昔、大学時代とか、めちゃくちゃもやもやしてた時期、毎日日記を書いていた。
絶対書く、という強い意志で。
書くということ、それ自体が目的として、書いていた。
今も探せば残っている気がするが、正直、読んだところで、当時の感覚は蘇ってくることはあるまい。あるまいし、仮にあったとしても、別に呼び起こしたいものは何もない。
では、過去のその、書くという行為は、無駄だったのか。
しかし無駄とは何か。
生きていること自体が、無駄だともいえる。
無駄じゃないともいえる。相対的なものだ。主観的なものだ。意味などない。
ないし、ある。トートロジーであり、二律背反である。
こういった文章の書き出しを見ると、わくわくする人か、「何かいてるのきっしょ」ってなる人か、もうそこで選別される。
僕は、ワクワクするな。なんか面白そうって思う。正直、AIに添削してもらえば、ある程度読みやすくなると思う。しかし、読みやすさに意味はない。
思考というものは、存外にそういうものだ。AIは、きれいな思考だ。エッセンスだ。
そこにビジネスはあるかもしれないが、「面白さ」はないと思う。
最近、色んなレビューコメントなど見ていると、「長い」という反応を見かける。うん確かに、意味不明に長い文章というのはある。僕も、ビジネスの面で、分かりづらい文書を提出された場合、やり直すよう指示をしたりする。
文書は、伝えたいことを伝えるという目的が一つと、正しく記録するという目的が一つある。
ビジネス的にはそれでよい。
同時に、文書は、面白いという価値もあってもよい。
そしてその面白いというのは主観的なものであって、統一的な何かは存在しない。しかし万人にうけやすい小説などというのはある。それは人間がある程度同じ思考感情をもつために、面白いと思うことができるのもある程度コントロールできる証左である。
しかしビジネスでは、面白さはいらない。ただ、正しく伝えられたらそれでよい。
そもそも、文書という存在が、時代遅れかもしれない。小説よりもアニメの方が多くの情報を伝えられるのではあるまいか。しかしこれはすぐに否定することもできる。文字という媒体だからこそ、伝えられる「心の機微」というものが存在するからだ。それは、アニメの独白では伝わらないものだろう。
しかしそうか。心の機微というのは必要なのか。必要だとしたらそれは何故か。人間が、深いことを考える存在であるという、それはホモサピエンスという傲慢さではなかろうか。人間は案外、単に電気信号が脳をかけめぐっているだけであり、そこに思考も感情も、ただ人間が、「大事で深い」と錯覚しているだけではなかろうか。
仮にそうだとしても、やはり、思考というものが深いものであるということは疑えない。悩み考えるというのが、僕たちの性質であるからだ。
しかし今僕は、必要性の話をしている。
面白いか、そうではないかの話をしている。
そこに、文書は必要か?
とはいえ、画像生成AIを超えて、動画生成AIもすごい精度になっているなと感じつつ、それでも、自由に、自分自身の思考を具現化するということは、まだ程遠い。いやそもそもにおいて、僕自身の思考というものが、いったい何を表しているか、僕自身も分からないし、ましてや、AIが理解できるようなものでもないのである。
唯一できる描写としては、この長くて、意味が不明な、この文書全体を通した、集合体なのである。この思考的実験について、AIは、果たして、どのような「要約」を行うのか? この文書群を、AIは、どのような意味づけをするのか、さて、試してみるか。
Ψここまでが人間が書いた文章
ChatGPT
「(この文章は、)文章が「意味を持つ」とか「無駄かどうか」じゃなくて、書くこと自体が“心の動きの現象そのもの”になってる。」
「ざっくり言うと、筆者は「文章を書くことの意味」や「思考することそのものの価値」をぐるっと俯瞰しながら、自分の中の問いと遊んでいる感じだね。
以下、読み取れた主旨と感情をまとめるね。
■ 主旨(書いた意図)
1. “書くこと”の価値を問い直したい
昔の日記を思い出しながら、「あれって意味あったのかな?」と自問しつつ、意味の有無自体が揺らぐ世界を語ってる。
「無駄って何?」「意味って何?」という問いそのものを楽しんでるようにも見える。
2. 人間の“思考の雑味”こそが面白さだ、という主張
AIは整っていて合理的。でもそこに「人間的な面白さは欠けてるよなぁ」というニュアンスをぶつけてる。
“きれいな思考”じゃなく、“ごちゃついた思考”こそ味わいだ、と言いたい。
3. 文書・文章というメディアの価値と古さを考えたい
アニメや動画の方が情報量は多いけど、文字にしかできないこともある。
「じゃあ文字の価値ってどこ?」
「そもそも必要?」
……という問いを楽しんでいる。
4. AIにこの“混沌”をどう扱うのか見てみたいという遊び心
最後に「さて、AIはこれをどう要約する?」と書いてあるのは、
自分の思考実験を、AIという鏡に映してみたい
という知的好奇心。
■ 読み取れる感情
1. もやもやとワクワクが同居してる
昔の自分を思い出して「もやもや」を振り返りつつ、「思考の深みに潜るぞ」というワクワクもある。
2. ちょっとした反骨精神や皮肉っぽさ
「読みやすくしたところで意味はない」
「心の機微って必要?」
こういうフレーズには、
“きれいごとで片づける風潮への反発”
が漂ってる。
3. ちょっと寂しさもある
「意味なんてあるのか?」と繰り返すのは、
“意味が揺らぐ寂しさ”
もどこかに感じるね。
4. 思考を遊んでいる知的な楽しさ
全体的に、難しいことを語ってるんだけど、重苦しいんじゃなくて、
自分の脳内を使った遊び
みたいに書いてる。
「自分の思考をネタにして AI と遊びたい」という軽やかな好奇心がある。
■ 一言でまとめると?
