雷でうたれて死ぬってほんとにあるんだな。
あと、精神疾患の40代の娘を、80代くらいの夫婦が生活に困窮した末、一家心中をはかったとも。
ある著名人が、最近流行りのポケモンGOをする人たちを侮蔑したと。現実に面白いことを探さず、現実的じゃないものに時間を使うのは嘆かわしいと。
俺たちには、現実に逃げ場すらなかったんだ!
とは、ルサンチマンという漫画の一シーンである。
仮想現実、いわば美少女ゲームにつかったチビハゲニートの言葉。
現実的じゃないものの否定、となると、その著名人は、小説とか読まないのかな? 映画も、純文系しかみないのかな?
酒と女とお金が楽しいことなのかな。例であげていたのは、草木についた虫、なのだけど。
うーん、まぁ例えがアレなだけで、言いたいことは分かるけど、でも、それよかやっぱりポケモンGOの方が楽しいだろうな(笑)
自分はスマホでゲームしないから、ポケモンGoもやったことないけど、でも、現実って面白いことばっかじゃない。
というより、そもそも、現実的なものとは何か、と考えたとき、それが地球という自然現象のことだけなのか、というのもある。
社会科学的な事象、ひとが集団になったら悪いことしだすとか、それらだって現実に他ならない。
としたときに、先の小説や、ゲームも、それを作り出すという過程においては、現実そのものともいえる。
一方、現実について、例えば自分はどう生きるべきか、というのは、現実のことを考えていても、それ自体は現実ではないといえる。
だから、現実が重要とか非現実が無駄とか、そういう考え方自体が無駄である。
だったら、ディズニーランドだって、あれは夢の国なんだから、夢中になるのは無駄ということだ。それよりも、虫に興味をもったほうがよいというわけだ、カッコわらい。
まぁたんに、その方は、ゲームに夢中になるひとたちが理解できないというだけなのだろう。
そういう人多いだろうし、特にとやかくいうつもりはない。
ただ、何が重要とか、楽しいとか、そういうのを、まさに自分自身で考えたり判断したりするってのが、これからの時代大事なことの気がする。とりあえず、ゲームの効果とか、役に立つとかそういうことを言いたいわけではない。僕自身、消費の行動分野でしかないとも思う。
とはいえ、ゲームする行為がまったく無駄か、というとそんなことは思わないし、ゲームが生活の軸だっていいとすら思う。ゲームするのだって、楽しむためには現実の体調だって重要だし、強くなるにはたくさんの課金だって必要だ(笑)。そのために仕事がんばったっていいじゃないか。
いろんな生き方があると思う。そのどれが正しいとか考えるのは無駄だと思うし、それを肯定する社会は、どこかの原理主義のように、いずれテロリズムにつながる可能性だってあるだろう。
一方で、車に乗りながらポケモンゴーやって事故おこしたり歩きスマホでぶつかりそうになってきた奴は死んでしまえ、とも思うし、いろんな生き方があるとの提示は衆人には重く面倒なことであって、わかりやすい答えをくれる人に、みんなついていくのだろうとも思う。
いや、俺は違うぜ偉いんだぜ、とか思ってるわけではなく、そういう、何かについていくことが、今だかつてできなかった僕は、やっぱり人間として何か欠陥があるのかもしれないぐらいであるから、決して上から目線の記事ではないと書いておく。この感覚、こうやって書いても、きっと伝わらないんだけどね。
なんのはなしだ?
