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小まめなバックアップの重要性
2016/10/15 22:44 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日はプチ旅行に行ってきて、先ほど帰ってきた。そして明日は、ブログに書いてある試験日である。が、2か月間全く勉強できなかった。2か月である。勉強できなかったから受からないことは仕方がないが、お金も既に払っているし、勉強しに行くつもりで行くだけは行ってこようと思う。

そして、勉強しなかったというのは、「落ちたときの言い訳」のようにも思える。半年前(もう半年前なのだ)に、自分の「頑張る力」を試すために、絶対に合格してやると、そう書き残し、望んできた、はずなのにこのざまである。そして、追い込みをするでもなく、その2か月の無勉強の上塗りに、こうしてブログを書いているという体たらく。

しかし、その試験に受かるというよりも、知人との旅行の方が、重要だと思い、今も思っているのは、間違いではないだろう。問題は、むしろ、勉強との両立ができなかったことであり、これは、真摯に受け止めておこう。

モチベーションの維持

強くイメージして、本当に得たいと思ったものは、必ず実現し、手に入れることができる。

このことは間違いなく、僕は信じている。
しかしながら、では、「幸せな人生」を送れるかというと、別の話しである。まず、「本当に得たいと思ったもの」という表現自体が、曖昧模糊である。だから、この僕の信じていることは、「概念」として信じているだけであり、実現可能、再帰性をもった、「ハウツー」ではない。これはどちらかというと、信念の部類に入る。価値観といってもいい。

その、強いイメージ……、このことを信じているが故、思考をたゆまなく、不可逆的に、反転させ続け、深く何層も重ねていくのだ……いや、いかなければいけないのだ。

これは、最近の強度を伴った実感からは、「恐怖」なのではないかと思う。恐怖、怖れ。何からの? それは、僕の信念=「強くイメージしたものは実現する」ということだ。

これを、少し簡単に表現してみると、強くイメージされたこと、つまり、脳内支配率(頭の中で考えている度合)が高いものは、それに対するアプローチのため、様々な現実的な行動方策が「実現」する。

「大学に合格するぞ!」

これを果たすために、例えば、実際に自分が行きたい大学で、その大学のキャンパスで過ごしている、学んでいる、友人たちと会話している、思索を深めている具体的イメージを高めることは有効である。


ここから話しが少し展開する。

その具体的イメージ、そのイメージ力ですべてが実現するというのは、どちらかというとスピリチュアル的な方策である。
スピリチュアルなことを僕が信じていながら、逆転してそのうさん臭さに苛立ちを感じるのは、その現実世界(物理環境)との乖離である。

つまり、いくら脳内イメージを高めたとしても、それに行動が伴わなければ、何ら変化は起きないのである。(話はそれるが、すぐさま言っておかなければいけないのは、この「行動」とは、決して、リアルな環境のそれだけを差すのではない。例えば、この二次元なブログでさえも、「行動」に他ならないのだ。それによって、僕は、これまで僅かばかりにしか得られていなかった、他者の凄さを感じて打ちひしがれるというカタルシスを得ることができた。そして、そんなすごい感動を与えてくれた人に、ある程度認めてもらえているというコメントを読んで、二重に「感動」したのである。感動がカッコつきなのは、どうにも、特殊な心の動きであったと思うからなのだけど、よい表現がすぐに浮かばず、話しの本筋からそれることがこれほど長くなっている、閑話休題。)

イメージと行動の関係

ああ、しまった、やはり逸れた話を書いていたら、流れが全く分からなくなった。このままではこの記事も失敗してしまう。

思い出せ、今回、残り少ない時間で、とにかく整理し、書き残しておかなければと思ったことを。

強くイメージしたことは現実化する。しかしそれは、「行動」があってのことである。その行動とは、二次元等含めた「すべて」である。「すべて」としたときに、では、頭の中でイメージする「だけ」のことでも、自分の目的(強くイメージした、本当に得たいと思ったこと)は実現できるのではないか。それはその通り。ただし、その「強くイメージした」ことは、決して、「幸せ」とは限らない、ということだ。

あ、思い出してきた。

望んだ自分について

つまり、僕の信念は、人間は、「思い通りの人間になる」ということなのだけれども、その「思ったこと」というのをコントロールするというのは、実は結構大変なのだ。
だから、僕は常々、「ポジティブでしかいられない」と書いている。これは、ポジティブ思考と一般に言われているものではなく、むしろ、すべて実現してしまうことの恐怖の表現だ。