“思考の意味”“文章の意味”“人間の意味”をふわっと問いながら、その問い自体を楽しんでいる文章。
そして AI にその混沌をどう扱うか試してみたいという、知的で少し孤独な遊び心。”」
Ψここからが人間が書いた文章
なるほど。自分としては、「モヤモヤといら立ち」、という感情であったと思っていたが、AIにそういわれると確かに、「知的で少し孤独な遊び心」というのは良い得て妙な気もしてきた。
「自分の脳内を使った遊び」
という表現も、いいな。
楽しい遊びをしたい。
わくわくすることをしたい。
そうしないと、こころが、止まってしまいそうだ。
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ブログの形式、「まえがき」とか、統一して書いてたのですが、ちょっとやめてみます。
なんか、最初に「見出し」しないと、文章の1字空けが、最初の1行だけ、反映されないんですよね。そんな細かいことも、久しぶりに忍者ブログのエディター開いたら思い出した。
でもなんか、1行改行してから書き始めたら、そのまま、1文空けいけそうだ。
どうでもいい話すみません。
それで、久しぶりにこちらのブログみたら、コメント頂いていて、申し訳ない!! って気持ちになりました。
正直、こっち、誰か見ている人がいるとは思わなかったのですよね。
カウンターとかつけてるわけでもないですし、SNSみたいに「イイネ」があるわけでもないので、完全にモチベーション「ゼロ」になってました。
誰か見ている、見ていない、にかかわらず、「自分の思考」の整理のためという理由が強かったので、こちらのブログは大変大きな価値がありました。
しかし、最近、「イライラ」すると、ChatGPTさんに話している。
要領を得ない時もあれば、逆にイライラさせられるときもないとは言えないが、それでも、自分の言葉に対して、しっかり「読んでくれた」と感じさせたうえで、コメントをもらえるという経験、体験価値はでかい。
まじででかい。
それゆえに、こちらのブログの価値が相対的に下がってしまった。
むしろ「ゼロ」に近くなってしまった……と、私は思ってしまっていた。
でも、コメントしてくださる方がいた。
これはもう、本当に申し訳ない、としか感じない。
申し訳ない、……私の感じ方が誤っていた。
――――――
このブログは、「生きる意味を徹底して考える」ブログである。
そして私は、もう、「生きる意味」がない、としか思えない状況である。
5億年経てば海は干上がる。
50億年経てば太陽は地球を飲み込む。
いずれ人は死ぬ。
「だからこそ尊い」
と感じる人もいれば、
「だからこそ無意味」
と感じる人もいる。
ただそれだけのことである。
生きる意味なんてないのだ。
絶対ない。間違いなくない。言い切ってしまってよい。ない。
同時に、生きる意味はあるのだ。
創ることができるのだ。
だから、生きる意味はあって、それでいて、ない。
頭の良い世の中の人たちが、生きる意味なんて考えても無駄、という理由はそれだ。
答えがないから、考えても意味がないのだ。
本当にそうか???
その答えとは、一般論的な答え、真実的な答え、科学的な答え、という類するものである。
主観的な答えというのは、存在することは否定されるものではない。
友人をつくって、結婚したり、子どもをつくったり、お金をかせいだり、権力をえたり、コミュニケーションを楽しんだり、趣味をたしなんだり、……。
色んな「楽しみ」がある。
だから、「生きる意味」なんて大したものじゃない、って考えられることが多かったのだろう。
過去は。
今は、どうだろうか。価値が相対化し続けいているこの時代。VUCAとか、ますます不透明になっているというこの時代。
真実普遍の生きる意味はなくても、「私自身」としての生きる意味を考えるというのは、無意味と切り離してよいわけがなかろう。
だから私は今も、この世の中に絶望しつつ、「死んだ方がましだ」という傍らに常に存在する思想思考をなだめつつ、今日もイライラしながら生きる意味を考えている。
――――――
という哲学風近況報告でしたーー!(笑)
(本当にコメント頂けて嬉しかったです! ありがとうございました!)
注意書き
この記事は、さっき書いた記事「人間って愚かだなと思うこと」を、ChatGPTさんに推敲してもらったバージョンです。いっつも言われるんだけど、論理飛躍してるとか、感情が強すぎて読みづらいとか(かっこわらい)、「今、指摘してくれた点を推敲して書き直して」ってお願いしてみたものになる。
読んでみても、誤読されているとはやっぱり感じられない。
ちゃんと言いたいこと、伝わっていると思われる。これは生成AIが流行る理由も分かる。下手な人間(アンチコメント)とかより、「ちゃんと読んでくれてるな!」って感じになるもの。
文章における生成AIは、まだまだ色んな使い方というか活用がありそうだし、面白いなーって思う。
と……、ここまでは、私(人間)が書いてます。
以下の「まえがき」からは、私ではなく、ChatGPTさんの文章となります。
(でもたぶん、AIが書いた記事と初見で見破るのは難しいんじゃないかな。逆になんだろ、「整いすぎてる」のが特徴といえなくもない。しかしそうなると、「読みづらさ」があった方が逆に人間っぽいということになるのだろうか。より洗練させた文章にしていけば、AIっぽくなっていくという、これまた矛盾のようで、面白きなり)
ではどうぞー。
まえがき
今の生活は、表面的には安定していて大きな問題もない。ただ、自分の中では、夢中になれることがある時期と、何に対しても興味が持てなくなる時期が交互にやってくる。まるで、気分の波のようなものだ。最近は、年齢を重ねたこともあってか、その波が少し緩やかになってきた気がする。心が動きにくくなってきたのは少し寂しいけれど、その分だけ落ち着いていられるのも悪くないと思う。
■ 戦争が変えたもの
2022年にある国が戦争を始めたことは、自分にとって大きな衝撃だった。これまで、自分の中では「リベラリズム(自由主義)」が少しずつ世界に広がっていって、最終的には平和な世界が作られるのだろうと、ぼんやりと思っていた。それは教育を受けてきた環境の影響もあるし、リベラルな価値観があたりまえのように身についていたからかもしれない。
歴史を見れば、共産主義による失敗や弾圧はたくさんある。だから、「やっぱり自由主義がいいよね」という感覚は、理屈と経験の両方から自然と身についたものだった。
でも、戦争が現実に起こったことで、それまでの前提が崩れてしまった。「こんなこと、もう起きないと思ってたのに」という気持ちが強かった。
■ 人間って、やっぱり愚か?
