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ロボット故の純粋性(ほしのゆめみさん)
2017/02/21 12:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「小説で泣いたことあったっけ」

プラネタリアン

planetarian~ちいさなほしのゆめ~

 を視聴。全然予定に無かったし、そもそも、第5話の最終回からみ始めた。
 第5話で、ストーリーも何も分からないのに、泣いてしまった。
 自分は、この、ロボットとか、アンドロイドとか、人工知能とか、それ系の話に弱いんだなぁ。
 音楽も良かった。

 クラナドは名作と聞いているが、絵柄が好みじゃなくて、keyというアニメーション(? ゲーム会社?)会社が手掛けているということで、絵柄が好みじゃないか、と思ったけれど、そんなことはなかった。
 絵柄が好みじゃなくて敬遠していたので、すっかりハマってしまったのは、ジョジョとか、他にも確かあった気がする。(段々それが良くなってくる)

 同じロボット(アンドロイド)のジャンルとして、「イヴの時間」も結構面白かった気がする。また見直してみようかな。

感情もどきとはいえ受け取るのは人間である

 いやー、VRとか、流行っているそうな。VR彼女とか、ヴァーチャルリアリティ世界の女の子とイチャイチャできるのである(たぶん)。
 アイボもそうだが、ペッパーくんとかも、個人で買えるらしい。

 プログラミングされたロボットと、人工知能(AI:アーティフィシャル・インテリジェンス)との違いを、簡単に表現してみよう。
 まず、人型をしているかどうか、というのは関係ない。アンドロイド、というと、既にケータイ端末のOS(プラットフォーム)の意味で使われることが多くなってしまったが、人型のロボットが、アンドロイドと呼ばれる。プラネタリアンのプラネタリウム案内ロボットゆめみさんも、アンドロイドと言ってもよいわけだ。

 広い意味(包括する意味)では、ロボットといってしまえば、人工知能も含まれることになる。ロボットとは、人の代わりに作業を行う、自律した機械の総称である。その機械をどのように動かすか、という方法が、プログラムなのか、人工知能なのかの違いとなる。

 では、プログラムと人工知能の違いは何か? 広い意味(包括する意味)では、プログラムといってしまえば、人工知能も含まれることになるだろう。

 結局どういうことだ? 図にしてみた。



 制御装置(プログラム)において、ノイマン型と、新しい言葉を使ってしまったけれども、いわゆる普通のコンピュータの制御方式である。

人工知能との違い

 ノイマン型のコンピュータと、人工知能の違いについては、その構築原理の違いである。
 人工知能の特徴は、人間の脳と同様の仕組み、ニューラルネットワークにある。

 ニューラルネットワークとは、複数のインプットが同時多発的に関係することでアウトプットを成す仕組みである。それによって、複雑な、思考のようなものをロボットにもできるようにしようという試みである。

 もう一つ人工知能の特徴は、自己学習である。この学習機能の進化、深化が、まさに今後、アンドロイドから、感情を得られるようになるかどうかが肝になってくると、僕は思っている。

(※上の図を含めて、特に何か参照して作成しているわけではなく、単に僕の頭の中のアウトプットに過ぎない点に注意願います。いないと思いますが、万が一にも何かに引用するのは危険なのでやめた方がいいと思います。逆に、何か決定的な認識違いがあったらご指摘ください。精緻さというよりは、概念的な誤りは速やかに訂正すべきといつも思っております。)

ロボットで何故感動するのか?

 介護施設などで、人型をしたロボットが導入されることがあるという。恐らく、近い将来、見かけ上は、人間と区別がつかないような精密なロボット(アンドロイド)がつくられるだろうと思う。(ここで「不気味の谷」という話は必ず出てくるが、表情の動きといった面からも、これは乗り越えることができると思う。)

 ただし、その外見上の問題が解決されたとしても、なお、ロボットと人間とは、決定的な隔たりがある。
 確かに、今、音声認識システムの精緻さはすげーなと思う。シリさんは使ったこと無いけれど、グーグル検索においても、人目をはばからなければ大抵の検索ワードは、音声でひろってくれる。