つまり、マイナス的なことで脳内占有率を高めてしまえば、それに伴った「行動」が発生し、それは更に脳内を「汚染」し、更なる行動を起こし、ますます、「自分が望んだ自分」へと、突き進んでいくのだ。

こわー。


そして、二つ目に怖いのは、その「自分が望んだ自分」ってのが、実は簡単に表現できるものではないのだ。
おっとまってくれ、そもそも、僕のようにこんな変態な言葉を書く人はあまりいないようにも思えるが、では、言葉によって表現しない人、ブログを書かない人は、自分が望んだ自分ってのを理解できていないのか。否、即答で否。しかし、それが、自分が本当に考えている自分なのか、実は「ズレ」があるのかは、深い位置まで表現をしていかなければ決して分からない。ただ、その深い表現が必要かどうかはまた別の話しであり、その「望んだ自分」が、「正解」であり、「真実」であり、「幸せ」なら、こんな表現たちは不要だ。

実感について

(忘れっぽい俺は、小見出しを先にキーワードとして書いておいて、後から書き足していくって書き方の方がいいかもな)

実感について、ええと、実感、そう、実感だ。
じゃあ、その望んだ自分ってのを、表現しようじゃないかと。それが、モチベーションを高めたり、実現したい目標を設定したり、日々を行動したりするための、重要な準拠点になるのだから、と。

その望んだ自分ってのが、「目的」そのものなのだと。生きる意味なのだと。そう考えたわけだ。

だから、正確に、その望んだ自分ってのを描写しなければいけない。

それには、「実感」が重要になる。実感、自分が感じることだ。こういう行動をしたらこうなるとか、こういう態度を取られたらこう思うとか、その感情そのもののことを実感という。そこに、こんな「思考」の介在はない。ゼロ秒思考がそれに近いけれども、厳密には、言葉すら必要ないそのものの感覚というものなので、

現実とイメージとの距離について


恐怖について

あああああ



ぎゃああああああああ

1時間ぐらいかけて書いてたのが、ブラウザの強制終了で消えたアああああああああああああ





もう、この忍者ブログになってから、3回目だが、もう今書いてたこと、多分、もう二度と、

二度とかけねえええええええ

うああああああああああ



落ち着こう

落ち着こう。
落ち着こう、落ち着こう。ショックは大きい。もう、何か、お気に入りのカップを割ってしまったとか、そんな物的ショックなんかよりも、「思考」のショックは大きい。
この前、小説書いていたら、ワードがクラッシュして全部消えたとか。この新しいPCにしてからひどい目に結構あってるな……。

まぁ、仕方がない。
かなり、「危険」なことを書いていた。犯罪者についてとか。これまで敢えて書かなかったようなことも、全部書いていた。

それ、やめた方がいいよと、そういうことなんだろう。
まだ、時期尚早だったんだろう。それこそ、炎上するようなことだったのだろう。うん、落ち着いて、冷静になって、結果、それがよかったことだったと、何か、そう思えてきた。

取りあえず、思い出せることだけ書いてみるか。

とにかく、こまめな保存は、本当に重要だ。


まず、「自殺」が、論理的に、正しいという結果になったということだ。

自殺

なんだっけ?(かっこ笑い)

いや、大真面目に、書いていて、「実感」レベルで、そう思ったのだった、だから、本当に焦った。死ぬことが正しいってことになったら、今すぐそうしなきゃいけなくなる。

けれども、やっぱり、死ぬのが怖いんだな、ってことが分かった。それに至るまで相当な文量があったが、畢竟、死ぬのが怖いから、生きる意味とか、そんな「保留」にして、後回しにして、取りあえず生きているのだろうと。で、その死の恐怖からの解放されたければ、さっさと死ねばいいじゃんと、まぁ、そういうことだ。まとめると短いな。いや、もっとたくさん表現してたのに……。

ああそうそう、何でそんな話になったかというと、旅行の帰り、ネカフェによって、「シグルイ」って作品読んだからだ。
その作品で、切腹して自分の大腸引きずり出して、真剣の御前試合などやめてください上様、と家臣。それを見てほくそ笑む城主。それをみて自分の行為が無駄だったと実感し、「暗君……」と息絶える家臣。

無駄死にじゃねーかと。無駄死に、ホント、無駄死に怖い。
そんなシーンが描かれる作品だったら、そりゃあ、最後は何かあるんじゃないかと、最後まで見てしまう。とか。そんなこと書いていたような気がする。
ただグロいだけの作品って、暗澹とした気分しか与えないだろうと。