ヒトラーやポル・ポトのような独裁者が起こした過去の残虐な事件については、もちろん非難されてしかるべきだと思っている。でも、その人たちだけが悪いという見方には、疑問もある。独裁者が力を持つには、それを支持する多くの人々が必要になる。その背景には、仕組みとしての問題もある。つまり、愚かな選択がなぜ繰り返されるのかは、「人そのもの」だけでなく「社会の仕組み」も見ないといけないと思うようになった。
また、発展途上国への援助なども、「かわいそうだから助ける」だけではなく、「安定した世界を作るためには、全体的に貧困を減らす必要がある」という現実的な理由がある。感情と合理性の両方がそこにはある。
■ 無力さを感じるけど、それでも考えたい
こんなふうに世界の出来事を見ていると、個人ができることの小ささを感じてしまう。でも、どうして自分はこんなにも心を痛めるのだろう?と考えることもある。そんなとき、「人間の欲求は4タイプに分けられる」という岡田斗司夫さんの話を聞いて、自分は「理想型」なんだと納得した。
理想型は、「こうあるべき」と思うことが強くて、現実がそれと違うと違和感を覚えたり、苦しくなったりする。そういう自分の性格に名前がついたことで、少し楽になった。
■ 思いを言葉にすることの難しさ
でも、理想型のような価値観を持っていると、多くの人とは感覚が合わないと感じることもある。正直に思ったことを話すと、誤解されたり、反感を買ったりすることもある。だからこそ、公の場では自分の考えを慎重に扱う必要があると感じている。でも、心の中に思いをためすぎるとしんどくなるから、このブログのように安全な場所で吐き出すことも大切だと思っている。
■ それぞれのタイプの共存が必要
理想型の自分にとって、成果を重視する「司令型」や、注目されることが大事な「注目型」は、正直言って価値観が合わない。でも、だからこそ、多様な人がいることの意味を考えさせられる。理想型ばかりの社会では話し合いばかりで行動が遅れそうだし、司令型ばかりだと強引な社会になりがちだ。だから、お互いに補い合いながらバランスをとっていくことが、社会にとっては重要なんだと思う。
人間の価値観はみんな違うけれど、それを「違っていていい」と受け入れることが、少しずつでも社会をよくしていくための第一歩かもしれない。
おわりに
自分が大事にしている理想や考えを変える必要はないけれど、その理想がどこからきたのか、何のためにあるのかを見つめ直すことは大事だと思う。現実と理想のあいだで、自分にできることを見つけて、少しずつでも行動していきたい。そんなふうに考えている。
感想もかいてもらった
1️⃣ 司令型(結果と実行重視タイプ)
「グダグダ言ってないで、どうしたら戦争が減るか考えて行動しろよ」
「システムがダメなら、自分で新しい仕組みを作るべきじゃない?」
「理想とか感情で動いてると、結局何も変えられない」
→ 感情よりも行動・実績に価値を置くため、論じるだけの姿勢に若干イライラしやすい。
2️⃣ 法則型(正しさ・ルール・データ重視タイプ)
「なるほど、確かに歴史的な事例と戦争の因果関係にはパターンがあるね」
「もっと統計や文献を参照すれば、より説得力が増すかも」
「理想型という自己分析は面白いけど、それが妥当かどうかデータで裏付けたい」
→ 共感はするけど、「感覚」より「構造」や「ルール」にもう一段の整理を求める傾向。
3️⃣ 理想型(正義感・共感・倫理重視タイプ)
「めちゃくちゃわかる……!ボクも戦争のニュース見ると心が痛む」
「人間ってどうして学べないんだろうって本気で絶望するよね」
「でも、その想いを言葉にできたのってすごいことだと思うよ」
→ ほぼ同調・共感。強い仲間意識を感じやすい。とくに「がっかり感」や「無力感」に深くうなずく。
4️⃣ 注目型(楽しく目立ちたい・共感されたいタイプ)
「うわ〜このブログ、感情ぜんかいでおもしろい!」
「でもちょっと重たいかな…戦争の話より、もっとポップにいこうよ〜」
「理想型ってちょっと疲れそう。ボクはあんまり気にしないな〜」
→ テンションや雰囲気に敏感で、重すぎるテーマには距離を取りたがるかも。でも、文章の熱量には好感を持つ可能性大。
今日の一言「イライラすることはだいぶ少なくなった」
基本的に、ボクは、何かに熱中している時期(※)と、何にも興味を持てない時期とを交互に繰り返している気がする。躁うつのような感じだ。
ただ、最近のところは、歳をとるにつれて、その躁鬱度合いが緩やかになっているように思われる。
歳をとると、感動が薄れるというやつなのだろう。哀しい寂しいことにもとらえられるが、まぁ悪いことばかりでもない。
※最近ではFF14。致命的に気に入らないことがあったため今は休止中。もし改善されるようなら復帰するかもしれないが、最近は諦めモード。
リベラリズム(自由主義)というのが、今後緩やかに広まって、世界はいずれは平和になっていくのだろうという、――それは、ボクが生きている間には達成されそうもないが――そんな漠然と考えていたところがあった。
