22時過ぎて仕事して、帰路につくと、想像以上に、空虚感が強い。
居場所のなさというか、ひどい現実感のなさというか。
真っ暗闇でも、部屋に帰っていた方が、なんかいい。
まぁ、部屋にいると、それはそれで何も動けなくなることがあるのだけど。
資格の勉強もして、昇進試験の勉強もしないといけない、合コンや知人とのお出掛けもつまっているし、予定は空きがほとんどない。
忙しさって、心を失なうと書くとか。
やることが多いと、やりたいことが分からなくなる、ただ、この表現はおかしい、そもそも、何をしたいのか、離婚とかの前から分からなくなってきていたのだ。
なんだか、最近、今日かだったか、
久しぶりに非常に怒りの感情が生じたのだけど、なんだっけ、もう思い出せない。
そういえば、保険も入った。
もう、目も半開きな、疲れはてた帰路だけれども、だったら、黙ってなにもしなきゃいいのに、書かないと、なんだか、存在自体消えてしまいそうな、そんな得たいの知れぬ焦燥感。
今日はまったく、いつもの、役に立ちたいとかではなく、単に、誰か気づいて欲しい、俺はここにいるんだ、気づいてくれ! という叫びのようだ。
この空虚感は、歴代の自分の中でも、トップクラスなようだ。
たくさんの人に電車という囲まれた場所だから、なおさらそうなのかもしれない。
誰かの存在を抱えていないから、僕はとても軽いのかもしれない。
確かに、友人たちは、誘えば遊びにいける。
ただ、それら友人や、電子世界の友人や親兄弟を含めてもいいかもしれないが、他者の存在、人生を背負ってはいないのである。
背負うとは文学的表現だが、つまりが、他者への影響力の希薄さといえるかもしれない。
すべては相互行為ゆえに、コンビニでコーヒーを買うのも、他者への影響である。
しかし、ここで僕が問題にしている空虚感とは、その影響力の大小なのか。
あまりに卑屈で、矮小でみていて楽しいかもしれない。
不思議なのは、自分は仕事をやって感謝されたし、一歩前に進めたし、すごい先輩のはなしも二人にも直接きけたし、事象だけみればとても充実だ。
いやむしろ、燃え尽きた、という状態だろうか。
そういえば、昔つくった曲や、弾いた曲をアップロードしたのをみて、コメントついているのが嬉しかった。
笑いでも何でも、共感など、感動を与えられたのは嬉しい。
現実世界の感謝は、数人だろう、電脳社会においては、僕でも何十人へも影響を与えられるのだ。
えぇ、じゃあ、僕が求めてるのは、社会的承認ってことなのか。
仮にそうだとして、いったい、どこまで求めるきだろう。
総理大臣にでもなりたいのだろうか、でも、それは、批判も多いし、人格というよりは、権力によるものであるがゆえ、求めるものとは違いそうだ。
もう、目が半分だけで、無意識にかいているが、うえの流れだと、つまり欲求としては、僕自身を認めてくれること、果てには、愛していることを求めているのだろうか。
笑えることに、大抵の人は、こんなことまで考えることなく、うまい具合に自己と向き合って、日々を生きているのだろう。
僕は、……、こういった状況において、ゆっくり休みなとか、考えすぎだよ、もっと行動しなよ、思いきって休みな、まったく別のことに力をいれたら、誰かに話したら楽になるよ……
もう大体、たいてい思い付くだろう、対処法として示されることが、ほとんど瞬時に頭に浮かぶ。
そうするともう、なにがしたいのか、なにをすべきか、分からなくなる。
ってことを、第一、他者に話したら、いろいろ問題が起こることも分かっていて、いやいや、そんなことで離れていく人なんて真の友人じゃないから、もっと誰かを頼ったらいいじゃないか、とか、もう、どんどん生まれてくる。
病気かもしれない、じゃあ精神科にいこう、で、なんという? 無気力でなにもする気が起きないんです、最近ご飯は食べられてますか? はい、夜は眠れてますか? はい。
そうですね、では薬を出しておきますので、しばらく様子をみましょう。
ってなる。
いやいや、フルスピードアクセル全開気分になる薬もあるだろうが、危険だ。
考え方を改めましょう、認知療法をはじめましょう、となるかもしれない。
ただ、ここにきて問題になるのは、ここで治療されてしまったとして、では、僕の自己はどこに言ってしまったというのか?
