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生きる意味を徹底して考える(1)
2017/09/24 22:10 | Comments(0) | 生きる意味
今日の一言「保存版にしたい」「とても長くなりそうなのと、一度で書ききる体力精神力がないため、連載記事とする」

導入・定義

 生きる意味を徹底して考えたいと思う。
 文章は、読む人の対象をはっきりさせる必要がある。導入が重要だ。
 まず、生きる意味とは、大きく3つに分けられる。

1.宇宙規模の生きる意味

2.人類規模の生きる意味

3.個人としての生きる意味


 生きる意味、生きがいといったキーワードで調べると、「生きる意味がある」だとか「ない」だとか、様々な主張を読むことができる。
 しかし、それらを読むときには、その書き手が、上の三つの、どのレベルで書いているのかを把握する必要がある。そうしなければ、分かったような気にはなるが――基本、読めば、それなりに納得感は与えてくれるものが多いのだ――、結局、それをどう自分に生かしていいのかが分からなくなる。

 僕のこれまでの記事は、基本的に「3.個人としての生きる意味」である。これは言い換えれば、「実存の問題」である。
 そのため、今回の記事としては、「生きる意味」の定義を「3.」に限定した上で書いていく。

実存問題

 はじめに、自分の現在の立場を明らかにする。さもないと、この記事の終着点、「結局何がいいたいの? どっちなの?」が分からなくなる。かといって、ここで書く立場が、永劫不変完璧なものであるという根拠も自信もない。むしろ、それを確固たるものにしたいというのが、日々書いてきている理由の一つでもあるのだ。

 さて、僕は、生きる意味があるとか、ないとか、その問題の立て方自体に、意味がないと思っている。
 逆に、数ある生きる意味に関する主張において、「ある」立場でも、「ない」立場でも共通していることが見受けられるのだ。

 それは、「結局は、自分で考えて見つけましょうね」ということである。
 ――と書くと、「ない」立場の人たちの主張の中で、「暇があると余計なことを考えるようになるから、暇をつくらないようにして、そんな問題を考えることからさっさと逃げる」ことを推奨する人たちはどうなのだ? と思われるだろう(考えることを否定しているという意味で、「自分で考えましょう」とは言っていないのではないか?)。
 その主張の代表的なのを見つけたので、メモしておく。
――誰も彼も「生きる意味」には「蓋」をすることでしか対処できない

この問題はそもそも向き合うことが間違っている問題なのです。だって答えが無いんですよ。唯一の生活は「死なないため」だけなんですから。だから、せめて苦しくならない正解としては「そもそも考えない」「そんな問題からはさっさと逃げる」
こんなの人類の永遠のテーマですよ。神が罰を下したとか死を迎え転生するための修行だとか。はい、もうとっくにずーっと前の偉い哲学者とかが向き合った命題です。
考えるよりそちらの方々の本を読んだほうが早い。
 否定はしない。むしろ、僕もこうあるべきではないかと、内心思っている。
 しかし、それを納得したとしても、次に立ち向かうべきは、「どう生きるべきか」という問題となる。そうしたとき、まわりまわって結局、「考えること」自体からは逃れられなくなる、というのが僕の主張である。

 人間は、考える生き物である。
 ホワイトカラーだろうがブルーカラーだろうが、主婦だろうが主夫だろうが、考えることからは逃れられない。
 それは、資本主義社会になってしまったからかもしれない。民主主義になってしまったからかもしれない。ただ、狩猟採集生活をしていたころの人類だって、太陽の沈む方向から方角を捉えたかもしれないし、よく木の実が生い茂る土地を覚えたかもしれないし、猛獣と戦う・逃げるための方法を考えたかもしれない。疑いえないことは、人類が考える生き物だったから、現代社会のように発展してきたのである。

 もちろん、上の「生きる意味には蓋をすべき」という考えの人たちは、別にすべての人間の思考自体を否定しているわけではないだろう。
 同じ人のブログで、逆に考えることを奨励する記事も見受けられる。
 忙しさは精神の安定を奪います。死ぬ気で怠ける方法を考え抜くことが何より大切です。生ぬるくのらりくらりショートカットする方法ばかり模索しないで、死ぬ気でショートカットを見つけて下さい。
そしてとにかく自分の時間を沢山手に入れる方法を模索してください。
とにかく忙しさは人の思考力を縮小させてしまいます。
貴方を鬱にしているのは忙しさです。
忙しさを美徳とする奴は絶対的な悪です。悪の権化です。
死ぬ気で怠ける方法を模索してください。
 鬱になったときに、どうしたらよいのかという方策を述べているものである。「死ぬ気で怠けることを考え抜く」べきとある。