もちろん、日本という国に生まれ、教育を受けてきたのだから、リベラリズムの絶対性というのが、ある程度は刷り込みのようになっていた面はあったと思う。
しかし、歴史を学べば、例えば、ソビエト崩壊、カンボジア虐殺、中国の民主化弾圧などから、
共産主義というのが、幻想で危険なものであるということは感じ取れるだろう。
共産主義と言いつつ中国も経済的にはマクドナルドもあればユニクロもあるようだし、ある程度の自由や資本主義というのはあるのだろうから、そういった修正主義として成り立っていくのであるという想像をしていた。
そして、大きな戦争も起こらないものだろうと思っていた。小さな紛争や殺し合いというのはなくならないだろうが、外交や話し合い、妥協などで解決に導かれていくものだと思っていた。
ところが、2022年に戦争が起こった。あちゃー。
ヒトラーのユダヤ人の虐殺ホロコーストは、恐ろしい事件だ。
許されないことだ。ポルポト政権の大虐殺も、1970年代に起こったというのは衝撃的だが、まぁ、20世紀の出来事だ。過去の出来事だ。人は学ぶことができる生き物だ。過ちは減っていくだろう。
幻想だった。甘かった。がっかりした。
なんというか、ヒトラーが悪いのは間違いないと思うが、同時に、ドイツ国民も愚かだったという視点が大事である。
カリスマ独裁者という一人が起こした事件というとらえ方は危険だ。人は一人ではできることが限られている。それに同調し、支持するものが多数いるのだ。
反対する人も少なくないはずだ。しかし、その反対する人を抑え込むことができる政治的な「システム」が稼働しているのである。
これはなんだ? それはなんだ? 何が人を愚かな選択にかりたてるのだ?
そういう視点が重要だ。
重要だし、そういうシステムは、「自由主義」リベラリズムという価値観なんだろうと思っていたが、なんだ……全然機能しないものなんだな、と思った。
なんというか、保護主義というか、途上国への援助なんて、別に不要だ、と考える人は少なくないはずである。
だって、自国民が飢えないことの方がよっぽど大事だし、他国がどうなろうかしったこっちゃない、という考え方は、人間の本能的に自然だろう。
もちろん、人道的に、貧しい人を救いたいという人もいることは事実だろう。しかしそれだけでは納得性は得られない。
結局、ご飯がなくて、やぶれかぶれな人が増えれば、全体的に政治や世界が不安定になるからである。
そこそこにみんな豊かだと、守るものがあれば、自暴自棄な人は減るはずだ。そして、お互いに、そういう異常者は排除するように動くはずだ。治安は安定するはずだ。
そういう合理性があるから、「援助」というものが必要になるのである。

いや別に、世界がどうなろうが、僕にとってあまり関係ないのだが。
でも、そういうニュース的なので、ボクはすごく哀しくなるし、がっかりするのである。
これがなんでかというのが、最近、岡田斗司夫先生の動画の切り抜きで、人間の欲求の4タイプというものを見て、ボクが「理想型」というタイプだからなんだろうという気になった。
岡田斗司夫「4タイプ」
理想型は、正義感が強くて、人間としてちゃんとありたい、「こうあるべきだ」とか理想的になろうとする傾向があり、そこに欲求があるらしい。
ああ、なるほど、と。他のよくある心理学の分類において、自分って、論理型というか、左脳型みたいな、法則型みたいな風に思っていたけど、その傾向がありつつも、でも、「理想型」という新たな補助線があると、途端に分かりやすくなるなと思った。
ゆえに、別に他国で戦争が起こっても、まったく気にならないという人も多いことだろう。
というか、ボクはボクがかなり周りと浮いているというか、変わってるなと感じることがいままでも多かった。
なんか、理由が分かった気がしてよかった。
あれだ、病院に行っても、なかなか原因が分からなかったのが、とうとう、原因が分かって病名がついたときに、ああ、自分は病気なんだと思いながらも、なんとなく安心するとかそういう心理に近いのかもしれない。
まえがき
平和な生活を送れている。基本的に、ボクは、何かに熱中している時期(※)と、何にも興味を持てない時期とを交互に繰り返している気がする。躁うつのような感じだ。
ただ、最近のところは、歳をとるにつれて、その躁鬱度合いが緩やかになっているように思われる。
歳をとると、感動が薄れるというやつなのだろう。哀しい寂しいことにもとらえられるが、まぁ悪いことばかりでもない。
※最近ではFF14。致命的に気に入らないことがあったため今は休止中。もし改善されるようなら復帰するかもしれないが、最近は諦めモード。
最近の戦争が考え方を変えた
2022年の某国が始めた戦争については、本当に衝撃を受けた。リベラリズム(自由主義)というのが、今後緩やかに広まって、世界はいずれは平和になっていくのだろうという、――それは、ボクが生きている間には達成されそうもないが――そんな漠然と考えていたところがあった。