治療されて、過去すべてが過ちだったとして、では、僕は、三十年あまり生きてきた僕は、なんだったのか。
身体上の死は大きなできごとだが、精神、自己の死は他愛ないことだろうか。身体だけいかされた状態も、植物状態とか、脳死とか、死として扱われる場合だってある。
と、このように叫んでいても、こうした人間を抱えてくれる、背負ってくれる、愛してくれる人間は存在しない、否、ここの表現は
難しくて、僕を認めてくれる人たちは、心配し、助けようとしてくれるだろう。
しかし、その助けとは、先程のように、治療、なのである。
全人格的承認を求めているのだろうか!?
と、先程自分で驚いたのは、そういうことだ。
いやはや、それは、構造上、例えば自分の背中を自分では見れないのと同じである。
という構造が、絶望の3形態、
自己を知らない絶望
本来的自己から逃れようとする絶望
非本来的自己になろうとする絶望
としたら、非本来的自己になろうとする最終形態の絶望に思えるかっこわらい。
いやいや、違うぞ、そうやって生きる意味とか考えることが間違いなのだから、まさにお前は、本来的自己から逃げようとしている弱虫だ!
ということだってできる。
ようし、それなら、初めに戻って、いまげんに、この瞬間に生じている空虚感は、いったいどうしたらいいのか。
その感情を否定するのが正しいとしたら、感情のコントロールといって、感情の抑圧が正しいことだと信じていた高校生ぐらいまで逆戻りだ。
うん、少し落ち着いた。
やっぱり、書かないと、表現してかたちにしないと、だめだ。
うえのようなことが、ほとんど同時に、頭のなかにバシャッと、溢れるのである。
そりゃ落ち着かないわけだ。
居場所のなさというか、ひどい現実感のなさというか。
真っ暗闇でも、部屋に帰っていた方が、なんかいい。
まぁ、部屋にいると、それはそれで何も動けなくなることがあるのだけど。
資格の勉強もして、昇進試験の勉強もしないといけない、合コンや知人とのお出掛けもつまっているし、予定は空きがほとんどない。
忙しさって、心を失なうと書くとか。
やることが多いと、やりたいことが分からなくなる、ただ、この表現はおかしい、そもそも、何をしたいのか、離婚とかの前から分からなくなってきていたのだ。
単純明快な独り言
なんだか、最近、今日かだったか、
久しぶりに非常に怒りの感情が生じたのだけど、なんだっけ、もう思い出せない。
そういえば、保険も入った。
もう、目も半開きな、疲れはてた帰路だけれども、だったら、黙ってなにもしなきゃいいのに、書かないと、なんだか、存在自体消えてしまいそうな、そんな得たいの知れぬ焦燥感。
今日はまったく、いつもの、役に立ちたいとかではなく、単に、誰か気づいて欲しい、俺はここにいるんだ、気づいてくれ! という叫びのようだ。
空虚感
この空虚感は、歴代の自分の中でも、トップクラスなようだ。
たくさんの人に電車という囲まれた場所だから、なおさらそうなのかもしれない。
誰かの存在を抱えていないから、僕はとても軽いのかもしれない。
確かに、友人たちは、誘えば遊びにいける。
ただ、それら友人や、電子世界の友人や親兄弟を含めてもいいかもしれないが、他者の存在、人生を背負ってはいないのである。
背負うとは文学的表現だが、つまりが、他者への影響力の希薄さといえるかもしれない。
すべては相互行為ゆえに、コンビニでコーヒーを買うのも、他者への影響である。
しかし、ここで僕が問題にしている空虚感とは、その影響力の大小なのか。
道化
あまりに卑屈で、矮小でみていて楽しいかもしれない。
不思議なのは、自分は仕事をやって感謝されたし、一歩前に進めたし、すごい先輩のはなしも二人にも直接きけたし、事象だけみればとても充実だ。
いやむしろ、燃え尽きた、という状態だろうか。
そういえば、昔つくった曲や、弾いた曲をアップロードしたのをみて、コメントついているのが嬉しかった。
