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記憶力の向上のためには
2016/08/22 22:00 | Comments(0) | イライラ対処
またいいな、と思ったブログで紹介されていたのは、山岡鉄舟というひとの、剣、禅、書という考え方。

剣、で思い出したが、シグルイというさくひんも面白そうだ。

そして、バルサミコ酢は果実酢で、ブドウが使われ、バーニャカウダはゆで野菜をディップして食べる料理で、アンチョビソースが使われ、アンチョビは、いわしとニンニクが使われていて、どれもイタリアの材料、料理だ。



と、脈絡はないが、たまに、記憶しようと思ったことを、アウトプットする。それはもう繰り返し。

海馬が記憶の元を作り出し、大脳皮質に記憶させるという。

海馬がメモリ主記憶装置で、大脳皮質が補助記憶装置ハードディスクのようなものか。


その記憶、復習のタイミングは、最初は繰り返しの度数をおおくし、徐々にそう起する頻度を少なくしていくのがよい。というのがエビングハウスの忘却曲線。



この、バーニャカウダってなんだよ、つてのが、数年前に思って調べて、なかなか定着しなかったが、最近思い出してみて、忘れていない。やっと覚えたか、とか思っていて、海外ドラマの、ゲームオブスローンズが、タイトルがなかなかでてこなかった。数分して思い出したが、結局新作は借りられててみれなかったが。



記憶と流行



消費、需要をつくりだすのは欲求だが、それを不安という概念によってつくりだそうとするのが資本主義だ、というと言い過ぎかもしれないが、流行に乗り遅れると、ださい、と言われて、人間関係が難しくなる場合がある。

これは、女子高生に多い傾向かもしれない。先日、女性向け雑誌を研究のため、とかいう前置きを書かなければ変態扱いになるから書いているだけだが、例えば、若いうちに課長になったときの本とか、退職したあとに読む本とか、そういうのを読むのと同じレベルである。

三十代になって三十代の本読んだってあんまり意味ないのだ。

それで、その雑誌のアイキャッチは、セックスできれいになる、2016年私たちのセックス、といったものだった。
なるほどねー、こういうのが流行っているのかふむふむ、と真面目に思ったわけではないが、まぁ面白いと思う。

先日の美術の本も面白かったが、何でも様々なジャンルに目を通すのがよい。これはやっぱり、本やさんに行くことのメリットに思う。まぁ、買ってみると多分あまり読まないんだろうが。


月曜日


さて、今週はどんな一週間になるだろうか。

メモとして、気分は悪くない。仕事は沢山であり、締め切りに終われて、多分また残業も多くなるのではと思う。が、そんなに悲観的ではない。

仕事人たるや、何事も真剣に、せきにんかんをもって、というのはその通りだが、先日書いたように、仕事もまた人生でしかありえないのだから、自分の行動指針上では(いつの間にそんなのできていた? いや、いまである)、すべてにおいて、笑顔で、楽しく、である。

このblogの最初の方の記事にも書いてあった。

なんやかんや、歪、歪んでいながら、昔の記事は、参考になるというか、ああ、なるほどね、って思う。
これが、いわゆる日記の効用なのだろう。ってことも、いつぞやに書いている気がする。全然成長してないなぁ、と、呆れながら、何となく楽しい。



で、こういう心境で書いた記事を、きっと、今日の終わり、疲れてイライラした状態でみると、消したくなるほど恥ずかしく、つまらなく思うのだ。しかしまた、一ヶ月後ぐらいになると、これはまた他人のように思えて、それはそれで楽しかったりするのだ。

だんだん、何となく分かってきた気がする、と一言書いて、これがまたもう、本当に恥ずかしく思ったりするのだ。


そして十数時間後



思った通り、遅くなった。で、疲れであまり頭がまわらない。
創作のプロットつくろうと朝は思っていたのに、気力がない。
資格の勉強もきづくと一週間もさぼっている。

ここで、この疲れはてた状態で、やるべきことをやる人が、強い、かっこいいんだろう。

きっとイケメンは、この状態でも、女性に優しくできるんだろう、かなりきつい。女性とか云々でなく、もう今はホント誰にも気を使えない、とかくとは、普段、やっぱり、気を使っているのかなぁ。