 別にこの方のブログがどうこうではないが、僕が基本的に、「生きる意味を考えても仕方がないから暇を作らず忙しく毎日を生きようぜ!」という主張に共感も実践する気もなれない理由はここにある。
 繰り返しになるが、「考えること」からは逃れられないのである。

 僕の立場をまとめよう。
・生きる意味があるだとかないだとか、それ自体は問題ではない
・問題は、どちらにせよ、考えることからは逃れられないことである


 補足というか蛇足かもしれないが、僕は、10代前半ぐらいのときから「生きる意味」を考え始め、20代前半ぐらいのときから、その、「毎日を積極的に肯定して今が大切だとして忙しく目の前のことに打ち込んでいく」ということを実践していった。
 30代となった今。結果として、結局「虚無」との戦いは終わっていない。

日々を忙しく生きることとは

 しかし、その「生きる意味など考えてはいけない」という主張には、強烈に惹きつけられるものがある。ある友人がいっていたが、「その考え方はとても役に立つ」のである。だから僕も、決して悪いものではないと思っている。

 ただ、僕はその先、もう一歩を考えたい。
 その役に立つ考え方が示すのは、「リア充」になることである。または、「自分の欲望を満たし続ける」ことである。もしくは、「自分の感性や感覚を追求する」ことである。

 僕が問題にしているのは、その「あるべき理想の姿」である。
 ここでいう理想とは、人類社会における理想像などではなく、あくまで、実存として(個人として)のものだ。
 それを求める場合、構築する場合、結局「考える」ことからは逃れられず、そして何より、その「理想」求め構築するためには、立ち戻って、己の「生きる意味」というものと、向き合わなければならないと思うのである。

 それは、坐禅や瞑想のように、「思考」を手放すための方法を取る場合においても避けられない。
 坐禅とは、道元禅師いわく、「修証一如(しゅしょういちにょ)」――即ち、悟りにいたる手段ではなく、それ自体が悟りなのであるのだが、そこに至る生活を決断するというところに、「考える」ことが必要であるのだ(もっとも、それは最後の「考える」になるかもしれないが)。


 この考え方、この感じ方に至っている理由は、僕は「幸せ」という言葉の定義を、「理想と現実の乖離」として捉えているからである(この辺りは何度も書いているので、あとで参考記事のリンクでも貼るか)。
 この幸せ追求のモデルが誤りであるのだとすれば、その「理想の姿」を求めること自体を改めなければいけないかもしれない。ただ、ここはかなり強固な部分であるため、変更するのは難しい気がしている(自分の中で)。
(いやそもそも、「幸せ」を追求すること自体が正しいのかどうか、ということは結論に至れていないが)

生きる意味があるとしたとき

 生きる意味がないとしても、結局考えることからは逃れられず、幸せだとか、充実した生き方を目指すときに再度生きる意味を考える必要が発生するということを書いてきた。
 これについては、なおも納得いかない人も多いだろう。「今が幸せなら、何故わざわざ生きる意味など再び考える必要が発生するのか」と。それはその通りである。――が、これも一般論で言われるところであるが、「幸せばかりの人生など存在しない」ということだ。人生山ありゃ谷もある。楽ありゃ苦もあるさ、と。その人生の波が、正常点(鬱状態。正常でいられないほど苦しい状態。人によって異なる)より高い位置で上下運動する分には問題ないだろう。しかし、その波が突如として、正常点を下回るような状態に陥った時……それでも「生きる」ということを選択することができるかどうか。


 話が進まなくなるので、ここで、逆に「生きる意味はある」とする考え方について整理していく。
 ここで一つ引用をする。
 ――人生の目的は、自分らしく生き、人とつながること
 豊かな人生とは「自分の大好きな人と、大好きな場所で、自由に時間を過ごすこと」です。これ以上のぜいたくを私は知りません。これは多額の費用もかかりませんし、何か才能がないとダメだということもありません。いまの私にとって、ファーストクラスで世界一周旅行することよりも、家族で河原を散歩することのほうがよほど豊かな体験です。
 そのためには「自分が誰か」を思い出すことです。自分が何をやりたいのか、何をやると幸せなのかを知ることです。
 そのためには、目の前の選択肢の中でいちばんワクワクすることを選び、大好きなことを毎日やることです。それがきっと、あなたが生まれてきた目的につながっていきます。
 上の記事で提示されていた人生の意味には、三つあるとされている。