笑いでも何でも、共感など、感動を与えられたのは嬉しい。
現実世界の感謝は、数人だろう、電脳社会においては、僕でも何十人へも影響を与えられるのだ。
えぇ、じゃあ、僕が求めてるのは、社会的承認ってことなのか。
仮にそうだとして、いったい、どこまで求めるきだろう。
総理大臣にでもなりたいのだろうか、でも、それは、批判も多いし、人格というよりは、権力によるものであるがゆえ、求めるものとは違いそうだ。
全人格的承認
もう、目が半分だけで、無意識にかいているが、うえの流れだと、つまり欲求としては、僕自身を認めてくれること、果てには、愛していることを求めているのだろうか。
笑えることに、大抵の人は、こんなことまで考えることなく、うまい具合に自己と向き合って、日々を生きているのだろう。
僕は、……、こういった状況において、ゆっくり休みなとか、考えすぎだよ、もっと行動しなよ、思いきって休みな、まったく別のことに力をいれたら、誰かに話したら楽になるよ……
もう大体、たいてい思い付くだろう、対処法として示されることが、ほとんど瞬時に頭に浮かぶ。
そうするともう、なにがしたいのか、なにをすべきか、分からなくなる。
ってことを、第一、他者に話したら、いろいろ問題が起こることも分かっていて、いやいや、そんなことで離れていく人なんて真の友人じゃないから、もっと誰かを頼ったらいいじゃないか、とか、もう、どんどん生まれてくる。
病気かもしれない、じゃあ精神科にいこう、で、なんという? 無気力でなにもする気が起きないんです、最近ご飯は食べられてますか? はい、夜は眠れてますか? はい。
そうですね、では薬を出しておきますので、しばらく様子をみましょう。
ってなる。
いやいや、フルスピードアクセル全開気分になる薬もあるだろうが、危険だ。
考え方を改めましょう、認知療法をはじめましょう、となるかもしれない。
ただ、ここにきて問題になるのは、ここで治療されてしまったとして、では、僕の自己はどこに言ってしまったというのか?
治療されて、過去すべてが過ちだったとして、では、僕は、三十年あまり生きてきた僕は、なんだったのか。
身体上の死は大きなできごとだが、精神、自己の死は他愛ないことだろうか。身体だけいかされた状態も、植物状態とか、脳死とか、死として扱われる場合だってある。
誰もいない荒野で
と、このように叫んでいても、こうした人間を抱えてくれる、背負ってくれる、愛してくれる人間は存在しない、否、ここの表現は
難しくて、僕を認めてくれる人たちは、心配し、助けようとしてくれるだろう。
しかし、その助けとは、先程のように、治療、なのである。
全人格的承認を求めているのだろうか!?
と、先程自分で驚いたのは、そういうことだ。
いやはや、それは、構造上、例えば自分の背中を自分では見れないのと同じである。
という構造が、絶望の3形態、
自己を知らない絶望
本来的自己から逃れようとする絶望
非本来的自己になろうとする絶望
としたら、非本来的自己になろうとする最終形態の絶望に思えるかっこわらい。
いやいや、違うぞ、そうやって生きる意味とか考えることが間違いなのだから、まさにお前は、本来的自己から逃げようとしている弱虫だ!
ということだってできる。
ふりだし
ようし、それなら、初めに戻って、いまげんに、この瞬間に生じている空虚感は、いったいどうしたらいいのか。
その感情を否定するのが正しいとしたら、感情のコントロールといって、感情の抑圧が正しいことだと信じていた高校生ぐらいまで逆戻りだ。
うん、少し落ち着いた。
やっぱり、書かないと、表現してかたちにしないと、だめだ。
うえのようなことが、ほとんど同時に、頭のなかにバシャッと、溢れるのである。
そりゃ落ち着かないわけだ。
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