でも、だからといって、ポジティブな作品があふれれば、そのポジティブな作品は揺らぐだろうと。何故なら、ポジティブは所詮、ネガティブの相対概念に過ぎないのだからと。

あと何だっけ

とにかく、メモしなきゃというか、非常に、何か一つ、展開できる気がした、何かがあったのだけれど、それは一瞬のことで、それは、結局、自分の中にまだインプットできるほど確かなものではなくて、だからこそ、書いておかなければと、本当に、強く強く思ったことがあったけれども、何だか全部消えた脱力感で、なんかもう今日はダメだ。


ただ、ああ、そう、「炎上」の構造について書いて。
だから、文章で、他者に自分の内面を伝えるってのは、本当にリスキーで、しかもリターンは少なくて、バカバカしい行為だと。だから、他者を頼っても無意味なんだと、そんな風に書いてきたのだけれども、それと同時に、自分の中に、どこか、分かってほしい、理解してほしい、そして、
そして、いつか、一緒に考えてくれる誰かが現れないかと、そんな風な、滓かな思いも、確かにあったと。

だから、……、ああ、ここからは、書いて消えたことの思い出しではなくて、ようやく、現時点的な浮かんだことだけれど、先般のカバネリの考察記事で感激したのは、その考察記事自体の物語性も一つであるが、その、僕があんまりおもしろくないなと思った敵についてだ。

その敵、「父親が憎くて復讐する」という目的しかないと僕は思った。けれども、同時に、でも確かに、そんな敵に、カバネというゾンビ軍団をメッタメッタ倒せる実力をもった多くの部下たちが付き従うだろうかとも思ったのだ。

だから、違和感はあったのだけれども、それゆえ、その程度の目的しか持たないけれどもイケメンで強いから多く部下を集めることができた、的な、軽い物語であるのだと、そう思ったから、後半が面白くないと思ったのだ。


いや違うと。

そうじゃねぇと。その敵は、本当の強い心を、恐怖に打ち勝つ心をもっていたのだと。

その一本筋が通った洞察に震えたのである。


で、次に、ここからは、考察記事自体ではなくなるが、「一緒に立ち上がろうぜ! 人類の未来のためには、こんな塀の中で暮らしていてもいずれジリ貧になるだけだ。外にうってでなければならないんだ!」とその思い、それが、実は、僕が、押し殺そうとしていた思いの一つであったと、イケメンでも強くもない俺なんだけど、その点に非常に共感したのだった。



誰も頼れない。

けれども、どこか、一緒に考えてほしい、と。
一緒に戦ってほしいと。

その思いって、とっても、辛く重いものだと思う。だから、そうだとしたら、同じく熱い思いを持って、カバネを駆逐してやるって立ち上がった主人公を、自分がもう助からないなら、死なすわけにはいかないと、最後に助けるのも、よく分かるのだ。それはなんと悲痛な希望か。
(完全に余談だが、カバネリの主人公は非常にかっこよかった。fateのシロウくんみたいでよかった。シロウくんほどの過去は抱えていないように思いつつ、その過去が重ければ偉いのかってそんなわけじゃないしその点は構わない。辛い過去を背負ってないと「熱い思い」のリアリティがないかなんて、そんなことはない。それこそ、「比較思考」――自分より辛い人はいる、とかそんなこと考えても無駄だ)








データ喪失の心的ダメージ

ああ、でも、ほんと、時間を無駄にした。
いや、思い出せない思考なんて、所詮無駄なんじゃない?

いやいや、そういうものじゃない。ホント、その流れ、そのとき、その環境、その気分、その状況でしか生み出せないものはある。
それを公開していいものかどうかとか、これをアウトプットしていいものかと、そういう、自責と、虚飾と誠実さとの狭間に悩んでいると、結局何も書けないとかが発生する。

ああ、ちょっと思い出した、ある精神科医のブログにおいて、「昔は黒歴史たくさんネットにあふれてたけど、今やエセ黒歴史ばっかになって、もうやめた」ってのを読んだのと、ある40代のバリバリ最前線で働く方の「そのうちAIで仕事なくなっちまうかもしれないが、いやぁ、変化があるから人生って楽しいもんだな」ってのを読んだのも、思考に展開があった一要因だった。

けれども、もう紡げない。


そして、この記事のタイトルも消えて無題となっている。

よし、じゃあ、この記事のタイトルは、こうしよう。今日は以上。

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