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ブログを書くのが何かの手段であってたまるかよ!
2018/08/05 13:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
先日の記事は、まとまりもなく、表現も稚拙であり、中身もなくの三拍子そろって最低だ、しかし、何かもういっそ投稿しなければ今後何にも書けなくなる(投稿できなくなる)のではないかというどこか強迫観念的に投稿した、というのを覚えている。

 読み返してみて、確かにひどいなぁとは思いつつも、だけれども、目的とか、意味とか、そんなんばっかり考えていて、結局何もできないよりは、投稿して良かったとポジティブに思える。現実。それが、今の自分の最大限の実力なのだ、と認めたほうが良い。

 仕事、とプライベートとか、本業と娯楽とか、そんなん、本来的に分けられないのではないか。
 働き方改革とか言われ始めたのは、過労死とか実際問題死人が出始めたというのもあるのだろうけれども、価値が多様化(というと良い意味にとらえられるが、価値が分散、離散ともいえる)がされた故に、「時間をかける」ということが必ずしも成果に繋がらないと多くが気付き始めてきたからだろう、と勝手に思う。

 まぁそんな面白くないことはともかくとして、「ゲームが何かの手段であってたまるか!」って表現をとある方の記事で読ませていただき、なんか上のタイトルが思いついた。



 僕が、「書かなきゃ!」って思うのは、仕事の締め切りに追われて焦燥している感覚とは全く違うのである。どっちかというと、「やりたい!」ってのに近い。小説とか創作もそうである。
 夢を、――快楽的ではないのだけれども、面白い夢をみた。自分の、公開とかあまり考えてなくて、単に自分にとって面白い作品にしたいという思いで断片的に書いていた作品の一場面であった気がして、先ほど、その作品を読んでみた。物語としては成り立っていないのだけれども、その、(夜に見る)夢のような断片的なシーンは、面白かった。こんな描写が、こんな表現が、こんなシーンが続く作品なら、きっとわくわくのめり込んで読めると思った。……自分の作品の話である。お恥ずかしい限りである。
 しかし、少し思い出したのだけれども、中学生ぐらいに、なんか「お話」を書きたいと思ったのは、確か、そんなしょうもない動機であった気がするのだ。ゲームか、何か、娯楽作品に触れて、それが面白くて、そんな作品を自分でつくりたくなった、そんなかわいらしい動機なのである。


 それと、ブログの話と何が関係あるのか。あまりない(キリッのアスキーアート)。
 ただ、目的とか、意味とか、動機とか、論理とか、それはもちろん大事だけれども、それだけで人は動くのではない、と思った。
 前回のブログの記事、断片的な、メモといえるかも怪しい記事内容。なんの意味があるのか? と問われたら不明だろう。けれども、それに「意味」を与えるのは、後付けでも可能なのだ。要するに、その瞬間、今、そのときに、行動ができるのか。文字をキーボードに打ち込むことができるのか。それが大事なんだと思う。

 編集(推敲)と創作は、密接にかかわりながら別ベクトルな気がする。気持ちの盛り上がりがないと、やっぱり創作はできないものだと思う。だからこそ、スランプ(何もできなくなるとき)というのが生じるのだと思う。エロ漫画先生(数話流してしか見れていないが)の一場面で、創作ってのは「やる気マックスファイアーの時しかつくらないものだ」というシーンがあったりして、まぁそういう面もあるよな、と思ったりもしたり。


 人々よ。楽しくあれ!!(ただし、他者に大きな迷惑をかけない限りで)

 と言いたい。そして自分も、楽しくあるための方向性や、実生活について、やはり今後も考え、実践し、ルーチンの筋トレは続けつつ生きていきたい。

(かっこ書きである。なんだ、この、小学生の夏休みの日記か感想文か何かみたいな。しかし、レポートとか、「何かの事実について書くもの」というのは、正直面白い文章たりえるのだろうか。家族と沖縄に旅行に行きました。海が青くてきれいでした。でも、お父さんは泳げないので泳ぐことはなくて、パラソルの下でスイカを切ってくれました。とても楽しかったです。――ってのは面白いのだろうか。先生は、「家族と楽しい思い出がつくれてよかったですね。スイカはおいしかったですか」ぐらいな他の子にもかけるようなテンプレと、その子が書いた内容の一部を「オウム返し」(言葉はよくないが、これはページングというコミュニケーション手法にもつながる重要な方法に思われる)するぐらいしかできなそうだ。やっぱり、オリジナルに、その子が考えたことを表現された文章が面白いのだ。「楽しかった」という感情は事実である。しかし、どういった面が楽しかったのか、どうして自分は楽しいと思ったのか。それを、事実やエピソードを踏まえて踏み込んで考えること(考察)することが、面白い文章になりえる。ある子は、沖縄の海と、東京湾の風景との差異に着目するかもしれない。ある子は、気温や湿気の感じ方の違いを思うかも。ある子は、そもそも沖縄にはいきたくなかったのかもしれない。同じ場で、同じことをやったり体験しても、感じ方はそれぞれあるのであって、それは、言葉にしないと他者には伝わらないのであって。話は変わるけれども、言語力ってのは、やっぱりその人の脳内の豊かさでもあるのではなかろうか。喜怒哀楽って簡単にいってしまうが、しかし、それは果たして、同じ感覚かどうかなどわからない。そしてそれを客観的に伝えることができるのは、やはり言語力(表現なのだ)。数式は論理的で明快で、誤解の余地はないのだろうけれども、しかし、数式で感覚や感情を表現できるとは思われないだろうだからなんだ、といったところで終わる)

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