 一つは、役割ベースの生き方。
 二つは、モチベーションベースの生き方。
 三つは、インスピレーションベースの生き方。

 それぞれについて、以下、僕が勝手に解説しよう。ちゃんと知りたい方は上のリンク先をどうぞ。

役割ベースの生き方

 親として、学生として、部下として、夫として、ボランティア団体の一員として……。
 役割ベースの生き方とは、何かに所属し、そこから与えられる「使命」に対して必死になる生き方のことである。
 生きる意味がないとする主張の多くは、この役割ベースの生き方を目指させるものにあるように思う。「今を生きよ」とか「目の前のことに集中するのだ」といった意見を見かけたり、実際に言われたことがある人もいるのではないだろうか。

 いきなりだけれども、僕はこの次元の生き方を否定する。
 いやもちろん、「生きる意味とは……」などと考えたこともない人は、ぜひ一生考えることもなくそのまま生き切っていただきたい。ただ、一度でも、自分の存在意義に、少しでも疑問を抱いたことがある人なら……実存的問いを立てたことがある人ならば、この役割ベースの生き方は非常に脆く儚いものであると知っておいてもよい。

 もちろん、それが脆く儚く潰えてしまわないように、さらなる役割を求めて、必死に生きていくありかたも、それまた人間として美しいだろう。

 ――ただ、「やりがい搾取」とか、人の善意を食い物にしようとする魑魅魍魎も存在することは触れておく。もう一つ、ぱったり、ぽっきり、「挫折」という問題が生じる可能性にも触れておく。これは何も若い人に限ったことではない。中高年鬱とか、熟年離婚とか、定年退職後に急激に老けてしまうとか、問題が発生する可能性は、そこら中に転がっているのである。

 これが、役割ベースの生き方の危険性だ。
 つまり、「役割」なるものが、外部から与えられる仕組みになっていることが問題であるといえるのである。
 学生時代は、勉強なり、部活なり、恋愛なり、友人関係なり、大変だったかもしれない。しかしそれでも、単位をとって進級するだとか、入試を突破するだとか、就職活動するだとか、一応目安となる「役割」は与えられていた。

 さぁいざ「大人」になったら? 会社が仕事という役割を与えてくれる? 愚かしい考えだ。与えられた事をこなすことは仕事ではない、作業だ。仕事とは、利益(物・サービス)を生み出す仕組みを作り上げることである。
 マニュアル人間なんていらない、という言葉も聞いたことがあるだろう。主体的に動ける人材が必要だと。

 主婦(主夫)になれば、良き夫、良き妻になるという役割が与えられる? 否。何につけても従順であるだけの関係は長続きしないとされている。マグロなセックスは飽きるとか……ちょっと違うか。

 まぁ、例証が中途半端だから、上の内容は批判満載だろうが、そもそも役割ベースの生き方にあまり興味がないため、適当で構わないと思っている。
 言いたいこととしては、結局、大人になったら、自ら役割を選択していく必要があるということだ。

 そして、それこそが次の、「モチベーションベースの生き方」ということになる。

 ――次回へと続く。


(かっこ書きである。だいたいここまでで5000字。なんだか、昨今、無気力感・虚無感が強い。ヘルプミーである(軽いな)。具合がよくないのによく書けるなとも思うが、いやむしろ逆なのだ。書くことしかできないのだ。なんとか、部屋と風呂掃除はしたが……。もう思い切って、PSVITA買って、シュタインズ・ゲートのシリーズやろうかとも思い始めてきた。たぶん、新しいとか面白いゲームしてるときは、ある程度気分がまぎれるのである。オンラインゲームとか、シムシティシリーズとか、三国志シリーズとか、GTA5とか、それはもう時間が膨大に必要なので、気を紛らわすにはとても有効なのである。しかし、ゲームはやっぱり、小説書いたり作曲するのとは違って、消費だと思う。もちろん、物語のインスピレーションを得る意味でインプットとして有効な面はあるけれども、アクションやシミュレーションゲームはそれ自体が意味になっていて、……いやそれはそれでストーリーはあるのだろうが、その大半が「作業」であるため、消費の側面が強いと思うのだ。……ま、それはそれで、ありだろうとは思っている。中学生時代もずいぶん人生つまんねーなーと思っており、そんな中、楽しいゲームとかはあったから、「もういっそ楽しくゲームを送ることを人生の第一目標にしよう。そのためにちゃんと勉強もして高校にもいってお金を稼げるようになろう」とも思ったものだった。逆にその目標のため、ゲームを一切段ボールに詰め封印したり。そういう生き方だって悪くないと思う。が、しかし、それはそれで、そうやって生きると、自分自身で決めたいというだけなのである……かっこ書きも長いな。ええと、次の記事は明日の12時から17時に投稿する)

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