱり、継続は力なり、だなぁ。
継続は力なり、は、僕のモットーでもあるんだけど、それに反して、毎日、毎週が、断絶感がすごかった。
なんだろう、毎朝起きて、えーっと、俺、誰ですか? みたいな、いやお前それ病気やで!
(離人症とは、幽体離脱みたいになって、自分を自分で外からみているような感覚になる症状。さすがに覚醒状態ではないけれども、そんな感じの夢を数回みていた気がする最近)
よしよしヾ(・ω・`) 疲れたんだねー 大変だったんだねー がんばったねー
よしよしヾ(・ω・`) いいよいいよ、ゆっくりお休み。
とでも言ってもらいたいのだろうか、俺は。まぁ、そうなんだろう。しかし、そんなことを思う自分自身を軟弱やってんじゃねー! と喝状態になり……あーほんと、めんどくせーやつだ!
(明日読むと、赤面して頭を抱え込みそうである)
小説を書きたい
唐突。いや、小説というか、創作、何だか、自分が本気で「面白い!」とか「感動した!」と思えるような作品、小説でも漫画でもイラストでも、音楽でもいいから、そんなのを創りたい。
誰からも評価されなくてもいい。ただ、自分自身が、心底面白い! って思えるものを創りたい。
ある方が、その方は、かなりもう小説にかけては上級者で、多くの読者を惹きつけるだけの十分面白い作品を描けるのであるが、「いや、これではまだ不十分だ」「この理屈なら、こうであるのはおかしい」と、自分自身に厳しく、ストイックであり、中々続編を紡げないのである。多分、妥協して書いていても、きっと、多くの人にとって、「ナニコレおもろい!」となるであろうことは間違いない。
しかし、その方は、そんなことしないのだ。いやできないのだ。自分が、面白いと思えないと、書けないのだ(※)。その方の、悪戦苦闘具合を拝見させて頂き、僕もその影響を受けているのかもしれない。
※いやもっと複雑な事態として、その、自分で「面白い」と思う感性についてもまた、永遠普遍のものではなくて、その日の気分なんかにも影響されてしまう流動的なものだ。
この点について、「自分とは何か? 私はよく分かりません。でも最近思ったのは、その自分が分からないというのは、自分自身が、常に変化しているから何じゃあないかと思いました」というコメントをされた方がいらっしゃり、いやほんと、感動させて頂いたものである。
そして、それでもなお、僕としては、なお、その「自分」というものの、定点観測できる「何か」、ジャイロスコープのようなものを、何とか、片鱗でもいいから、掴みたいなぁと思うわけであるのだけれど。ただ、そうだとしても、前出の自分自身の変化について述べた方の視点は重要であることは変わらない。
小説が書けない
唐突2。書きたいけれども、ストーリーが作れない。
断片として、描きたい部分は思い浮かぶ。しかし、いい表現が浮かばない。まぁいい、その表現は、たくさん小説を読んで、感性を高めていけば、自分が描きたい表現がいずれ創り出すことができる(時間がどれほどかかるかは別として、道筋はある)。
ただ、ストーリーが浮かばない。いや、起承転結でいけば、起承、ぐらいまでは比較的すぐに浮かぶ。今連載中のものの他に、2つほど着手はしている。
けれども、書き進められることはられるけれども、いわゆる「オチ」が浮かばない。
結局、どうなれば終わりなのかが分からない。
でもこれ、意外と、どんなプロの作品も、結構オチが曖昧だったりする……というか、そもそも、オチって、ハッピーエンドかそうじゃないか、変わらない日常が続いていく、みたいなそんな感じにならざるえない。
最近観て面白かった作品、例えばサイコパスとか、すげー面白かったけど、「シビュラシステムは実は潜在犯の集合精神でした!」的なオチで、まぁ、そうなんだけど、だから、何だ? みたいな。
んー、なんだ、違う、書き足りていない。それはそれでいいんだ。じゃあ、ソードアートオンラインはどうだ? 記憶が奪われていくプレイヤーたち。その黒幕を倒した! 記憶を取り戻した! やった、ハッピーエンド!
んー、なんだ、違う。例えば、「君の名は。」は、「彗星やべえ!」「過去に戻って助ける!」「助かった!」「君の名は?!!」――ハッピーエンド!