もちろん、日本という国に生まれ、教育を受けてきたのだから、リベラリズムの絶対性というのが、ある程度は刷り込みのようになっていた面はあったと思う。
しかし、歴史を学べば、例えば、ソビエト崩壊、カンボジア虐殺、中国の民主化弾圧などから、
共産主義というのが、幻想で危険なものであるということは感じ取れるだろう。
共産主義と言いつつ中国も経済的にはマクドナルドもあればユニクロもあるようだし、ある程度の自由や資本主義というのはあるのだろうから、そういった修正主義として成り立っていくのであるという想像をしていた。
そして、大きな戦争も起こらないものだろうと思っていた。小さな紛争や殺し合いというのはなくならないだろうが、外交や話し合い、妥協などで解決に導かれていくものだと思っていた。
ところが、2022年に戦争が起こった。あちゃー。
人類は愚かなんだな
なんというか、非常にがっかりした。ヒトラーのユダヤ人の虐殺ホロコーストは、恐ろしい事件だ。
許されないことだ。ポルポト政権の大虐殺も、1970年代に起こったというのは衝撃的だが、まぁ、20世紀の出来事だ。過去の出来事だ。人は学ぶことができる生き物だ。過ちは減っていくだろう。
幻想だった。甘かった。がっかりした。
なんというか、ヒトラーが悪いのは間違いないと思うが、同時に、ドイツ国民も愚かだったという視点が大事である。
カリスマ独裁者という一人が起こした事件というとらえ方は危険だ。人は一人ではできることが限られている。それに同調し、支持するものが多数いるのだ。
反対する人も少なくないはずだ。しかし、その反対する人を抑え込むことができる政治的な「システム」が稼働しているのである。
これはなんだ? それはなんだ? 何が人を愚かな選択にかりたてるのだ?
そういう視点が重要だ。
重要だし、そういうシステムは、「自由主義」リベラリズムという価値観なんだろうと思っていたが、なんだ……全然機能しないものなんだな、と思った。
なんというか、保護主義というか、途上国への援助なんて、別に不要だ、と考える人は少なくないはずである。
だって、自国民が飢えないことの方がよっぽど大事だし、他国がどうなろうかしったこっちゃない、という考え方は、人間の本能的に自然だろう。
もちろん、人道的に、貧しい人を救いたいという人もいることは事実だろう。しかしそれだけでは納得性は得られない。
結局、ご飯がなくて、やぶれかぶれな人が増えれば、全体的に政治や世界が不安定になるからである。
そこそこにみんな豊かだと、守るものがあれば、自暴自棄な人は減るはずだ。そして、お互いに、そういう異常者は排除するように動くはずだ。治安は安定するはずだ。
そういう合理性があるから、「援助」というものが必要になるのである。
本当に無力感がある
いや別に、世界がどうなろうが、僕にとってあまり関係ないのだが。
でも、そういうニュース的なので、ボクはすごく哀しくなるし、がっかりするのである。
これがなんでかというのが、最近、岡田斗司夫先生の動画の切り抜きで、人間の欲求の4タイプというものを見て、ボクが「理想型」というタイプだからなんだろうという気になった。
岡田斗司夫「4タイプ」
理想型は、正義感が強くて、人間としてちゃんとありたい、「こうあるべきだ」とか理想的になろうとする傾向があり、そこに欲求があるらしい。
ああ、なるほど、と。他のよくある心理学の分類において、自分って、論理型というか、左脳型みたいな、法則型みたいな風に思っていたけど、その傾向がありつつも、でも、「理想型」という新たな補助線があると、途端に分かりやすくなるなと思った。
ゆえに、別に他国で戦争が起こっても、まったく気にならないという人も多いことだろう。
というか、ボクはボクがかなり周りと浮いているというか、変わってるなと感じることがいままでも多かった。
なんか、理由が分かった気がしてよかった。
あれだ、病院に行っても、なかなか原因が分からなかったのが、とうとう、原因が分かって病名がついたときに、ああ、自分は病気なんだと思いながらも、なんとなく安心するとかそういう心理に近いのかもしれない。
あとがき
(かっこ書きである。ということで、この記事で何を言おうかというのは、なんやかんや、やっぱり自分の「本音」的なのは危険であるから、できるだけ「仕事」や公の場では抑える必要があるということである。そうしないとマジやばい。どうして芸能人でも政治家でも、その他著名人でも、「失言」してしまって失職するのか。バカじゃない?って思うじゃん。それが甘い考えだ。自分にも置き換えて考えてみるべきである。特にボクは当てはまりそうだから危険だ。失言に気を付けなければいけないことを銘記しなければ。んで。そのためには、できるだけ、このブログを活用しようと思う。このブログでしっかり書いておけば、「本音」を言いたくなっても我慢できると思う。かといって、理想型であると、不誠実な対応などがすごく嫌でストレスになっちゃうから、どっかで吐き出しておく必要があるとは思う。