ポケモンゴーを頭から否定する必要はないが、それが原因で事故を起こすとかは信じられない、ということか。
老老介護とか、生きることがリスクになってきてるとは、なんとも皮肉的である。
やっぱり、そういう意味だと、この生きる意味ってのは、まったなしの重大案件だ。
しかし、どうしたらいいのか。
まず、子供を作ってみないことには何も分からない、というのが、改める必要があるかもしれない。
生まれた子が病気じゃなくても、学校でいじてられて不登校になってこじらせてニートになるかもしれない。
そしたら、俺なら、無理して学校なんていかせず、空手かボクシングでも習わせて、勉強は俺が教えてやる。
所詮、学校カーストなんて、身体がしっかりしてれば簡単に変わるのである。
あ、男の子を想定して書いてしまった。女の子だったらどうなんだろ……。
女は、かわいきゃかわいいで潰される可能性もあるし、ブスはブスでいじめられるし、ほんと面倒だよな、なんて飲み会で話したら女性たちに総すかんに合いそうだ、が、そうそう女性って面倒だよねーぐらい言ってくれる人がいたら、ちょっと楽しそうだが。
昨日、日航機墜落のボイスレコーダーの動画きいていて泣いてしまった。これ何回もみているんだけどな。
プラスで、乗客のメモ、遺書だな、それが、妻とか子供に向けての、強く生きろよ、頑張れよ、とかの言葉。
いま思い出しても涙腺が熱くなる。
それに比べて、沖縄で海水浴していて、雷にうたれて死んだ方。
無念と思う。
その方の人生ってなんだったのか。
そこで死ななければいけない意味ってあったのか。
残酷だが、きっと、何の意味もないのだ。
生まれてきた意味もなければ、死ぬ意味もない。
もっといえば、生きる意味すらない。
そんなもんだ。
これは、実感である。あれ、生きる意味を考えることから逃げない、と書いたことと矛盾しないだろうか。
結論は、矛盾しない。
こうやって比較して書いてみるとわかりやすいが、僕がいってる生きる意味ってのは、客観的意味でなどない、ということだ。
客観的な存在意義などない。
客観的という言葉も定義が必要だが、とにかくここでは、仕事や子供や恋人、親、その他様々な理由があっても、それらは、結局は主観でしかない。
とか、この、主観客観のはなしをすると、知り合いと大激論になったりするのだけど、どうにも、僕の感覚がうまく伝わらない分野の表現らしい。
それは確かに、二人以上あつまれば、それ社会学的に集団と定義されるのだから、その集団において共通の認識があれば、それは客観といっていいのだろう。
でも、僕がすぐ感じてしまうのは、その集団の非連続性、永遠性である。
その集団が変われば、客観的といわれていたことの意味もかわるのである。
それは、僕の言葉では、客観ではなく、擬客観とか、仮客観とかそんな感じ。
だから、自分一人で、しっかりと、その存在意義について考え、行動し、育み強くしていく必要があるのだ。
あと、精神疾患の40代の娘を、80代くらいの夫婦が生活に困窮した末、一家心中をはかったとも。
ある著名人が、最近流行りのポケモンGOをする人たちを侮蔑したと。現実に面白いことを探さず、現実的じゃないものに時間を使うのは嘆かわしいと。
現実肯定主義
俺たちには、現実に逃げ場すらなかったんだ!
とは、ルサンチマンという漫画の一シーンである。
仮想現実、いわば美少女ゲームにつかったチビハゲニートの言葉。
現実的じゃないものの否定、となると、その著名人は、小説とか読まないのかな? 映画も、純文系しかみないのかな?
酒と女とお金が楽しいことなのかな。例であげていたのは、草木についた虫、なのだけど。
うーん、まぁ例えがアレなだけで、言いたいことは分かるけど、でも、それよかやっぱりポケモンGOの方が楽しいだろうな(笑)
自分はスマホでゲームしないから、ポケモンGoもやったことないけど、でも、現実って面白いことばっかじゃない。
というより、そもそも、現実的なものとは何か、と考えたとき、それが地球という自然現象のことだけなのか、というのもある。
社会科学的な事象、ひとが集団になったら悪いことしだすとか、それらだって現実に他ならない。
としたときに、先の小説や、ゲームも、それを作り出すという過程においては、現実そのものともいえる。
一方、現実について、例えば自分はどう生きるべきか、というのは、現実のことを考えていても、それ自体は現実ではないといえる。
だから、現実が重要とか非現実が無駄とか、そういう考え方自体が無駄である。
だったら、ディズニーランドだって、あれは夢の国なんだから、夢中になるのは無駄ということだ。それよりも、虫に興味をもったほうがよいというわけだ、カッコわらい。
まぁたんに、その方は、ゲームに夢中になるひとたちが理解できないというだけなのだろう。
そういう人多いだろうし、特にとやかくいうつもりはない。
価値判断
ただ、何が重要とか、楽しいとか、そういうのを、まさに自分自身で考えたり判断したりするってのが、これからの時代大事なことの気がする。とりあえず、ゲームの効果とか、役に立つとかそういうことを言いたいわけではない。僕自身、消費の行動分野でしかないとも思う。
とはいえ、ゲームする行為がまったく無駄か、というとそんなことは思わないし、ゲームが生活の軸だっていいとすら思う。ゲームするのだって、楽しむためには現実の体調だって重要だし、強くなるにはたくさんの課金だって必要だ(笑)。そのために仕事がんばったっていいじゃないか。
いろんな生き方があると思う。そのどれが正しいとか考えるのは無駄だと思うし、それを肯定する社会は、どこかの原理主義のように、いずれテロリズムにつながる可能性だってあるだろう。
一方で、車に乗りながらポケモンゴーやって事故おこしたり歩きスマホでぶつかりそうになってきた奴は死んでしまえ、とも思うし、いろんな生き方があるとの提示は衆人には重く面倒なことであって、わかりやすい答えをくれる人に、みんなついていくのだろうとも思う。
いや、俺は違うぜ偉いんだぜ、とか思ってるわけではなく、そういう、何かについていくことが、今だかつてできなかった僕は、やっぱり人間として何か欠陥があるのかもしれないぐらいであるから、決して上から目線の記事ではないと書いておく。この感覚、こうやって書いても、きっと伝わらないんだけどね。
なんのはなしだ?