 ただ、LINEで有名な、女子高生AI「りんな」も、「ルーチン感」が大きい。
 人間とロボットの違いは、その「不確実性」にある。同じ言葉を発しても、受け取り方が全く違ったり、そのときの気分によって、レスポンスが異なることもあるだろう。

 当たり前だ、所詮は、プログラムされたことしか行えない、話せないのだ。


 しかし、その「所詮プログラム」を超えて、そのロボットの行動が、「感情」として認識できたとき、それはもはや、人間が与える感動よりもより巨大な感動を与えるのである。
 それは、純粋性という理由である。

感情の純粋性

 偽りの感情があるというわけではないが、しかし、尊きボランティア活動であっても、そこに「自己実現」だとか、「打算」的な思いが発生していることは、否定できないことである。
 すぐさま言うべきは、その、「自分の利益」(ここでいう利益は、非常に広い概念でのものであり、決して金銭的なものだけを指すのではない)が、悪いことではないのである。ボランティアなんて偽善だぜ、とかいって、家でテレビみてるよりは、災害現場などに足を運び活動するということは、非常に尊いことである(※)。

 しかし、敢えて、サイコパス的なことを書けば、「純粋な自己犠牲」など、存在しない、と僕は思っている。
 親が子を守るために身を犠牲にするという事実が無いということではない。恋人をかばってトラックにひかれることが、漫画の世界以外に起こらないということではない。
 だが、その行為は、包括的な自分の意志だと思うのだ。自己中心的だと思うのだ、思ってしまうのだ。自分の命を、純粋に天秤にかけているのではない。自分の命と、「守りたい人」+「自己実現(守りたいと思う自分の気持ち)」との比較なのだと思うのだ。

 この考えに取りつかれていることは、「病気」と言っていいだろう。治療するべきだと思う。だからこそ、敢えて表現している。

 上の比較においての、「自己実現」というのは、例えば、「守りたい対象」を失った先の自分の人生が想像できない、とか、そういうのも含まれる。
 献身とか、奉仕とか、自己犠牲とかが、時に美しく語られ、感動を思わせるのは、逆にそういった状況や行為がレアケースだからの現れともいえる。

 繰り返すが、何らかの行為に、自己実現や自分の利益というのが含まれるのは、ダメなことではない。
 これを否定し始めると、自分を捨てて他者に尽くすことが正義であるといった、某全体主義国家みたいになっていくだろう。他者と協力することや、仲良くすること、尊重すること、助け合うことは大事だ、間違いない、ただ、その行為の前提に、「自分」があることについて、否定してはならないのではないか、ということを言いたいだけだ。


※邪魔になったり、求められていないことをしたり、いらないものを送りつけたり、そういったマイナスなことになる場合もあるから、本当に何をすべきは熟慮するべきであるが、それでも、何か行動を起こそうとすることは重要なことだし、賞賛すべきことである。

ロボットの感情とは

 人間の行為には、必ず、「自分」というものが介在することについて、ここまで表現したつもりである。(当たり前のことである、行為の主体はあくまでも自分自身でしかありえない。もっとも、洗脳されたり強制された自己犠牲というものは、ある意味「自分」が存在しない純粋な行為といえるかもしれないが、そんなもの言うに及ばない邪悪である)

 しかし、ロボットの行為には、その「自分」にあたるものが感じさせられない、いわば、純粋な行為そのものである。

 だから、この時点においては、ロボットは、「モノ」と同様である。

 話を進める順番が間違っているけれども、僕はさらに、ロボットに「感情」は、無い、と思っている。ここで、その「感情」とは何か、ということについて、これまで記事を書いてこなかったことに少しばかり後悔がある。

 しかし、長くなってしまったので、今回はここまで。


 かなり表現エラーが多い記事になってしまった。しかし、一回書いておかないと、修正作業もできないほど、この問題は根深い。自分の感覚や思考を、できる限り齟齬の無いように表現するというのは、やっぱりかなり難しいなと思わざるをえない。

(そもそも、人間の行為すべて「打算」みたいな表現になってしまった時点で、上手く表現できていない。そういうことが言いたいんじゃないんだけど……これらの問題については、これまでの蓄積が足りな過ぎて、上手く表現できない。)

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