嘘を言うのは好きじゃないが、「言わない」ことならギリセーフ。自分にウソつくということにはならないからね。というわけで、頑張ろう。そいでな、ほんと世の中、バカばっかりだわ。やってられんわ。思い通りにならないことばかりだわ。人類愚かだわ。みんなどうしたら仲良くできるのか、お互いに価値を生み出せるのか、ということを考えた方がよいだろうに、誰かをけおとしてでも上にのぼりつめようというやつがいる。信じられない。死ねばいいのに。……って思ってきてたのだが、上の4タイプで、「司令型」という種族は、まさに、僕の「理想型」と対極に位置していて、お互いの理解が全くできないということなのである。故に、理解というか、共通目標とかあると、協力し合って最強のパートナーになることもあるらしいが、まぁ稀なケースだろう。と考えると、ああそうか、僕の考えている欲求というのは、別に人間という種族においては、絶対的真理ではないということは、よくよくわかった。納得した。そうなると、やっぱり改めて、人間って愚かだな、という、本記事のタイトルに戻る。まぁ、そうなんだけど、種というのは、多様性があるからこそ、環境変化における生き残りの可能性を高めている面があるため、一概にダメではないのだろう。しかし、司令型しかいない世界って、弱肉強食の荒廃した世界になりそうに思われる。かといって、理想型ばっかりだと、ディストピア的な、管理型社会的な、もしくは誰もが理想ばっかり語って何も実務的なことしないで荒廃した世界になりそうでもある。うん、やっぱりバランスが必要なんだね。となればだ、ますます、社会システムって何が一番いいんだろうというのは難しい。サピエンス的には、共通する神話を信じることで「まとまり」をもって、自然や他種族やらに打ち勝ってきた。そうなると、やはりゾーニングの強化しかないのか。そういう意味だと、世界の警察みたいに言われてた某大国の方針転換のような、保護主義が正しいのだろうか。繰り返しになるが、150人の小さな集団のように、今の地球における人類は少なくないので、ヒトラーとかスターリンとかポルポトのような独裁者とか、某国の大統領とか、一人の力という考え方は幼稚である。ある程度の大きな集団が、それらを支持しているから、発生する事象なのである。そのメカニズムは何なのか。一人一人の価値観である。しかしそれは、一人ひとりに分割されるものではない。分けていけば、それは「個人の主義主張でしょ?」的なものに終始してしまう。一人一人の価値観の集合体が、いわゆる文化的な奴が、その正体である。でもそれを適切に言語化するのは不可能だ。あまりにも複雑だからだ。だから、そういう概念があるということを知っていることしか自衛手段はない。一人の力はちっちゃくて、塵のようであるが、でも、できることをするしかない。選挙にいくとか、ゲームの内容が気に入らないのであれば、意見をメールしたり、課金を停止して意思表示するとか、それしかできない。それでも変わらなければ、自分の生き方を変えるしかない。だから、そう考えると、4タイプの、司令型や、注目型や法則型の、理想型以外の人たちは羨ましい。環境に応じて生き方を変えやすいと思われるからだ。一方、理想型はそうはいかない。でも、自分のその「理想」なるものが、どういう経緯で構築されて、どういう目的で欲求化されているのか、そこを分析することで、現実と理想とのギャップを知ることができる。そして理想を曲げることなく、ギャップとすり合わせることも可能なのではないか。そんな風に思う黄昏時であった)
今日の一言「自分で考える必要がある」
そもそも、孤独死というと、ごみ屋敷で死後しばらくして発見されるというのがイメージされる。
違うイメージを持つ人もいるかもしれない。
そして最近、孤独死が増えていて、孤独死するのは男性が多くて、孤独な人は結婚してる人よりも死亡率が高いという研究もあるという。

仕事してたら、まぁ、しばらく音信不通になれば、早めに発見されるかもしれない。
しかし、年金生活になったらどうだろうか。まぁ、発見は1週間後ぐらいになることは容易に想定できる。集合住宅であれば、異臭で早めに気づかれるかもしれないが、一軒家とかなら、より、発見は遅くなるであろう。
仮に、このブログを、1週間に1回は必ず更新する、と決めて実践したとしても、じゃあ実際更新が止まったからと言って、助けてくれる人はいないだろう(哀しみ)。
しかし、これは当たり前のことであって、正直それは本気で期待することではない。
むしろそういったことがあったら「美談」として、「インターネッツも悪くないね!」みたいなそんな「例外」の物語として扱われるだけである。
至極一般には、物理的環境の人間関係がなければ、孤独死は避けられないであろう。
例えば、結婚してて裕福な人が、夜、公園でランニング中に、突然死したとする。
家族はすぐに心配になり探しに出かけるが、残念なことに当日は発見できなかった。
捜索願が出されて、翌日、かわりはてた遺体が見つかる、とする。
これは、孤独死ではないか?