ポケモンゴーを頭から否定する必要はないが、それが原因で事故を起こすとかは信じられない、ということか。
精神疾患の娘を殺害
老老介護とか、生きることがリスクになってきてるとは、なんとも皮肉的である。
やっぱり、そういう意味だと、この生きる意味ってのは、まったなしの重大案件だ。
しかし、どうしたらいいのか。
まず、子供を作ってみないことには何も分からない、というのが、改める必要があるかもしれない。
生まれた子が病気じゃなくても、学校でいじてられて不登校になってこじらせてニートになるかもしれない。
そしたら、俺なら、無理して学校なんていかせず、空手かボクシングでも習わせて、勉強は俺が教えてやる。
所詮、学校カーストなんて、身体がしっかりしてれば簡単に変わるのである。
あ、男の子を想定して書いてしまった。女の子だったらどうなんだろ……。
女は、かわいきゃかわいいで潰される可能性もあるし、ブスはブスでいじめられるし、ほんと面倒だよな、なんて飲み会で話したら女性たちに総すかんに合いそうだ、が、そうそう女性って面倒だよねーぐらい言ってくれる人がいたら、ちょっと楽しそうだが。
雷で死ぬ
昨日、日航機墜落のボイスレコーダーの動画きいていて泣いてしまった。これ何回もみているんだけどな。
プラスで、乗客のメモ、遺書だな、それが、妻とか子供に向けての、強く生きろよ、頑張れよ、とかの言葉。
いま思い出しても涙腺が熱くなる。
それに比べて、沖縄で海水浴していて、雷にうたれて死んだ方。
無念と思う。
その方の人生ってなんだったのか。
そこで死ななければいけない意味ってあったのか。
残酷だが、きっと、何の意味もないのだ。
生まれてきた意味もなければ、死ぬ意味もない。
もっといえば、生きる意味すらない。
そんなもんだ。
これは、実感である。あれ、生きる意味を考えることから逃げない、と書いたことと矛盾しないだろうか。
結論は、矛盾しない。
こうやって比較して書いてみるとわかりやすいが、僕がいってる生きる意味ってのは、客観的意味でなどない、ということだ。
客観的な存在意義などない。
客観的という言葉も定義が必要だが、とにかくここでは、仕事や子供や恋人、親、その他様々な理由があっても、それらは、結局は主観でしかない。
とか、この、主観客観のはなしをすると、知り合いと大激論になったりするのだけど、どうにも、僕の感覚がうまく伝わらない分野の表現らしい。
それは確かに、二人以上あつまれば、それ社会学的に集団と定義されるのだから、その集団において共通の認識があれば、それは客観といっていいのだろう。
でも、僕がすぐ感じてしまうのは、その集団の非連続性、永遠性である。
その集団が変われば、客観的といわれていたことの意味もかわるのである。
それは、僕の言葉では、客観ではなく、擬客観とか、仮客観とかそんな感じ。
だから、自分一人で、しっかりと、その存在意義について考え、行動し、育み強くしていく必要があるのだ。
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