んー、俺は、いったい、何を、いいたい!!(かっこ白い目)
何だろうな。
俺が最近、ここ1年、2年ぐらいで、ストーリーとして本当に完成しているというか、感動したのは、実は、やっぱり、この作品(外部リンク)かもしれない。これは、映画とか、漫画とか、その他ジャンルを含めてである(※)。
なんでこんなに魂魄を揺さぶられたというか、感動したのかは、よく分からない。その、読んだときの感性状態がたまたま適合していたのかもしれない。
ただ、ストーリーというのは、「オチ」というのは、僕が求めるのは、こういうこと(どういうことだよ)なんじゃあないかと、思ったりする。
※もちろん、先に挙げたサイコパスもそうだけど、面白い作品は色々あったのだ。あったのだけれども……。
凡人が背伸びするんじゃねぇ!
と、まぁ、そんな、すげー作品にあてられて、「ああ、もう、俺はやっぱり、何も書けないんだ、ダメなんだ、ダメな奴なんだ、人間としてダメなんだぁぁぁ!」なんてふざけたことぬかしてんじゃねぇ。努力、という言葉が嫌いだ(※1)、と何度も書いているが、それでも、その何かにかける時間、情熱が大きければ大きいほど、それは、その人のもつ能力は別として、大きな力になっていく。
Y=aX+b
の、Yが成果で、Xがかける時間だとしたとき、その人のセンスが「a」で、今まで培ってきた能力や資産が「b」であったとき、
(1)(a,b)=(10,100) と、 (2)(a,b)=(1,10)
の人がいたとしても、(2)の人も、(1)の人の100倍時間をかけたなら、同じだけの成果をうみだすことができるのだ(※2)。
ある方が、自身のブログで、短いながら、更新の都度、小説を連載している。
新聞の漫画欄みたいで面白い。僕もやってみたいと思った。
しかし、オチが決まってないのに、書いていっていいのだろうか。書きながらオチが見つかっていくような、そんな天性の才能なんて、自分にはなさそうである。ブログで断片的に書いていくよりは、ちゃんとまとまった形で、推敲など念入りにしてから完成させていった方がいいのではないか……。
でもまぁ、ゼロとイチとでは、大きな違いがある。継続は力なり。兎に角、あまり書くことから離れないようにした方がいいのではないか。
(取りあえずこれから3か月ぐらいの間、週一に500字~1000字のペースでやってみようか)
※1:努力という言葉は、他者評価と自己評価の相対に過ぎない。あんまり意味のある言葉ではない。
※2:100倍時間かけるなんて、人生限りがあるし、物理的無理な場合がある。もちろん、成果自体も、簡単に数値化できるものではないのだけれど、結局、この似非数式をよく考えないで信じると、「努力信仰」という、頑張れば何でもできる的な発想に陥りやすい。
今日の一言「失くしたことを後悔しているうちに時間もなくしている」
大事なものをなくしてしまうと、何だか心が落ち着かなくなる。不安感で、何か他のことをする気がなくなってしまう。
だが、落ち着こう。落ち着くときは、息を深く、長く吐くのが、副交感神経か交感神経だかどちらかを刺激して、リラックスすることができる。
それだけでは、到底落ち着くことはできない。しからば、考えてみる。「なくしてしまった……どうしよう」と悔やんでいる時間、それはどうにも無駄な時間じゃあるまいか。何故なら、そもそも、失くしたことに気づかないうちは、そのことで全然思い悩むことはなかったのである。ふと、気づいた瞬間から、喪失感や焦燥感にとらわれはじめたわけだ。
実のところ、スマホを、置き忘れたことも入れたら、これで3度目になる。そのときはすぐに気付くことができたから見つかったけれども、最近いろいろ抜けてしまっている。
でも、逆に考えてみる。これが、財布とか、会社のIDカードとかじゃなくて良かった。持ち歩くことが無いが、個人情報を含むUSBとかなくしたら、本当に洒落にならない。
それと比べたら、大した問題じゃあない。効果と言っても、1~2万程度の損失だろう。
もう一つ、それでも、強迫観念に襲われるのであれば、逆説志向を試すのである。
逆説志向とは、「もういっそ、できる限り本気で全部鞄ごと忘れてしまおう!」「預貯金通帳をなくしてやろう!」と思ってみるのである。