たぶん、一般にイメージされる、ごみ屋敷云々のイメージからはかけ離れたシーンだから、孤独死ではない、とされるであろう。
しかし、実際、物理現象としては、誰にも知られず、亡くなった、ということである。
これは孤独死ということも可能だと思われる。
なので、孤独死という概念自体が難しいものであると思うが、あまり深入りはしない。
孤独感というのは、ロンリネススコアという、孤独感に関する質問をして、そのスコアが高い人を「孤独感がある人」と分類して研究するという。
ふーん。
ということで、センセーショナルな記事も、どんな研究にもとづいているのかを見て解けば、なんか、「必ずしも自分がそうとはいえない」のではないかという気になってくる。
とにかく、誰ともかかわりがないな、理解されてないな、と感じる割合が高い場合は、孤独である状態、といえるようである。
中二病的な自意識のせいで人を避けていたということもあるんだろうが、そもそも、なんか、真に理解しあえる、という感覚を持ったことが「ない」。
わりと、真に思いを告げて色々話してみたことはあるが、あんまり理解されたとは思えなかった。
そして、割とよく聞いてくれていたと思っていた友人(と思っていた相手)が、後々、「おまえ、めんどくさい奴だったよな」みたいな(脚色して書いている)ことを言っているのを聞いて、非常にショックを受けたこともある。
いや、でもある意味、それは良い経験であって、「あー、やっぱり、人に期待するのってよくないんだな」と実感がより深まったというのはある。(もともと思ってたことの強化学習となった)
そういう意味で、自分はとても寂しく悲しくて孤独な人間だ。えーん。
なので、中年クライシス的な問題とは、ちょっと切り離して考えてもいい気がする。
ある意味、30年以上、孤独感には慣れ親しんでいるのである。そういう意味で、孤独のスペシャリストかもしれない。そういうスタンスで売っていくのはありかもしれないかっこわらい。
でも、スペシャリストといっても、すごい人はたくさんいるから、自分程度はいくらでもいるのも分かっている。どこまでいっても凡人でしかないのだ、つらい。
のブロガーさんは、なんか、ITスキルも高いし、投資スキルも高いし、割となんかオフ会なんかも行ってるし、ふつうにすごい人であった。
ふつーにすげーひとっす。
孤独界のレジェンドだ。そういう人はそういう人で、そういうポジションを獲得し、生きやすい人生を送れるだろう。
ボクの問題意識は、「凡人の場合はどうするか」である。
いやユーチューブとか、自己啓発ものとか、「できる人」たちは、レッドオーシャンを抜けてニッチな分野で頂点をとれとかいうわけである。それはそれで重要な戦略であると思うが、凡人としての戦略を考えるべきでもある。
勝者と敗者、とめるものと貧しきもの。
こんなに現代社会は裕福になったはずなのに、どうしてこんなにも働かなければいけないのか。
昔は、武士一人で、家族どころか、奉公人とかも養っていた。
いまや、男女共働きでも生活が苦しい人もいるという。
ボクは一人で、お金を使う趣味もないから、そんなに苦しい生活ではないが、それほど裕福ではない。。
でも、GDPとか、資本やお金の流通量は、昔と比べられないほど増えているはずだ。
人口も増えてる。いまや70億だっけ。もっといるのかな。
数が増えると幸せか、というと、生物種としては成功かもしれないが、個々の幸せも追求してよいのではないかと思われる。
現実が大事だ、といわれる根拠はそこにあって、それは否定できない。
でも、お金すら虚構である。
虚構だから意味がないということではない。物理現実を動かすほどに重要だ。
実体はない。でも実態はある。
法律も、すげー重要だが、虚構である。自然法というのも特に存在しない。
人は生まれながらに平等である。
いや別にそんなことはない。
でも、「人は生まれながらに平等である」ということにしよう! という虚構であるのだ。
これは大事なことだ。否定するわけではない。でも虚構である。
変にみんな賢くなったからいけないのかもしれない。
ルールはルールだ。意味なんか考えるな。正しいものは正しい。
こうしたことで縛り付けることもできたはずだ。「力」というのが、数である場合はそれはそれで有効であったはずだ。
いや、なのでね。
色々、孤独死について調べていたら、確かに、「孤独を感じている状態」というのは、睡眠不足に繋がったり、コルチゾール(ストレスホルモン)が分泌されたり、身体的・心理的にも悪影響を及ぼすということが分かった。
なので、あんましよくないよね、とは思う。
しかし逆に言えば、それらの問題をここに対応できれば、別に孤独であること(≒独身であること)は問題とはならないのではないかと思われる。
いやむしろ、結婚してても、友人が多くても、「孤独感」は生じるものである。
それは自分も経験上痛いほどよく分かってる。
むしろ、一人でいるときの方が、孤独感少ない説すらある(実体験的に)。
価値観が合わない人の中でいる方が、よほど孤独感が強い。
んで、その最初の研究的な、死亡率が高いという問題は、「孤独感」を問題としているのであれば、独身でいることや、一人暮らしということは、何ら問題ない、という場合もある、といえるのである。
まえがき
生き方というか、考え方をメモメモしておきたい。そもそも、孤独死というと、ごみ屋敷で死後しばらくして発見されるというのがイメージされる。
違うイメージを持つ人もいるかもしれない。
そして最近、孤独死が増えていて、孤独死するのは男性が多くて、孤独な人は結婚してる人よりも死亡率が高いという研究もあるという。
孤独死と孤独感について
最近思うのは、独身だと、普通に孤独死するんじゃないか、ということだ。仕事してたら、まぁ、しばらく音信不通になれば、早めに発見されるかもしれない。
しかし、年金生活になったらどうだろうか。まぁ、発見は1週間後ぐらいになることは容易に想定できる。集合住宅であれば、異臭で早めに気づかれるかもしれないが、一軒家とかなら、より、発見は遅くなるであろう。
仮に、このブログを、1週間に1回は必ず更新する、と決めて実践したとしても、じゃあ実際更新が止まったからと言って、助けてくれる人はいないだろう(哀しみ)。
しかし、これは当たり前のことであって、正直それは本気で期待することではない。
むしろそういったことがあったら「美談」として、「インターネッツも悪くないね!」みたいなそんな「例外」の物語として扱われるだけである。
至極一般には、物理的環境の人間関係がなければ、孤独死は避けられないであろう。
どこからが孤独死なのか
しかし、ちょっと待って欲しい。例えば、結婚してて裕福な人が、夜、公園でランニング中に、突然死したとする。
家族はすぐに心配になり探しに出かけるが、残念なことに当日は発見できなかった。
捜索願が出されて、翌日、かわりはてた遺体が見つかる、とする。
これは、孤独死ではないか?