いやぁ、しかし、今日の朝の記事は、体調も気分もいいぜ、とか書いていながら、そんなに腹立たしくならなかった。
おそらく、いまの自分の感覚が、読み当てられていたからだろうか。

朝の自分がおっしゃるとおり、今はふらふらしている。
その、ふらふらしていることを、何も前提なく書くと、弱音とかダメ人間とか自己管理できてない、とか、そんな言葉がわんさかになるが、朝から予想済みなら、仕方がないねぇ~みたいな感覚になるのだろうか。

自分のことながらよくわからない。


自分のこと



自分がどうあるべきか、よくよく、セルフイメージをつくりだす必要がある。

それを前提にして、やっぱり、いま、これを書いている、お前は、だれだ?

その、ふらふら、疲れて、目をしゅぱしゅぱさせて、必死にこれを書いている、お前は誰だ?


俺は、俺だ、が、なんか、違う気もする。
何が、かはわからない。

が、どこか、この、自分でしかないのだが、鏡をみても、あぁ、これ、自分だなと、大脳皮質から記憶がでてくるのだが、それでも、この、言葉を書いている、かっこ俺、と、疲れた~っと感じている俺、が、一致しているのかよくわからない、感覚だ。

いやいや、そんなはずあるまい。
拳を握ろうと思えば、指は動くし、ウォークマンにスイッチをいれて音楽をながすこともできる。

自分だろ?

それ以外に、なんだ?


それともなにか、本当の自分はもっとどこか、遠い世界で楽しんでいるとでも?


まさか、そんなことは思っていない。

ただ、ちょっとばかし疲れてくると、こんな感じがあらわれてくる。

ちょっと、プラットホームに飛び降りてみようかな、って思っても、身体はとまる。自己保存のプログラムが働いているんだなぁ、よかったよかった……って、とても危険人物である、危ない危ない。


と、想像上は、いかようにでも発生する。
いくらでも、考えることはできる、ってことも当たり前だ。考えるだけなら、あのクソ上司いつか殺してやる、みたいなこともできる。
中学生くらいに、教室にテロリストが乱入して、自分だけかっこよく立ち回り、クラスの美少女を助けて危機を脱出するとか、誰でも考えただろう、え、そんなことない?


とか書いていると、実際自分が思ったことなのか、創造したことなのか、よくわからなくなってくる、という表現は本当に危険人物認定されるな。ただ、表現の自由の規制は、こういう発言すら認められない社会になりかねない、ベーシックインカムみたいな共産的政治でも新自由主義的な経済政策でもどっちでもいいが、政治はとにかく、余計なことしないでほしいものだ。グロテスクであれ、エロであれ、ネガティブであれ、なんでもかんでも、表現の自由の制限には反対だ。

あ、政治的な主張はいっさいしないblogだったのに書いてしまった、が、これ、むしろ政治には難しい、自民でも民主でも革新でも共産でも、政党的に統一は困難だからだ。

まぁそんなことは本気でどうでもいい、と書いたところで、こうして言葉をはっしてしまうと、自分の意図はもはや軽くなって、読み手に都合よく伝わっていくのが言葉。


君は誰?


なんの話だっけ、そう、自分がよくわからないって話だ。

これって都合よいとうひだなってのもすぐ思う。
自分の行為、行動、発言に責任をもちたくないだけではないか、ってことだ。

なんか、断定すると、間違っていたとき、責任とらなきゃになる。

だから、すべての判断を保留にし続けた結果、自分という記憶の統合主体がわからなくなったのではないか。


と、ひとつ、言えるのは、こうして、次々に否定し考えてくだらないと思いながら書き続けるバカ野郎が、俺なのだ、ということぐらいだ。





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