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意識の受動仮説と幻想
2011/05/30 23:44 | Comments(0) | 思考及び書くこと
本来、携帯からの短文は、さほど意味をなさない。
ところが、これを「継続性」という観点からみれば、有用なのである。

ところで、意識の受動仮説、すなわち、「わたし」という意識も、脳という物質のつくりだす「幻想」のようなものであるという説に、私は共感を覚える。
これは、物質一元論である。心身は別であると考えることもできる。しかし、唯物論だとか唯心論だとか、心身を二分して考えるとか、そうしたことに興味をもっているのではない。

「自由意志」など存在しないという仮説が、有用なのか?

わたしはときに、「すべて、平等に、価値が無い」という。これは有用なのかといえば、まるで無気力にみえる。
同じことをいうのなら、「すべて、平等に、価値がある」でも構わないはずだ。しかし、そのことばは、まさに、となえてみればみるほどに、虚しさがこころを覆うのである。

価値の無いという宣言が、無気力ではなく、むしろポジティブであるということは、理解しにくい発想である。これは、凡人が陥りやすい、怠惰だとか、鬱といったものとも異なる。
むしろ積極的に価値を否定する姿勢……どこかで聞いたことが無いだろうか?

ニヒリズムである。
ニヒリズムは、価値を否定する思想である。リオタールのとなえる、「大きな物語の終焉」は、現代版ニヒリズムとも呼ばれる。

内部被爆したとしても、「ただちに健康に被害は無い」とする、これは、まさしく自暴自棄を引き起こすはずであるが、ところが、事態は、「仕方が無いのだ」という諦めにはいる。

現代人は、怒ることを忘れてしまったのか。あの、共産主義に燃えた人々は、どこにいったのか。

否、この考え方も間違っている。なにせ、電車で足を踏まれれば、我を失ったかのように怒りだす人は多数である。
むしろこの事態は、想像力の欠如と言い換えることも可能なのではないか。
ところで、人間的でありたいのなら、フィードフォワード的に生きるべきである。
つまり、トップダウン式の生きかたである。

大きな目標を定めて、それに邁進していく姿、かっこいいではないか。

しかし現代はニヒリズムである。「成功」、そして「理想」の地はもはや存在しない。
そんな中、「目標」を定めるのは、まさに困難なように思われる。

だけれども、人間的であるためには、結果を想像し、それに対しての自分の考えを踏まえ、自らの行動を律する、この思考行動プロセスが重要なのである。

何故そうまでして、結果からのトップダウンを望むのか。
それは、「わたし」というものが存在しないからである。

「わたし」という意識は、記憶に過ぎない。もっといえば、エピソード記憶のかたまりである。

脳のニューロンが、「環境に合わせて」勝手に発火して、勝手に結果を出しているに過ぎない。その総体が「自分」である。

哲学的ゾンビという言葉も、とくに気にせず使っていたが、古典的ゾンビと、哲学的ゾンビの二種類がいるということを知った。
すなわち前者が、クオリアをもたないロボットのような存在、後者は、脳を同じ機能構造をもちながら、「意識」(クオリア)のみもたない存在、ということだ。

この違いは、

こちらの本を一読しただけでは、分からなかった。

本というものの面白さは、二読以上可能な点にあると思う。その点、小説などストーリーを楽しむ種類のものは、最初の感動を二度と味わえないという点で、複読に向いているわけではない。

この本の読み方を確認した理由は、記憶の構成を述べたいがためである。
つまり、「点」としての記憶は弱く、総合的な、WEB的な記憶が、ロバストネス(頑強さ)があるということなのだ。

その意味で、「経験」が重要だと私は思う。「この意味で」、すなわち、ここでの経験は、「友人たちと」「外で遊ぶ」といった、そうした種ではないということだ。

経験の乏しさを嘆く必要は無い。
いずれにしても、「不幸度」は、他者には勝てないのである。
この意味は、つまり、どんなに自分で「がんばった!」と思ったとしても、もっと「大変な人」は大勢いるということなのだ。

何度も書いているが、「自殺して初めて大変さが幾許か認められる」ということである。
もちろん、わたしとしては、「大変だったね」「がんばってるよ」と声をかけるわけであるが、当然として、一般に、誰もが、「自分が一番大変だと思っている」ということを前提としているのである。


ここらに、無価値性の頑強さがあらわれる。
宮台真司の著書を読んだ若者が、「なんちゃってニヒリズム」に陥ることがあるという。
発狂したニーチェではあるが、彼が、「超人」を目指したところに、重点をおきたいと思う。なんて書いてはいるが、ニーチェの原本など読んだことが無いのである。この素人性を嘆く必要も、またない。


なにせ、学問を仕事としているわけではない。
適当なことを連ねているに過ぎないのだ。

だが間違いなく、「役に立つ」観点で書かれていることは間違いない。

自らの価値を肯定するのは誰かといえば、それは、自分でしかないのだ。


いやいや、そんな、仕事で頼りにされたり、恋人に愛されたりすることは、価値を与えてもらっているではないか!


その通りである。けれども、それも、必ずしも強くない。
もちろん、それによって満たされるということはある。しかしながら、その価値を与えるのは、これまた「自分」なのである。

この無限遡及の「メタ視点」、これは、論破される構造をもっていない(というのは言い過ぎかもしれないが、他者を納得させることは困難である。まず、最初の位置(初期値)が違うのだ)。

この階層(次元)は、「生活」の中で複雑に行き来する。

そのため、どれか一つに価値を同定することすら無意味なのだ。

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