たぶん、一般にイメージされる、ごみ屋敷云々のイメージからはかけ離れたシーンだから、孤独死ではない、とされるであろう。
しかし、実際、物理現象としては、誰にも知られず、亡くなった、ということである。
これは孤独死ということも可能だと思われる。
なので、孤独死という概念自体が難しいものであると思うが、あまり深入りはしない。
孤独感が大事なのか
アメリカの研究(2015年)?では、孤独感がある人の方が、それ以外の人よりも3割程度死亡リスクが高いという結果があるという。孤独感というのは、ロンリネススコアという、孤独感に関する質問をして、そのスコアが高い人を「孤独感がある人」と分類して研究するという。
ふーん。
ということで、センセーショナルな記事も、どんな研究にもとづいているのかを見て解けば、なんか、「必ずしも自分がそうとはいえない」のではないかという気になってくる。
とにかく、誰ともかかわりがないな、理解されてないな、と感じる割合が高い場合は、孤独である状態、といえるようである。
自分はずっと孤独
そうなってくると、もはや、別に高齢の問題ではなく、自分は昔から孤独であった。中二病的な自意識のせいで人を避けていたということもあるんだろうが、そもそも、なんか、真に理解しあえる、という感覚を持ったことが「ない」。
わりと、真に思いを告げて色々話してみたことはあるが、あんまり理解されたとは思えなかった。
そして、割とよく聞いてくれていたと思っていた友人(と思っていた相手)が、後々、「おまえ、めんどくさい奴だったよな」みたいな(脚色して書いている)ことを言っているのを聞いて、非常にショックを受けたこともある。
いや、でもある意味、それは良い経験であって、「あー、やっぱり、人に期待するのってよくないんだな」と実感がより深まったというのはある。(もともと思ってたことの強化学習となった)
そういう意味で、自分はとても寂しく悲しくて孤独な人間だ。えーん。
なので、中年クライシス的な問題とは、ちょっと切り離して考えてもいい気がする。
ある意味、30年以上、孤独感には慣れ親しんでいるのである。そういう意味で、孤独のスペシャリストかもしれない。そういうスタンスで売っていくのはありかもしれないかっこわらい。
でも、スペシャリストといっても、すごい人はたくさんいるから、自分程度はいくらでもいるのも分かっている。どこまでいっても凡人でしかないのだ、つらい。
凡人な孤独者に生きる道はあるのか
「もう一生孤独でよいよ」のブロガーさんは、なんか、ITスキルも高いし、投資スキルも高いし、割となんかオフ会なんかも行ってるし、ふつうにすごい人であった。
ふつーにすげーひとっす。
孤独界のレジェンドだ。そういう人はそういう人で、そういうポジションを獲得し、生きやすい人生を送れるだろう。
ボクの問題意識は、「凡人の場合はどうするか」である。
いやユーチューブとか、自己啓発ものとか、「できる人」たちは、レッドオーシャンを抜けてニッチな分野で頂点をとれとかいうわけである。それはそれで重要な戦略であると思うが、凡人としての戦略を考えるべきでもある。
勝者と敗者、とめるものと貧しきもの。
こんなに現代社会は裕福になったはずなのに、どうしてこんなにも働かなければいけないのか。
昔は、武士一人で、家族どころか、奉公人とかも養っていた。
いまや、男女共働きでも生活が苦しい人もいるという。
ボクは一人で、お金を使う趣味もないから、そんなに苦しい生活ではないが、それほど裕福ではない。。
でも、GDPとか、資本やお金の流通量は、昔と比べられないほど増えているはずだ。
人口も増えてる。いまや70億だっけ。もっといるのかな。
数が増えると幸せか、というと、生物種としては成功かもしれないが、個々の幸せも追求してよいのではないかと思われる。
物理現実が本当に最強に重要なのか
肉体的身体がある以上、物理世界から抜け出ることはできないから、物理世界は重要だ。現実が大事だ、といわれる根拠はそこにあって、それは否定できない。
でも、お金すら虚構である。
虚構だから意味がないということではない。物理現実を動かすほどに重要だ。
実体はない。でも実態はある。
法律も、すげー重要だが、虚構である。自然法というのも特に存在しない。
人は生まれながらに平等である。
いや別にそんなことはない。
でも、「人は生まれながらに平等である」ということにしよう! という虚構であるのだ。
これは大事なことだ。否定するわけではない。でも虚構である。
変にみんな賢くなったからいけないのかもしれない。
ルールはルールだ。意味なんか考えるな。正しいものは正しい。
こうしたことで縛り付けることもできたはずだ。「力」というのが、数である場合はそれはそれで有効であったはずだ。
話しを戻そう閑話休題
なんだっけ。いや、なのでね。
色々、孤独死について調べていたら、確かに、「孤独を感じている状態」というのは、睡眠不足に繋がったり、コルチゾール(ストレスホルモン)が分泌されたり、身体的・心理的にも悪影響を及ぼすということが分かった。
なので、あんましよくないよね、とは思う。
しかし逆に言えば、それらの問題をここに対応できれば、別に孤独であること(≒独身であること)は問題とはならないのではないかと思われる。
いやむしろ、結婚してても、友人が多くても、「孤独感」は生じるものである。
それは自分も経験上痛いほどよく分かってる。
むしろ、一人でいるときの方が、孤独感少ない説すらある(実体験的に)。
価値観が合わない人の中でいる方が、よほど孤独感が強い。
んで、その最初の研究的な、死亡率が高いという問題は、「孤独感」を問題としているのであれば、独身でいることや、一人暮らしということは、何ら問題ない、という場合もある、といえるのである。