「こうじゃないか、ああじゃないか」と、不安や強迫観念に陥って、現実的な行動が何一つできなくなりはじめたら、逆に、その強迫観念等の根本について、むしろやってやるぞと、できる限り激しく、公衆の面前でやり遂げてみるぞと、反転した考え方を取るのである。
それを真剣にやろうと思えば思うほど、「いやいや、カバンごと忘れるなんて無理でしょ(笑)」と、逆に、笑いすらこみ上げてくるのである。これがユーモアという。
どうしてこうも早いんだ。
このペースで行くと、40歳、50歳、60歳とか、あっという間な気がする。
モノをなくしたからと言って、うだうだ言ってる暇はないのだ。
さて、目標とは何だったか。ヴィクトールさんの「人間とは何か」について、読了(音読完了)することである。
進捗は、320ページほど。習慣目標に到達できていない。というか、習慣目標といいつつ、平日は何もできていない。いっそ、今のうちに、400ページぐらいまで進めようか。80ページ。1ページ2分くらいとすると、160分。約3時間。今、19時だから、22時までかかる。うわ……厳しいな……。
(ブログなんて書いてる場合じゃない)
高価な電化製品をなくした
最近、モノをなくすのは2度目である。一つは見つかってほっと一安心したが、今度は手がかりが全くない。いつ落としたかも不明。これは、ダメかも分らんね……。大事なものをなくしてしまうと、何だか心が落ち着かなくなる。不安感で、何か他のことをする気がなくなってしまう。
だが、落ち着こう。落ち着くときは、息を深く、長く吐くのが、副交感神経か交感神経だかどちらかを刺激して、リラックスすることができる。
それだけでは、到底落ち着くことはできない。しからば、考えてみる。「なくしてしまった……どうしよう」と悔やんでいる時間、それはどうにも無駄な時間じゃあるまいか。何故なら、そもそも、失くしたことに気づかないうちは、そのことで全然思い悩むことはなかったのである。ふと、気づいた瞬間から、喪失感や焦燥感にとらわれはじめたわけだ。
実のところ、スマホを、置き忘れたことも入れたら、これで3度目になる。そのときはすぐに気付くことができたから見つかったけれども、最近いろいろ抜けてしまっている。
逆説志向
あれを忘れた、これを忘れた、が繰り返されると、そもそも、いろんなことを忘れてしまっていることについて、強迫観念が生じてくることもある。でも、逆に考えてみる。これが、財布とか、会社のIDカードとかじゃなくて良かった。持ち歩くことが無いが、個人情報を含むUSBとかなくしたら、本当に洒落にならない。
それと比べたら、大した問題じゃあない。効果と言っても、1~2万程度の損失だろう。
もう一つ、それでも、強迫観念に襲われるのであれば、逆説志向を試すのである。
逆説志向とは、「もういっそ、できる限り本気で全部鞄ごと忘れてしまおう!」「預貯金通帳をなくしてやろう!」と思ってみるのである。
「こうじゃないか、ああじゃないか」と、不安や強迫観念に陥って、現実的な行動が何一つできなくなりはじめたら、逆に、その強迫観念等の根本について、むしろやってやるぞと、できる限り激しく、公衆の面前でやり遂げてみるぞと、反転した考え方を取るのである。
それを真剣にやろうと思えば思うほど、「いやいや、カバンごと忘れるなんて無理でしょ(笑)」と、逆に、笑いすらこみ上げてくるのである。これがユーモアという。
目標の達成状況
さて話を変えよう。2月末までの目標を立てたのが、1月末あたりだったと思う。気づけば、もう2月中旬が終わり、2月末に突入している。はえええええ! 驚くばかりだ。どうしてこうも早いんだ。
このペースで行くと、40歳、50歳、60歳とか、あっという間な気がする。
モノをなくしたからと言って、うだうだ言ってる暇はないのだ。
さて、目標とは何だったか。ヴィクトールさんの「人間とは何か」について、読了(音読完了)することである。
進捗は、320ページほど。習慣目標に到達できていない。というか、習慣目標といいつつ、平日は何もできていない。いっそ、今のうちに、400ページぐらいまで進めようか。80ページ。1ページ2分くらいとすると、160分。約3時間。今、19時だから、22時までかかる。うわ……厳しいな……。
(ブログなんて書いてる場合じゃない)